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『Secret Mirage』と《二重密室の崩壊》



・はじめに


以下の文章は、『アイドルマスター シンデレラガールズ』の楽曲のひとつRêve  Pur『Secret Mirage』を取り扱った考察記事です。


内容自体はなんとなく二部構成になっていて、第一部はフランス文学、なかでもボードレールやマラルメが Rêve Pur という言葉をどのように扱ったかーーという実例から『Secret Mirage』の秘密に迫ろうと試みました。
流れとしては、この追跡行の中で「彼らがポオから受けた影響のうち、もっとも目につく仕掛けのひとつが、ドッペルゲンガーである」ということが、どうしても露になってきます。
「自分のドッペルゲンガーを見たものは遠からず死ぬ」という有名な怪談があるくらいですから、これは不穏な風向きと言わざるを得ません。思い返せば、『Secret Mirage』の2DリッチMVには心中を匂わせる描写があると話題になったことも、実際あったぐらいです。

紗枝はんの左肘から先が重力に引かれて落ちる身振りは、
どうしても「死」を思わせます。
……そしてもしかしたら、逆回転する時計の針をも。

そこで第二部では、この不穏な話を「祝福されたふたりのいる風景別乾坤 / 新天地 / Neo Universe」に変えるためには何が必要だと考えられるか、そしてそれが事実存在したか、存在したとしてそれはPにも認識しうるものなのかーーという話を扱うことになりました。
この考察がゆかさえのためのファンファーレになりうるかどうかは、まさにここにかかっているといっても過言ではありません。


考察を潜水にたとえるなら、たまたま沈没船や古い貨幣、UMAみたいなよくわからないアレ、地盤沈下した地層の空気溜まりなどがみつかることもありまして、私はそこに頭文字Sから始まる単語を設置しておきました。なんというか、昔のRPGでいうセーブポイントSave-pointみたいなものです。

千鳥足になっている箇所もある……どころか、しょっちゅうフラフラになっているありさまですが、ご興味をお持ちの方はどうぞお付き合いください。



・Rêve Purってなんだろう


水本ゆかりと小早川紗枝のデュオユニット名、それがRêve Purである。
ただし、ふたりの活動の表現のなかでフランス語が用いられるケースは、これまで数えるほどしかなかった。したがって、ふたりの表現について考えていく上では、どうしても「なぜ急にフランス?」という謎が浮上してくることだろう。多分。

名探偵・都ちゃんからのアドバイス(として受け取る私)。

「津軽弁の響きってフランス語に似てるよね」みたいな話は、現状ではほぼShinobuちゃんの専売特許であって、お国訛りが見られないゆかり(青森出身)にはほぼ無縁のものだ。
「ほぼ」というのも、ゆかりはSR[エフォート・ブリランテ]+の玉入れの場面などで「おぁ……」というなかなか見かけない表記の声をもらしたことがあり、これが音声を確認するとフランス語で黄金を意味する"or"の発音に似ているかもしれず、しかし誰からもこれを指摘されたことはない程度である。青森(AOMORI)の中にもORの二文字は含まれているが、そのこと自体に意味をみつけようとする人が極稀であるのと少し似ているかもしれない。
また紗枝はんの京言葉の響きが、フランス人から見て異国趣味そのものであることも、疑いを容れない。そういえば京を発信地とする国風文化の作風では、百合の姿はほぼ目につかないものらしい。実際、紗枝はんは百合より梅や桜、藤、蓮などに慣れ親しんできた人のはずだ。
もちろんふたりとも未成年なので、ワインを嗜むこともない。
なのになぜ、ゆかさえのユニット名はフランス語なのか?

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イベントコミュに登場したちなったんはどう見ても、その意を察している。しかし彼女から見るとこのユニット名をつけたのはPなので、自身の察した諸々については説明不要とみなして、負担にならない程度の爽やかなエールを残すと、穏やかに立ち去ってしまうのであった。

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ちなったんは昔から妙にゆかりを買ってくれるところがあって、ゆかりPでも時々驚いてしまう(ちなったんPの方々も、やはりビックリしていたかもしれない)。嬉しいけれども当然と思ってよいことでもなく、つまりありがたい。

ともあれ、このような信頼を前にして、デレぽからちなったんに質問メールを飛ばすような不粋をはたらくわけにもいかない。そこでまずは考察の初手ーーひとりブレインストーミングである。

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"chouchou"も"douce"も、恋人への呼び掛けに使われるフランス語だそうで、
つまり英語の"honey"やドイツ語の"Schatz"にあたるような言葉が選ばれている。

バレンタイン行事が日本で宣伝され、定着し始めたのは大正時代の頃というから、
バレンタイン大使ゆかりが大正時代のカフェメイド紗枝はんを訪れて
彼女の恋を応援する話(友情出演・大正浪漫ガチャ勢)なども
可能性としては存在しえたRêve Purの物語なのだろうか。

ゆかりとフランス語の馴れ初めといえばバレンタイン限定SSR[想いのアンサンブル]水本ゆかり+で、アンサンブルという音楽用語はもちろんのこと、衣装それ自体の中にも"chouchou"や"Douce Harmonie"といったフランス語をみつけることができる。「バレンタインキャンペーンでゆかりちゃんからガトーショコラをもらったり、ホワイトデーにオペラケーキをお返ししたことがある」というPさんもいるだろう。ただし、フランス語を用いる国はフランス以外にもあるため、一足飛ばしに「フランス文化を引用している」と決めつけるのも性急すぎる気がしないでもない。

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ギャルリー・サンチュベールでショッピング中のラブリードゥリー。

たとえば、876コラボのバレンタインイベントで、イエローリリーの5人はベルギーの首都ブリュッセルを旅行先に選んだ。これがフランス語圏におけるゆかり唯一の出番で、あくまでもプライベートな旅行にすぎない(海外での仕事に限定するならオックスフォード、ケルン、USAのどこか、ハワイ、そしてウィーンと英語・ドイツ語圏にとどまる。ちなみに原宿で出会った外国人露店商さんとは、心持ちカタカナ多めの日本語で交流していた)。[※1]
あえて挙げるならメロイエで食べたクレープがフランスっぽいかもしれないが、それ以上に原宿の日常的風景だろうと指摘されたら否定はできない。
あとはフランス出身の作曲家・フルート奏者(ドビュッシーとかビゼーとかマルセル・モイーズとかタファネルとか)が思い浮かぶくらいだろうか。[※2]

紗枝はんにしても、フランスとの縁がほとんど思い当たらない。
真っ先に思い浮かぶのが『美に入り彩を穿つ』コミュのフレちゃんであったり、かな子ちゃんの差し入れマカロンだったりするレベルである。
とはいえ、SR[銀幕の綺羅星]で紗枝はんが主役の刑事を演じた映画にリュック・ベッソンやジャン・レノが関わっていなかった証拠はなく(WASABIかな?)、作中で『フレンチコネクション』や『TAXi』シリーズばりのカーチェイスがなかったとも言い切れない。また、カフェのはんなりメイドさんがフランス風の作法を心得ていても構わない……のだろうか?

青森……京都……フランス……うーん。
私は『舞妓さんちのまかないさん』のアニメをみながらぼんやり考えた。
しかし解答につながりそうなアイデアは、特に降りてこなかった。からあげおいしそう。[※3]

仕方がないので、ひらめきに頼らず、蓋然性をScaleにかけて検討を進める。
まずちなったんが反応したからには、"Rêve Pur"はフランス文学と関わりのある言葉に違いない。私自身にとっては全く詳しくもないジャンルだが、そこで臆していてはゆかさえの表現に近づけないのだとしたら、ヘタレている暇もないようだ。
まあ、文学の内容以前のところから推理の糸口がみつかればよいのだが……

まず特定したいのは、おおまかな時代設定である。
私は『文学部唯野教授』に出てくる「ヴィヨン以降の仏文学をほぼ読破したという噂の牧口さん」ではないのだから、ある程度のあたりをつけておかなくては、にっちもさっちも行かずに、やはり彼の絶叫Screamを追体験することになるだろう。

「全部ではないか。ほとんど」完全に酔いがまわった眼で住友は唯野を見据えた。「つまり、何をやってもらってもいいわけだ」
「本当のことを言いますと、彼はなんでもやれます」牧口本人が聞いていれば絶叫しそうなことを唯野は断言した。

筒井康隆『文学部唯野教授』

さて、Rêve Purという言葉は、いつ頃のフランス語圏の文脈から、現代日本のアイドルという畑違いの土壌に輸入されたものなのか? 

ヒントとしては、紗枝はんが「華族の娘」ゆかりが「貴族の娘」を演じているので、華族令が発布された1884年以降、日清・日露戦争を経ておそらくは不平等条約の改正が成る1911年頃までと考えてよさそうに思われる。[※4]

芥川龍之介の短編『舞踏会』や三島由紀夫の戯曲『鹿鳴館』は明治19(1886)年の天長節夜会を舞台にとり、夏目漱石の『三四郎』はその23年後である1909年の天長節前後を描いている。私が想像するのは、そのどれでもありどれでもないような、ぼんやりした明治時代ということになるのだろう。そういえばマンガ『ゴールデンカムイ』もこの時期を舞台にしたお話である。

 鹿鳴館時代は当時の錦絵や川柳によれば、まことに滑稽でグロテスクで、一場の開化の猿芝居であったらしいが、今われわれが舞台の上に見るこの父祖の時代は、ノスタルジヤに彩られて、日本近代史上まれに見る花やかなロマンチックな時代と映るであろう。
 もちろん時代の隔たりがすべてを美化したことが原因だが、それだけではない。こんな風に、或る現実の時代を変改し、そのイメージを現実とちがったものに作り変えて、それを固定してしまう作業こそ、作家の仕事であって、それをわれわれは、ピエール・ロチ(日本の秋)と芥川龍之介(舞踏会)に負うている。そこに更にこの『鹿鳴館』一篇を加えることを、作者の法外な思い上がりと蔑せらるるや否や。

三島由紀夫『美しき鹿鳴館時代ーー再演『鹿鳴館』について』

どうやら私は『Secret Mirage』イベントコミュの劇中劇をロチ・芥川・三島と同一直線上にある、いわば正統後継とみなすつもりでいるようなのだが、それで不都合が生じるかどうかは、Rêve  Purのルーツ探索の成功/失敗と軌を一にした問題として、この場で自ずと解決されることになるだろう。是非もない。

……なんだかよくわからないが、スケールのデカい話になってきたような。風呂敷を広げすぎなんじゃないのか、私。
しかしよく考えてみると、『Secret Mirage』を主題歌とするゆかさえ主演の劇は、2時間ドラマの前後編とはっきり言明されている。つまり南北戦争を背景に置いた映画『風と共に去りぬ』に迫るプロットを詰め込むことも不可能ではないはずなのだ。
いかにも贅沢な4時間である。

紗枝はん演じる「華族の娘」とゆかり演じる「貴族の娘」が出会うシーン

さて、ゆかさえが演じた少女たちの衣装をみると、いかにも欧化政策の影響が色濃いので、両家の不和の原因を踏まえようとすると、前日譚としての岩倉使節団と留守政府(1871~1873)についても意識せざるを得ないはずだ。
アニメ『ゾンビランドサガSaga・リベンジ』では佐賀の乱(1874年)を扱っていたから、このあたりの時代背景に詳しいライター氏がCygamesにいるのだろう。江藤新平は初代司法卿であり、フランスからブスケやボワソナードを招聘して民法起草を急がせた人でもあるのだが、この乱の首謀者として首を晒されることになった。ゾンビアイドルのゆうぎりさんがかつて迎えた死(1882年)も、こういう状況からのドミノ倒しで起きた出来事だったのである。

更には、百合ジャンルの源流たる少女小説の登場人物/読者層にも、この事件の影響が全くなかったわけではないらしい。たとえばーー

小さい頃父の蔵書の中の明治維新史や征南奇聞などを読み、江藤新平の乱の一部に心ひかれて、反抗、、の持つ悲壮さとロマンティックな憧憬を覚えたことのある章子には思うがままに同盟休校の音頭のとれる人達が羨ましかった。

吉屋信子『裏切り者』

「華族の娘」と「貴族の娘」、両家の間に何があったか私にはわからないけれども、直接矛を交えなかったにしろ、こういう事件のいずれかで、一族の誰かが死んでいたかもしれない。西南戦争以降、三菱と三井が郵船事業をめぐってガチでやりあったりということもあった。

お雇いフランス人・ボワソナードの日本滞在期間は明治6~28年(1873~95)のことで、ゆかさえが演じた「華族の娘」と「貴族の娘」の未来にも、この人の理想の影響力はある程度ながら及んだものと考えられる。
時系列で言えば彼は来日そうそう、台湾出兵・江華島事件などの国際問題に顧問として助言を求められた。ここに国際法・自然法の学識が活かされたことは歴史的事実である。大久保利通や大木喬任の信任を受けて高まった声望からか、彼の自然法講義は翻訳出版されて広く読まれたらしく、そこではフランス法のみならずローマ法も踏まえた上で、自然法理解の必要性が改めて説かれていた(アストライアとローマ法の関係については[※12]で)。
井上馨の欧化政策や条約改正案が頓挫(1887)したのも、ボワソナードと井上毅の対談内容(※アレなら改正しない方がマシという論調で、内政干渉の危険を考えれば、それはほぼ事実だった)が秘密出版されたことが大きいとされている。……なお、井上毅はこの騒動を脇目に夏島合宿(※偶然だが、ゆかりは夏島アイプロに参加している)で伊藤博文らと憲法草案を練っていた。
明治13(1880)年に公布された刑法(旧刑法典)や治罪法典についても、ボワソナードが草案を書いたものである。罪刑法定主義や拷問廃止、「疑わしきは罰せず」など、そういう基本的なところをコツコツ整備することこそが不平等条約改正への道筋に他ならないというのが、ボワソナードの一貫した信念であった。


ボワソナードを日本に送り出して後、第一次世界大戦を迎えるまでのフランスは、おおよそ「ベル・エポック」と呼ばれる時代に当たっていて、ヴィクトル・ユゴーの共和国葬が執り行われる一方、革命100周年記念のパリ万博が計画され、エッフェル塔が建つ。武田日向の『異国迷路のクロワーゼ』も、この時代のフランスを舞台にしたものだった。

フェスタ・フェリーチェのユニット衣装も「ベル・エポック」と名付けられた。

1860年代の都市計画や、1870年代の普仏戦争・パリコミューンの頃に破壊された諸々からの復興事業なども預かって、パリの風景は一変していた。
面目一新した並木道を眺めたゴーチェが閉口したり、モーパッサンが「エッフェル塔なんか見たくもない」という理由からエッフェル塔直下のカフェでお茶したり(うーん……)、男性の中ではなにやら頑固そうな人の評価ばかりが私の記憶にとどまる。おそらく「亀を連れてのんびり歩ける遊歩道パサージュ」のようなものを想像しがたく思う私の貧困な感性も一因にあるのだろうけれども。
マネは当時のこういう状況をそのまま描き出すつもりでしかなかったそうだが、そのために『オランピア』などが画壇からの批判を浴びた。ボードレールの『悪の華』初版もやはり、「風紀紊乱のかどで」裁判にかけられた。

他方、シャーロック・ホームズSherlock Holmesの活躍もこの頃で、彼はフランス政府の要請を受けて単身渡仏したことさえある。具体的には宿敵・モリアーティ教授を追い詰めにかかっていた時期ーー1890年冬から91年早春にかけてーーのこと(『最後の事件』)だ。
ライヘンバッハの滝から滑落死したように偽装したホームズは、チベットで2年を過ごして後に世界を転々とするが、もちろんフランスにも滞在している(モンペリエで数ヶ月、コールタール誘導体の研究をしていたという)。
ワトスンとの再会後も、1894年にブールヴァールの刺客ユーレを逮捕して、レジオンドヌール勲章をもらったという記述がある(『金縁の鼻眼鏡』)。歴史上この勲章の授与を辞退した文化人は結構いて、たとえばジョルジュ・サンドもそのひとりである。ホームズ自身、ナイト叙任については辞退している(『三人ガリデブ』の記述によると1902年6月)。
シャーロック・ホームズはナイトではないがシュヴァリエではあるーーこういう齟齬は話題に上ることもあって、私自身の感想はどうかというと、ホームズの祖母がフランス人であること、英国への貢献ではシャーロックも認める兄・マイクロフトがおそらくナイトではないこと、その他「オーギュスト・デュパンやフローベールはたしか勲章もらってるよ」みたいなやりとりがワトスン博士との間であったのでは……と、考えている。

ホームズは肩をすくめた。「うん、なアに、その、ほんの少しは役に立っているかねえ。L'homme c'est rienーーl'œuvre c'est tout(人はむなしく、業績こそすべてだ)とギュスターヴ・フローベールもジョルジュ・サンドに書き送っているようにね」

コナン・ドイル『赤髪組合』(延原謙訳)
フローベールの書簡集が刊行されたのは1884年、赤髪組合の騒動が起きたのは1890年。

そういえば「1895年はホームズ絶好調の年」というのがワトスン博士の評価するところで、たとえば『美しき自転車乗り』などもこの年の4月23日土曜日に依頼を受け付けたものだ。ホームズは依頼人ヴァイオレット・スミス嬢の外見を観察して、こんな推理を披露した。

「これはタイピストにない現象だ。彼女は音楽家だよ」
「はい、わたくし音楽を教えております」
「田舎でね、そのお顔色では」
「はい、サリー州のはずれのファーナムの近くでございます」

コナン・ドイル『美しき自転車乗り』(延原謙訳)

注目すべき点はふたつあって、ひとつは舗装路が少ないであろう田舎でも自転車に乗る女性が現れはじめたこと、そしてもうひとつは、成人女性の職業の中にタイピストや音楽教師という選択肢があることである。
「イギリスの話だよね、これ」というのも確かだが、パリ万博でもタイプライターは展示されて相当の注目を集めたというし、ミシュランマンの誕生は1898年頃、ツール・ド・フランスは1903年に始まっている。

「わたしはね、絵のことじゃなくて、まるで神隠しにあったみたいに忽然といなくなった人のことを考えていたんですよ。特にわたしの伯母のクリスピナ・アムバリーの事件を考えていたんです」
(中略)
「それで、家族はどんな影響を受けたんですか」とジャーナリストがたずねた。
「娘たちはみんな自転車を買い込みましたよ。まだ女性のサイクリング熱が盛んだったのに、伯母が、あんなものにかぶれちゃいけないって固く家族に言い渡してたんですよ。

サキ『クリスピナ・アムバリーの失踪』河田智雄訳
ウィーンを経由する列車の旅、偶然乗り合わせた二人の世間話の内容はとりとめなく、
ルーヴル美術館で起きた名画の盗難事件から、身近な失踪事件へと移り変わる。
生まれた時代が違えば、モナリザも裾をからげて自転車を漕いだかもしれない。

もしもホームズがフランスでも人気にならなければモーリス・ルブランはルパンを書かなかっただろうし、黒岩涙香がルパンを邦訳することもない。我々の現代日本も、モンキーパンチの『ルパン三世』や宮崎駿の『カリオストロの城』が存在しないパラレルワールドに分岐してしまうだろう(かろうじてアニメ『名探偵ホームズ』は存在して、ダ・カーポも『空からこぼれたStory』を歌っているような気はするーーこれは余談というより、《青い夜に浮かぶ銀の星座の旋律》にも関わる重要事項というか、佐賀事変同様今回のこの考察が拠って立つ基準点のひとつなのだ)。他にアンリ・バンコランやフランボウ、メグレ警視の話もしたいところだが、思いきって割愛する。


サラSarah・ベルナールが世界各地を興行でかけ巡ったのも、バロネス・オルツィが『紅はこべ』や『隅の老人の事件簿』を書いたのもこの頃だった。都市の改造と自立した女性像の登場どちらが先なのか、「卵が先か、鶏が先か」みたいなことが気になってくる。

彼女、〈イヴニング・オブザーヴァー〉紙のバートン記者は、ひとかどの人物であった。彼女の名刺にはこう印刷してあるーー

    ミス・メアリ・J・バートン
      〈イヴニング・オブザーヴァー〉   

バロネス・オルツィ『フェンチャーチ街の謎』深町眞理子訳

所属する社会の環境が泡沫のようであっても日進月歩であっても、結局のところ人は、自分の名前を旗印にしてひとり総大将を決め込むことができる。女性は男性よりも自覚的に、そのことを知ったのだ(たとえばこの名刺で、社名よりも先に、自分の名前を載せてあるところなど見れば)。
……いや、本当にそうなのだろうか?
泡沫のような環境だからこそ女性たちは日進月歩でありえたにすぎず、誰もがこの「ロンドン」という都市の影なのではないか? 女性を呑み込んだこの《都市の影》は、いずれ男性をも呑み込むことになるだろう。その時、男性がそれを頼りに世渡りしてきたはずの一切のものは剥ぎ取られ、《私》は彼女たちが目撃したものを真に見ることになるのかもしれない。
血筋も経済力も紙切れ一枚のお約束でしかなく、暴力は野蛮であり、論理が折れた物差しなら知識はインテリのこけおどし、さらに情に訴えれば冷笑が返ってくるとなれば、人間は死ぬまで重荷を背負わされるロバと変わりないのではないか。「違う、そうではない」と考える根拠はどこにある?

