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愛していることはどうやって伝わるのか

愛されているって、どういう時に感じますか?
また、愛していることを、どんな方法で伝えますか?

この二つは、たぶん密接に関係している。

人は自分が愛されていると感じた方法で、相手のことも愛そうとするのじゃないかな。
でも自分の愛し方が、相手にとっても有効な愛され方であるとは限らない。


そもそも、感情を伝える、理解するというのは実際には不可能なことだ。人はどんなに頑張っても他人の気持ちを理解することは出来ない。なんとなく自分の経験と照らし合わせて想像し、こういうことかなぁと考えてみるだけだ。

でも、親しい人から、言葉や行動や態度やあらゆる経験で繰り返し感情を伝えてもらえると、だんだんと生まれてくる共感がある。


僕の愛し方は、多分母の愛し方と似ていると思う。母はよく言葉で「〇〇、大好きだよ~」って言ってくれる人だった。幼い時はたくさん抱きしめてくれた。べたべたしていた記憶はないけれども、自然な感じで必要なぬくもりを感じさせてくれていた気がする。成長してからは、親離れしていく子どもに怒りや寂しさをぶつけながらも、自由と尊重を与え続けてくれた。「あなたが選んで進んでいく道を誇りに思うよ」というメッセージを常に受け取っていた。だから母親の存在は他の誰とも比べられない不思議な位置にある。もう会えなくても、僕の中には生きている。

大人になって、自分も大切にする人をもって、その根底にあるのは母から受けた愛し方だと思う。滾々と湧き出る温泉のように、心を温め、元気にし、ほぐし、時が来たら羽ばたかせてくれる、そういう愛し方。
あと、父から受けた「社会的な愛し方」の大切さも大人になってからよりわかるようになった(社会性を身に着けさせるとか、秩序を教えるとか、勝ち負けを経験させるとか)。

自分の中にはやはりいつまでも父と母の影響があって、基本的にはその土台の上に自分のアレンジを加えて、誰かを愛しているのだと思う。


万人に有効な正しい愛し方など存在しない。

でも、自分の愛し方の傾向と、相手の愛し方の傾向については、試行錯誤しながら理解を深め工夫を重ねる必要があると思う。

自分はどんな時に愛されていると感じるか。
自分はどんなふうに愛そうとするか。

相手はどんなふうに愛そうとするか。
相手はどんな時に愛されていると感じているのか。

たまに、愛を必要としていないんじゃないかと感じる人もいる。
愛されることが嫌そうだとか、愛を受け取るアンテナがなさそうだなとか。
でも、おそらくそういうことではないのだろうと思う。

愛を必要としていない人間はいない。愛されることも愛することもしないで人は生きられない。
ただ、その受け取り方と表し方には人によって天地の開きがあって、これをすり合わせるためには根気と労力と話し合いとそしてある程度のあきらめが必要になる。

触れられるのが好きな人もいれば、不必要な接触が気持ち悪い人もいる。
溢れる言葉で気持ちを表現する人もいれば、静かな会話が必要な人もいる。

もし、人の心に生まれているすべての感情をくみ取ることが出来たら、愛するというのはもっと簡単になるのだろうけれど、そんな安易な道は無い。
だから今日もあれこれと手を尽くす。

愛し合えるというのは当たり前にあるものではない。それを知って、相手からの愛を大切に受け取りたい。
愛する時は、まるで当たり前かのように愛したい。でもたまには「頑張って愛しているんだ」と伝えるのもいいかもしれない。伝えないと分からないこともある。

愛は移りゆく感情ではなくて、楽しみながら作り上げていく生き方だから。

そんなことを少し振り返りながら考えました。ふにゃふにゃ

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