ただいまがとぎれないように


     1

 アルミの水筒の底に氷がぶつかるたびに、冷たい音が部屋の中に響いた。
 「お兄ちゃん。いま氷何個?」
 「知らない。五つくらい入れたかな」
 「もっと入れて。」
 「もうないよ。昨日食べ過ぎたんだよ、きっと。」
 「はやく」とシゲルは玄関のドアを開けたり閉めたりしながら兄に訴える。
 コウタはそれを聞きながらペットボトルのお茶をつかみ、水筒の中へ注いだ。とここという音を立てて、氷がせりあがる。きゅっと手首を回して、水筒の蓋をしっかり閉める。壁にかけられた時計は隣の部屋の時計よりいくらかのろい秒針で二つの部屋の時間を少しずつずらしていく。コウタが今いるキッチンの時計は、ちょうど午後の三時を示していた。数字の3の代わりに漫画のビーグル犬が黒く長い耳をだらりと垂らし、気持ちよさそうに眠っている。
 玄関のドアを勢い良く閉め、コウタは少し重くなった水筒についたストラップを肩にかけ、シゲルのあとを追いかけて坂を駆け上がっていく。真夏の日差しのなかに飛び出した彼らの体はすぐに火照ほてった。
 友だちのタカハシくんの家に行くまでにはいくつかの坂を上ったり下ったりしなくてはならない。最初の坂は短くて、下り坂はなだらかに長く、道の両脇に点々と家が並んでいる。その下り坂を下り切る手前に二つ別れ道があり、そこを左に曲がると、最後の一番長い坂がある。その長い坂の中腹にタカハシくんの家はある。
 息を切らして角を左に曲がり、最後の坂を上り始めたとき、タカハシくんが道路に出てシャボン玉を吹いて遊んでいるのが見えた。タカハシくんは二人に気付き声をかけた。コウタも何か声をかけたかったのだが、おーいも変だし、やあも変だなと妙に考えこんでしまい、恥ずかしそうに手を振った。午前中も遊んだ後なのに、また新しい一日が始まったみたいに嬉しい。コウタは弟と一緒に遊びに来た、という喜びに包まれて坂道を上り切った。二人とも、もうだらだらと汗をかいている。コウタは水筒の蓋を開けて一口飲んでから、肩から水筒を外しストラップの長さを調節して、シゲルに渡した。
 準備の遅くなったタカハシくんの弟と妹も、水筒とおそろいの小さなリュックを背負って外に出てきた。これで五人そろった子供たちは、道路をふさいでまだらに円を作って、シャボン玉を手のひらで仰いだり、割ったりして遊んだ。しばらくしてタカハシくんのお母さんが切ってくれたスイカを家の玄関で食べたあと、玄関のわきにある水道で手を洗い、計画通り〈たんけんのもり〉に向かって出発した。
 坂道を下りながら振り返ってタカハシくんのお母さんにみんなで手を振ると、タカハシくんのお母さんは受話器を耳に当てたまま、手を振り返した。
 森へ行くためには坂を下りてから、コウタたちがさっき左に曲がったところを右に進む。その坂の途中にいつもの遊び場があるのだが、五人は今日はそこを通り越して、もっともっと坂を上り、〈たんけんのもり〉を目指す。
 森の脇を走る道路をずっと奥に進むと、別の小学校がある。それはコウタにとっては地球がもうひとつあるのと同じことだった。あるときコウタとシゲルのお父さんはテーブルの上に白いコピー用紙を置くと、鉛筆の先を立ててぽんぽんぽんぽんと細かい点を描いた。それからその点の集まりを楕円形に囲んで説明を始めた。
 「これが銀河系。このなかの点のちょっと左のあたり、ここ。これが太陽系。この太陽の周りをぐるぐる回っているのが地球。」
 コウタとシゲルは父が鉛筆で描き出していく点や丸や線をじっと見つめていた。
 「ということはね、つまり、地球みたいな惑星がたくさんあるんだって。このぽつぽつのどこかにあってもおかしくないんだよ。」
 コウタはきゅっと唇を一文字に結び、父の話を聞いていた。
 「考えられないよ。すごいよなあ。」
 父はそう言いながら、片手でその紙を持ち上げて透かすように眺めた。首を振る扇風機が送る風で、その紙が揺れていた。
 五人は坂を上り、いつもの遊び場まで来た。
 いつもの遊び場では、〈たんけんのもり〉の向こうから犬の散歩をしにやって来るおじさんがいて、いつものボール遊びをしていた。おじさんは子供たちに気付くと手を振り、テニスボールを少年たちの方に向かって投げると、犬が勢いよくこちらにかけてきた。 タカハシくんの弟のヒロキくんが兄の後ろに隠れた。
 おじさんはいつも犬のよだれまみれのテニスボールで犬と遊んでいる。たまにみんなでサッカーをしていると犬が加わってきて試合を中断しなければならず面倒だった。だれも触りたくないのにテニスボールを子供たちに投げるように言うときだってあるのだ。
 大体、犬がかわいそうだ、とコウタはいつも思っていた。息を荒げて飼い主のもとにかけより、くわえていたボールを取られ、褒められて餌をもらう姿を何度も繰り返しみているうちに、犬が喜んでいるとは思えなくなってしまった。
 犬のおじさんはもうこちらには構わず、ボールを咥えて戻ってきた犬を撫でてやり、再びボールを別の方へ投げた。犬は一目散にそれを取りに行く。

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