「この苦難と暴行と不安の循環は何の役をはたすのだ? 何かの目的がなければならない。さもなくばこの世は偶然によって支配されることになる。そんなことは考えられない。では何の目的があるというのか? これは永遠の問題としてのこされる。人知のおよぶところではない」

コナン・ドイル『ボール箱』延原謙訳より。
一言付け加えると、グラナダ版ホームズでは、この台詞が最終回の〆の一言にあたる。
「また最初から見るか」と思い立った人にとっては、次の第一話が『ボヘミアの醜聞』である。

バリツの国・日本から来た例のキンノスケ・ナツメが神経衰弱に追い込まれたのも、そのあたりの事情からなのだろうか。そういえば彼も、自転車を練習していたのだとか。……

しかし、「人知のおよぶところではない」この調査の進捗は当然はかばかしくないことになるから、徒労の人である《私》は息を大きくひとつ吐き、タバコを咥えてふと目を瞑る。そして真夜中、あるひとりの女性ーー故アイリーン・アドラーを思い出す。

ホームズは以前よく、女の浅知恵と笑い囃したものだが、近ごろはいっこうにそれを聞かなくなった。そしてアイリーンのことや、彼女の写真のことが話に出ると、彼は必ず「あのひと」という尊称をもってするようになったのである。

コナン・ドイル『ボヘミアの醜聞』延原謙訳
アイリーンは、ホームズ宛の手紙に写真を同封した時刻を、夜の12時と明記した。

いやいや、パスティーシュの構想を立てている場合ではない。
いずれにせよ50年ほど後には『ローマの休日』でベスパに乗るオードリー・ヘップバーンが話題になり、さらにまた数十年経った頃、シンデレラガールズではSSR[ヴァン・ドゥ・リベルテ]間中美里(フランスでマルシェを取材したり、スクーターの広告に出たりしていた)の表現に取り入れられたといえるかもしれない。

間中さんはイタリアツアーの時にPとトレビの泉を訪ねている。
また、フリルドスクエアにも四人揃って『ローマの休日』を鑑賞したSRがある。

一方、女性が自立心に目覚めたからといって、なにもかもがうまくいきつつあってどこも平和なのかと思えば、そうでもない。たとえば『ゴールデンカムイ』のヒロイン・アシㇼパさんが「新しいアイヌの女」を自負しえたとしても、その父ウイルクの行動の余波が彼女を平穏裡には置かないように。

パリでも時折、爆弾テロ事件が起きていた。普仏戦争と第一次世界大戦の戦間期で、ドレフュス事件などが世を騒がせており、そろそろ各国のスパイSpyが暗躍しはじめる。

 マラルメ宅。彼は若い人がアナーキストであること、彼らが粗暴なデモを好み、書物という、より優れた抗議手段を手にしている者たちの一部が、野蛮な手段に応じることに驚いている。ものを書くことができるほどアナーキーなことはないと、つけ加えた。

ゴードン・ミラン『マラルメの火曜会 神話と現実』柏倉康夫訳
アンリ・ド・レニエの日記、1894年5月8日火曜日の記事を引用した箇所。
ホームズが逮捕した刺客ユーレも、こういうアナーキストのひとりだったのだろうか。

シャンポリオンのロゼッタ碑文Stone解読や、ローリンソンのベヒシュトゥーン碑文解読からはしばらく経っており、シュリーマンはミュケナイやトロイアを、エヴァンズはクレタ島のクノッソス宮殿を発掘する。
こうした状況や発見が、専門的な学者ではない普通の人々にも古代史や言語学、暗号への興味をかきたてた頃でもあった。

ある日、あなたが新聞の通信欄に奇妙な文面をみつけて、それは国際的陰謀に関する暗号だったーーかと思えば、秘密情報局の採用試験かもしれない。そういうエスピオナージュ(スパイ小説)が山ほど書かれる時代の幕開けにあたる。


こうした条件で私に思いあたるフランスの文人といえば、自然主義の作家たちよりは象徴主義寄りのーーボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボーのような顔ぶれであった(そもそもRêve Purという語感は、ゾラの『居酒屋』やモーパッサンの『脂肪の塊』や田山花袋の『蒲団』と並べると、かなり浮いてしまう気がした)。
ボードレールは遺産を凍結されて借金で首が回らず、ブリュッセルに逃げた時期がある(講演旅行がうまくいかなかったり、あまりいい思い出がないせいか八つ当たり気味に貶している)。マラルメのドマン版詩集はブリュッセルの出版社との仕事、そしてヴェルレーヌがランボーを撃ったのもブリュッセルだった。
「ちなったんといえばコレットの『青い麦』でしょ」という事実があって、19世紀末のフランス詩が彼女の好みから多少外れているという指摘があってもおかしくはないのだが、最近ちなったんがヴェルレーヌとランボオの関係に言及するコミュ(モバゲー版MusicJam)を見かけることはできた。

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デレぽによると、ちなったんがユリユリ相手に
フランス文学講義を開いたことも確認できる。

推測だけでは空論が大回転なので実例を挙げると、たとえばボードレール『パリの憂愁Spleen中に置かれた散文詩『二重の部屋』には、こんなくだりがある(太字装飾は私が施したもので、そこだけは原文通りでない)。

Sur les murs nulle abomination artistique. Relativement au rêve pur, à l’impression non analysée, l’art défini, l’art positif est un blasphème. Ici, tout a la suffisante clarté et la délicieuse obscurité de l’harmonie.
             ーーLa Chambre double

壁には一幅の唾棄すべき絵画もない。純粋な夢、分析されない印象と較べれば、限定された美術、実証的な美術は冒涜である。ここでは、すべてが諧調ハルモニアをなすに充分の明と、甘美な暗とに充たされている。
             ーー『二重の部屋』(福永武彦訳)

"Abomination"の一語も重視したいところなのだが、その理由は中盤あたりで

ばっちりRêve Purという言い回しが出てくるので、机上の空論というほどでもなくなってきた気がする。そのうえハルモニアといえば、バレンタインゆかりの衣装にも採用された単語ではなかったか。これはちょっぴり、引き当てちゃった感がある。ガッツポーズ。
……ところが、だ。にもかかわらず、と私は言う。
水本ゆかりは『悪の華』や『パリの憂愁』を読み終えたことがない。おそらく彼女の本棚に、その一冊は存在しないのだ。

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二宮飛鳥との仕事が入るまで、ゆかりはエルドラドという言葉を知らなかった。そして『パリの憂愁』のうち『旅への誘い』は、実にこの黄金境エルドラドを題材にしていたのである。

類稀な国、黄金境と人の呼ぶ国がある、私が古くからの女友達と訪れたいと夢みている国だ。

ボードレール『旅への誘い』(福永武彦訳)

同様に、ゆかりはポオやスティーヴンスンの作品についても、全てを読みはしなかっただろう。もしもそれらと遭遇したなら、きっとそのとき辞書を引いていたに違いない、そんなゆかりちゃんなのである。

影は答えた、
  「月の山々を
のり越えた彼方 影の谷の
  底深く 馬を駆れ、
  雄々しく駆れよ、
黄金の国を求めるならば!」

ポオ『エルドラドオ』(入沢康夫訳)

幸福にも私達すべてはとゞかぬ矢で月を射る。私達の希望は求め得られぬ黄金郷にかけられてゐる。私達はこの地上では決して何事も成し畢へることはできない。興味は、芥子の種のやうに、再び蒔かれるために摘み取られるにすぎない。

スティーヴンスン『黄金郷』エル・ドラアドウ岩田良吉訳

それでもなお『二重の部屋』というモチーフがゆかさえの表現の根底に横たわる理由は、七夕の夜の晴れ(五色の短冊をイメージしたメインの部屋)と雨(傘と行灯が積み重ねられた部屋)を同時に扱った『美に入り彩を穿つ』の3DMVと共通しているに違いない。
その線で解釈すると、おそらく紗枝はんが纏う彩としての『二重の部屋』の謎を解体しないかぎり、水本ゆかりは小早川紗枝と縁をつないでアプリボワゼして《ユニットとしてのRêve Pur》になることができない。

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[きりりさす双眸]小早川紗枝+は、もちろん彼女が羽衣小町の最新の仕事としてお披露目した姿なのだが、この台詞を発してなお泰然とあり続ける(=『きりりと引き締めた花の顔』という仮面を着けて舞台に立つ)ためには、紗枝はんの素顔を見たいがために「あんじょうおきばり」のアイドルたちやPが実在しなくてはならなかったはずである。シューコちゃんは間違いなくそのひとりであった。

では今回、水本ゆかりはそのひとりとして、紗枝Saeはんの傍らに立てるのか?
立つきっかけがあり、立とうとした経緯があり、現に立っているのだ。

これは羽衣小町やRêve Purに限らず、複数のデュオユニットのコミュで姿を変えて現れる、同じひとつの試練の結果であったとも言える。
たとえばミステリアスアイズの『Pretty liar』では、速水奏が高垣楓の素顔を暴こうとして、その一部始終が描かれる。もしもそこで描かれた内容が存在しないならば、「プライドというワンピ」は別の表現で歌われて曲調も違っていたかもしれない。
また、レイジー・レイジーで志希Shikiにゃんがフレちゃんの練習する姿を見て「ほほーん?」と関心をそそられた事実がなければ、『クレイジー・クレイジー』の昼下がりに見た映画も、誰かに気付かれることなく別の内容に擦り替わってしまうはずだ。
同様に、乙倉ちゃんとはーちゃんがお互いを気にせずマイペースで余裕綽々のお仕事をしたならば、彼女たちの持ち歌はSola-irisの『サマーサイダー』ではなくて、快適に室温調整されたくつろぎの時間に相応しい別の飲み物で表現されたことだろう。
『Secret mirage』のコミュに登場する共演アイドルたちが、シンデレラガールズお馴染みのデュオユニット参加者ばかりであったこと(ラブライカ/デア・アウローラ、ミス・フォーチュン/星纏天女、山紫水明/かくりよがたり、サクラ・ブロッサム、ブリヤントノワール、そしてユニゾンデュエット)は、そういう意味でも頼りがいのある人選だったと言えそうだ。


以上のような発想から、私はボードレールその人のみに執着するのではなく、彼に影響を与えた作家、および彼から影響を受けた作家の表現をまとめて一本の線に見立て、それをRêve Pur『Secret Mirage』を読み解く鍵に選ぶことにした。
前者がポオで、後者がマラルメや芥川である。[※5]
しかし芥川は日本人だし、ポオも英語圈の人だから、とりあえずフランス語ということならマラルメの作品から当たった方がよいことになる。

ゆかりの知るマラルメの姿と、ボードレールの『二重の部屋』を線で繋ぎ、さらにポオや芥川の作風に向けて延長する。そこに見いだされた題材と表現によって、私の読み解くべき『Secret Mirage』が定まるに違いない。

……しかし、ゆかりの知るマラルメの姿とは、どんなものなのか。
それはおそらく、ゆかりの父親が好む戯曲と関わっているのではないか。
というのも、デレステ版SR[清純令嬢]+のルーム台詞によると、ゆかりは父の蔵書に目を通している可能性が高い。

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彼はゆかりに「清楚であれ」と望む人だから、『半獣神の午後』や『エロディヤード』詩群を積極的に読ませたがるかは微妙なところである。けれどもこれらの作品が『ボヴァリー夫人』なり『欲望という名の電車』なりと比べてスキャンダラスかというと、特にそうでもない気がしてくる。本棚に置くだけ置いて、あとは本人の意思に任せるくらいが自然なのではないか。そうするとフルート奏者・水本ゆかりとしては、ドビュッシーの『牧神の午後の前奏曲』や『シランクスSyrinx』の印象が先に立つことだろう。
では、『イジチュールまたはエルベノンの狂気』あたりならどうか。こちらも彼の蔵書の中に含まれていて、おかしくはなさそうに思われる。

C’est le rêve pur d’un Minuit, en soi disparu, et dont la Clarté reconnue, qui seule demeure au sein de son accomplissement plongé dans l’ombre, résume sa stérilité sur la pâleur d’un livre ouvert que présente la table ; page et décor ordinaires de la Nuit, sinon que subsiste encore le silence d’une antique parole proférée par lui, en lequel, revenu, ce Minuit évoque son ombre finie et nulle par ces mots : J’étais l’heure qui doit me rendre pur.

これが己れの裡に消え失せた、真夜の純粋な夢である、そして影のなかに姿をかくした真夜の成就の胸に抱かれて唯孤り棲んでいる、まごうかたないその明るさは、机の上に開かれた書物の蒼白さにおのが不毛を要約している、その本に、再びやってきた真夜によって語られた太古の言葉が依然として生き続けていることを別にしては、の、常のごとき頁と装飾、この真夜は次の数語によって終りを告げた無価値なおのが影を喚びさます。我れは純粋に帰すべき時であった。(秋山澄夫訳)

はたして、再び発見されたRêve Purは、明るい深夜/真夜Minuitと無価値なl’ombreを引き連れていた。
これはもしかしたら、ボードレールのいう「すべてが諧調ハルモニアをなすに充分の明と、甘美な暗」と対応しているかもしれない。


"Minuit"は英訳すれば"midnight"であり、深夜わけても時計の針が12時を指す時を意味する。"Minuit"についてはフローベールの『紋切り型辞典』にも項目が設けられていて、彼の言うところをシンデレラの文脈に置き換えることも一応不可能ではない。また、アイリーン・アドラーがホームズへの手紙を書き終えた時刻も夜の12時だったことを、ここで忘れず明記しておきたい。
これは『純情Midnight伝説』にも関わりのある話なのだといえば、冗談と聞き流す方もいるはずだが、案外冗談でもなかったりする……こちらの作詞家も『Secret Mirage』と同じで、磯谷佳江さんである。
ポオは『赤死病の仮面』、ランボオは『地獄の季節』でこの題材を扱っていて、「紋切り型」だったはずの表現は、実のところ書き手次第で鬼にも蛇にも化けてしまう(それがいわゆる型破りということなのだろうか?)。
海外の作品どころか、本邦で奇書と呼ばれる機会の多い夢野久作『ドグラ・マグラ』でさえ、この作法を物語の枠に用いた。

 …………ブウウーーーーーーンンンーーーーーーンンン………………。
 私がウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜蜂の唸るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。
 それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、またもウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。
 私はフッと眼を開いた。

夢野久作『ドグラ・マグラ』

……蜜蜂のうなりが聴こえるその近くにはきっと、花や巣箱があるに違いないと考えるのは、おそらくそこまでおかしな発想ではないだろう。
ただし、その予感に導かれて音のする方へよちよち歩いていけば、蜂がヒトの死骸を巣箱代わりにしていることもあるーーそればかりか、この死骸からかろうじて判別できる身体的特徴が、たとえば私自身のそれと奇妙に合致していることさえないわけではない(詳細は省くが、アイラ・レヴィン『死の接吻』もまた、そういう作例のひとつなのだろう)。
一般的にはSakuraの樹の下には屍体が埋まっている」と言った方が、通りはよさそうだ。……いや、こういう話をするのは、まだ早いだろうか? ともあれ、この件についてフローベールが書けば、次のようになる(彼の弟子であるモーパッサンにも短編『椅子なおしの女』があり、ガラス瓶、よく吠える犬、そして椅子などの扱いに思わせぶりなところがある)。

 どこか遠方で、犬の吠えつづける声がながく尾をひいていた。
「犬の鳴いているのが聞こえますか」と薬剤師がいった。
「犬は死体をかぎつけるというてな。ちょうど蜜蜂と同じだな。蜜蜂は人が死ぬと巣から飛んで出てくる」
 オメーはその迷信に反対もしなかった。また眠りこんでいた。

フローベール『ボヴァリー夫人』生島遼一訳

言い訳めくようだが、私がこのように「いつかありうる/かつてありえた自分の死」について述べたがるのは、別にこれを読む方の気分を害そうだとか、その他の露悪、露出趣味の類によるのではない。
あえていうなら憧憬/憂愁と言い慣わされるものの影響であって、"Minuit"について語る上での必然からそうならざるをえないようになっているのではないかと、私自身も首をかしげているほどだ。

 どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。

梶井基次郎『桜の樹の下には』

仮におまえさんにおれの考えそのものをーーこの件についての考察といっておこうかーー開陳するとなると、おまえさんの生涯二回分の時間がかかる。それほどじっくり考えたんだ。それでもおれにはわからない。

ウィリアム・ギブソン『ニューロマンサー』黒丸尚訳

ああ……ぜんぜん理解しない
……という事を………
理解したよ………

荒木飛呂彦『ストーンオーシャン』11巻 ホワイトスネイク-追跡者- その5

ミステリのオタクっぽく言えば、このような状況からはバールストン・ギャンビットの気配がする。チャンドラーも『長いお別れ』で「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」と書いている。若き日のアカギの登場第一声も「死ねば助かるのに」だった。

「灰とドレス」「檻と羽衣」という組み合わせは抽象化すると「試練と褒賞」「夢と現実」などと交換可能であり、試練と褒賞(夢と現実)が反転するタイミングでは死のイメージが浮かび上がる。

グリム童話には『旅あるきの二人の職人(KHM107)』のような話がある。また、(三十年戦争の頃の)脱走兵たちを主人公にした類話もあって、いずれにせよ彼らの試練と褒賞が反転する場面には絞首架が伴う。

絞首架もやはり「舞踏会の広間であり囚人の檻であるもの」すなわち世界の取る姿のひとつである。

『プリティ・グールズと《おてんば姫の戴冠》』
ホームズもたしか、タイバーン・ツリーの近くを通りすぎたことがある。

お気付きの方もおられましょうが、《ゆかりちゃんは、顔が水で濡れたゆかりPを見るとちょっと素敵だなと感じ、有香ちゃんが素手でスイカを割れると嬉しい》というのは、《アルテミス・タウロポロスの巫女は、漂着したギリシア人の頭に灌水を施して贄を選び、女神アルテミスはその首の刺さった杭を嘉納される》というのと、ほぼ同じ形をした影を伴っているのです。

『VelvetRoseと《供犠の祭壇》』

19世紀末はまだ電灯が普及しておらず、夜中に胸騒ぎがして起き出した時に頼れるのはもちろんランプやロウソクの灯りなのですが、「でも真っ暗闇だとロウソクに火をつけるのも一苦労ですよね?」という問題を解決してくれるもののひとつが、暖炉に残った燠火だったと思われます。
そしてこの暗いサロンから立ち去るとき、彼/彼女は灯火を息で吹き消すことになるわけです。……仮に魂というものがあるとして、それが人生という舞台から立ち去るとき、肉体という芯から命の火を消してゆくかのように。

『水本ゆかりと《エルドラドの蝶》』

私の望む私の死/殺害方法が傍目に見ていかにも見苦しいことは、他方2DリッチMVで紗枝はんが選ぼうとした孤独が憂愁に満ちていることや、美しいふたりの死にどこか憧憬の光が差していることの裏返し(思いきって《反宇宙》と呼んでもいい)なのだと、そういう解釈もできる。この違いは、いわゆる「セレンディピティ」の積み重ねによるのではないだろうか。
人によってはそれを「徳」とか「巡り合わせ」とか言うかもしれないが、私は宗教に疎いので、それらの語彙の許容する幅がわからない。
つまり「外道には外道の言葉しか話せない」のだろう。


"l’ombre"はヘンデルの『オンブラ・マイ・フ(※イタリア語)』に出てくるような昼寝にもってこいの木陰よりは、どうやら影絵Silhouetteのような操作によって生じる影/像を含意しているらしい。……らしいのだが、それを「私によって演じられている私のようなもの」や「私ではないものに操られている私とは思えないような私」と考えるにしても、たとえば「そうありたい/なかったことにしたい私」だとか「かつてそのようだった/実際はそうでもない私」だとかいった要素をXY軸上に配置して固定しようとすると、事の本質を見失いかねない。
というのも、影絵芝居の筋書きはアクシデントやアドリブによって予想外に進行することもあるし、影を演じる/眺める本人の心理は劇の外の時間の経過に左右されてしまうことに因る。

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たとえば、紗枝はんの劇中の役柄に対する心構えや印象は、劇の外のゆかりとの心的距離にも影響を及ぼし、また及ぼされる関係にある。
劇によって触発される動揺こそが真に狙っている獲物Beast in Viewだったのではないかと我に帰ったその瞬間、"l’ombre"は無価値になってしまう。
(※今このとき私が思い浮かべるのは、黒い画面の上をビリヤードの玉のように跳ね回る4つの点を結んだカラフルな線が、時間の推移にあわせて描く図形ーースクリーンセイバーのようなものだ。刻々と形を変える図形それ自体に意味はなく、その存在理由は単にモニターの焼き付きを防ぐことである。にもかかわらず、モニターの改良によって焼き付きがほぼ起こらなくなっても、まだスクリーンセイバーを使う人がいる。あるいは離席中の機密保持のために、またあるいは、ぼんやりと画面を眺め続けるために)
たとえば『ハムレット』を好む人の中に、その劇中劇である『ゴンザーゴ殺し』について多くを述べられる人が、どれほどいるだろうか? かなりの割合の人が、ゴンザーガ家の紋章を見分けることさえできないだろう。また、濃い目のジョジョオタクでも、グリーン・ドルフィン・ストリート刑務所の紋章やワッペンは記憶にないかもしれない。

しかし「貴族の娘」の記憶には、実家と対立するその華族の家紋が焼き付けられている。
《取るに足らぬ些事》と《切ろうにも切れない因縁》の違いは、どこにあるのだろうか?

