結構毛だらけ 猫灰だらけ

 必ず起こると分かっている悪いことは、今にも抜けそうな乳歯と似ている。
 例えば落第したのが確実な単位の成績発表や、使い過ぎてしまったクレジットカードの明細、見るからに死にそうな猫。
 
 起きて欲しくはないのに、もうどうしようもないから早く済んで欲しいと、ええい早く抜けてくれと思ってしまう。

 わたしの乳歯は今朝抜けた。


 去年、猫が死んだ。もうあれから10ヶ月近く経つのだと思うと、本当に時が過ぎるのは早い。あまり、夢を見なくなった。

 去年死んだ猫はラグドールの純血種で、海外転勤に行って帰ってくるので二回も七時間越えの飛行機に乗った経験もあったから、今思えばまあ長生きした方なんじゃないかと思う。

 先に死ぬだろうと家族全員に思われていたもう一匹のほうトトロは、エキゾチックショートヘアの純血種。前述の猫ショコラよりも一歳年上で、もちろん海外にもついてきた。
 歯並びがガタガタで、その上ショコラが家に来た時はストレスで血尿を出したりしていたそうなので(私は七歳くらいだったので覚えていない)、そもそもここまで生きていたのが不思議な気もする。


 トトロを知っている友人はみんな彼の顔が怖いと言う。

 韓国の友人は、スカイプ中に彼が画面を横切ると、「ヤクザ!」と歓声を上げていた。
 実際、トトロはたまにヤクザっぽかった。と言っても、本物を知らないのでただのイメージである。

 トトロは基本的にはいつも年上らしく振る舞っていて、ショコラが彼の目の前に頭を突き出すとなにも言わずに舐めてやっていた。横から餌を食べられても怒らず、わざわざその横取りをを回避したいがために離して置いていたショコラの餌皿の方にのっそり向かう。そうするとショコラがまた自分の持ち場に戻ってくるので、トトロは行ったり来たりを延々と繰り返し、ゆっくりちゃんと食べられるのはショコラが食べ散らかした後だった。
 ショコラは全盛期には7キロを超す大型猫で、トトロはせいぜい4・5キロとショコラに比べればかなり小柄だったのだが、それでも一度もトトロは彼に負けた試しがなかった。

 二人が喧嘩すると、すぐにショコラはひっくり返ってお腹を見せていた。
 たまに、人間には分からない何かをショコラがしでかしていたのか、そしらぬ顔で歩く彼の斜め後ろをトトロが借金取りの如くぴったりとくっついて追いかけることがあった。途中で耐えきれなくなったショコラが甘えた声を出して母に助けを求めるか、テレビ台に駆け上って、テレビの裏の壁を狂ったように前足で逃げ道を掘ろうとするのが毎度の終わりだった。
 とうとう動画を取らなかったのが心残りだ。


 猫はモデルのように一本の線の上を歩く。
 四本の足が、垂直にではなく、体のど真ん中を通ったその線に沿って少し内側を向いて歩くから、なんだかちょっとコンパクトで優雅に見える。

 トトロは昨日の朝からフラフラ歩くようになった。

 前からもたまにフラつくことはあったものの、それは縁側でまどろんでいたおじいちゃんが家族に呼ばれて立った時におっとっとと足元が覚束なくなる感じで、まっすぐ歩けないようなものではなかった。

 今のトトロはさながら酔っ払いである。
 下半身の踏ん張りが効かないのか、後ろ足が体よりも外にはみ出る形で水を飲み、モデル歩きは鳴りを潜め、座れば車に轢かれたカエル、歩く姿はイグアナだ。


 普段から明け方まで起きているわたしは、連日トトロを心配して夜更かしする母を残して昨日(今日と言った方が正しい)もそのくらいの時間に部屋へ戻った。
 ベッドで懲りずにスマホをいじっていると、リビングの方から何やら大きめの物音がして嫌な予感がしたものの、何も聞こえなかったと自分に言い聞かせて寝た。

 父親に叩き起こされたのはその一時間後くらいだった。
 トトロが死んだと告げられた時はやっぱりなと思った。実際「あっ、はい」と返事をした気がする。一時間程度なら起きていれば良かった。
 場を離れているうちに死んでいるのが嫌でトトロの危篤を知らせられなかったと言う母に、やはりあの時の音はそうだったのだなと思った。
 先ほどのあの音と胸騒ぎを無視すれば、リビングとわたしの部屋とで世界が分かれて、少なくともわたしの部屋の内側ではトトロはまだ生きていることにできるような気がしていた。

 最後にと渡されたトトロの体は相変わらず軽く、まだ少し生暖かかったけれど、予想通り気味の悪い硬さをしていた。
 生前、彼の手足は本当に骨が入っているのか不思議なくらいくにゃくにゃだったのだけれど、それが硬くなっているのを感じて、あれは血潮が通っていると言うやつだったのかと思った。

 体からは綺麗好きの彼からは終ぞしなかったようなムッとした臭いが立ち上った。獣臭さを煮詰めたような匂いだった。
 箱に入れようと体を下げたところで、下半身に尿が滲み出ているのに気づいた。
 ショコラの時とは大違いで本当に少し滲む程度で、ここ数日の水や食べ物の摂取量が如実に表れていた。ほんの数日前に母が買ってきた強制給餌用のスポイトは結局使われないまま、机の上に置きっぱなしだった。
 やっぱり老衰だったのだと安堵した。あれで良かったのだ。


 

 朝、リビングに通じるドアを閉めようとして、もう閉めなくてもいいのだと気づいた。もう家に玄関へ突入する猫はいないのだ。
 床に柑橘系や辛い食べ物を落としてもすぐに拾う必要はない。
 ティーバッグを取ろうと棚に手を伸ばす時、自分のおやつが出てくるのだと信じる獣が腕に突進してくる恐れもない。
 マニキュアを塗る時も落とす時も周りを気にしなくて済む。アロマだって焚き放題だ。

 フィクションで亡くなった人の名前を思わず呼んでしまって涙する、みたいなシーンを見かけるが、あれは起こりそうにもない。ショコラの時も、トトロの時も、一番記憶に残ってしまったのは最期の姿だ。いた間の幸せより、いなくなってしまった喪失の方が、今は、ずっと大きい。
 こうやって日常の端々で変わってしまったことに触れて、そこで急に足りないものに気づくのだ。
 わたしはこれから先、頻度は少なくなっても、ずっとこれを経験していくのだろう。


 転校を繰り返していた一人っ子のわたしにとって、猫たちは一番の友達であり兄弟だったのだと思う。
 もう深夜に一人でホラー映画なんて観れなくなってしまった。今までは何か物音がしても、全て猫のせいにできていたのに。
 わたしの乳歯は全部抜けてしまった。

 この間の日曜に所用で浅草を訪れた時、浅草寺に寄った。普段は金金金くらいしかお祈りなんぞしないのだが、今回は「トトロが長生きできますように、苦しまずに死ねますように」とお願いしたばかりだった。
 半分は叶って、半分は無視された。あんなことを唱えたわたしのせいみたいだ。
 ありがとう神さま、そしてファッキュー。せいぜいうちの猫をよろしく。

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