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映画『レタブロ』について

前回、ペルー映画祭vol.2へ行ってきました、という記事を書きました。
今回観た三作品の中で、ペルーにあまり馴染みのない人でも入りやすいのは  『レタブロ』ではないかと思います。

レタブロについては、鑑賞前にさっとHPの解説を読んだくらいで前情報は特になかったのですが、舞台がアヤクーチョだったので驚きました。
それに、ケチュア語(日本語の字幕はついています)だったのもまた驚きでした。
私もそれほどアヤクーチョに長期滞在したわけではないし、アヤクーチョの人たちとお話するときにも、私が相手だとみなさんまずスペイン語で話しかけるのですが、旅行へ行ったときにガイドさんが街中の人と話していたときなどはケチュア語だったり、ガイドさんがタクシーの中でがんがんかけていた曲もケチュア語で歌われていたりしました。
解説を読んだら、当初はスペイン語の脚本だったのが、出演者の提案でケチュア語になったとのことでした。
役者さんたちがどの程度ケチュア語やスペイン語にそれぞれ慣れ親しんでいるかはわかりませんが、やはり、その地方でより親しまれている言語で撮影したほうが、より良いものかできるのではないかと思います。
スペイン語で撮影したほうが受けがいいとせず、ケチュア語で撮影することを選んだのはよかったと思いますし、その結果、いろいろな賞を受賞できたのもよいことだと思います。最近の、多様性を大事にしようという傾向も影響しているのかせしれませんが。

※今後、近々でしたら横浜、後には京都や前橋でも上映予定があるようです。ご覧になりたい方は、映画祭のホームページをご確認ください。

ここから、ネタバレを含みます。






そういう、アヤクーチョを舞台とした地域の特性を生かした映画ではあると思うのですが、けっこう世界のどういうところを舞台にしても通用するような、たとえば黒澤明の「生きる」や、あるいはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のように、いろいろな地域で違うバージョンができそうな内容だ、と思いました。
田舎のいいところも悪いところも出てくるような、周りの人たちと仲良くできていて、うまく回っている分にはいいけれども、一度問題を起こした村八分にされてしまうと、もうその中では生きられなくなる。
私は昔田舎で過ごしていたことがあったのですが、思い返してみると、よかったことより嫌だったことのほうが多かった気がします。
よかったことは、自然が身近にあって空気や景色がきれいだったこと、そして嫌だったことは閉鎖的で本の少しでも目立ったり人と違うことをすると叩かれたり排除されることであり、特にその地域で生まれ育ったわけではなく転校生だったから、よりそういう構造をはっきりと意識することができました。
(だから、自然は好きでも移住しようとはあまり思えないところです。でも最近は三十年前と比べて、少しは変わってきているのか……)。
しかし、閉鎖的に見える人たちにしても、そういう生活を脅かす人は脅威の対象でしかないわけで、それをどうこう言っても仕方のないことなのでしょう。そういう人たちを排除してきたからこそ今の生活が守られているから、そこになじめない人はやはり出て行くしかないのでしょう。
そうして、なんだかんだ言って、他人のことに構っている余裕のない都会はある意味生き易くもあるのでした、そんなことを考えさせられる映画でした。
最後の、セグンドが父との幸せだった時間をレタブロに残し、父の遺体と一緒に埋葬し、工房の戸を閉めて去っていく場面は、とても悲痛ではあるけれども、頑張って生きていくんだよと応援したくなります。
それにしても、最初の幸せそうな場面と、最後の場面との落差があまりにすごい……日本でも、戦時中などは、ああやってついこの間まで幸せだった子供が、空襲で親を失ってシンデレラのようになってしまうなど、ざらにあったのでしょう、人生って本当になにがあるかわからないものです。
子供のころにああいう体験をした人は、ほかの人たちよりも早く大人にならないといけないんだなと思います、きっと日本でも昔はああいう人がたくさんいたのでしょう、そうして私の身近にはいませんか、今でもたくさんいるのかもしれません。


アヤクーチョの、舗装されていない道を白い砂ぼこりを舞い上げて大音量で音楽を流しながら車が走っていくところなど、懐かしく思われました。
また行ってみたいものです。



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