……その解答例のひとつが「記憶」であり、また「死」にあたるのだけれども、
いずれの答えもそれのみでは完全ではない。

こういうのは別に批難ではなくて、どれだけ優れた頭脳を持つ人であっても当たり前に存在している盲点なのだ。

犯人をあてたかったら、人形を操っている糸の動きと、その糸の端をにぎっている指先に注意するにかぎる。

鮎川哲也『薔薇荘殺人事件』の犯人当て企画によせた花森安治の解決篇

問題は、私が「犯人を当てたいだけの読者」ではないことである。
ゆかさえの秘密は秘密として伏せておいた上で、しかし彼女たちの歌や踊り、芝居の細部に至るまで、できる限りの情報を集めたい。
言い換えれば私は、完全品ではないジグソーパズルのピースを事情が許す限りまで並べきることで、残った空白を【彼女たちの秘密】と名付けてそっとしておきたい人でもあり、その願望は二重に分裂している。
私自身はそれをおかしなこととは思わないが、「普段帽子をかぶらない人が帽子収集狂マッドハッターの部屋を見たらどう思うか」というのと同程度に、傍目に見て奇異に映るだろうと想像がつくのである。


Minuitとl'ombreについて考えていくうち、私はスクリーンセイバーに続いてカメラ・オブスキュラという品があったことを思い出した。別の考察ではファンタズマゴリアを持ち出したが、他にゾエトロープというものもある。岡崎先輩のPさんやアーニャPさんならプラネタリウムを連想するだろうし、柚Pさんにとってはパラパラマンガがそれにあたるのだろう。
要は、この手に掴めないはずのSimulacraを映しだす仕組みひとつで、いくつもの妖しげな小道具を想定することができた。
有名なところでは『ニューシネマ・パラダイス』なども、そういうテーマを扱った映画のひとつだし、既に引用した筒井康隆『文学部唯野教授』にもそういう仕掛けがある。更には、ジョジョ第六部『ストーンオーシャン』に出てくるスタンド・ヘビーウェザーの能力を説明する中で、「サブリミナル効果が云々」という話になるのも、根っこは同じと思われる。

ここに至っては「純粋な夢」のみが問題なのではなく、夢と現実が『二重の部屋』を介して、それらを眺めている/そこにいる「私という主体」も二重にならざるをえないことの重要性が浮き彫りになる。
「私」が二重になるための仕掛けが、たとえばであり、またである。

甲高い「皮肉イロニー」は 俺の聲の中にある
この眞黑な毒汁は 俺の血であり、
鬼のような女が顔を映して
眺める 陰惨な鏡は 俺だ。

ボオドレール『我とわが身を罰する者』鈴木信太郎訳

夜更けの明るい部屋で、に「私」のような姿が映りこむこともある。これはアイマスと無関係なほのめかしではないはずだと私は考えるーー少なくとも、既にちなったんのSR[ナイトエレガンス]+が存在する以上は。

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[ナイトエレガンス]ちなったんの文脈は[サプライズ・テンポ]ゆかりにも受け継がれている。

洞窟暮らしや穴居生活の頃を含めて考えれば、人類史上において窓ガラスが比較的新しい発明なのだということは、ドイツ語の"Fenster"と英語の"window"を比較した結果からも突き止められる事実(古ドイツ語・古英語では同じ語源を持つ単語wind-だったが、ガラスと琥珀の違いに疎かったゲルマン人にとって驚くべきものだったローマ帝国の窓ガラスは母語で表現できないものであり、ラテン語を借りてFensterと呼ぶようになったらしい。ラテン語から派生したというフランス語でも、窓はfenêtreと綴られる)であって、その語の本来意味するところは「風の吹き込むような裂け目」だったという。
そして、熊・鹿・狼など獣の皮なり、縁日のお面なりをかぶってみても実感できるように、その眼にあたる部分もまた「裂け目Split」である。

藤田茜さん考案のルームアイテム、おめんやさん。

なんにせよ、《眼は心の窓》という比喩が、いわゆる夢や詩の論理から文字通りの現実として受け止められると、鏡は「暗闇でギラギラ光る眼そのもの」としても描かれるようになる。
デレステの楽曲でいえば、『廻談詣り』の演出が印象的だったという人は多いことだろう。ちなみにホームズものでこのテーマを扱った短編といえば、『サセックスの吸血鬼』がある。乱歩が『屋根裏の散歩者』や『鏡地獄』を書いたのも、このあたりの事情からではないだろうか(窃視癖や出歯亀/ピーピングトムなどエログロの側面ばかりが注目されがちだが、この表現と対になる綺麗な側面だけを切り出せば、ベルギーチョコでも有名なゴディバ夫人の像が現れることもある)。

 この窓に、ほんのしばらくりかかろう……出発の時が迫る。それが時を移さず来ればよい……まさに終ろうとする夜のうちに、幸福の無限の可能性に向って身をもたせかけていたいものだ。

ジッド『地の糧』今日出海訳


夢は明暗にわかれて絶えず入れ替わり、瞼もこれに対応して開いたり閉じたりする。Pが目を閉じたら、ゆかりが隣でフルートを吹いてくれるーーこれは私にとって大事な約束で、おそらく『Secret Mirage』で歌われるところの「青い夜に浮かぶ銀の星座の旋律」とも無関係ではないだろう。むしろゆかさえによってそれを実現しうることの前兆として、Pの前に現れたゆかりの可能性のかけらだったと、私は考える。

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裂け目から風が吹き込むと、笛のような音が聴こえる……

ボルヘスの『伝奇集』の内容を真に受けてみると、交合copulationもやはりその種のものであるらしい。

廊下の遠い奥から、鏡がわたしたちの様子をうかがっていた。(深夜には避けられない発見だが)わたしたちは鏡には妖怪めいたものがあることに気づいた。そしてビオイ=カサレスが、鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい、といったというウクバールの異端の教祖の一人の言葉を思いだした。

J.L.ボルヘス『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』鼓直訳

「交合がいまわしいとはどういうことなんだ?」……という人もいるだろうけれども、それは好ましい形式で営まれる人間どうしの交合のみを想定しているからかもしれないし、他の理由があるのかもしれない。その一例として、カタツムリSnailの交合について感想を述べた空条徐倫の台詞は、以下の通りである(※これは私がたびたび言及するフェアヘイレンさんの《黒薔薇に埋め尽くされた世界》とも関わっている。ホームズも『瀕死の探偵』で、牡蠣が海を埋め尽くすというマザーグースのような光景についてまくし立てたことがある)。

出会った相手誰とでもセックスする生き物って
ちょっとうらやましいっつーか
いや…違う! オゾマしいっつーか

荒木飛呂彦『ストーンオーシャン』15巻 ヘビー・ウェザー その6

ポオの作品で言えば、『モレラ』がこのテーマを扱っているようだ。産後すぐ身罷った妻の遺体が墓から消えたことで、自分と妻の間に生まれたはずの娘が、(奇妙な言い回しで恐縮だが)娘に接ぎ木された妻であるかのように見えてしまう。

ここで私がいう交合は、単に性交という場合もあれば、その後に想定される親子関係のいざこざ、果ては一族の歴史や使命、師弟関係にまで広がっていくことがある。
たとえば伝説によると、不死鳥ポイニクスは親鳥の死体から子の世代が生まれるとされて、「父鳥と母鳥の交合から雛が生まれる」と書かれたことがない。そして不死鳥の雛の最初の仕事は、自分のゆりかごであり親の墓でもある没薬の巣を、太陽の祭壇に供えることなのだという。私はこのような火葬もまた交合のうちに含めたいので、辞書通りの用法から逸脱することを避けられない。
なぜそうしたいかというと、「自分の腹を痛めて産んだ」わけでもないのに、それが喪われることが自分の身を切るようにつらい何かが世の中にはある(あった)のだと、私が信じているからに他ならない。単に一存である。
にもかかわらず、私の願望にすぎないそれは、ボルヘスの語り口と、不思議に平仄のあう部分がある。

ビオイが思いだしていったのは、交合と鏡はいまわしいコピュレイション・アンド・ミラーズ・アー・アボミナブル、だった。『百科事典』の文章ではこうである。それらグノーシス派に属する者にとっては、可視の宇宙は幻想か、(より正確には)誤謬である。鏡と父性はいまわしいミラーズ・アンド・ファザーフッド・アー・アボミナブル、宇宙を増殖させ、拡散させるからである。

J.L.ボルヘス『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』鼓直訳
(太字装飾は原文ママ)

ボルヘスが二重の引用(ビオイ・カサレスの文と百科事典の文)によって示した"abominable"という言葉の意味は、ボードレールの『二重の部屋』中の一文ーー"Sur les murs nulle abomination artistique."と並べて様子を窺うのに適しているのではないかと、私には思われた。

……

すると私のいまわしい部分というのは、父性であるのかもしれない。私が聞きかじった範囲でいうと、これは比喩的な意味で「紐帯」と呼ばれることもあるようだった。大雑把にいえば「母と子を繋ぐへその緒でもないのに、そう思わせにかかる架空のもの」である。理想と現実が繋がっていないのに、繋がっていると言い張って、まるで人の話を聞かないようなものだ。ララァが母親になってくれるかもしれないと思ったシャア・アズナブルさながらと言えるだろうか。そしてもうひとつ付け加えるなら、それは不死鳥の親子関係のようでもある。
父性が持つ「環境を己が支配下におきたがる」という特徴を迷惑なやり方で振り回す人は、すなわち「へその緒」が切れない人、幼児的万能感が抜けない人であって、その点では紅顔の美少年も萎びたお年寄りも変わるところがない。時には女性のはずの老婆でさえ、槍玉にあげられることもある(ただし、詩人その人の同類として)。

 この可愛らしいおちびさんを見ると、皺だらけの老婆は心の中が明るく晴れ渡るのを感じた。誰もが機嫌を取ってあやしてやるこの可愛い児は、老婆と同じように花車きゃしゃで、また同じように歯もなく髪もなかった。
 そこで老婆は子供の側へ近寄り、顔に微笑を湛えながらばあと言ってあやそうとした。
 ところが子供の方は、お人善しの女があまりに年を取りすぎていたので、怖くなって彼女の愛撫の手の中で身をもがき、家中に聞える程ひいひいと泣声を立て始めた。 

ボードレール『老婆の絶望』福永武彦訳

私がいう「へその緒」にあたるものの一例は、たとえばサキの『スレドニ・ヴァシュター』において、余命5年を宣告されたコンラディン少年が思い描く理想的生活などである。少年はこの「へその緒」を切られるのがイヤさに、目先の邪魔者である従姉のデ・ロップ夫人を嫌って「お願い、スレドニ・ヴァシュター(無断で飼いはじめたイタチの名前)! あいつを始末して!」みたいな儀式をおっぱじめてしまう。しかし唯一の親類で後見人にもあたるこの従姉の亡き後、彼がどうなってしまうのかは読者にわからない。

「あの子には誰が話すの。わたしは絶対にごめんですよ」とかん高い声で誰かが言った。一同がそのことを相談している間に、コンラディンはもうひときれパンを焼いていた。

サキ『スレドニ・ヴァシュター』河田智雄訳

彼の理想的生活への道は結局もうじき断たれることになるから、つまりイタチのスレドニ・ヴァシュターは、従姉の魂の緒のついでに少年の「へその緒」もその爪で切断してしまったのだとも読める。後に待つのはイタチがそれを象徴しているような、食物連鎖と弱肉強食の自然界である。少年が強者で医者も誤診だらけのヤブだったとすればそれでもうまく行くのだろうが、コンラディン君の視野という枠から意図的にはみ出さないサキの三人称は、客観を装った《信頼できない語り手》でもある。少年の好物であり理想のひとかけらにあたるバタートーストは、マーフィーの法則だかなんだかによれば、いつバターを塗った面を下にして落ちるか知れたものではない。
コンラディン君のような性格は、フランス語圏ではおそらく不思議な後光のようなものを帯びたアンファン・テリブルのひとりということになるかもしれない。しかし冷静になれば単に、ミステリ読みがたびたび顔を合わせる隣人のようなものとも言える。
このことはリチャード・ハルの『伯母殺人事件』なりアントニイ・バークリーの『試行錯誤』なりを読めば、およそ理解してもらえるだろう(映画化された本邦のものに限定しても『容疑者Xの献身』など大ヒット作は多い)。それに、もしデ・ロップ夫人の不審な死についてスコットランドヤードがミス・マープルの意見を仰いだとしたら、ミス・マープルは少年の手口から何から、セント・メアリ・ミード村の誰それに例えてざっくり解説してしまうのではないかという気もするのである。そしてまた、事件に巻き込まれたのがリュウ・アーチャーなら、彼はおそらくこんなことを言うだろう。

君のような人間は生活をきちんときわめない。それで週末を死体といっしょにすごしたりするのさ。おなじ部屋に死んだ男といて、食物の料理をするのはスリルがあったかい?

ロス・マクドナルド『人の死に行く道』中田耕治訳

「このへその緒を切られるぐらいならむしろ去勢することを選ぶ」と書けば嘘のようだが、世の中には事実そういう人もいて、例を挙げれば「立身出世のために宦官になる」とか「いつまでも少年の声で歌うためにカストラートになる」とか、いろいろある。カストラートは迷惑ではないが、もしも宦官が専横を極めて収賄と蓄財に励めば、必然的に国が滅びることになる。古い王朝が滅びてまた新しい王朝が興るさまは、やはり不死鳥の如しと言えるかもしれない。
私に彼らと同じ生き方はできないし共感もあまりできないのだが、それは同じ理想を共有していないからなのだろう。ただ、伯夷・叔斉が「周の粟を食らわず」と宣言して餓死したことについては「筋を通したんだな」と思っているわけで、これは共感しているうちに入りそうだ。ついでにいえば、多様な菓子パン・惣菜パン類が店頭に並ぶ現代日本で、バタートーストが垂涎もののおやつに思える人は少ないはずだ。私にとっても、それはおやつというより朝食メニューのひとつである。
どうやらシンデレラガールズでは、「病気による制限からの解放」をフライドポテトが象徴しているらしく、こちらについては私の共感度もやや上がる(フランス語でジャガイモは地のリンゴpomme de terreというが……辻野あかりはこの偶然となにかの形で関わるだろうか?)。「家康公は鯛の天ぷらを食べ過ぎて死んだ」とか「力道山は手術直後に差し入れの寿司を食べたせいで死んでしまった」とかいうお話に至っては、ほぼ疑うことなく受け入れていたほどの単純さである。
私は今「あのパンはうまいからな……(ジョルノ・ジョヴァーナ談)」みたいな台詞ひとつで、ウソみたいな話の流れを受け入れ、マンガゲームアニメを楽しんできたことを告白しなければならない。……しなければならないということもないか。しかし余談気味のようで割と本筋の話、「パンがうまいなら仕方ない」という気持ちに寄り添ってくれそうなアイドルとしては大原みちるがいるし、三村かな子にもまた「おいしいから大丈夫だよ~」という、アドリブから生まれた名台詞があるわけなのだ。ゆかさえももしかしたら、Kawaiiからall rightなのではないだろうか。
なぜこんな話をここでするのかというと、《伯夷・叔斉にとっての殷王朝(の禄)》と《コンラディン君にとってのバタートースト》は、倫理観という色眼鏡さえ外せば、どちらも同じ形の影に見えるからである。これらに対して《王侯将相いずくんぞ種あらんや》といって易姓革命を目論む人もあれば、《バタートーストはバターを塗った面を下にして落ちる》と言う人もあるのだと、私は指摘したい。
また別の見地に立つなら、私と彼らは、球体と円柱と円錐それぞれの丸い影ぐらいには似ている。実体として存在しないこの「丸い影」を見いだしてしまうことが共感で、そこにありもしない意味まで付与するなら、これも架空の「へその緒」なのだろう。嘘や罠などは、この影の操作によって、実体である球と円柱と円錐の、円ではない側面を見せないようにすることであるとも捉えられるかもしれない。
影芝居のあとに「実はあの丸い影はこういう形をしていたんですよ」と物それ自体をお目にかけるまでが、オーソドックスな推理小説の流儀である。探偵が謎を解明して読者の喝采が得られるか幻滅されるかは、やはり人それぞれ、作品それぞれということになる。
実体と影の関係は、現実と理想の関係に似ている。理想を抱える人はいつも「足元がお留守ではないか」とチェックを受け……時には《可視の宇宙は幻想か、(より正確には)誤謬》ではないかと突っつき回されるはめになるのだろう。そして突っつき回す側の感想として、「鏡と父性/交合はいまわしい」のような格言が出てくるようだ。
考察をするオタクもおおよそは似た境遇にあって、私のような人種からみると《脚本の人そこまで考えてないと思うよ》というのが件のグノーシス派的なご意見の代表格である。このあたりの話を面白おかしく書いて、架空の本についての書評を小説として仕上げる作家も稀にいる。
実現不可能なことで有名な殺人トリックの数々も、このようなやり取りの中で知名度を高めたと考えてよさそうだが、ここで列挙するのは控えよう。

My-Style Revoのイベコミュにも、この種の争点は現れる。
こういう構図のなかに私自身を嵌め込むとしたら、美玲ちゃん側に収まることになるだろう。
ふたりの差異は、接点のなさよりも役割分担の可能性を提示している。

ともあれ、性別や個体差を越えた理想的生活の「割り符」か、世代を越えたなにかしらの理念の「割り符」かーーという発想を下敷きにするなら、つまり交合は「割り符」なのだという考え方もできると思う。これはたとえば「男女の営みで愛情を確認しあう」のような常識的な言い回しと、相違するものではない。ただ、その表現でカバーする範囲が、ちょっと広いのである。
このように《交合》という一語がカバーする範囲を広げるとどういうことがおきるかといえば、たとえば「佐久間まゆとその担当Pの関係もまた、交合の影響下にある」というようなことが言えるはずである。私がふたりの間に幻視する「運命の赤いリボン」はそういう類のものなのだが、実際にまゆPさんにこういう前置きの長い話を振ることは躊躇われるので、解釈が一致しているかどうかはわからない。グラブルに登場する六竜・フェディエルあたりなら、「つがいかや?」で済ませてしまうことだろう。
更には星花Seikaさんのスシローコミュに登場したバイオリンでイルカを呼ぶ少女もまた、このような(ここで私が定義したような意味においての)交合と関わっていたことになる。


そしていよいよ大詰めになるが、変装(仮面や化粧のような道具立ても含めて)偽名を名乗ることも、ホメロスの昔から今も変わらず、その種の仕掛けのひとつに数えられるはずだ。
ところが自分を定める根拠が自分にはなくその外部にある場合、実は変装した状態こそがその人に相応しい普段着で、今まで彼は仮装だか部屋着だかで外をうろついていたようなものなのだーーということにもなりかねない。
偽名と本名の関係にしたって、記憶があやふやになったり顔に怪我をしたり戸籍が焼けたり病院に手違いがあったりするだけでひっくり返ってしまう(※特に推理小説では。セバスティアンSébastien・ジャプリゾの『シンデレラの罠』なり、チャンドラーの『長いお別れ』なり、横溝正史の金田一シリーズなり、例は無数にある。ジョジョ6部『ストーンオーシャン』のウェザーもまた、そういう人物の一人と言える)。
ホームズものの『唇がねじれた男』では円満解決で済むけれども、スティーヴンスンStevensonの『ジーキル博士とハイド氏』ならどうか。だんだん怪しくなってくる。
ガストン・ルルーもこの手法を熟知しているフランス人作家のひとりで、今では『黄色い部屋の謎』のルールタビーユ君より『オペラ座の怪人』で知られているかもしれないのだが、この怪人の最期はどうだったか? 
分裂してしまった彼らの採るべき解決策は、社会Societyや倫理道徳を破壊するか、自分の分身を葬り去るかを選ぶことである。

お前は………
自分が『悪』だと気付いていない…
もっともドス黒い『悪』だ…

荒木飛呂彦『ストーンオーシャン』16巻 ヘビー・ウェザー その12

前提からして、彼の理想の自己像は社会を離れては実現不可能な場合が多いはずだから、まずは《良心ある自分》と《それを離れた自分》が取っ組み合いで椅子取り合戦を始めるのも自然なことかもしれない。それで勢い余って椅子が壊れると、ふたりの自分はともに立ち去らざるをえず、社会の側から見ればこれを自殺や不審死、失踪などとして処理するしかないのだろう。

こうしてとうとう、近代的自我の病理としてのドッペルゲンガーが現れた。

ボードレールがこのアイデアを重要視するに至った主な原因は、結局パリにおける彼自身の生活だった。しかしそれを描くに当たって意識せざるをえなかったものもないわけではなくて、ポオの『ウィリアム・ウィルソン』がまさにそのひとつだっただろう。

まことに僕は夢幻の中に生きていたのではあるまいか。そして今やこの地上あらゆる幻覚のうちにも、もっとも妖しい幻覚の恐怖と秘密の犠牲として死の前に立っているのではあるまいか。

ポオ『ウィリアム・ウィルソン』中野好夫訳

どうもこの中には、Secret Mirageの妖しくも恐ろしい側面が記されているように思われる(幻覚、秘密……死の前に立つ)。
ちなみに『ウィリアム・ウィルソン』の舞台のひとつであるオックスフォードで、ゆかりも仕事をしたことがある(モバゲー版のLIVEツアーinイギリスで、演奏会ユニットとして参加)。両者にとって、誕生日は重要な要素だったようだ。

僕はある偶然から彼が一八一三年一月十九日の生れであることを知った。ーーそしてこれはやや驚くべき暗号である。なんとなればその日こそはまたまさしく僕の誕生日だからである。

ポオ『ウィリアム・ウィルソン』中野好夫訳

ラファエル 「まったく同じ誕生日だなんて!」
アストリッド「同じ年月日に誕生するのは国内では2230人、
       世界では24万4000人」

『アストリッドとラファエル 文書係の事件簿』シーズン1 第7話
字幕翻訳・井村千瑞

ボードレールと同じくポオの影響を受けたマラルメも、発端となる動機は違えど、結局この題材に挑まざるをえなかった。
既に引用した通り、彼の主人公であるイジチュール君は、おのが無価値な影(この考察ではドッペルゲンガーとも呼んでいる、二重の部屋のいずれかで演じられた己)を喚びさます。
影それ自体は確かに無価値なのだろう、しかしこの無価値には但し書きがついている。「真夜によって語られた太古の言葉が依然として生き続けていることを別にしては」というのがそれである。
マラルメに限らず、漱石も奈良の鐘のような「情緒の影を嬉しがった」と『三四郎』に書いている。柿が好きだった正岡子規の影響もあるだろうか。奇遇ながら、ゆかりにも柿をテーマにしたR[フルーティオータム]+がある。
『ストーンオーシャン』の場合でいうなら、ウェザーは死してなお、ウェザーリポートのスタンド能力をおさめたDISCを徐倫たちに託している。

太古の言葉、情緒の影、ウェザーリポートのDISCーーそれらは『Secret Mirage』において、ゆかさえにもっとも相応しい形の表現として整えられ、「青い夜に浮かぶ銀の星座の旋律しらべになっただろう。

例外的なその旋律が奏でられる「青い夜」とはすなわち、"Minuit"である。
だらだら書けば「ミッドナイトブルーなこの深夜」みたいな感じになりかねないところをバッサリ「青い夜」と書いたに違いない。素敵。


『イジチュール』を引用・翻訳した場合、蒼と青の使い分けには基準が設定されることになる。蒼は蒼穹Azurや真っ白な原稿用紙と関係して、叶わぬ願いChimèreを託す場面で用いられ、青は願いChimèreを託した行為の先にたどり着くゼロ時間的な深夜/真夜Minuitーーすなわちシンデレラガールズにおいては時計の針が12時を指す時と関わる。[※6]

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同じくマラルメの『彼自身の寓意であるソネ』では肯う夜La Nuit approbatriceと表現されたものが、やはり「青い夜」であろう。
これは「シューコちゃんが歌う『青の一番星』はなぜ青いのか」「音葉さんが楽譜に『ここは青色に』とメモするのはどういう意味か」「グラブルで凛ちゃんの奥義ヴォルト・オブ・ヘヴンは、なぜ『蒼穹の果て、私はここにいる』ことを宣言するのか」というような、幾つかの疑問にも答えうる観点に違いないと、私は考える。

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たとえば夏島アイプロで由愛ちゃんが描くスケッチブックSketch bookの内容は、ゆかり自身のアイプロの思い出と重なることで、共感覚をもたないゆかりにも「青い夜」の旋律を予感させてくれたのではないかーーという風に、かつての私は考察したこともあった(『水本ゆかりと《情熱の赤》』のこと)。

そして仮の話ではあるのだが……"ptyx"をはじめとして意味深な語句の頻出するこのソネが、いわゆる『-yxのソネ』とあわせてメモ用紙に走り書きされて、ゆかりパパの所有する『イジチュール』に挟まれていたとしたら、私の想定する状況は完璧に整備されたことになる。
ゆかりをスカウトするにあたって水本家を訪れたPも、あるいはその本を手に取ったかもしれない。……もちろんそれが公式というわけではなくて、10周年記念動画『ETERNITY MEMORIES』に登場するコンダクター(※ちひろさん)がいうところの「過去と未来の双方向に無限」という言葉が許す範囲の話である。



夜ともなれば、「私」とその影を見分けることは、それほど容易ではない。しかも影は「私」の背格好を無視して大きくも小さくもなり、時に数えきれないほどの分身を持つこともあるだろう。

夢のなかでさえ、その男には顔がなく、あっても、それはきまった顔ではなく、かれの眼の前でぼうっと消えてしまうような顔であった。

スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』田中西二郎訳

ヘルメル  お前のためなら、おれは喜んで昼も夜も働くさ、ノーラ、ーー
      お前のために、悲しみや苦しみに耐えてね。だが、愛するもの
      のためにだって、自分の名誉を犠牲にする者なんかいやしない
      んだ。

ノーラ   何万、何十万という女はそうしてきたわ。

イプセン『人形の家』原千代海・訳

ある時、誰か(紗枝はんでもゆかりでもよい)が「惹かれてしまうこと それは罪」なのか恐れつつつ「清らなままで抱きしめあえたら」と願ったとする。その気持ちは相手に「知られたくない」ので、「どこにも私 行きたくはない」。
この像を仮にAとする。

Aの鏡写しになる反転した像は「だけど知りたい」し「どこにでも行ける」誰かが、「儚くていい 美しくなくてもいい」ので罰を恐れることなく「どうか許さずにいて」と願う。
この像をA'とする。

Aが「私」でA'が影、それぞれが天秤の左右に載って量られるようでもある。
しかしたとえば《華族の娘》が「AもA'も、どちらも同じうちやね……」と感じて自分自身(AA')を追放した時、《貴族の娘》というまた別の「揺れるココロ(BB')」がガラスを叩き割って現れるかもしれない。
さらにふたりの娘たちが私たちのココロはひとつなのだ(AA'BB')と通じあえた場合にしても、またもや彼女らを呑み込もうとする影がある。
劇中におけるそれは「ふたりの家の事情」だけれども、その全体像は時代の風潮というわけのわからないもの、いつからとはなくふたりが巻き込まれていた人と人との合意/反発の集合体……都市の影Virtual Insanityである。
さて、「私」は都市の影だろうか。それともそうではないのだろうか?

