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不登校生に学んだコミュニケーション

科学コミュニケーターという仕事に就く前は、地方の理科教員でした。

主に中学校と高等学校を7年。うち2年は大学院に通いながらの非常勤講師。学級担任を受け持ったのは3回、副担任を加えると4年。経験豊富とは言えませんね(苦笑)。ただ、コミュニケーションスキルという意味では、今役に立っている私の技術の大部分は、この期間に身についたと言えるでしょう。

なかでも、不登校になった子どもたちや保護者と付き合ったことが大きく影響しています。

数えてみたら、担任を受け持った3年間の間に約30名の不登校生を学校生活に復帰することに成功していました

「約」というのがちょっと曖昧ですが、何しろ人によっては一時的で復帰も早かった子どももいれば、2年以上家からほとんど出なかったような子まで、状況は様々。もちろん時間のかけ方も様々。線引きが難しいのです。


不登校になった子ともだちから学んだ2つのコミュニケーションスキル

コミュニケーションスキルとして、学んだことは2つ。

「よく聞くこと」「違った視点を与えること」です。

「よく聞くこと」とは、つまり傾聴。相手の話によく耳を傾けること。不登校は"なる理由"と"続く理由"が一致するとは限りません。人によって全然違うことがほとんどで、再現性も法則性もない世界です。そして、本人も保護者も原因に自覚がないことが多いです。

そして、これは経験則にはなってしまいますが、保護者の方が重症になっている場合が多いです。自分の子育てを間違えたんじゃないかと責めたり、もうこの子はどうにもならないと諦めたり。子どもの方も案外そんな保護者の様子に薄々気づいていて、余計自暴自棄になっている場合も少なくありません。

そんな相手に「学校に来い」なんて言っても聞いてもらえるはずもありません。それどころではないんですから。

話を聞くべきはまず自分。だから子どもにも保護者にも、とにかく会話を持ちかけては、途中からずっと聞き役に徹します。

とにかく、なんでも。ずっと。

ただ、これだけだと「カウンセリングスキル」です。コミュニケーションスキルとしては、後者の「違った視点を与えること」とセットになってきます。

たくさん話を聞くことで、ようやく相手にも、人の話に耳を傾ける準備ができます。そしてこの場合も「学校へ来い」とは言いません。まずは保護者から、そして子どもが「学校に来たくなる」と自ら思えるようにします。

そこで使うのが「違った視点を与えること」、つまり視座の転換。自分の立ち位置を少し違った場所から眺めると、どんな風に見えるのか。過去でも、未来でも、とりあえずそんな思考実験を言葉遊びから始めていきます。

すると、次第に自分から「学校に行った方がいいんじゃないか」と子どもから思うようになります。思うまで、ひたすら時間をかけて、保護者と一緒に待ちます(保護者の気持ちを汲みつつ、一緒に付き合っていきます)。

そして「学校で待ってるよ(だって私の職場だし)」と一言。

こうしたやり取りの後復帰した子どもや保護者は、学校だけでなく、その後起こりうる色々な困難に対しても、考えるのを諦めずに、どうしたら良い選択ができるか向き合えるようになります。


言葉は共感を生み、人を導く力になる

(だって私の職場だし)をなぜ加えたか。

私が身につけたスキルは、カウンセリングスキルではありません。なぜなら、相手に一度も寄り添ってなどいないからです。相談にも乗っていないし、援助もしていない。

私のコミュニケーションでは、教員としての自分の都合を隠しませんでした。不登校生もその保護者も、学校に来させたいから会いに来ていることなんて最初から分かっているのです。隠したり寄り添ったりする方がよっぽど嘘くさい。

むしろ目的が誰から見ても明確であるからこそ、いちいち口に出して言うほどのことでもないのです。

もし私が何かを支援していたとしたら、それは相手の思考をより柔軟に、より深くなるよう、言葉を使いながら導いたこと。

その間、私は相手の様子をずっと観察し続けていました。どんな言葉をかけたら、どんな風に考えて返事をするだろうか。言葉だけでなく、ちょっとしたしぐさ、視線、表情筋。些細な変化も見逃さないように。

そして多くの場合、考える材料はその人の中にあります。「違った視点を与えること」は、その人のリソースで、その人のロジックの組み方に少し変化を加えるだけ。違った視点の素材も様々で、友情とか人生の豊かさでもいいし、奨学金や法律などでもいい。それもその人の立場にあったニーズに応えるだけです。


科学コミュニケーションの"重心"はどこにある?

話は戻って「科学コミュニケーション」について。

この言葉は大変分かりづらい言葉です。「科学」と「コミュニケーション」、どちらに重心が寄っているのでしょうか

「科学をもっと身近に感じて欲しい」

「科学をもっと好きになってもらいたい」

目的語からして「科学」に重心が置かれているような気がします。たくさん実験を見せたり、分かりやすい解説をしたり、いろいろ工夫はできるでしょう。

・・・でも。

「身近に感じる」とはどんな状態でしょう。身近に感じていて、嫌いだったら?

「好きになる」とはなんでしょう。片思い?それとも結婚したいくらい?

結婚だって、相手がいなきゃできません。

相手のこと、どれくらい理解しているのでしょう

少なくとも、科学が大事だと"知っている"人は多いと思いますよ。そして、知っている上で無関心にもなれるし、感情に任せ非合理的にもなれる。少なくとも私は自分自身が今でもそういう部分も持ち合わせていると感じます。

科学コミュニケーションとは本当に分かりづらい言葉です。ですが、相手ありきの概念であるという意味では、私は好きです。

この感覚は不登校生と関わってきたからこそ、私は今とても腑に落ちています。

最後まで読んでくださってありがとうございます!