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多様性と統一性

個別に多様性のある事柄には、「多様性と統一性」という視点を持っていると良いのではないだろうか。

夫婦とは、恋愛とは、健康的な食事とは、適度な運動とは。どれも「人の数だけ考え方がある」と言える類のものだ。性別、年齢、時代、文化、民族、遺伝、体質、教育、気候、その他さまざまな要因が絡んでくることだろう。

我々は「人間」というひとくくりに出来る総体でありながら、結局は「私にとっての」正しさなり心地よさなりを見つけるという営みをしている。多様性と統一性の両方を視野に入れておくと良いのではないかという思いだ。

多様性(個別性)のみに肩入れしていると、人間としての身体や精神の一般的な傾向を無視して、「私が良いと思ったのだから良い」となっていく。それで良い場合もあるけれど、視野が狭い取り組みを続けていると悪い部分が放置されたり、必要なケアが足りていないことに気付けなかったりする。

例えば、酒が飲みたいから酒を飲んでいるというだけで、簡単に人はアルコール依存症になる。依存症の危険性を知っているだけで近づかないこともできる。(もちろんアルコールへの耐性は個人差がある。でも一般的に、すべての人にその危険性はある。)

他と比べたり、他者と同じ基準で生活しなくてはと焦ったりする必要はないが、「ほかの人はこういうことを考えたり実践したりしている」という視野を持っておくのは良いことだ。「考え方と実践」の実例を目と耳に入れておくと、自分を絶対視することもなくなり、むしろ自分の取り組みの長所と短所を自覚しながら過ごせるのではないだろうか。

逆に、統一性のみに肩入れしていると、目の前の個別の出来事を無視して、「一般的」に合わせようとしすぎて不要な焦りや無理を抱え込むことになっていく。目の前にいる相手、そして向き合っている自分自身の心と身体を何よりも優先するという感覚は大切だ。一般的かどうかは、その次に来るものだ。一般的から外れていても、私とあなたがそれで穏やかに幸せに心地よく暮らせるなら、それでいいのだから。

悲しい気持ちになったときに、「悲しむべきことなど起きていないのだから、悲しんではならない」と強制したところで何の役にも立たない。現実に悲しいのだから。まずはその気持ちに対処する。
でも、「悲しいことがないのに、悲しく感じるのはなんでだろうなぁ」と片隅で感じながら、なんとなくぼんやりしてみたり、楽しいことを始めてみたりする。そんな、多様性と統一性の狭間をゆらゆらするような感じがいいのではないだろうか。

子どもが生まれて、動画やブログやつぶやきなど、いろんな媒体から様々な視点と取組の「おすすめ」が上がるようになってきた。

どれも人目につくために、「これが新常識!知らないあなたは損している!?」というあおりを付け加えている。

でも、どんな意見も、どんな実例も、多様性と統一性のグラデーションの中のどこかに位置するものである。

一般的には適切だけれども、自分たちには不適切かもしれない。

あるいは、一般的には不適切なのに、なぜか自分たちにだけ適切なことかもしれない。

あるいは、昨日までは当てはまらなかったのに、今日やってみたら当てはまることかもしれない。

あるいは、本当に自分たちだけ知らなくって、一般的にも個別的にもやったほうがいいことかもしれない。

子育てに関して、僕は鷹揚なタイプでどちらかというとデータ収集型、妻は心配性なタイプでどちらかというと目の前のことに集中型。なのでよく会話が迷路に入る。ねこをお迎えした時もそうだったけど、妻は生き物のことになると、なんでも心配になって、なんでもお世話してあげたくなるみたい。

そういう妻の心の動きは、家族を救う気もしている。けど、それだけじゃなくて、僕のようなタイプの視点も、大事だとも思う。

統一性としては「愛し合うことが必要」なんだけど、多様性としては「どんなふうに愛されたいか(どんな愛し方が必要か)を見つけるには試行錯誤が必要」てことなんですね。

今のところ、そんなふうに考えて過ごしています。

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