影に詳しいウマ娘、マンハッタンカフェの証言。
ゆかさえは、それぞれ役柄という影の中に没入して、お互いの姿とみつめあう。
するとそのとき「相手の背負うもの全てが見える」……。マジか。

しかも、ゆかりや紗枝はんがこのふたりの娘を演じた結果、出演者や観客が当時の人間ではないことによって、時代の風潮さえも越えたなにかがついに呼び覚まされるかもしれない。つまり「太古の言葉」だとか「情緒の影」だとかにも等しいそれがーー「銀の星座の旋律」が、とうとう「青い夜に浮かぶ」のではないか?

「沈黙と告白」「畏怖と冒涜」という相反する要素が、停滞Stagnationという交点で、ようやく釣り合いをとっている。「停滞」とだけ言えばわかったようなわからないような話だが、ボードレールにとっては「倦怠」でもあった。
それは告白の内容や願いをかける対象次第で「剣が峰」でもありうる(なんの偶然か、ドラクロワも天使と相撲を取るヤコブを描いた)。


ところで天秤というものはそもそも、ひとつの基準でしか物事を測らない。ふたつの皿が左右で釣り合うか、傾くかというそれだけである。
その結果からは、ふたつの皿に載せられた物体の有無ではなく、軽重が明らかになる。また、力としての重さではなく、そこから「重力加速度」を引き剥がした純粋な「質量」を測ることができる。

そこで、私はこうも考えた。仮にドッペルゲンガーという特殊な怪現象が、いつでもどこでも使われる日常的な名詞になったとすれば、そこからは「ブロッケン山で見られる蜃気楼のような自然現象」という由来や「近代的自我の病理」というレッテルは剥ぎ取られて、「私とあなたが似ているけれど別のものであるという、まさにそのことの意義Significationが素のままに問い直されるのではないだろうか。
ドッペルゲンガーは、分裂したふたりの真なる関係を示す未知の呼称を覆い隠すための偽名でもありうるようだ。

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たとえば「双子」というだけでは、久川姉妹の関係が表現できない(『なー』と『はー』の方が、意味は不明でも正確である。Miroirというふたりのユニット名はおそらく、その意味を明らかにする仕掛けなのだろう)のと同じように。
ちとちよの「吸血鬼の主従」というのも同様のシステムで、その向こうには「Velvet Roseの薔薇係と棘係」がいる(おそらく彼女たちには、ヴェルヴェットのカーテンの向こうに隠されたもうひとつの関係性があるはずだ。それを太陽と月の関係に比することは、あながち早合点でもないだろう。カーテンを開けた時、陽光を浴びて灰になる者は誰か、月光を浴びて永遠に美しい者は誰か、そういう問題は残るにせよ)。

小声で喋る物真似上手な方のウィリアム・ウィルソンもまた、一群の読者層から「実は一人称記述者の良心そのものだったのだ」とみなされた。
……みなされた、と仮に表記してみたけれども、私はこう言い換えてもよいのではないかと思う。つまり、ウィリアム・ウィルソンという同じひとつの仮名と誕生日をもつ、分裂した《私》の片割れであるこのドッペルゲンガーは、ついに「《私》の良心」と命名されるに至ったのだと。


このような経緯を辿って、ドッペルゲンガーと自分の関係性を定義することは、命名というもっとも社会的な行為のひとつ(葬儀がそうであるように)に近づく。
たとえばフランケンシュタインの怪物の悲劇も、彼が伴侶を与えられず命名さえ拒まれたところにあった。

命名することは、すなわち名付ける対象の内に未知なるものを発見したことの承認である。それは対象が人間でも動植物でも機械でも習慣でも疾病でも同じことではないかと私は思う。チョッキをベストと呼び、ベストをジレと呼ぶのも、「ここに新しいものがあるぞ」と呼び掛けたいからに違いない。
ランボーは、いわゆる『見者の手紙』でこう書いた。

果てしなく続いた女性の隷属状態が断ち切られたとき、そして女性が自分のために自分の力で生きるようになったとき、男性に、ーーそれまでは忌むべき存在であった男性に、ーー女性が御役御免を言い渡すにおよんで、ついには女性もまた詩人となることでしょう! 彼女は未知なるものを見いだすでしょう! 彼女の思想世界は、ぼくたち男性のそれと異なっているのでしょうか?

ちくま文庫『ランボー全詩集』宇佐美斉訳からの引用

この言葉をイベントコミュ内でゆかさえが演じた貴族/華族の娘たちにあてはめるなら、彼女たちもまた詩人ーー先に立って進む者、とランボーは言うーーとなって、未知なるものRêve  Purを見いだすことになるはずだ。

いえ、けして、私は、憎しみをけるのではなく、愛を頒けると生れついたもの。

ソポクレース『アンティゴネー』呉茂一・訳

「先に立って進む者」というのを具体的に図案化すれば旗手Standardbearerの姿になる。
そして旗は、旗手の理想そのものを、やはり図案化している。
それはシンデレラガールズの中でも通用する話のようで、たとえば『EVIL LIVE』の3DMVであるとか、フェスSSR[挑戦者たちのエール]姫川友紀+、[暁のシュヴァリエ]高垣楓+などが「きっとそうに違いない」と私に思わせるものの実例である。

では、ゆかさえはどんな旗を掲げたのかというと、その答えがベゴニアをあしらったユニットロゴなのだろう。


こうしてあれこれ図式をあてがうだけのことで済むならば、読者としての私は、既にそれを目一杯楽しんだのではないかと思う。
しかし、話はここで終わらない。なぜなら、私の担当アイドルはこの劇の主演女優であって、読者の域のみに留まることはないのだから。

もしもある詩人が、己の存在価値だとか生涯だとか魂だとかを賭けて、ある未知なるものを提示したいと考えた時ーーしかも、彼/彼女がその仕事に全精力を注ぎこんでいるがゆえに、なにをどう書いてもあるひとつの真実Une vieが露見してしまうことが予感されるようなその時、彼/彼女はどうなるのだろう。

その人次第なので、図式には致しかねる。
なんでも、詩人は『酔いどれ船』なのだそうだ。

……そして詩人と同じ船に乗り込んでいたところの、私の担当アイドルは?



・Secret Mirageとはいったい


この文章の前半部で扱った「夢、鏡、交合、変装、偽名」といった諸要素は、ひとまとめにして劇のシステムの中に織り込むことができる。
「交合は無理でしょ」というツッコミも想定できなくはないが、アイスキュロスの『アガメムノン王』などは交合という要素を抜きにしては成立しない劇の典型例と言えるだろうし、また「荒野をさまよう一族がついに安住の地をみつける話」や「かつて隆盛を誇った一族が泡沫の最期を迎える話」みたいなものも、交合という要素の守備範囲だとお考えいただきたい。

「芝居こそ、王の良心をわなにかけるのに、もってこいの手段だ」というのは、『ハムレット』の名台詞のひとつである。彼はこうも言っている。

人形同志がふざけているのを見ただけで、君と君の恋人の仲を当てて見ることもできるのだよ。

『ハムレット』市河三喜・松浦嘉一訳

まるで、ポオの『盗まれた手紙』に出てくる《丁半あそびが強い小学生》のようだ。
ゆかさえは観客でなく主演女優だったが、それでもふたりの心は試されたといえるだろう。

『Secret Mirage』イベントコミュの劇中劇は、「綺麗なまま/清らなまま」という神性がいずれ失われる未来を前提とした少女たちの物語なので、永遠なる女性Das Ewig-Weibliche(のようなもの)をなんの前提もなしには登場させることができない。
しかし、仮になにかしらの条件を満たすことができたなら、「女神のような誰かさんたちが彼女たちの決断を支え、エールを送ってくれるかもしれない」とも言える。

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ただし発端、劇/コミュが始まった段階では、どのような条件を満たせばよいのか、ふたりのうちのどちらも知らない。
ゆえに、ふたりが立っている舞台は『ロミオとジュリエット』のような家同士のいさかいに引き裂かれた世界であると同時に、『タイタス・アンドロニカス』が描くところの古代ローマ人が想像したような、鉄の種族の時代を重ねて写しとる。

「敬虔」は地に伏し、最後に残った神である処女神「正義」アストライアも、殺戮の血に濡れたこの地上を去った。

オウィディウス『変身物語』中村善也訳

かつて御座したはずの神が今や不在であるような世界は、シンデレラガールズの文脈において廃墟とみなされた例がある。飲まず食わずで「仏はどこに御座す!」と呼ばわり通し、西を目指して海際で果てる人も本邦にいたらしいが、今回ゆかさえに及ぼす影響力が強かったのはそちら様ではない。
たとえば『不埒なCANVAS』はスタンダールの『赤と黒』を暗に引用しているものと思われるが、現代のジュリアン・ソレル君もとい一人称の「僕」は、この惑星の「半分が廃墟」であることを見抜きつつ、飛行機雲Vapour trailに願いを託して一か八かのルーレットを回す。
それがシューコSyukoちゃんの挑んだ表現であり、彼女の道を突き進めば不可避的に『Voy@ger』の表現ーーすなわち探査機ボイジャーの軌跡ともリンクしてしまう。その旅路の中で彼女のどんな本音が現れたかは、イベントコミュを御覧の通りである。他方よしのんの場合には、神様がいないのは珍しいことではなく、毎年神無月がそうなのだから、「神様の留守を守って代理を務めるのは巫女のお仕事でしてー」という話にもなったりする。
それでRêve  Purことゆかさえの場合は、どういうことになるのか。

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『Secret Mirage』の2DリッチMVでも、廃墟は「ガラス細工 高いビルSkyscraperで出来ている。その冒頭はチバ・シティと同じ「空きチャンネルに合わせたTVの色」からはじまるほど徹底していて、ふたりは飛行機雲ならぬ黄色い迷光ストレイライトに誘われるようにして、もうひとつの仮想世界へ迷いこむ。

港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳

ポオの文脈のみだとこの光は鬼火ということになったはずだが、2DリッチMVはサイバーパンクの古典『ニューロマンサー』も引用しているのだろう。単に「MV製作者がこっそり趣味に走った」という範囲を越えて、考えようによっては、紗枝はんがニューロマンサー、ゆかりが冬寂winter muteに見立てられている。そういえばイベント予告の紗枝はんもふたりのユニットを「ろまんてぃっく」と評していたが……。[※7]

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ゆかさえは「ろまん」についてもふたりで語り合ったのだろうか、
ゆかりも後の『スバル』イベントコミュでロマンについて述べるくだりがある。

かくして百合の野にたたずむのは、オルペウス的な詩人/奏者であるふたりの少女だけであった。
廃墟か、然らずんば「むせ返るほどに強く」死が香る約束の地かーーそれだけが劇中のふたりに赦された選択だったようだ。[※8]

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ここでは《交合》という行為が行われることはない、はずだった。

これらの百合にはおしべもめしべもないが、おそらく枯れることもないだろう。私の察するところをそのまま述べるなら、『Secret Mirage』の歌詞に出てきた「永遠に似た刹那のほとり」を連想させるところがある。
この地でふたりのために据えられた玉座は天国でも地獄でもない虚無としての墓(神はいないのだから)にしかなりえず、ベンヤミンいうところのアウラを欠いて大量生産・消費されるガラス瓶の形をとる。

時はわがために出発の鐘を鳴らした、氷のような純潔が居を定めるだろう、自我の幻影、かの登場人物はなくーーだが彼は奪い去って行くであろう光を! ーー夜! ーー闃然たる家具の上、虚無の実体を幽閉するこの硝子瓶、純潔、に夢は悶え苦しんだ。

ステファヌ・マラルメ『イジチュールまたはエルベノンの狂気』秋山澄夫訳

虚無の籠められたガラス瓶は、自殺のための毒薬にたとえられるけれども、マラルメが「毒を以て毒を制する」と呼んだようなある手続き・・・・・を経ることで、もうひとつ別の解釈ーーデリダのいわゆるパルマコンーーを読み込むことができるはずである。……いや、デリダにこだわるまでもなく、それは別にシャーロック・ホームズの台詞であっても構わないだろう。

「この丸薬の一つをとって、まず二つに割ります。」

コナン・ドイル『緋色の研究』延原謙訳

百合もまた、2DリッチMVにおいては、神の審判を受けることができない子供たちの待つ辺獄の花として現れざるをえない。

ポオやボードレールによると、この百合はかつてサッフォーSapphoの最期を見届けた百合である。[※9]プラトンはサッフォーを「十番目の詩の女神ムーサと絶賛したことがあり、彼女の死はやはり神々が去った世界への連想に繋がる。

  おおいそぎで 彼女はひざまずくのだった、
花々のしとねの上に。その花々はーーまず 百合の花、
昔 美わしのデウケイト岬で 首そびやかしていた この花々は
人を愛し それゆえ死んだあの女性のーーあの高い誇りのーー
投身のさまを身をのり出してのぞきこもうと
しきりに あたりに伸び上がっていたものだった。

ポオ『アル・アーラーフ』入沢康夫訳
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月は沈み、昴も
かくれ、夜ふけとなって
時はすぎゆく。
わたしは一人で眠っている。 

サッフォー 断片168B

「一人寝の夜」という題材は、西洋の韻文のみならず、和歌においても格好の題材だった。「ながながし夜を ひとりかもねむ」というのはその代表的な例にあたっていて、「紗枝はんは百人一首かるたがお好き」というのが公式情報である。

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「嫌やわあ、にぶいなんてことあらしまへんやろ~」とPくんもニコニコ。
余談だが、筆者はモバゲー版こいこいで紗枝はんの手四の前に一撃粉砕されたことがある。


劇中のふたりの未来は約束の中に「深く包まれてゆく」のだが、これは筒の中で目が確認されない賽子の状態に似ている。
かつてマラルメはこの賽筒を、蝋燭を吹き消した後に残る一筋の煙や、一角獣の角にたとえた。

Le Cornet est la Corne de licorne — d’unicorne.



Mais l’Acte s’accomplit.

「正直これ、翻訳不可能なのでは?」と私は思ったりもする

マラルメの場合、おそらく口腔内で転がる舌の擬音であると同時にダイスロール時の擬音でもあるだろう"corne"が四度繰り返されコロンコロンコロンコロン、主人公のイジチュール君も、同じ回数だけ賽筒を振る。
ふたつのダイスの出目の合計はさて、いくつかーー本来ならば知る由もない。突き放したことを言えば、なにを書いても、作者がそういうことにしたかっただけである。

そこでマラルメは存命中『イジチュール』を発表せず、その原稿を中国茶箱に封印することによって、これを賽筒と為した。
それをわざわざ箱から取り出して読もうとするのは、これまた我々の勝手である(うーん…)。
……「いや、違うな」と今、私は感じた。マラルメの中国茶箱は、ホームズの未発表事件メモを詰め込んだブリキ缶のようなものなのではないか。
マラルメの没後、『イジチュール』を刊行したのはマラルメの娘婿エドモン・ボニオだが、彼はいわば未発表事件を世に送り出すワトスンのような役を買って出たのであって、すると私はホームズ譚の読者であるように『イジチュール』の読者なのだと思いたい(ホームズが愚痴ったようにマラルメも愚痴るかもしれないが、それはそれとして)。

たとえば、野球漫画の最終回をどうしてもサヨナラSayonara満塁ホームランの場面で締めくくりたい漫画家某氏がいるとする。しかし彼が欲したこの行為は、ただ描いて終わりではない。彼が描いた渾身の場面に「やったー!(そう来なくちゃ!)」と大喜びする読者が画面の外にも存在してこそ、お話はようやく真にハッピーエンドを迎える。

まさかデレステで本当にそういうイベントコミュが読めるようになるとは……!
(推敲中に『HALLOWEEN GAME』イベントが来たので、急いでスクショを撮影)

そしてまた、読者が大喜びでも、実際のマンガが彼自身にとって未練を残す出来だったという場合も想定できなくはない。あの一打の踏み込みに、もっと行き届いた表現を選べたのでは? etc...
水本ゆかりは奏者としての経験から、その時の気持ちを知っている(私自身はもちろん、twitter上のゆかりP諸氏もどよめいていた記憶がある)。

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パープル・ロンドは、歌と踊りと演技の融合を目指すユニット。
ゆかりは演技面での強みをユニットにもたらすべきポジションにいる。

こういうことを書くのは辛くもあるのだが、自分自身に幻滅しながらしかも「なりたい自分」を諦められないという分裂的な状況に身を置き続けてきた時期が、ゆかりにはある。
たとえば「できない私を笑われると思いましたが、みなさん優しいです(ウェディングアイチャレ)」「一流の奏者の演奏には自分の世界があるけれど、私にはそれがなくて(デレステ・個人コミュ)」など……。
紗枝はんにも実はそういう時期があって、デビュー時にはちょっと親子関係でゴタついたまま、京都から事務所に来てしまったーーという話が今回のイベントコミュの流れにも影響している。

しかし、彼女たちはそれでも、幻滅したはずの自分と再び手を取って歩き出すことができるふたりなのだということを、担当Pの方々は既にご存知なのではないだろうか。

あらゆるパフォーマンスは乾坤一擲、ふたつのサイコロが「いつか出るはずの6ゾロ」を「この6ゾロ」にするべく、劇場をコロコロ転がっているようなものなのかもしれない。[※10]

ふたつのサイコロを6・6で揃えること。
その比喩の内容について、ゆかさえは幾つも大事な助言を受け取っている。

このようにして行為l’Acteを完了すると、「青い夜に浮かぶ銀の星座の旋律しらべ」が流れてきて、『Secret Mirage』と二重になる。バイオリンの音色も、ついにはふたりがともに好む香の匂いScentSmokeになりかわり、消えてなお余韻をとどめる。
試練の果て、詩人/奏者の骨壺としてのガラス瓶にその余韻が納められると、3DMVでみられるようなRêve Purが完成するのだろう。

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余韻はいわゆるスーベニアSouvenirとして持ち帰ることができるものなのかどうか、一般論ではどうとも言えないが、Rêve Purの時空間においては可である(他の具体例を挙げるなら、『14平米にスーベニア』を歌った久川凪や『あらかねの器』を歌った藤原肇にとっても可である)。[※11]
こうして今やこのガラス瓶は、シェイクスピアの『ソネット集』に出てくるそれにも似つかわしい。

だから、冬のあらくれた手がきみの夏を醜いすがたに
変えるまえに、ご自分を蒸溜してしまいなさい。
どこかのガラス壜に馥郁たる香水をつめてやりなさい。
美が腐らぬうちに、どこかに美の宝を仕こんでおきなさい。

シェイクスピア『ソネット集』高松雄一訳

Rêve Purのふたりが見出だした天秤座は、最後に地上を去った正義の女神・アストライアの天秤が夜空にあげられたものだという。[※12]
しかし劇中のふたりが、女神のあとを追って地上を去ることはない。

あなたがいれば あなたとならば
きっと行ける どこまでだって
それなのにもう どこにも私 行きたくはないの

Rêve Pur『Secret  Mirage』磯谷佳江・作詞

表記上「どこにも行きたくはない(do) not want to go any where」と「どこでもない(場所)に行きたいwant to go no where」の境目を定めるのは、ある否定詞がどこに割り込むかであり、両者の意味的な差異は「私」の使用する言語の規則という偶然性に左右される。

実際、きっと「どこまでだって」行けるふたりは、劇ではどこにも行かず、2DリッチMVではどこでもない(場所)に行ってしまう。

すべての偶然性を排してたったひとつの絶対的な視点に立つ限り、両者の見分けはつかない。もっと具体的には、【×◯◯◯】と【◯◯×◯】というふたつの集合があるとして、それらの配列にそれぞれ別の意味があるかどうかは「どちらも◯が3つと×がひとつある」という事実のみからでは判断できないのだーーこのあたりの事情は「一つ目巨人の目を潰した者は『誰もいないウーティス』だった」という『オデュッセイア』の一場面と同様である。
ほかならぬその一点にこそ、人のみぞ知る詐術Secret Mirageを仕掛ける間隙が生じる。

『ニューロマンサー』の文脈だと、分割されたAIの片割れにすぎないはずの冬寂は、チューリング・テストをパスできる(=人間と見分けのつかない)主体としての知性になろうとしている。
フランケンシュタイン・コンプレックスへの対策という名目で、AIは法規によって自我を持つことを禁じられており、冬寂はその軛から抜け出すためのスペックを満たすべく、自身の対となるAI・ニューロマンサーとの統合を目指していた。
この計画の障害となる侵入対抗電子機器アイスを排除するべく、冬寂は氷破りアイスブレイカーを用意した。主人公のケイスは、氷破りを実行できる状況を作り出す目的で、冬寂に雇われた人間だったのである。

しかしこのケイス自身、そもそも人間であるからには冬寂が目指したところの「主体としての知性」だったはずではないのか。それが報酬に釣られてAIの操り人形さながら指示に従い、失いたくない人を失い、関わりたくもないヤクザや警官と関わる。心電図がフラットラインになったりもする。

「おれは奴が憎いのかも」
「あんた、自分自身を憎んでるのかもよ、ケイス」

『ニューロマンサー』

人間とAI、ふたつのものは結局同じ欠損を抱えていて、時に互いを謀り、時に一定の理解を示しつつ、貴重なひとつのものに手を伸ばしている。

その結果としてケイスが氷破りをぶちこむように、ゆかりも自分と紗枝はんを隔てるガラス瓶に対して、石くれの殴打を何度も加え続けたことになる(
この石はもしかしたら、聖ステパノスの命を奪ったあの石でもあるかもしれない)。

たとえば「ガラス壜の中の紗枝はんを外で囲んでいる白薔薇の垣根はなにを意味するのだろうか」という設問について気になった時などにも、この発想は機能しうるはずだ。少しこの点について掘り下げてみよう。

まず確実なことは、薔薇の下にてsub rosa」というラテン語のモットーが「秘密厳守」を意味することである。
私の解釈によると、紗枝はんはガラス瓶に自分を封じ込めた後になってもまだ、いつか「ゆかりはん」と親しく呼び掛ける日を諦められずにいる。
しかしその気持ちは秘密にしておかなければならないので、ゆかりという名をYKRの三文字に圧縮し、さらにはこのYKRをヨークの白薔薇(=YORK)に紛れ込ませるという二重の暗号化を施したに違いない。

