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記憶の縁(よすが)

やあ、他人の日記にどれくらいの面白味があるかと言うと、小説的には「私しか知らない感情だと思ってたのに、それがこんなに見事に言語化されている!」ということなんでしょう。

そのためには個人的な事象が普遍的になるような掘り下げと味わい深い人間味が加えられていると良いのだろう。

その点、我が子にメロメロの記事ってほんと誰の薬にもならへんなあと思いながらも今日も書きます。だってそれが中心の日々なので。ええ、ええ。


最近はオットセイのように、ぎったんばっこんしながら少しずつ前進できるようになりました。
月齢の割にはむっちむちで、ぱんぱんです。平均体重幅の上限ぎりぎりをひた走ってます。物の本によると歩き出すとスリムになるから心配はいらないそうで、私としては存分にムチムチちぎりパンパーティーを日々堪能させていただいております。

私は子供ふたりの下だったのですが、小さい時の写真てあまりたくさんは無かったです。

でも、振り返ると、子ども時代の記憶を留めるためには写真と物語が必要だと気がついたのです。つまり、写真を見ながら、「これはねえ、こんなことがあってねぇ、もう可愛くて大変だったんだからァ」という物語を聞く必要がある。それがないと、子ども時代の記憶ってあわーーくしか残らないのです。
記憶というのはまあいい加減なもので、都合よく、あるいは都合悪く変更が加えられてしまう。しかも、ひとは出来事をありのままには見ていない。悲観的になると悲しく書き換えちゃうし、楽観的だと自分を英雄みたいにしちゃう。

だからね、記憶のよすがとなるものを作って手渡してあげるのって大事だなの思うのであります。
今日は一緒に楽しくおしゃべりしている動画を5分くらい撮ってみた。生活感のある台所で、ゴールデンカレーの箱をガジガジかじりながらきゃっきゃと笑う息子と、彼を愛でる私の動画を。

思春期になってグレたり、「僕は本当はこの家の子じゃないんだ!」とか言って拗ねたりしたら、この動画を送ってあげよう。
「何言うてますねん。こんなちっこいときから、かあいい、かあいいて育ててきたんやで」言うて。にやにやしながら、教えてあげるんや。

#記憶のよすが #子ども時代の記憶 #子育て #育児


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