料理をしなくても生きていける時代に、なぜ私は料理をしようよ!と言いたいのだろう。
生きがいでもある仕事も、料理関係。
ホームパーティーをよく開き、Instagramの料理写真ばかり。
一見、料理好きと見られる私も、10年前は料理を全くしなかった…ということは、過去の記事でも触れてきました。
自身で料理をしなくても、美味しい食事が様々な選択肢の中から選べ、手頃な値段で、いつでもどこでも食べられる世の中。そしておそらく、これからますますその状況が加速していくであろう世の中。
先日「週5で晩ご飯テイクアウトサービスを使い始めて1ヶ月経った」という記事が話題になりました。これ、料理をしなかった時代の私なら、間違いなく選択していた道です。今の私でも、近所に同じようなお惣菜屋があったら「これ良いじゃん」と思えてしまう…。
これからの世の中の流れと、自身でも「これ良いじゃん」と思えてしまうライフハックを見た時に、それでもなお、私が自身の事業を通じて「料理をしようよ!」と言いたいのは何故のか…?その自問自答を重ねた結果、大きく2つの理由になりました。
それを、自分自身のメモとして記録しておこうと思う。
その前に、私の状況の前提
あくまでもこれは自分自身のメモです。
我が家は共働きの夫婦二人暮らしですから、お子さんがいる等、毎日料理をしなければならない責任がありません。
ですから、私が考える「料理をしようよ!」と言いたい気持ちも、万人に受け入れられるものだとも思っておらず、料理はそれこそ家庭の事情や人それぞれの価値観に寄るものであり、だからこそ「料理を楽しもう」という言葉の難しさを感じています。
自分が美味しいと思えるものを、
いつでも食べられる事は心の平和につながると思うから。
さて、理由のひとつめ。
かつて、1日3食外食生活を何年も続けた結果、
最初はワクワクしていた高級なレストランめぐりも刺激が無いものになり、
外食やデリバリーは選択肢が多いと言っても、
自分が選ぶものはいつも同じで、
結果いつしか惰性の選択を繰り返すようになり、
常連になったお店でいろいろと配慮頂いても、
「外食」そのものや「外食の味」に疲れている自分に気が付きました。
私や、私と旦那さんの「その時の気分にちょうどよく、美味しいと思えるもの」を、「食べたい時にいつでも食べられる」ことを、外食で永遠に叶えることは我が家では難しかった。
私達の味覚に合う美味しいものをいつでも食べられるようになるには、私達の味覚をよく知る、私達自身がつくれるようになったほうが、結果、我が家では早道でした。
自分が食べたいものを自分でつくれることは、食材調達や料理の手間がかかったとしても、総合的に見て食事の選択の自由度が拡がりました。
今では旦那さんも料理をします。
この事は、更に私たちの食事の選択の自由を加速させました。幸運なことに、私たち夫婦は「味覚」が似ていたので、お互いがつくる料理とお互いの舌の相性が良かったのです。
結果、私が得たのは心の平和です。
所謂「雑飯」だったとしても旦那さんが私のために料理をしてくれることは、その気持も含めて私に心の平和をもたらします。美味しくても、多少美味しくなくても。
我が家はお互い仕事で家を空ける事が多いのですが、お互い「家に帰ったら○○を食べたい」と言うのは、家でお互いがよくつくるごはんだったりします。
おそらく、旦那さんも私がつくる料理を食べることで、心の平和を感じてくれているのでは?と思っています。
私はよくホームパーティーで人を我が家に招きます。
また、逆に料理をふるまってくれる友人もいます。
食べる人のことを想い料理をし、それを美味しいと食べる。
そういう関係は、やはり互いに心の平和をもたらすと思っています。
そうそう、東日本大震災後の東京で、自粛により外食を控える方が多かった時、自宅に親しい友人を招いてホームパーティーをした事があります。主催した私も皆の笑顔が見られる口実ができてホッとしたし、集まった友人も気持ちが軽くなったと喜んでくれました。
この時、料理をするようになっていて良かったなぁ…私なんかの料理でも、家族以外の人を安心させたり喜ばせたりできるんだなぁと思ったことを覚えています。
この積み重ねが、自身の心の平和に繋がり、家族、社会との平和な繋がりにつながっていく…大げさかもしれませんが、そう思います。
創造的満足度が日常生活で得られると、
心の満足度が充実すると思うから。
理由のふたつめ。
私は創作のサイズを問わず、何か自身が創り出し、それによって人を喜ばせたい、という欲求が強いタイプの人間なのだと思います。
仕事はここ数年、事業を創るという創造的なことをさせてもらっていますが、仕事ではなにぶん、充実と打撃の振れ幅が広すぎ、また、充実感を得る時間経過幅が長過ぎる。仕事は「生きがい」だけど、ストレスもそれなりにあります。
それに比べ、「料理」は充実と打撃の振れ幅が狭く、時間経過幅は格段に短い。
なにせ、1日でも最大3回、創造的満足度が得られるチャンスがあります。
美味しいものができればすぐ達成感が味わえるし、
失敗したとしても影響は限定的だから打撃も少ないし、
すぐに次のチャレンジができる。
喜ばすことができる相手も限定的ではないし、
いろんな時間、いろんなシーン、とにかく幅広く楽しめる。
「料理」以外で、これ以上気軽に想像的満足度が得られることは、今の所、私は思い付きません。
心の平和と満足が得られるもの、
それが私にとっての料理
言葉で残そうと思ったら、なんだかとても大げさな内容になって自分自身、びっくりしました。
が、今現在思う「料理をしなくても生きていける時代に、なぜ私は料理をしようよ!と言うのだろう」の答えは
心の平和と創造的満足が得られるから
です。
もし、この先、料理をしないライフハックに出会い、もし料理をしない瞬間的に選択をしたとしても、多分、また自分で料理をする生活に戻るんだろうなあと思います。
…今度、旦那さんにも聞いてみよう。
多分、「つくったほうが美味しいから」というシンプルな答えが返ってくると思うけれど。
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