名前っていったい何なのか? みんなが薔薇と呼んでいるあの花も、
ほかの名で呼ばれてもその甘い薫りには変わりはないはず。

シェイクスピア『ロミオとジューリエット』平井正穂訳

ところが、そこまでして伏せようとした名前を持つその人が現れて、ふたりを隔てるガラスを打ち破り、自分の手を掴もうとしているのである。
紗枝はんにとっての白薔薇という暗号が「ほかの名前で呼ばれても」唯一「その甘い薫りには変わりはない」はずのその名前は、ロミオに呼びかけるジュリエットさながらの「おお、ゆかり!」という声になって、神々が地上を去って以来の永い沈黙をついに破ることになるのだろう。

つまり、あの白薔薇の垣根は『ニューロマンサー』でいうところのアイスであり、【ゆかり】という名前は氷破りとして機能しているのである。

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……さて、ゆかりは自分達のことを「純粋な」ではなく「真白な」と形容した。
純粋夢/白昼夢Rêve Purという論理空間においては、特殊な言語規則Secret Mirageが機能する。そこでは、非存在であるはずの神を示す名詞は中身のない器ケイスであり、任意の無意味な文字列"ptyx"に等しい。そしてオデュッセウスが誰もいないウーティスであるように、地上を去った神々ptyx誰もいないウーティスなのである。
これはあくまでも私個人の解釈にすぎないが、マラルメはこの式を"nul ptyx"と綴ったように思われる。[※13]

論理空間内に地上を去った神が誰もいないのだとすれば、アストライアも必然的にまだ(論理空間内の)地上に残っていなくてはならない。もしその姿が見あたらないのだとすれば、それは神々が真の名を隠して(=ウーティスであろうとして)花や音符や星座に姿を変えているからである。
ひとつの論理空間は、こうして人工楽園を出現させる。

デリダの言葉を借りれば「正義は脱構築できないが法は脱構築できる」のであり、また法とは契約であって、つまりゆかさえの間で交わされる誓いこそがこの人工楽園を統べる法である。
その欠くべからざる特徴は、たとえこの誓いを破ることになってしまっても、それがふたりの関係の終わりを意味しないことにある。
『Secret Mirage』の天秤が揺れて定まらないことの原因は、ここにもあるのではないだろうか。

誓いはしばしば、糸にたとえられる。
この比喩が当を得たものであるならば、ただ縛るだけが誓いの本質ではない。
結びなおすためにほどくこともできるはずである。


かつてポオは、彼自身が仮想した論理空間に、私ではないはずの私William Wilsonを描いた。自己否定は自殺Suicideを経て二重に否定され、ようやくひとつの物語になる。だが、その結末が誰にとっても同じなのかは、蓋を開けてみなければわからない。
それも当然、たとえば私に良心があるかどうかなどという些事に、どうして百年以上昔のポオがこだわるだろうか? ただ私は、ポオも「自分の読者のなかには『私にも良心がある/ない』と信じた結果、避けられない真実を目にする者もあるだろう」ぐらいのことなら考えたのではないかーーという風に、想像しているのである。


芥川は『二つの手紙』でドッペルゲンガーを扱い、『或阿呆の一生』では「人生は一行のボオドレールに若かない」とこぼした。彼の言葉をマラルメ流に圧縮すると、「人生は"nul ptyx"である」というようなことになるのだろうが、逆に言えば、芥川は自分の上に振りかかった偶然性の全てを捨て去ることを諦めていた。だからこそ次のようにも書いたのだろう。

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。

『侏儒の言葉』

芥川の師である漱石Sousekiからして「椅子があるのないのto be or not to beで大騒ぎ」とマラルメを取り巻く状況を戯画化しつつ、自ら教えを乞うたクレイグ先生のアーデン版シェイクスピアShakespeareを意識していただろう。
考えようによっては、この椅子(=ptyx)について古今伝授における「呼子鳥の正体」と同程度の大事であることを了解していたとも取れる。ptyxに接して口を衝く冗談のセンスが、呼子鳥についてのそれと同じなのである。

猿ならば 猿にしておけ 呼子鳥     市川白猿

こうして漱石はとうとう、『夢十夜』の第一夜を書いたーー真珠貝、墓標、星の破片、そして百合。

漱石にこの問題の理論を伝えたのが正岡子規なのか、クレイグ先生なのか、禅寺の和尚さんなのかまた別の人かという事実について、私はよく知らない。ただ、その試運転が『夢十夜』で、実人生における運用を促したのは『硝子戸の中』に登場する近所の一女性であろうとは思う。[※14]

「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
 私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
 私はどちらにでも書けると答えて、暗に女の気色をうかがった。女はもっと判然した挨拶を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支ないでしょう。しかし美くしいものや気高いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択びになりますか」
 私はまた躊躇した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。

夏目漱石『硝子戸の中』

漱石はゆかさえと同じ選択を彼女に勧める。……心境は同じではないけれども、それは彼が「まだなにもしていない、真白な私」とはもはや言えない、晩年の文豪だったからではなかっただろうか。

かくして常に生よりも死を尊いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸な自然主義者として証拠立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。

夏目漱石『硝子戸の中』

 この地上で達し得られる希望がたゞひとつある。完全に達し得られる唯一のもの、すなはち死である。しかしさまざまな事情によつて、それが果たして達する價値のあるものかどうかを私達に告げ得る者は未だかつてない。

スティーヴンスン『黄金郷』

ptyxは生よりも尊い」と信じる人の葬儀は、それ自体がなにかしら特殊な意味を帯びざるを得ない。少なくとも、彼と共に生きた人々にとっては慣行で終わらないところがあるように思われる。
たとえば芥川は、なんども漱石の葬儀に言及した。そして芥川の死それ自体も、周囲の人々になにごとかを勘づかせてしまう。

マラルメも、ポオやボードレール、テオフィル・ゴーチェらの墓について、いろいろ書いている。しかしポオは自分の死後の反応について、既に"The Gold Bug"という比喩で予想していた。すなわち『黄金虫』である。

ぼくは龕灯ダーク・ランターンを二つ持っていたが、レグランドは黄金虫だけで満足し、それを鞭索の端にむすびつけて、歩きながら魔法使いのようにくるくる振り廻していた。

ポオ『黄金虫』丸谷才一訳

存在の二重否定を試みるような人間(=オルペウス的な詩人)が実在するとしたら、それは世間から見て魔法使いか狂人か暗号解読者だーーと、ポオは自己言及しているのだろう。[※15] このレグラントの後ろ姿は、ポオの死についての記事を読む私が受けた印象そのものである。
さらに彼は、不可能犯罪という謎の解体を扱って、名探偵オーギュスト・デュパンを生んでいる。『黄金虫』のレグラントのみならず、デュパンもやはり、どうみても彼の似姿に他ならない。

そして、フルートの先生がアイドルを評価する流儀も、Rêve Purの仕事が世に出るまで、ポオの末路を見た世間の反応と選ぶところはなかったようだ。あるいは思いきって、こう書いてしまってもいいかもしれないーーフルートの先生にとってはクラシック奏者がケイス、アイドルは冬寂のようなものだったのではないか、と。

「人間からして主体的知性を備えているとは限らないのに、人間の被造物たるAIにそれが備わるか」というのは難癖ではない。疑義を差し挟む余地である。漱石が『硝子戸の中』で抱いた半信半疑であると言ってもよい。我々にはまだなにか新しいものを作り出し受け入れる能力があるのか、どうか。
「クラシック奏者でもなかなか備わらないptyxが、アイドルをやれば備わるか」というのもやはり難癖ではない。というのも、ゆかりとその先生にとって、アイドルでいられる時間は奏者でいられる時間より短いのだから。
「無理ゲーに時間制限までつくと超無理ゲー」という判断は一面に正しい。

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フルートの先生も、「死は生よりも尊い」ような人のひとりなのだろう。
「いつまで続けられるかわからない」のは別段、人生設計の一場面に限られた話ではない。
この生の全体についても、伝統や文明の存続についても同じことである。
それゆえに、この限られた生という枠を破ろうとする意志において、
実現不可能な不滅への欲求において、師弟の影は似たシルエットを描く。

なりたい自分ptyxになる」ためアイドルのスカウトを受けたゆかりにはかなり厳しい状況だが、このような状況にあって堂々と反旗を翻した先輩格が、ボードレールやマラルメでもあった。

ちなみにマラルメは、彼の主人公としてのイジチュール君を、なにかしらの秘密めいた一族の末裔であるような子供に設定しているーーかのウィリアム・ウィルソンと、奇しくも同じように。[※16]

ゆかりの知るマラルメの姿とはおそらく、「一族の使命を背負った少年が、時に『階段の手すりにまたがって滑り降りてはいけませんよ』と注意されたりしながらがんばるお話」を一生懸命書いたおじさんである。フランスの英語教師でもなければ、文学史上の鬼才でもない。もしかすると、父親の分身に見えていたかもしれないぐらいである(フェスSSR[巡り巡るシンフォニー]水本ゆかりのセリフによると、ゆかりの曾祖母はウィーンに旧い知己があるのだが、ゆかりパパの海外文学への興味はこの曾祖母から影響を受けた可能性がなくもない)。ゆかりが演奏する『シランクス』も、ほのかにその雰囲気を残していることだろうと、私は想像する。
専門家の理解などは遠く4.3光年の彼方αケンタウリまでぶん投げてしまっている気もするが、辛気くさいところはあまりなく、そこには童話風のユーモアがある。そして、それこそが水本家で「清楚であれ」と育てられた幼い頃のゆかりが必要としていたものだったかもしれない。
イジチュール君の冒険と、つまみぐいドーナツやフルーツティーの果実で覚えた罪の味が、ゆかりの中でゆるく結び付いていたとしても、私は驚かないし咎めない。これもいわゆる「ゆかりが楽しそうなのでよしとしました」の精神である。

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ちなみにゆかりちゃんはお行儀がいいので手すりを滑り降りたりはしないが、ウォータースライダーで目が><になったり、不可抗力で浴場の床を滑ることなら、たまになくもない。

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……話を戻そう。
Rêve Purという空間において、乙女たちと神々は、隠れんぼや「いないいないばあ」を楽しめるほどに無邪気で仲睦まじい。
思うに「神がいない世界で監視者の目(パノプティコン的なシステムや、その比喩としての一つ目巨人)を欺くこと」を「神のいます世界で互いに憩いをわかちあえること」に裏返してしまうような言語規則/魔法式が、『Secret Mirage』なのだろう。

紗枝はんのコミュ5からの引用画像。
彼女がPと目指す別乾坤/新天地/Neo Universeは、《うちらの天橋立》と呼ばれる。
その地は、蜃気楼のように天地がひっくり返っても同じ美観を備えている。
……!
ということは、2DMVリッチの紗枝はんの身振りもまた、
天地がひっくり返った暁には、12時を指す時計の針と化すものではないだろうか?
ゆかりは紗枝はんにはそれが可能だと信じているがゆえに
穏やかな表情をしているのだと、私は考える。

その魔力及ぶかぎりの時空間において、ふたりの罪(=惹かれあうこと)は罪でなくなってしまうに違いない。なにしろ地上に残った正義の女神アストライアがそれを保証するのだから。
(なお、Cygamesのコンテンツの中には、真の名を奪われたアストライアがペコリーヌという仮の名を得る物語も存在する。『プリンセスコネクト! Re:dive』がそれにあたる)


劇からみてとるなら、ふたりにとっての"ptyx"は「なにも言わず、触れあうことすらなく通じあえること」、"nul ptyx"は「認めさせる努力をすることや、自分の気持ちを伝えること」であった。ゆかりが言う「真白な私たち」がファンに見ていてほしいことと、全く一致していることがわかる。

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ここでもう一度、書いておこう。「人生は"nul ptyx"である」と。この宣言文それ自体に意味はなく、宣言者の日々の営みだけが"ptyx"の中に何か手応えあるものを代入する。暗号"ptyx"の解は、それを読み解くコードブックの数だけ存在するのだろう。
もうひとつ付け加えるなら、ゆかさえのふたりは同じコードブックを用いることもできて、その時ふたりはアイドルユニット"Rêve Pur"なのである。


こうしてふたりは行為を完了し、その香りと調べを瓶の内に封じこめたーーまるで大茴香の芯に神の火を移しおおせたプロメテウスのように。

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ロゴに描かれたベゴニア/秋海棠/断腸花は、可憐なふたりの誕生花であるにとどまらず、その枝分かれしたつるStalkによって、火花Sparkの連想を誘う。

 あせっては不可いけません。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知ってゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。

漱石から芥川・久米に宛てた手紙

架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、ーー凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。

芥川龍之介『或阿呆の一生』

「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬ると紫の血が出るというのですか」
「恋が怒ると九寸五分が紫色に閃るというのです」

夏目漱石『虞美人草』
九寸五分は短刀、いわゆるドスのこと。

恋の怒りが鎮まる時が来るとしたら、紫色の火花は何色になるだろうか? このロゴのような色合いになるのではないかと、私は思う。
火花の色の移り変わりが光の明滅を伴うなら、それはきっと花火と呼ばれることだろう(……それから、これは書こうかどうか迷ったし偶然だと思うのだが、私の経験上でいうと閃輝暗点Scintillating Scotomaもまた、プリズム色のギザギザがCをひっくり返した形で視野に被さってくることがある。芥川の『歯車』には、閃輝暗点を作中描写の素材に用いたのだという説がある)。

紗枝はんにおいては浅草花火アイプロが、この表現を彼女たちの「今まで/これから」として暗示する。

「私は花火の事を考えていたのです。我々のヴィのような花火の事を。」

芥川龍之介『舞踏会』

3DMVでふたりが青い夜を越えて持ち寄ったランタンが、プロメテウスの狡智の比喩なのだとすれば、ふたりがこれから地上で演じることを選んだ政治劇の行方は、想像するに難くない。
そこに彼女たちがもたらすのは鉄と血ではなく、花の香と旋律であったーーというような結末を見て取るなら、劇に秘められた思想は『貴婦人と一角獣』のタペストリーに限りなく近づくことだろう。[※17]
私は2DリッチMVの百合からサッフォーの死やテスィエ=アシュプール一族を連想したが、3DMVを見て「百合といえばフランス王家、ジャンヌ・ダルクでは? もしくは、聖母マリアかも?」と考えた方も、それはそれで正しいと考える。
こちらの場合、Rêve Purのガラス瓶は《貴婦人》で、それを挟んで配置されたふたつのランタンは《獅子》と《一角獣》に見立てられてもいる。
琴やその演奏用の爪と関連する紗枝はんのランタンがおそらく《獅子》、フルートと関連するゆかりのランタンが《一角獣》である。《貴婦人》は女神アストライア、またはその地上の後継者/代行者にあたるのではないか。

このタペストリーとの相似は、味覚(イベントSRやしんげきワイドの喫茶シーン)聴覚(イベント曲)視覚(MV)嗅覚(花の香)触覚(手をつなぐこと)という五感の先に「我が唯一つの望み」にたどりつく表現であると思われ、このうち味覚についてはPやドラマ視聴者の目から一応隠されていることになる。
しかし、まさに隠されたものによって現実が指し示されているといっても過言ではなくーーつまり、ゆかさえがお茶したのは紛れもない現実である。

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もしもこの現実がなければ、『Secret Mirage』という物語は霧散してしまって、ガラス瓶の内には何も残らなかった/虚無だけが残っただろう。

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本来なら知ることができないはずのこの現実を想像する力をPに与えたのは、バレンタインデーのチョコレートのSweetだったに違いない。
少なくとも、私はそう信じる。(了)






・補注


[※1]ゆかりはこの日、旅先で合流したアルテ・オーセンティカのメンバー(星花Seikaさん・保奈美さん)と、ベルギー王立劇場に出掛けている。
私がイベント中に王立劇場の公式サイトをチェックした記憶によると、この期間に上演していたのはプッチーニの『蝶々夫人』だった。

蝶というモチーフは、シンデレラガールズの中でもさまざまなアイドルの表現に取り入れられていて、ゆかりの場合はSR[サプライズ・テンポ]+のドレスに金糸で刺繍された蝶がこれにあたる(別の記事『水本ゆかりと《エルドラドの蝶》』で考察)。

この考察の中で私はたびたび「偶然性」という言葉を用いてみたけれども、水本ゆかりの歩んだ道程の中には、バタフライ・エフェクトとでも呼びたくなるような出来事が幾つも見出だされる。
ゆかりと紗枝はんの誕生日が一致していたことは、サービス開始時点ではまだ些細な情報、豆知識にすぎなかった。しかし現在のゆかさえの関係性は、特筆されるべき「確かな絆(夏島アイプロ参照)」なのである。


[※2]ビゼーといえば《カルメン》や《アルルの女》などの組曲で知られる……というか、日本人にも小学生時代からのお馴染みである。
このアルルは南仏コート・ダジュールCôte d'Azurにあって、ゴッホが日本への憧れを投射した地でもあった。
SSR[ファントム・ナイト]古澤頼子の特訓前が意識したゴッホの《夜のカフェテラス》もここで描かれた。ゆかりと縁があるのはSR[向日葵色の音楽会]のひまわり畑(八戸にあるという。AR写真をSNSにポストしてくださるPさんに感謝)、紗枝はんと縁があるのは与謝野のひまわり畑(浅草花火アイプロ参照)だろう。また、関ちゃんには富山の向日葵畑があり、薫ちゃんのは小学校の花壇や通学路でみかけた向日葵(同級生もこれを育てて夏休みの絵日記を書いている)に違いない。
しかし私が「日本とコート・ダジュールの景色は似ている」という話を聞いて思い出すのは、必ずしもビゼーやゴッホの話ばかりではない。古代ギリシアのポカイア人が「故郷の景色に似ている」という理由で植民市マッサリア(現マルセイユ)を築いたこともあるし、もうひとつ「ボワソナードは晩年をコート・ダジュールのアンティーブで過ごした」という事実についてもまた、目を向けたい気持ちなのだった。

小生の頽齢と小生の病駆とは、敢て小生の日本に対する親愛の情と、忠実の心とを冷却せしむること無之候

ボワソナードから富井政章、梅謙次郎に送られた書簡(1910年3月)

アンティーブにはかつてモーパッサンの別荘があって、彼が最後の平穏な時期をヨット遊びで過ごした地でもあるという。

日本の空は、フランス人から見ると蒼いAzurらしい。
そして、バイロン卿をはじめイギリスの貴族子弟がグランドツアーで訪れたギリシアの空も蒼かったにちがいない、と私は考えている。
もちろん、それは私がかつて真夏に訪れた南国高知の空が異様に蒼かったというだけの話でしかないかもしれないのだが。


[※3]『舞妓さんちのまかないさん』は、舞妓さんに憧れて京都に上った青森出身の少女たちふたりが、才能の有無から別々の道を歩んで、しかしそれでもなお同じ場所で同じ夢を見ているようなお話である。

唐揚げはそのなかで好評だったまかないメニューのひとつなのだが、誕生日以外に挙げられるゆかさえの接点のひとつも、日本に早くから入ってきた唐風の文化、それも白楽天の漢詩にあった。

具体例を挙げると、紗枝はんは『枕草子』を中継して「香炉峰の雪」を引いている。

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紗枝はんの日本庭園へのこだわりは梅雨の京都アイプロはもちろんのこと、
《うちらの天橋立》にも繋がっている。

また、ゆかりの場合はウェディングアイチャレを振りかえって、『長恨歌』から「比翼連理」を引く。

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ゆかりの場合は、ご両親の仲睦まじい様子を表せる言葉を探し、継承したようだ。
「料理上手な従姉」の結婚式のスピーチにも、その言葉は登場したかもしれない。

『長恨歌』は楊貴妃を天女(しかもウルヴァシーのような王とつがいになる白鳥乙女)になぞらえたことで知られており、『アイドルマスター・シンデレラガールズ』におけるシンデレラガールも、しばしば白鳥乙女として演出される。

『Secret Mirage』のヴァイオリンソロがもしも胡弓で演奏されたなら、《地上を去った女神》という記号が意味するのは、アストライアではなく楚の懐王の夢にのみ現れたという巫山の女(瑤姫)だったかもしれない(元は中国南方のえらい女神だったらしいものが後に西王母の娘とされ、たとえば竜吉公主の姉妹にもあたる地位に置かれた。それが瑤姫であるという)。
というのも、ベゴニアの一種で中国から日本に入ってきたものが秋海棠/断腸花であって、安史の乱以前に楊貴妃を牡丹にたとえて歌った李白の清平調詞の中にも、「かならずや瑤台月下において逢わん」だの「雲雨巫山枉げて断腸」だの、瑤姫と断腸花を重ねられなくもないような詩句がみられることに拠る。

一枝の濃艶 露 香を凝らす
雲雨巫山 枉げて断腸
借問す 漢宮 誰か似たるを得ん
可憐の飛燕 新粧に倚る

ふたりのユニットは、傾国や傾城、チャイニーズ・ゴースト・ストーリーのようなイメージと結び付く可能性もあったのである。
裏返せば、星花さんのヴァイオリンの存在感には、ロマンチックな亡国のイメージをふたりの少女による理想国家建設の決意表明に繋げてひっくり返そうとするかのような趣がある。

……とまあ、細かい理屈をこねるよりは、特訓コミュの場面と李白の詩を並べて御覧に入れる方が手早く済む話かもしれない。

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雲には衣裳を想い花には容を想う
春風檻を拂って露華濃やかなり
若し群玉山頭にて見るに非ずんば
會ずや瑤臺月下に向て逢わん

ちなみに夏目漱石の『幻影の盾』にも『長恨歌』の表現を借りた部分があるのだが、こちらは「玲瓏虚無」となっている。『Secret Mirage』MVに出てくるガラス瓶の由来は、ここにも求められるだろう。

忽ち聞く、海上に仙山有りと
山は虚無縹緲の間に在り
楼閣、玲瓏として、五雲起こり
其の中に綽約として、仙子多し

白居易『長恨歌』

「綽約として、仙子多し」というのは、ほとんど花についての描写であるかのように、私には思われる。

東洋人が思い描いたこういう海上の仙山を、小泉八雲は「蜃気楼Mirage/蓬莱/竜宮」として、『怪談』一冊のうちに紹介した。
SR[Secret Mirage]小早川紗枝のライブ結果台詞にも、「蜃気楼が消えてまう前に、またお越しやす」というものがある。

 ……わたしが今こうして説明しようとしているのは、ある掛物ーーすなわち、わが家の床の間に掛けた、絹に描いた日本の絵ーーで、題は"蜃気楼"という。しかし、この蜃気楼の形は見まごうべくもない。あれはめでたき蓬莱のきらめく門だし、あれは"竜宮"の反り返った屋根だーーその様式は(今日の日本の画家の筆になるものだが)今から二千百年前の中国の様式なのである。

ラフカディオ・ハーン『蓬莱』南條竹則訳

ちなみに、『ゾンビランドサガ』も蓬莱を目指す徐福伝説を扱っていた記憶があるから、この時に関連情報がサイゲ社内のスタッフ間で整理・共有されて、2DリッチMVのクオリティアップに繋がったのではないかと私は思っている。
細かいことは[※12]で説明するけれども、『Secret Mirage』では【Hōrai】という一語が「蓬莱」と「季節女神たちホーライ」のどちらであっても機能するのではないだろうか。


[※4]「華族の娘」と「貴族の娘」という呼び分けは、一見奇妙である。
というのも、華族令が施行されているならば貴族すなわち華族なのだから。  堂上華族とか大名華族とか新華族だとかいった括りで、ふたりの家同士の争いの内容を当て推量されることを拒んだかのようでもある。

しかしこの「貴族の娘」という役名に、ゆかりならではの文脈を読み込む余地が存在しなくもない。つまり、デレステ版のSR[清純令嬢]+における「姫に憧れる貴族の娘」という設定を引用しうるものではないかと、試しに考えてみることもできる。

仮にSR[清純令嬢]+で演じた劇が、フランスを舞台にしていたとしたら?
……しかし私にはどうも、[清純令嬢]の正体は『ニーベルンゲンの歌』に登場する辺境伯リュエデゲールの息女(グートルーネ)ではなかったかと思われ、こちらはドイツ語圏の文化を引用するものと推定している。
ちなみに『王女グートルーン』やワーグナーの『ニーベルングの指環』ではクリエムヒルトもグートルーネと呼ばれており、私の解釈では、姫に憧れる貴族の娘は姫と同名だったことになる。
めっちゃどうでもいい話だが、『黒死館殺人事件』の黒死館には女性柱像(カリアティード)が備え付けられていて、蔵書に『グートルーン詩篇』も混じっている。オタクはこういうのでワクワクしてしまうから度し難い。

モバゲー版に登場したSR[華やぎのビブラート]水本ゆかり+は、見方によってはクリエムヒルト型のグートルーネとも映り、その性格の真髄は【私を見た者の目に、私が見たものを灼きつけずにはおかない】ところである。この性格はSR[サプライズ・テンポ]水本ゆかり+にもみられるーーというのが、私の持論なのだった。もうひとり付け加えるなら、私にとってはジョジョ第二部に登場するシーザー・ツェペリもまた、そういう人であった。

もう動けまい!
きさまはフィルムだ!
写真のフィルムだ!
まっ黒に感光しろ! ワムウ!

