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抱っこ紐

抱っこ紐は外で使うものと二人ともなぜか思っていた。理由はおそらく外でしか見なかったから。(そりゃ、人が遊びに来た時には付けないしね)

生まれたら読む本的な雑誌を眺めていたら、スタイリッシュな部屋で暮らすママさんが「抱っこ紐で掃除機もどんどんかけちゃいます!」と写真付きでコメントしていた。ほほう、家の中でも抱っこ紐使えば確かにいちいちあやしにいかなくてもいいから、家事が楽になるなぁとぼんやり思っていた。

今は、いやそんなの当たり前だろが、という気持ちだ。


下ろすとまた泣き出した時に拾い上げるのが面倒なので、もう抱っこ紐でスヤスヤしてるのをそのままに作業している。

両手が使えるのバンザイ。

抱っこ紐って腰で支えるから案外肩に重みは掛からない。これは登山の時のザックと同じだなぁとぼんやり思う。

笑っている顔を見るのはなんとも幸せな気持ちになる。泣いてるのもかわいいなと思える。頻繁に大きく長く泣かれると疲れる。だが、どれも大事な自己表現なんだと思う。

だからどんな感情の表出も、観察しながら受け止めてみる。

───

社会的な場所では、思ったらいけないこと、言ってはいけないことは沢山ある。だが人間の成長において、感じているものを感じていないかのように過ごすのは不自然なこと。きっと。
受け止めてやれなかったなと思ったら、できるだけ早めに、丁寧に気持ちを取り扱ってあげるのがいい。

だから、できるだけ常にこんな気持ちかなぁと観察する。大人の方が言葉を上手く使えるから。

例えば小学生の子どもにこんなことを言われるのを想定する。精神的にも肉体的にも疲労して帰ってきた親がご飯を作って食べさせてるのに、子に「これまずい、いらない」と言われる。あるでしょうね。

「そんな事言わないの!」と怒りたくもなる。言ってはいけないという事ではない。
しかしおそらく、そこには言外の様々なやり取りがなされているはずなのだ。積み重ねてきた関係性の歴史があるし、それぞれの過ごした今日一日の道のりがある。
まずは、それを言った気持ちを受け止めてみる。教えるのはその後だ。

その瞬間に事実をぶつけ合って議論すると、どっちが負けても勝っても、結果的には両方とも負けなのだ。大抵大人が勝てるけれど、勝ったということは相手が負かされたということで、ということは家族として全体が負けなのだ。

(家庭の文化によっては戦うことが戦いにならない(良いコミュニケーションになっている)という家庭もあるかもしれない。逆に戦わないことでいつも戦っている(冷戦状態である)家庭もあるかもしれない)

家族の争いは、戦ったもの全員が負け。
向き合うけれども戦わない、戦わないけども上手く扱う、というのが良い。

「ほう、まずいか。好きじゃないメニューで、ごめんね。」と言ってみる。ともかく、言葉を受け止めてみる。

問題はメニューなのか、なんなのか。

ただイライラしてるだけなのか。寂しいのか。
何かあったのか。

原因も別に特定しなくていいのだ。

会話の目的を見間違えないこと。戦わない。打ち返さない。言葉をふわりと受け止めて、感情がどんなふうに変わるかなと観察してあげる。
きっと、作ったものをまずいと言われたら親が傷つくということは、落ち着いたら分かること。ということは、分かっているのに言っているのだ。(分かってないなら、あとで丁寧に伝えなくてはならない)

目的は、感情を受け止めてやること。そうすれば、後々になって自分でも感情を処理できるようになるから。

話したいようなら聞いてあげる。
考えてるようなら待ってあげる。
遊びたいなら遊んであげる。
放っておいて欲しいならそっとしてやる。

子どもは感情の塊。そしてコロコロと変わる。論理は後付けだ。感情は一瞬。

大事なのは今この時に、その感情を必要なやり方で受け止められるかだ。いや、受け止めようとしてるよ!という姿勢が相手に伝わっているか、だ。

難しそうな時は、一緒に洗濯物を畳むとか、散歩するとか、習い事の道中とか、そんな時に大事なことが隠れている気がする。

3人だと社会性が生まれるので、2人の時がいいと思う。一個人としての信頼関係を築く。

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そんな複雑な会話をするようになるのはまだまだ先の話だ。
今はともかく「どんなに泣いても(不快でも、不安でも、空腹でも、痛くても、眠れなくても、疲れてても、イライラしてても)、そのうち安心して眠りに落ちてリラックスできるよ」ということを何度も体感させてあげたらいいのだろう。

うつ伏せからずり這いに進むか…と思いきやなぜか後ろ向きに下がっていくむちゅこ。まだ前には進めない。筋肉も少しずつ少しずつ成長中。
奇声を発するのが楽しいお年頃。やれやれ。

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