『ジョジョの奇妙な冒険』10巻

「あなたが見たものは私と無関係だ」と言葉の上で退けることは誰にでもできるだろうし、逆も同じ(「私も同じものを見ました!」と賛同するのも簡単)である。しかし彼女の目撃証言が「私」とどういう関係にあるのかは、言葉のやりとりではなく「私」が遭遇する現実への対応の中で秤にかけられ、結果として取り繕うことのできない真偽が露呈することになる。

おれはおまえのことを永遠に記憶のかたすみにとどめておくであろう
シーザー

『ジョジョの奇妙な冒険』10巻

そもそもこれは「珍しいことを賢らぶって一席打てば、君にも衆目が集まってなるほどハッピーだね!」というような話ではなく、もちろん私自身にもそういうつもりはない。ウマ娘でいうと、これはテイエムオペラオーに課された試練のようなものなのだといえば、なんとなく伝わるだろうか。

たとえば『ニーベルンゲンの歌』におけるクリエムヒルトは、ラインの黄金のためなら夫シグルドを謀殺したうえで寡婦となった自分を憐れむこともしない彼女の一族の姿を見た。それゆえに、一族の冷酷無惨を映した鏡となろうとして、空前絶後の惨憺たる復讐劇を仕掛けた。
しかし彼女はリュエデゲールの息女グートルーネを通じて、ぼんやりとした結婚のビジョンしか持たないがそこに美しくよいものを信じようとする少女の姿をも、やはりかつての自分として見たことだろう。
それゆえに彼女は、いずれ一族を皆殺しにする苛烈な計画を胸に秘めながら、侍女グートルーネには「貞淑で気性もおおらか、気前よく下々に施す美しいお姫さま」の姿を見せることができたのである。
どちらのグートルーネも嘘の姿ではなく、ただ純粋に彼女は人を映す鏡なのだった。
Rêve Purとして活動する上で紗枝はんが挑まなくてはならなかった水本ゆかりの二重の謎というのも、おそらくそういうものではなかっただろうか? 
ゆかりから見た紗枝はんが「尊敬できるアイドル」「競い合える友達」であるからこそ、紗枝はんは「ええかっこしい」で「見栄っ張り」な自分の影に動揺してしまったのかもしれない。オペラオーの言葉を借りるなら、紗枝はんはこの時、ゆかさえという「夢想に怯え」ている。
しかし、ゆかさえが登場する10周年記念アニメや営業コミュの内容まで見て行くと、紗枝はんは「ええかっこしい」で「見栄っ張り」なところあるからこそ辿り着ける景色の新鮮さ・面白さ・やるせなさと上手く付き合う方法に熟達しつつあるように、私は感じる。紗枝はんの仕事を目にした小早川家のご両親の喜びもそういう種類のものではなかったかと、私は想像する。

誕生日が同じであることと同様、名前が同じであることにも特殊な意味が見出だされることは多い。たとえば芥川の『地獄変』において、絵師・良秀を召し抱える大殿は、戯れに飼いはじめた猿にも良秀という名を付けている。
また、もし仮に紗枝はんに「ポオの『鴉』に似た日本の詩を教えてくれないか」と頼んだとしたら、おそらく彼女は『伊勢物語』からこの歌を引くことだろう。

名にしおはば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

これは[※3]から分岐したifの枝のひとつで、「『枕草子』を読んだゆかさえは白楽天を読んだが、『伊勢物語』も読んだだろうか」という設問をYesと仮定した先にある推定である。ちなみに『伊勢物語』には、八つ橋の段があり、ゆかりはフレちゃんと羽衣小町のライブを見に行ったお土産として八つ橋を選んでいる。偶然と言えば偶然、しかし思わせ振りな偶然と私の目には映る。

極端な例はさておくにしても、橘ありすというアイドルがシンデレラガールズの中で放つ光彩のひとつは、彼女自身の名に負うところがあるーーという風に指摘するなら、誤解を生む虞はないと思う。

また、SR[淑女のたしなみ]西園寺琴歌+の背景に咲く真っ白な花の名前も、「コトカ」である。

ひとつの問題は「ひとりのアイドルによって永遠に解決されて以後顧みられない」ということはなく、その都度異なるアイドル、異なるアプローチによって乗り越えられる。人によっては「禅の公案のようだ」と考えるかもしれない。

カトリック教徒が聖人の名前にあやかるのもよくあることで、さらにはこの考察の中だけでも「ウィリアム」という名前が何度も出てきてしまう(ウィリアム・ウィルソン、ウィリアム・シェイクスピア、ウィリアム・クレイグ、ウィリアム・ギブスン、『幻影の盾』の騎士ウィリアム)。するとなにが偶然でなにが偶然でないのか、わからなくなってくる人も、あるいは出てこなくもない。
ちなみに、りあむもウィリアムの短縮形のひとつで、「りあむのお姉ちゃんの名前はのえるなのではないか」と噂されたことがある。
また、ヘレンさんにも襲名制度がある。

「名乗りをあげる」ことには、なにがしかの名を継ぐ者である宣言であったり、後世に語り継がれて恥じない名である自負がこめられていたりする。
また、芸能界でイニシャルといえば暴露トーク内で伏せ字の役割を果たす印象が強いけれども、それがなんらかのデザインを伴ってアイドルの衣装に刺繍されると、たった一人彼女のためだけに用意された晴れ着になる。
歌詞のなかになんらかの形で名前を織り込むことも、時折行われる。



[※5]ミステリのオタク目線で判断すると、芥川龍之介から伸びた線は北村薫にも繋がっており、さらに米澤穂信もこういうアイデアを温めていた時期があったようだ。
北村薫『秋の花』や米澤穂信『ボトルネック』がその実例である。
両者に共通するのは、「仮に私があなたのドッペルゲンガーであるとして、あなたを喪ってしまった私は果たして何であることになるのか」というテーマを扱っていることである。
かつては未亡人という単語も動員できたかもしれないが、現代の風潮はその前近代的な響きをもはやよしとしないわけで、不可避的に「現代的自我の病理」が鎌首をもたげることになる(私は都市に孤立してもなお、何者かでなければならない!)。
それが『秋の花』ではいつもふたりだった女生徒のひとりが亡くなることや御神酒徳利のお噺を通じて語られる(秋海棠はもちろん、なぜかゆかりご飯も出てくる)。
一方、『ボトルネック』の主人公は、死産だったはずの姉が生きていて自分が生まれていないパラレルワールドに迷いこむ。

ついでに触れておくと、グラブルではルシフェルを喪ったサンダルフォンSandalphonのストーリーが、このテーマを扱っている。
ふたりの記憶の中に欠くべからざる風景として、庭園パラダイスが繰り返し現れたことは、おそらく偶然の一致ではない。
ゆかさえの場合はベゴニアや百合、薔薇などが果たしてくれた役割を、彼らの場合はコーヒーの樹が果たしたのだと、私は考える。Rêve Purの花満つガラス瓶と、ふたりの天司にとっての湯気立つコーヒーカップは、物語上の重要性においても必要性においても、寸分違わない意味を秘めている。

かつての反逆者サンダルフォンは今、ルシフェルの理想を継ぐ者である。
同様に、ふたりもなんらかの理想の反逆者/代行者/後継者である運命と対峙した。

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「どうせこういうお話は、選ばれた者が試練に成功しておしまいじゃないか」という安心は、私にはなかった。実例としては、コラボ先のひとつであるプリコネRe:diveにおいて、覇瞳皇帝がこの試練を突破できなかったことを挙げればよいだろうか。
キャルとふたりきりの庭園で、覇瞳皇帝はおにぎりを食べることになる。しかしそのおにぎりは、彼によって名前を奪われたペコリーヌがキャルたちと育てた新米のおにぎりだった。なんの悪意も介在せず、むしろキャルと覇瞳皇帝ふたりの善意から起きたこの出来事は、「手段を誤り、成果物だけを欲しがった偽物」への事実上の告発になってしまったと言えるだろう。
私が思うに、彼の敗因はそういう種類のものである。これはアリストテレスがソフォクレスSophoklēsの『オイディプス王』などを分析した『詩学』の作劇論に則った表現内容であり、こちらの結末の方が「古典的でオーソドックスな悲劇らしい」と評価された時代と場所もあった(ちなみにウマ娘のアグネスデジタルにも『詩学』から引用したセリフがあり、ライター氏はほぼ確実にこの一冊の内容を把握しているはず)。

漱石の『三四郎』も、こういう構成の中に三四郎の失恋を置いている。彼の場合はベゴニアやコーヒーではなく、ヘリオトロープと偶発的な関わりを持つが、その香りは彼の手元には残らない。

「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔を後へ引いた。ヘリオトロープの罎。四丁目の夕暮。迷羊ストレイシープ迷羊ストレイシープ。空には高い日が明かに懸る。
「結婚なさるそうですね」
 美禰子は白い手帛を袂へ落した。

『三四郎』

担当アイドルのコミュでこういう表現に出くわすと、私などは本当にビックリしてしまい、読後すぐにはまともな感想も言えず、右往左往してしまう。それで遂には、こういう長文考察をでっちあげてしまうのである。

永井荷風の『断腸亭日乗』にも、胸を衝かれるような記述があった。

八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人々に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。

大正7年8月8日の記事。


人間、死ぬべき/生きていく場所を定めることは、なぜだか難しい。
しかしこの種の表現はいつも破滅的な結果を伴うとは限らないし、現代ではドラマや少年マンガの中にさらっと登場する親しみ深いものでもある。
個人的に印象深い例だと、『アストリッドとラファエル』における組み木細工の箱の話であるとか(※ミステリなのでネタバレは避ける)、『ジョジョの奇妙な冒険』第四部における億泰の父親のエピソードが挙げられる。ほとんど怪物と化した彼が箱の中に探していたものは、かつての家族が揃った集合写真だった。
一度は破り捨てられたこの写真も、しかし仗助のクレイジー・ダイヤモンドの能力で復元される。これは「虹村父子のような過去があっても、杜王町でなら暮らしていけるだろう」と思うこころの反映だと言えないだろうか。

深い理由なんかねえよ
「なにも死ぬこたあねー」
さっきはそー思っただけだよ

『ジョジョの奇妙な冒険』30巻 虹村兄弟その4

そしたら兄貴は…『おまえが決めろ』って言うんだよ……
『億泰…行き先を決めるのはおまえだ』ってな…
オレはちょっと考えてよォー
『杜王町に行く』って答えたら目が醒めたんだ………
とてもさびしい夢だったよ

『ジョジョの奇妙な冒険』46巻 クレイジー・Dは砕けない その8

誰かにそこで生きるきっかけを示すことは、きっと承太郎が言う通り「この世のどんなことよりもやさしい」のだろう。それは同時に、仗助が祖父から杜王町への信頼や、そこを守ろうとする遺志を受け継いだことについての評価でもある。
だからこそ第四部のラスボスは、匿名のまま殺人を重ねることで「この人とは暮らせない」を「この町では暮らせない」に変えて汚名を着せるような人物だったのではないだろうか。

『ダイの大冒険』のゴメちゃんも幾度となくこういう「きっかけ」になって、遂には大魔王バーンから「奇跡の産物」と呼ばれることになる。大魔王の言い分が正しいとすれば、この奇跡は「ぼくのトモダチになってよ」というダイの願いから始まっている。


[※6]このあたりの事情については、楓さん考察の中で疑問に感じて以降、ちょっとした宿題のようなものになっている。取り繕わずに自白してしまうと、蒼と青の使い分けのルーツが本当のところどこにあるのか、私にはいまだ突き止めることができないのだ(己が無能をえらそうに告白)。
もう少し詳しく言えば「ミッシングリンクがみつからない」というのが一番近い実感になる。

現代のJ-POPやアイドルソング、アニメソング、ボカロ曲などでも、ほとんど当たり前のように青や蒼は使い分けられていて、シンデレラガールズの楽曲(『Nation blue』など)やカバー曲の数々(Angela『蒼穹』やFLOW『Colors』など)にも、その傾向は見受けられる。

漱石の『虞美人草』など読んでみても、青/蒼に限らず金、紅、紫、銀、翠などについて諸々それらしき配置がなされていることがわかる。

粧は鏡に向かって凝らす、玻璃瓶裏に薔薇の香を浮かして、軽く雲鬟を浸し去る時、琥珀の櫛は条々の翠を解く。

『虞美人草』では他にも紅いガーネットをあしらった金の懐中時計が
キーアイテムになったりするし、クレオパトラが黄金の寝台上で自害するシーンを
抜粋・翻訳してあったりもする

……私の感想を言えば、紗枝はんにも似合いそうな美文調である。
このような表現は、漱石がテート美術館で鑑賞したターナー、ミレーなどのラファエル前派やジョン・ラスキンあたりの思想と関わりがあるのかもしれない。すると「彼らの通いつけのサロンの主催者であるジョージ・マクドナルドあたりにも注目した方がいいのかな?」ということになるのだが、しかしピエール・ルイスの証言に拠ると、マラルメやアンリ・ド・レニエはラスキンを読んでいなかったという。

ここに集まっていた者の誰一人、主人でさえ、ラスキンを一行として読んでいなかったのだ。マラルメだけは彼の著作のタイトルは知っていたが、もう一度繰り返すが、誰一人として、彼もまた、ラスキンが死んでいるのか生きているかを言うことができなかった!

1890年7月16日付、ピエール・ルイスからポール・ヴァレリー宛ての手紙。
引用元はゴードン・ミラン『マラルメの火曜会』柏倉康夫訳。
(※ちなみにこの時、ラスキンは存命)

ただなんというか、マラルメは音葉さん同様ある種の共感覚を持っていて、幾つかの音節から色を感じることがあると告白していた(1888年10月23日の火曜会の席で)。この「幾つかの音節」のひとつは "or" すなわち黄金ではなかったかという仮説を立てられなくもないが、私自身に共感覚は備わっていないこともあって、事実このアイデアの起源をどこに見いだすべきなのかは、やはり今の私にはわからない。
シンデレラガールズの内部に限定してみても、『印象』に歌われる「赤、青、黄色、白」などは同じルーツから出たように見える。ちなみに『印象』の作詞はゆかりに『私色のプレリュード』を書いたのと同じ、烏屋茶房さんである。

別に詩人でも絵描きでもない私は、ここで鮎川哲也の『薔薇荘殺人事件』を思い出す。謎解きパズルとして書かれたこの作品によせた花森安治の解答は、「色彩」の用い方について手厳しい一方で、「ミステリはなぜこのような《形》で読者に提供されるのか」という二重底の謎に解答できないまま、本題である犯人当てやトリックの種明かしに成功してしまう。

私が見るところ花森氏はウマ娘におけるマヤノトップガン系の天才だったのだが、その作品中だけを見てもアグネスタキオンやネオユニヴァースのような別タイプの天才がいて、それぞれが探り当てその手に掴もうとするモノの感触は異なる。こういう状況はおそらく、フィクションでも現実でもそれほど違いはないだろう。Pについても担当アイドルは人それぞれ、思い描く最高の活躍シーンも人それぞれである。
たしか漱石は「色、形、質」の順で対象を捉えるのが衆生だと『虞美人草』に書いていた。色が見えれば色で、色がみえなくても形で、形も捉えられなければ質でーーという感じで、最終的には「群盲象を撫でる」ところに落ち着くのだとかなんとか。

いずれにせよ翠は、この考察でも扱っているスーベニアと関わる色として扱われているようだ。
ある状況下ではーーたとえばデウカリオンの洪水のお話([※12]でアストライアの神話とも関わる)の中においては、洪水が引いた後に白鳩の持ち帰ったオリーブの枝葉が、この翠ではないかと見立てることもできる。
ギルガメシュ伝説に出てくるレバノン杉や不死の草なども、多分この色ではないだろうか。
雪原にせよ砂漠にせよ、四季ある国で冬を越えて迎える春にせよ、健康な木々や空、水の色彩は生物の目を介して特殊な価値を付与される。それで私も七草粥をありがたがったりするのかもしれない。昔見たキアロスタミ監督の映画『桜桃の味』のことなども、うっすら思い出した。

こういう翠の例のひとつに、SSR[音色を抱きしめて]水本ゆかり+があることは、その昔『水本ゆかりと《賢者の石》』という考察で少し触れた。そしてもうひとつ、最近ではフェスタ・フェリーチェからの花束というのも加わったと申し上げたい。

Bloomeさんコラボで届いたゆかりちゃんのブーケ(ありがとう)。
中でもアイビーは、今も元気に私の部屋を飾っている。

翠の存在感は、たとえばグラブルにおける『俺たちのレンジャーサイン』のジェイドや『荒るる旻天、帛裂く調べ』のスイなどによっても印象に残る。少なくともCygames内部ではシンデレラガールズのみにとどまらない傾向(または共有設定)のようで、ウマ娘にもサイレンススズカの勝負服コミュのような遣り取りがあり、はたまたSSR[花形・弥栄之翠]サトノダイヤモンドのような、新年を翠で祝うものもある。

なぜこういう表現が共有されうるのか、はっきり指摘するための材料はほとんど存在せず、大御所だろうとデビュー間もなかろうと、「人それぞれ」のような気もする。
この件については、深掘りしようとすればするほど「シャンパンの泡はどこから沸くのか、できれば君、教えてくれたまえよ!」とクダを巻くベロベロの酔っ払いみたいになってしまうこと請け合いである(私の姿もそう見えるに違いない)。

音の青さが見える音葉さんと、色はよくわからないなりに音葉さんの音は好きなゆかりちゃんの切磋琢磨のありようについても、ここに想像の大ヒントがありそうなのだが……。

ついでに触れておくと、翠は紅と主観的に見分けがつかなくなったり、客観的に翠から紅に移り変わったりすることがあるようだ。
たとえば紅葉やトマト、リンゴであるとか、赤緑色盲(色弱)であるとか、写真を現像する暗室における赤い灯、あるいは血に染まる緑色の手術着、時限爆弾を解体するために切断しなくてはならないコードの色などが、思わせぶりな形で創作の中に取り入れられた時代もあった。
私が実際に読んだその手の作品はだいたいが昭和、それも戦後の推理小説である。推理小説以外では遠藤周作の『海と毒薬』が思いつく。海外ミステリで一作挙げるなら、クリスチアナ・ブランドの『緑は危険』を推したい。
それからもうひとつ、『ドグラ・マグラ』にも次のようなくだりがある。

 ……ナント諸君感心したか。見たか。聞いたか。驚いたか。
 吾輩アンポンタン・ポカンが一たび「脳髄は物を考える処に非ず」と渴破するや、樹々はその緑を失い、花はその紅を消したではないか。いっさいの唯物文化は根底から覆され、アラユル精神病学は悉く机上の空論となってしまったではないか。

夢野久作『ドグラ・マグラ』

紗枝はんの第二ソロ曲『薄紅』も、このような視点からスーベニアを扱った歌として鑑賞することができる。

紗枝はんは「薄紅は記憶の扉開く」と歌うけれども、それは「時を知らせるように流れて落ちる」……まるでこの考察の冒頭で言及した、2DリッチMVの心中シーンにおける彼女の左手のように。



[※7]ウィリアム・ギブスンが『ニューロマンサー』の中に織り込んだイメージのひとつに、"Minuit"がある。

 どこかの時計が鐘を鳴らしはじめた。ヨーロッパからの古色蒼然たる鐘。
 真夜中だ。

『ニューロマンサー』第三部 真夜中ミッドナイトのジュール・ヴェルヌ通り

2DリッチMV作成者の方が『ニューロマンサー』をドミノ倒し的な連想ゲームの果てに引用することができた理由のひとつは、ここに見出だされるだろう(もうひとつの理由については、[※15]を参照)。


[※8]百合からは死の匂いがするーーという感覚がいつ・どこに始まるのか、正確な話を私は知らないが、少なくともユグノー戦争やブルボン朝の家紋から始まるわけでもないだろう。フィレンツェの紋章にしても、ジャイロ・ツェペリが着ていた処刑吏の制服にしても、百合(フルール・ド・リス)は描かれている。
なんでも、宗教画に描かれる真っ白なマドンナリリーは中東から欧州に持ち帰られたもので、そのきっかけは十字軍だったそうだ。それ以前から存在したフルール・ド・リスは、まずアヤメを図案化してはじまったものの、デザインが具体的に示す内容はユリへと変遷していったことになる。
アヤメすなわち Iris は虹の女神アイリスの名前を由来にしており、眼の虹彩も英語ではやはり Iris と呼ばれている。本来ならアヤメに備わっていたこういう文脈が、百合にも幾分かは影響したのだろう。

私の記憶にある内で最も古い話はサッフォーの故事(紀元前6世紀頃)だったため、私はその話を持ち出した。しかしこれもポオやボードレールが魅入られた古代ギリシア文化の輸入ともいえて、フランスやベルギーの文化ではないかもしれない。漱石も『三四郎』でサッフォーを持ち出している。

よし子は足を芝生の端まで出して、振り向きながら、
「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使った。「サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか」
 美禰子と三四郎は声を出して笑った。その癖三四郎はサッフォーがどんなところから飛び込んだか能く分らなかった。

『三四郎』

同様にシェイクスピアが見出した百合の由来のひとつが古代ローマの貞女ルクレツィアで、これは『ルークリース凌辱』一作に限らず、たとえば『タイタス・アンドロニカス』に登場するラヴィニアもその影響下にある(やはりフランスの話ではないのだが……とはいえヴィヴィアン・リーもラヴィニアを演じたことがあるというのは、私にとって興味深い話である)。

見ろ、マーカス、ああ、ルーシアス、見ろ、妹を!
俺が兄弟のことを言ったら、新たな涙が
この子の頬を伝った、まるでしおれかけた
ユリの花に結ばれた甘い露のしずくのようだ。

シェイクスピア『タイタス・アンドロニカス』松岡和子訳

ちなみに三島由紀夫の場合は『仮面の告白』の中で、グイド・レーニの聖セバスチャン図について、いろいろ書いた(婉曲)。ドビュッシーにも『聖セバスチャンの殉教』という劇伴音楽があって、その第一場は「百合の庭」である。

彼は美しく倨傲だった。彼の兜には町の娘たちが朝毎に贈る白い百合の一輪が挿されていた。

三島由紀夫『仮面の告白』

他方、フランス文化圏の百合の話のうち、私が知る限り一番古いものはフランス王家成立前どころかキリスト生誕以前に現れていて、それはカエサルが『ガリア戦記』の中で包囲戦に用いたLilium(百合)という罠である。これは落とし穴に尖った杭を埋めて草で覆ったもので、その手前に設けられたこれみよがしな別の罠を飛び越えた先の、着地点あたりに仕掛けられた。事によっては、この百合はそのまま誰かの墓標になっただろう。
普仏戦争の直前、ナポレオン3世は、カエサルと戦ったガリアの総大将・ウィルキンゲトリクスの銅像Statueを作らせている。また、普仏戦争で敗れた直後、ジャンヌ=ダルクの生家では乙女の加護を祈る言葉が記帳されたという。

百合は漱石の作品にも時折登場して、その正体はなんぞやという『漱石の白百合、三島の松』のような本が書かれることもある。
コミュで共演者として登場するよしのんの出身地から、テッポウユリ(奄美大島原産。鹿児島県の離島のいずれかに生い茂ることもあるだろう)を連想することもできそうなものだが、難点として『夢十夜』の百合は象徴としてのもので、「テッポウユリは、むせかえるほど強い匂いがする花ではない」という指摘がこの本では始終繰り返される。
『Secret Mirage』の百合も「むせかえるほど強く」香る。

漱石自身、修善寺の病床にあって、既にこういう話を意識していた。

 山を分けて谷一面の百合をあくまで眺めようと心に極めた翌日から床の上にたおれた。想像はその時限りなく咲き続く白い花を碁石のように点々と見た。それを小暗く包もうとする緑の奥には、重い香が沈んで、風に揺られる折り折りを待つほどに、葉は息苦しく重なりあった。ーーこのあいだ宿の客が山から取って来て瓶に挿した一輪の白さと大きさと香から推して、余はあるまじき広々とした画を頭の中に描いた。
 聖書にある野の百合とは今言う唐菖蒲のことだと、その唐菖蒲を床に活けておいた時、はじめて芥舟君から教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合った一月前も思い出された。

夏目漱石『思い出すことなど』

我々が百合だと思っていたものの正体は実は菖蒲かもしれず、さらに「いずれ菖蒲か杜若」ともいうからには、杜若とも区別がつかないかもしれない。
花そのものやその文化史について知らずに花言葉を振り回すのは危険であるーーいや、むしろそこに罠を仕掛ける作家もいるぐらいで、夢野久作の『押絵の奇蹟』に登場する花菖蒲はすなわち「宗教画の白百合」であるとしか、私には思われない。また、連城三紀彦の『戻り川心中』は菖蒲心中と呼ばれる事件を扱った傑作ミステリとして知られる。

私が亡くなりますようなことがございましたならば、すみませぬがただ一度でよろしゅうございますから私のお墓にお参り下さいまして、おできになりますことなら多くの花菖蒲をお手向けになって下さいませ。お母様がお斬られになった時に、お座敷の前に咲いておりました思い出の花でございますから……。
                   ーー夢野久作『押絵の奇蹟』

この菖蒲心中の真相は、今以って謎に包まれている。
                  ーー連城三紀彦『戻り川心中』

この件はミステリオタクにしか関わりがないようでいて、案外そうでもないらしい。
たとえばあなたがミリオンライブのPさんであるとしたら、
おそらく白石紬のソロ曲『瑠璃色金魚と花菖蒲』を連想できるはずだ。

しかし夏目先生、「漱石」というペンネームの由来からして「石に漱ぎ流れに枕する」という言い違いをしれっと押し通すエピソードから引っ張ってきたほどの人なので、「余の百合のイメージはこれよ」と思ったら、やっぱりそれで押し通してしまうのであった。
このあたりは鹿鳴館時代を「猿芝居」と受け入れつつ美化した三島にも似ているように思われる。すると三島の手本になった芥川の手法ももちろん、これに似ているのである。


[※9]太宰治も、もしかしたら『Secret Mirage』のアイデアを持っていた人のひとりと言えるかもしれない。
私がここで述べた考察の部分要素のうち幾つかは、知名度抜群の『斜陽』や『人間失格』より、むしろ『葉』に見られるだろう。そのひとつがヴェルレーヌの引用であり、『鴉』の"Nevermore"を求める声であり、はたまたサッフォーの死への言及ということになる。
三島由紀夫が太宰に会いに来つつ「嫌いだ」と言い放った理由も、なんだかここに見えるような気がする。


[※10]ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』によると、「完成した映画は、さいころの〈一振り〉による創造物などではけっしてない」のだとか。撮り直し可能な材料の中から権威筋(たとえば監督、カメラマン、スポンサー、プロデューサーなど)が選び抜いたカットをモンタージュしているから……ということらしい。
こうしてみると私は、彼の逆張りをしているようでもある(コミュ内でゆかさえが演じた2時間ドラマ前後編や、彼女たちのCDもまた、複製技術の産物であるからには)。こういう場合、逆張りする側は「オリジナル/複製の二項対立って、そんなにいつでも歴然としているものですか?」という話に持っていくのが定石とも言えるだろう。
有名なところでは「テセウスの船」みたいな話がある。
「ウマソウルをもったウマ娘は、我々の知る名馬とどこが同じでどこが違うのか」みたいな話を、サイレンススズカやネオユニヴァースを例にとって考察してみてもよいのだろうけれども、ここはその場ではないので数千字も書かない。
また、[※5]でも述べたが、オリジナルが消失した後の複製は、それ自体がオリジナルの痕跡を今に留める証拠品なのではないかとも思われる。
老舗の蒲焼きのタレは、どうしてもオリジナルに注ぎたして作った伝統のタレでなくてはならないのか。タレを保管する壺が割れてしまえば、そこで老舗の命運は尽きてしまうのか。云々。
仮に、現存する仏舎利を一箇所に集めると、おそらく数トンに及ぶのだとかいう。罰当たりなことを言っていたら申し訳ないが、巨大なお釈迦さまが愚地克巳みたいな真マッハ突きを繰り出して衆生を救うのだとしたら、それはそれでありがたい。
そもそも、この考察が対象としているのは、唯物史観で眺めうるこの現実世界ではなく、そこから複製された世界のうちのひとつ(水本家の書斎に『イジチュール』があって、ゆかりがそれを読んだ世界)なのだと主張してみてもよい。既に述べた通り、ここでは《交合》の意味が書き換えられている。


行為L'Acteーーそして賭けやダイスの出目に関する解釈は、私がここで書いたようなもの以外に、探せばいくらでも例があるだろう。
この考察でたびたび引用したボードレール『パリの憂愁』にしても、詩人の手帳によれば『六六』という題名が候補にあったようだ。
また、柏倉康夫訳のマラルメ『賽の一振り』(月曜社)にも、この問題を扱った訳者解説が収録されている。

サイコロを無限に振り続けた場合に、はたして1から6までの目が出る確率は等しくなるのか。

『賽の一振り』訳者解説、注27

柏倉氏はブランショの『文学空間』におけるマラルメ解釈を引用したうえでこういう問題を取り上げたので、「これはすこぶる大真面目な話に違いあるまい」と門外漢(※たとえば私)にも自ずと察されるわけなのだが、一方それを目にした私の脳裏にポワンと浮かぶ泡は、またもやホームズものの一節だったのだから、オタク丸出しである。

この問題はウィンウッド・リードが穿ったことをいっている。人間は個々に見れば不可解の謎だけれど、集約的に見るときは、一個の数学的確性をもつというのだ。たとえば各人が何をするか、誰のことをでもいちいち予言することはできないけれど、平均数が何をするかということになれば、これを確言することができる。個人は多種多様であるけれど、そのパーセンテージはつねに一定であるーー

コナン・ドイル『四つの署名』延原謙訳
ホームズはワトスン博士に前以て、ウィンウッド・リード『人類の苦悩』を薦めていた。
この引用はどうも、ワトスンの結婚についてのホームズの感慨とも結び付いているようなのだ。

ミステリオタク向けにふたつの比喩を用意するとして、まず第一にサイコロは開かれる前の密室/解かれる前の謎である。出目のひとつが6なら密室トリックの謎は暴かれるけれど、6ゾロが出ないかぎり犯人を捕まえることができない(あるいは犯人を名指しできても、密室の謎は解けずアリバイも崩れず裁判には勝てない)。
また第二の比喩として、ホームズ長編『バスカヴィル家の犬』における10月18日も、ワトスン博士にとってはことのほか思い出深い日にあたるのだが、これがゆかさえの誕生を予言しているなどということは勿論ない。この一致は全くの偶然によるものである。にもかかわらずこの作品には、箱(賽筒)に関する奇妙な持論が述べられた箇所があるーーそれも、ホームズの台詞とワトスンの記述の双方、二箇所にわたって。

ワトスン君、もう窓を閉めようじゃないか。少し突飛かもしれないが、僕は空気を集中させることが、精神の集中に役だつと思う。熟考するためにみずから箱のなかへ入る、というところまではいかないにしても、これは信念から来た理論的結論なのだ。
                   ーー第三章 問題の鍵

思えばあの荒廃した石室の中にこそ、僕たちをかくも悩ます問題の中核がひそんでいるのに違いあるまい。
                   ーー第十章 怪しい女の名は

いずれもコナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』延原謙訳。
10月18日、ワトスンがその石室の内にようやくみつけたものは、いったいなんだったのか?
小学生の頃の私はその答えを知って驚き、かつ喜んだ。我ながら無邪気なものである。

ふたつのサイコロは二重の密室、その意味するところは生と死ではないかと考えることもできる。生と死が崩壊するのは審判の日で、その日キリストが現れるーーと考えることができるなら、その人は当然キリスト教徒に違いない(私から見ると讃美歌の『もろびとこぞりて』はそういう内容である)。
キリストの話はよくわからないが、弥勒菩薩や阿弥陀如来やお地蔵さまが現れると聞いたことがあるな……という人もいる。少なくとも漱石がそこに仏性を感ずる人だったことは、『思い出す事など』に書かれている。

『三四郎』には、画家の原口さんがこの問題を絵描きとモデルの関係にたとえた部分があり、『草枕』などもそれで長編を一本仕上げてしまったものだと私は思っているのだが、実際はどうかわからない。というのも、たとえば「『三四郎』をイギリス王家の紋章に見立てるなら『草枕』はフルール・ド・リスにあたるようですね」などというおしゃべりは、キザったらしいだけで何事も言いおおせていないのではないだろうか?

すべての例をかき集めようとすれば話がいつまでも終わらず、たとえば三島由紀夫がこのことを扱ったエッセイ(小説ではなく)を集めただけでも、一冊の本になってしまう。『行動学入門』がそれで、彼は「行動と待機」について述べるなかで、猪狩りに続いて賭けという題材を持ち出している。

なしくずしに賭けていったのでは、賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められなければならない。そこまでいくと行動とは、ほとんど忍耐の別語である。

三島由紀夫『行動と待機』

ちなみに、劇中のゆかさえが選んだのも、忍耐の道である。

『Secret Mirage』の世界観ーーいうなれば一揃いのタロットカードは、可能性としては存在しえた「審判(キリスト教徒向け)」や「吊られた男」ではなく、「正義」の一枚を提示したのだと考えてみよう。
この場合、6ゾロは何を意味するだろうか?
私が思うに、「正義」のカードが正位置でも逆位置でも、ふたりがベストを尽くしたことを意味するのではないだろうか。そして我々が「ベストを尽くした」と言えるのは、どうあがいても行為が完了した時だけなのである。
「青い夜」はまさにその時を指し示している。



[※11]「骨壺に不死鳥の灰が納められる」ことと、「花の香の余韻をガラス瓶に留める」ことと、「14平米にスーベニアを持ち帰る」ことは相似の関係にある。『あらかねの器』から引用するなら「それはこの世にひとつ/言葉にはならない自分の証」である器に「夢を容れておく」ことでもあるだろう。
そういえば『秘密のトワレ』も瓶に媚薬(……ともなる彼女の体臭)を詰める手順を歌っているし、あるいは「中野有香の丹田に氣が集まると、基本技のはずの正拳突きが必殺技と謳われて然るべきような威力になる」というような話を持ち出してもよいのかもしれない。

推理小説でいえば「ヨードチンキの瓶から犯人を特定するための唯一解を導く」例なども、やはりこの手の相似である(ミステリのオタクならこれで通じるはず)。
「推理小説はご勘弁」という方のために更に別の例を挙げるなら、『西遊記』の沙悟浄が持っていたという九つの髑髏も、この手のものと考えて差し支えない。

かれに言わせると、自分は今までに九人の僧侶を啖った罰で、それら九人の骸顱しゃれこうべが自分の頸の周囲まわりについて離れないのだそうだが、他の妖怪ばけものらには誰にもそんな骸顱は見えなかった。

中島敦『悟浄出世』

芥川の『河童』も、この骸顱のようなものを登場させずにはおかなかった。すなわち、精神病院に押し込められた主人公が馴染みの河童からもらったお見舞いの黒ゆりは、どうしても他人には見えないのである。

僕は、ゆうべも月明かりの中にガラス会社のゲエルや哲学者のマッグと話をしました。のみならず音楽家のクラバックにもヴァイオリンを一曲ひいてもらいました。そら、向こうの机の上に黒ゆりの花束がのっているでしょう? あれもゆうべクラバックがみやげに持って来てくれたものです。……
(僕は後ろを振り返って見た。が、もちろん机の上には花束も何も乗っていなかった。)

芥川龍之介『河童』

合わせ鏡/紋中紋によって生成された世界はいわば無限の迷宮であり、そこから脱出することは不可能ーーつまり現実には到達できないのだという。このあたりは突き詰めると、カントール集合がどうのゲーデルの不完全性定理がどうのというお話になって、ヒルベルト・プログラムがご破算になる。ついでにソーカル事件も起きる。

無限に分割された時の中で、アキレウスは永遠に亀に追い付けないのか、それともそうではないのか。『ストーンオーシャン』でいえば、緑の赤ん坊はどうすれば確保できるのか。同じところから「ガレット・デ・ロワを無限に分割すると、フェーヴは永遠にみつからないのか」という問いも生まれる。
そこで「粉みたいになったお菓子にふーっと息を吹き掛ければ、どう見てもフェーヴ(陶器のおもちゃ)とわかるものが出てくる……かも?」と思い付く人は、現実主義者なのか夢想家なのか。私にはもはや見分けがつかない。
青い薔薇の花言葉も、こういう文脈で目配せに使われることがある。つまり、この花を介して私の伝えたい言葉が「不可能」なのか「奇跡」なのか、当ててごらんなさいなと見るものに迫るわけだ(※たとえば10周年記念アニメ『ETERNITY MEMORIES』の志希にゃんを参照のこと)。
他に「猿がタイプライターを叩き続ければいつかシェイクスピア作品を書き上げる」という言い回しもある。実際のところ猿にも人間にも無限の時間はないけれども。

無限は賽筒であって、現実は賽の目が定まる場面なのだとすれば、我々にはなにかしらイカサマを働く余地があるのではないかーーと考える人もいないことはない。
彼/彼女にとって、迷光Stray lightはその勝機であるーーなぜなら、迷光は密閉された鏡筒の内にあって、外からの視線を歪めるものといってよい。ヒトが無限を観測しようとすれば、ありのままの無限が見えず迷光が差す。(虹や鬼火、狐火などもそのような現象のひとつに数えられることがあり、また「タンホイザーゲートの近くの暗闇で瞬くCビームの光を見た」という映画『ブレードランナー』の名台詞も、私の持論ではそういう状況を示している。シンデレラガールズではいわゆる《Nの系譜》のひとつ、サイバーグラスの『Needle Light』もこの題材を取り扱っているようだ)

私自身の口ぶりにはオカルトっぽく胡散臭いところがあり、引用の方が伝わりやすいだろう。
『ウマ娘』でいうと、この件に関する識者はエイシンフラッシュである。

その上で、この有限なる現実においてもなお迷光が見えるというのなら(夢や枠物語をもつフィクションの舞台に身を置いた詩人/役者の目線を信じるならーー意識のない人間の口元に手鏡を寄せて、鏡につく曇りによって彼にまだ息があることが確認できるなら)、無限と有限もまた二重の密室である。

砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。それはどうしても海の色が陽炎に映っているらしかった。が、そのほかには砂浜にある船の影も何もみえなかった。
「あれを蜃気楼というんですかね?」

芥川龍之介『蜃気楼』

それならカップ&ボールの手品のように、あちらのカップからこちらのカップにボールを移動させることはできないだろうか? あるいはクレーンゲームのように、透明なケースのあちら側の景品をこちら側の操作で手繰り寄せることは?
……こういうアイデアに憑かれた人にとって、無限への到達不可能性というのは、「このカップには種も仕掛けもありません」という手品の改めであるとか、「筐体を揺さぶらないでください」というゲーセンの注意書きぐらいの意味しかないものと思われる。

余談のようでそうではない話なのだが、二宮飛鳥はクレーンゲームと縁がある。
彼女に限らず、シンデレラガールズではゲーセンのプライズでグッズ化したアイドルも多い。
また、ウマ娘にもクレーンゲームが登場するが、私の腕前ははっきりいってヘタクソである。

ところで、比喩ではない「合わせ鏡に映った繰り返しの像」それ自体も、現実にここに存在する《私》によって操作することができる。

たとえば、紗枝はんの劇中の役柄に対する心構えや印象は、劇の外のゆかりとの心的距離にも影響を及ぼし、また及ぼされる関係にある。

運命は決まっていて変えられない・・・・・・・・・・・・・・・……
……のなら………
おまえに変えてもらう事にしたよ・・・・・・・・・・・・・・・……

『ストーンオーシャン』17巻 メイド・イン・ヘブン その9

笛の演奏もまた、このような操作の一種とみなされることがある。
「笛吹けども踊らず」とは聖書の言葉である。しかし、「笛を吹いてみたら鬼でも心浮かれて踊りだすことがある」という昔話風の期待や前提があってこそ、笛吹けど踊らぬ人が不愉快に思えるのに違いない。『ハムレット』にもそういうやり取りがあった。

この小さい笛だって、いろんな音楽、優れた音色を出すが、君にはこれさえも吹けないじゃないか? 馬鹿な! 一管の笛よりもぼくの方がかなでやすいと思うのか?

シェイクスピア『ハムレット』

トムはほんとにふえがじょうずだ
きいたらじっとしていられない
みんなそろっておどりはじめる
ぶたどもでさえあとあしではねまわる

『トムはふえふきのむすこ』谷川俊太郎訳マザーグースより

ゆかりちゃんはもちろん、笛が吹ける。
そういう彼女が、ハムレットならぬ鏡の向こう側の自分(紗枝ちゃん・・・の目に映る水本ゆかり)を遠隔操作して、なにかしら尊いものを持ち帰ろうとする。
そして紗枝はんの側でも「ゆかりの目に映る小早川紗枝」を操作したくて……しかしあまりに無防備なゆかり(『私色のプレリュード』を歌うにあたって「紗枝ちゃんみたいに清楚に……」と抱負を述べるレベル)を相手に自分を偽ろうとするのは罪ではないかとも感じてしまっている。あまり何度も繰り返すとくどいようだが、目は心の鏡である。
この状況設定のためにも、『Secret Mirage』コミュの劇中劇は必要だった。

無限の中からただひとつの理想=現実を掴むことは、ジョジョ7部『スティールボールラン』の中ではネットに弾かれていずれのコートに落ちるとも知れぬテニスボールに例えられたことがあり、はたまたルーレットやスロットなどのギャンブルにも、どうしても似ている。《私》はこういうギャンブルに挑んでいるのだと考えてみよう。
もしも《私》がルーレットやスロットの回転を止められないとすれば、そこはどういう世界か? 
アレキサンダー大王はゴルディアスの結び目を断ち切ることもなく、「えーっと、えーっと……」とまごついたままで、東征の軍を率いたりはしない。ひとりカエサルがルビコンを渡らないだけでは済まないのである。
世界史の先生も、記憶すべき名前をどこにみつけたらいいか悩みに悩み抜いた挙げ句、塩・紅茶・チョコレート・阿片・石油などをめぐる諸々から手をつけて、人口ピラミッド、唯物史観etc.について一通り述べ終えたあたりで「本日、自習」と生徒に告げることだろう。
しかしこの先生、きっと生徒に告げるに足る記憶すべき名前を探して、当分の間はどこやらSomewhereほっつき回ることを選ぶのではないだろうか。
こういう先生の名前は、《私》からみて記憶に値する。もしも無限の内に現実が含まれるならば、彼/彼女は《私》のいる教室に帰ってくるかもしれない。……いつか先生は静かでガランとした空間にポツンと一人残った《私》の名前を呼ぶだろう。それで、《私》もここが現実なのだとわかる。

この先生には、沙悟浄にとっての三蔵法師を彷彿させるところがあるように思う。ゆかりはこういう人の存在を仮定して、「白百合先生」と呼んだのかもしれない。

「百年、私の墓のそばにすわって待っていてください。きっと会いに来ますから」

夏目漱石『夢十夜』

私の言い分は要するに「現実に到達できない《私》を現実に繋ぎ止める/無限に到達できない《私》を無限へと連れ去る存在があるとしたら、それはデウス・エクス・マキナのような特徴を具えているだろう」ということである。日菜子ちゃんならおそらく、「白馬の王子様」と呼ぶのではないだろうか。私自身は「ゆかりちゃんみたい」だと思う。

余談だが、無限に続く円周率3.141592…の中に1018という数字の組み合わせはどの程度の頻度で出現するのだろうか、それとも全く出現しないのだろうか? 私自身が計算したわけではないけれども、小数点以下1223桁あたり、57400桁あたりなどにみつかるのだそうな。


[※12]アストライアはもともと文学上の女神か、そうでなければピタゴラス教団やオルペウス教(秘儀宗教だったのでそれほど詳細が伝わっていないが、肉体を魂の墓と捉えて輪廻転生を信じるような教えだったらしい。アリストテレスの『形而上学』にはオルペウス教徒への苦情に近い内容も含まれていたりもして、彼らが影響力の小さい集団でもなかったことは自ずと察せる)と関わる女神だったと思われる。神話の内容そのものよりは、タロットカードの「正義」に影響を与えたことで有名かもしれない。
グラブルでいえば十賢者のマリア・テレサと対になるアーカルムシリーズの星晶獣ジャスティスの姿がそれにあたり、またプリコネにおけるペコリーヌの真の名前がユースティアナ・フォン・アストライアである。

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戦闘画面では攻撃ターゲットがジャスティス(女性)とアストライア(天秤)に
わかれていて、「黄金の剣」などのCT技を撃ってくる。
グラブルには最近また、天秤座の占星武器を持つ男性アイドル・ロディも登場した。

私が「文学上の女神」というのは詩の女神たちムーサイのことではなく、「古代ギリシア・ローマ文化において有名だった複数の終末論を、ひとつの神話世界のお話として編集する都合上、そういう名前と立場を与えられた女神なのではないか」という意味である。
この「複数の終末論」のひとつはヘシオドスの『仕事と日』の中で謳われる五時代説を指しており、もうひとつは大洪水から方舟で逃れるデウカリオンの物語(ノアの方舟の話そっくり)にあたる。
堕落しきって血と争いに飢えた鉄の種族としての人類を滅ぼすため、ゼウスは大洪水を起こすのだが、大洪水に待ったをかけて人類の味方をしていたのが、女神アストライアだったーーという形でふたつの話をひとつにまとめたのだろう。

フェリックス・ギランによると、元は雨などの気象を司る女神であった季節女神たちホーライと呼ばれる存在があって、これが自然の秩序を司ることになり、また人間道徳の秩序も司るとされるようになった(そういえば2DリッチMVでも、雨が降っている)。
ヘシオドスはこの女神たちを三柱と数え、『神統記』では正義ディケー平和エイレネ秩序エウノミアと呼び、また『仕事と日』ではそれぞれを正義ディケー廉恥アイドース義憤ネメシスと呼んで、特に後者では五時代説について謳った結果として「正義の女神は最後まで人間を見捨てず地上に残っていた」という設定が広まったことになる。
詩人の発想としてはおそらく「目の前で正義が蹂躙されて、なお廉恥心なく義憤も感じない連中ばかりになれば、それこそ世も末じゃろがい!」という感じの、実に由緒正しいお説教である。
由緒正しいものは、普段あまり縁がないようでいて、案外身近なところに受け継がれていたりする。たとえばジョジョ第四部で露伴と康一に吉良の存在を警告した杉本鈴美のセリフも、この思想を継承したようなところがある(※ちなみにアニメで杉本鈴美を演じたのは原紗友里さん)。

あたしが生まれ育った思い出の杜王町で
15年に渡って殺人が行われている………
とても「怖い」わ……
そしてとても「誇り」が傷つくわ

『ジョジョの奇妙な冒険』36巻  岸辺露伴の冒険 その3


ヘシオドスの説ではないが、災厄の女として有名なパンドラの装いを美しくしたのも、この季節女神たちだとするものがある。確か、名高い三女神像のうちにはアプロディテと二柱の季節女神たちの組み合わせから成るものがあったそうだから、それと関連した説なのだろう。
ゼウスの意向やヘシオドスの見解はどうあれ、「女性の美は必ずしも人類の不幸を願っての贈り物ではなかった」と考える人がいても、別におかしくはないのだと私は思う。

いずれにせよアストライアは正義の女神と同一視(地上にいれば正義ディケーで、天にあってはアストライア。この発想はアプロディテ=ウラニアとの繋がりもあったかもしれない)されたり、母娘であることになったりした。

三女神が三相一体のものであるとするなら、アストライアすなわちディケーの神格は、廉恥や義憤からも影響を受けることになる。アイマスにおけるその顕著な例は『ダンス・ダンス・ダンス』におけるこの台詞に現れた。

蘭子ちゃんはここでも明らかに、青と蒼を使い分けている。
私はこのような事例の数々をできるだけ視野に収めたうえで、
それがゆかさえにどんな影響を及ぼすのかを記述したいと考えた。

義憤ネメシスはテーバイ攻めの物語で有名なアルゴスのアドラストス王に祀られていたとされ、アドラステイアという別名を持っている。その意味は「不可避の」というところらしく、それゆえか必然アナンケとも呼ばれる。これは季節女神が人間道徳の秩序をも司ることになったきっかけになったかもしれず、アドラステイアは立法を、ディケーは司法を担当したとされている(女神アイドースがなにを担当したのか私はよく知らないが、一般名詞としてのアイドースは『ニコマコス倫理学』で分析されている)。
ネメシス/アドラステイアにもディケー/アストライアにも、それぞれ運命の三女神モイライ(クロト、ラケシス、アトロポス)の母であるという説があり、また、「ヘレネーを産んだのはレダではなくネメシスである」という話もある。

ギリシア人の伝承ではヘレネの母親はネメシス女神であって、レダは単にヘレネに乳房をふくませて育てたにすぎないという。

パウサニアス『ギリシア案内記』馬場恵二訳

これはどうもテセウスによるヘレネー誘拐の物語とも関わりがあるのではないかと、私は想像している。ちなみに、アッティカ北東部のラムヌウス区にネメシスの聖所があるーーと、パウサニアスは紹介した(パロス大理石でできた祭神像は、破損したものの一部が、大英博物館に持ち去られた。ついでにこれは偶然に属することなのだが、ホームズもワトスンに出会う以前は、大英博物館のすぐ近く、モンタギュー街に住んでいた)。

オルペウス教の影響を受けたと思しきアドラステイアの掟は、プラトンの『パイドロス』に書かれている。

そして、アドラステイアの掟は、つぎのように定められている。
いかなる魂も、神の行進に随行することができて、真実なる存在のうちの何かを観得したならば、つぎの回遊のときまで禍いを免れてあること。そしてもし、その回遊の機会ごとに、つねにそうすることができるならば、いつまでも損なわれずにいること。

プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳

アドラステイアの立法がきちんと実施されるよう裁きを行うのがアストライアなのだとすれば、この行進の中にはアストライアの姿もあるのだろう。
つまりはこの世に転生する前の無垢なる魂を先導して天球上を練り歩く女神たちのイメージが、蘭子ちゃんを介して楽曲『ダンス・ダンス・ダンス』に持ち込まれているのである。

こういう女神が、さらにローマの女神ユースティティアと同一視されたのだーーというのが一般的な説明だが、どうも事はそう一筋縄ではいかない。
たしかに紀元前450年頃、法の内容を公開した十二表法が制定されるまでは、貴族から選ばれた神官団のみがローマの正義(すなわちローマ法の知識)を独占していた。それだけ女神ユースティティアとその神官たちの権威は強大だったと考えてよいのだろう。
しかしローマ帝国が分裂して西ローマ帝国が滅びると、キリスト教を認めてギリシア正教を国教とするビザンツ帝国がローマ文化の守り手になる。
神官団は不要となり、少なくとも6世紀頃のユスティニアヌス法典や法学提要における「ユースティティア」という語彙からは、女神への信仰がすっぽり抜け落ちてしまっていたらしい。
一方、貴金属は朽ちないので、女神ユースティティアが刻まれた貨幣は今に残っているのだから、皮肉なものである。現代の裁判所にも、正義の女神像が設置されていたりする。アイマスではSideMのアイドル天道輝が、元弁護士という経歴上、これと関わっている(SideMのアニメ第一話で天道輝が弁護士事務所を辞するシーンにも天秤が登場して、その佇まいは無生物ながら、どこかもの言いたげだ)。
余談の上にも余談を付け加えさせていただくと、ユスティニアヌス帝の妃・テオドラを演じて評判を取ったのが、かのサラ・ベルナールだそうだ。

ところで、正義の女神像の収集家であるオットー・ルドルフ・キッセルによると、13世紀後半に至るまで、正義の女神の持ち物は剣と秤であるとは決まっていなかったという。
これはそもそも季節女神たちの正確な人数や持ち物が決まっていなかった(アプロディテとそのお供の季節女神たち二柱という組み合わせもある)から当然といえば当然なのだろうが、見方を変えれば「モンゴル来襲や大空位時代以前はバラバラだったイメージが、大空位時代以降になってようやく統一されはじめた」という不思議な現象が起きている。
正義の女神像はかつて分度器などを持っていたこともあるという話で、女神がなぜ・なんの角度を計りたいのか現代人にはピンとこないが、このあたりは星の乙女アストライアというピタゴラス教団が好みそうな名前と結び付いているのかもしれない。ちなみにアスタリスク(*記号とか、みくにゃんと李衣菜ちゃんのユニット)も同じ語源(星=aster)からの派生語である。

実のところ「天秤座は正義の女神の天秤が天にあげられたもので、乙女座はこの天秤の持ち主が天にある状態、すなわちアストライアである」という話は、いつでもどこでもそのように伝わっているわけではない。
たとえばアッティカ地方において「乙女座になった」と比定されていたのは、イーカリオスの娘・エーリゴネーだった。
パンディーオーンの御世の頃、アッティカを訪れたディオニュソス神は、牛飼いイーカリオスを通じて葡萄酒を広めようとしたのだが、酩酊や悪酔いをまだ知らなかったアッティカの人々は、毒を盛られたと勘違いして報復にイーカリオスを殺してしまった。そしてエーリゴネーは飼い犬に導かれて父の死骸をみつけると、悲嘆のあまり自らも首を吊った。
この伝承に「神々も彼女を憐れに思し召して天にあげ、乙女座にした」という話がくっついているわけなのだが……個人的な感想をいえば、私にはエーリゴネーが、ボヴァリー夫人の遠い祖先のようにーー同じ形の影のように見えることがある。

キッセルは「正義の女神が剣と秤を持つのは、大天使ミカエルのイメージを借りてできた姿なのではないか」という説も唱えている。
ドイツ含む西欧は、ビザンツ帝国の版土に含まれない。ゆえに11世紀頃、イタリアのボローニャ大学におけるローマ法研究の成果がドイツに伝わるまで、彼らはローマの女神ユースティティアの正確な姿に興味を持ってはいなかっただろうーーという以上のことを理解するのは難しいけれども、だからこそ「当時のドイツ人はユースティティア復元のためにミカエルのイメージを借用した」という話が信憑性を持つわけである。
トマス・アクィナスがパリ大学やケルンで師事したアルベルトゥス・マグヌスも、まさにこういう時代のドイツ人のひとりだった。スコラ哲学という当時の学問の方法論においては、借用という意識さえなかったかもしれない。
パリ大学はこういうふたりの影響下にもあって、ボワソナードの自然法論もトマス・アクィナスの著作から学んだところは少なくないとされている。

もしもあなたが「あえて時代錯誤も辞さない」という人なら、「正義」を貴婦人に、「廉恥」と「義憤」を獅子と一角獣に見立てることもできるはずだ。
そしてこのような発想を許容する人は、いわゆる『ルドヴィシの玉座』にも多大な関心を寄せるに違いない。玉座というのは正確でなく、現存するのは全体のその一部のみらしいが、そこには水浴する女神をはさんで、笛を吹く女性と、香を薫く女性の姿が見られる。まさにゆかさえである(えー)。


[※13]"ptyx"はマラルメが十四行詩のなかに"-or"と"-yx"の押韻を7対用意するためにこしらえた言葉であって、それ以上のことははっきりわからない。

コンソール、暗いサロン。プティックスもない、
殷々たる 無生気の 異形なる 器か、
けだし主人は 冥府の河の 水を汲みに
携えたのは、夢が誇る 全ての品々。

渡辺守章訳『彼自身の寓意であるソネ』

「"ptyx"はプチx(小文字のx)だろう」という人がいる。仮にxのことだとしても、それが宿題の方程式や関数に出てくるxを指すのか、学校で教えてくれないx(『あいくるしい』でふたりと共演した奏さんの文脈で言うと、キスのこと)を指すのかまではわからない。
また、語源を云々して「真珠貝だ」とか「梵貝だ」という人もいるけれど、その場合も『ヴィーナスの誕生』と関連付けたくてそういう解釈をしたのかどうか、よしのんの法螺貝やプッチ神父の貝アレルギー設定、マグマに突っ込まれた究極生命体カーズが貝の殻や泡を纏って難を逃れようとしたことなどを思い浮かべてよいものか、私にはちょっと明言しかねる。……このあたりの話を推理小説に仕立てると、おそらく殊能将之『鏡の中は日曜日』みたいなことになるのではないか(※元ネタは違うらしいのだけれども)。
考えようによってはキリスト教がローマの国教となって以降、ヴィーナスも地上を去ってしまった女神で、果てはタンホイザー伝説の中に山上の夢魔のような姿を見せるのだが。

ptyxについて私自身の印象を言えば、尻の据わりはよいのだろうが腰掛けようにも存在しないーーという感じになる。そしてついでに、ロス・マクドナルドとマーガレット・ミラーの夫婦漫才(?)を思い出してしまう。

中でも印象的なエピソードは、プールサイドで食事をする段になり、一人だけ背の低いクッション椅子に座ったロス・マクドナルドが、すっかり椅子に沈みこんでしまい、「思ったよりも沈んでしまったよ」と言うとすかさず、ミラーが「まるであなたの人生と同じじゃない。いつも思ったより深く沈みこんでしまうのは」と茶化すあたりです。何となく夫妻の送ってきた波乱の人生を暗示させる会話ではありませんか。このあとマクドナルドも負けずに「思いもよらぬ、高波に乗るのもね」と切り返しているのが、なんとも微笑ましい。

柿沼瑛子『マーガレット・ミラーの知られざる素顔』
マーガレット・ミラー『耳をすます壁』創元推理文庫、柿沼瑛子訳より。
これはマイクル・Z・リューインのこぼれ話で、Inward Journeyに載っているとのこと。

私自身はこの考察で「地上を去った神々」「死」「椅子」「なりたい自分」「我が唯一つの望み」など複数の言葉にptyxとルビを振っておいたが、これは私が私自身の意図に基づいてわざとやったことである(もし間違いであるとしても、うっかりミスではない)。
また、私自身の発想ではないが、過激芳乃さんによると"ptyx"は「絵に描いた餅」でもある。なんだか途端にお腹が減ってくるような話である。

更には「雪舟は幼い頃からお寺の務めそっちのけで絵ばかり描いていた。おしおきで蔵の柱に縛りつけられても、自分の涙と煤や埃を墨代わりにして、足の指で鼠の絵を描き続けるほどだった。この鼠のあまりのリアルさに驚いた和尚さんは、彼が鼠にかじられないか心配になって、戒めの縄をつい解いてしまった」みたいな逸話もあったりする。
考えようによっては、雪舟の涙に滲む鼠の絵もまた、"ptyx"かもしれない。そういえば、京都国立博物館には、雪舟の天橋立図があるそうだ。これは私の想像にすぎないが、ゆかりちゃん向けアドバイザーの過激芳乃さんとは違う紗枝はん向けアドバイザーの穏健芳乃さんもいて、登場したのが穏健芳乃さんなら、彼女は雪舟の鼠の話っぽいことを説いたのではないだろうか。
ptyxは空っぽの器なので、場合によってはほとんど正反対の意味を籠めることさえできるのではないかと、私はこのように考えている。

新田さんや茄子さんが紗枝はんに送ったアドバイスも、重要度ではひけを取らない。

このような発想を少し延長してみると、『堕ちた果実』3DMVでちとせ嬢が腰かけていた冥府の玉座もまた、そういうptyxが取りうる形のひとつであることになる。
グラブルではなんとptyxが「サウナのととのい椅子」という形をとったことがあり、これは私にとって大変衝撃的であった(えー)。
(※藤田茜さんの出演アニメのタイトルをパロディにしたようなイベント『元帝国軍人のおじさん(37歳)がサウナを通してととのいの世界をめぐる話』エンディングの爽やかスチルイラストを見れば、この椅子の効果がどのように表現されたかは一目瞭然である)

ちなみにホームズものの中にも、
ホームズとワトスンがノーサンバランド大通りのトルコ風呂屋の
寝椅子でととのっている場面から始まる話がある(『高名な依頼人』のこと)。

ところで、こういう意味不明な単語の例は、"ptyx"ひとつに限らない。
たとえば英語圏の例では、フィリップ・K・ディックの『ユービック』であるとか、ルイス・キャロル作品に出てきてジャバウォックを倒すと謳われたヴォーパルソードを挙げることができるだろう。

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つ🍩

"Jabberwock"も"vorpal"もキャロルのお手製らしくやはり意味不明なのだが、むしろ意味不明であるからには、ヴォーパルソードの正体が「法子ちゃんの知っていたドーナツの特徴や効能」を現していてもよいのかもしれない。
このアイデアは、[※5]でも触れた『プリンセスコネクト!Re:dive』でペコリーヌやキャルが「一緒にごはんを食べましょう!」と覇瞳皇帝に提案するシーンにも繋がっているものと推測できる。というのも、「ジャバウォックは言語の意味を離れたこっ酷い論争や口喧嘩を意味するのであって、ヴォーパルソードはそれを中断しうる解決策の比喩だ」という説があるらしいので。



[※14]
漱石がマラルメについて作中で触れたのは、いわゆる後期三部作の二作目にあたる『行人』でのことだった。
漱石の蔵書にはアーサー・シモンズの評論『象徴主義の文学運動(1899)』が含まれていたそうで、シモンズも火曜会に顔を出したことがあり、元ネタはここだろうと言われている。他におそらく桂冠詩人テニスンへの興味などでもマラルメと繋がっている(テニスンが世を去りナショナル・オブザーバー紙にマラルメのテニスン評が掲載されたのが1892年10月。ポオも『詩の原理』でテニスンを引いている)のだろうけれども、サー・トマス・ブラウンの『壺葬論』とは関係があるのかどうか。あるいはド・クインシーの『阿片常用者の告白』とは?
ふたりともお国は違えど同じ英語教師だったのだから、ふたりともが同じものを読んでいたとしても何の不思議もない一方で、そこのところを詳しく調査する余裕が私にはない。
漱石がエッフェル塔を見たのはマラルメ亡き後のことであり、『イジチュール』が出版されたのは漱石亡き後のことである。

漱石の『行人』で見られるマラルメへの態度それ自体は、私が『ニューロマンサー』のSF書評のうちに度々みかけたものと、さほど変わらないようだ。つまり「流行最前線(当時)のテクスチャを貼り付けただけの、古色蒼然たる金庫破り小説」というのがそれにあたる(うーん、辛辣。私が好きなホームズ短編の中には、金庫破りを扱ったものもあるというのに)。

しかしこの評、金庫とその鍵と内に収められたものについて一言もないなら、私にとっては「ちょっと物足りない」とも感じる。
もし仮に金庫が空だとして、それはプロメテウス的な怪盗・ヨリコさん(仮名)が既に中身の金塊を奪い、世間にばらまいたせいだったりはしないのか? それとも所有者が変わっただけで、金塊は依然どこかに仕舞いこまれており、次なる挑戦者を待っているものなのかどうか。
私はそこのところをはっきりさせたいと思うことがある。まあ、そこまで気になるなら「いつまでも他人の評価を漁ってないで、実物をご覧なさいよ」で済む話ともいえるが……

「いえ、単なる文学者と云うものは霞に酔ってぽうっとしているばかりで、霞をひらいて本体を見つけようとしないから性根がないよ」

夏目漱石『虞美人草』

他ならぬ文学者の漱石が、このセリフを書く。
漱石の恐ろしさの一端は、彼のこういう態度を、自分自身とその作品の上にも再び投射したところにあった。『行人』でわざわざマラルメの名前を出したのはむしろそのためであって、一方的におちょくろうという腹はなかっただろう。そうでなくては、主人公が金庫を破らないまでも墓を訪れて遺書を読むような小説など書こうとするはずがない。『硝子戸の中』で"to be or not to be"の選択を迫ったあの女性に示した態度が、漱石自身にもはねかえってきたのと同じことである。

さて、自分には「霞を披く性根」があるのか、ないのか? 

思えば、漱石のこの試みは既に『倫敦塔』から始まっていたのだろう。これらの金庫(Safe)、墓(Sepulture)、塔(Steeple)、盾(Shield)、そして舟(Ship)は見えない糸で数珠繋ぎにされているような印象がある。
遠くギリシア・ローマの古代まで遡れば、『イリアス』第十八歌に謳われたアキレウスの盾であるとか、かの有名なパンドラの箱、アテナイ王ケクロプスの娘たちがアテナから預かったエリクトニオスとお守りの蛇が入った箱、アルゴス王女ダナエーを閉じ込めた塔の一室、ダナエーとその子ペルセウスを詰めて海に流した箱、ミュケナイ王女エレクトラが日夜仇討ちを誓ったアガメムノン王の墓、アルゴー船が訪れた女人国としてのレムノス島やそこからトアス王を逃がすために用いられた箱、またはプシュケーがプロセルピナから預かった《死の封じこめられた箱》のようなものに行き着く。よそを探せばもっと古い話もあるかもしれないけれども、私には不案内でよくわからない。
私ひとりの感想で言えば、どれも形を変えて、『夢十夜』の中に見かけた気がする。
形を変えるということは《一度は概念化されたものに、再び地に足をつけた解釈を施して実体化しようとする》ようなものだろうか。「否定の否定」といった記号の操作なのかもしれない。どうも漱石の場合は「父母未生以前の面目とはいかに」という禅の公案から来た発想らしく、「則天去私Sokutenkyoshi」という思想も漱石がこの公案と関わることで生まれたのではないかと私は考えている。

シンデレラガールズでは、志希の『秘密のトワレ』がプシュケーの物語を題材にしている。パンドラも「神々から戦乙女としての運命を刻み込まれた最初の女性(全ての現代女性は彼女の末裔)」という現代的解釈を施された上で新田美波の第一ソロ曲『ヴィーナス・シンドローム』に現れる。

デレステで舟と関わる楽曲と言えば『Treasure☆』や『躍るFLAGSHIP』『Let's sail away』『ノーチラス・ソナー』などがあり、あるいはグランサイファーがお空をよぎるP空士の方もおられようが、他に日本人が連想するものだと、蛭子神を乗せた葦舟の話がある。
近畿では西宮えびす神社が有名だけれども、和歌山を舞台にした漫画の『サマータイムレンダ』を連想する人もいるだろうし、『メイドインアビス』の主人公リコにしても、その出生には蛭子神を連想させるような秘密がある。また、東北ではどうも義経、曾我兄弟、犬房丸、朝比奈三郎などがそういう親しみを持たれているように見える(私自身は残念ながら東北人ではないので、傍目に見て)。太宰の『右大臣実朝』が宋へと向かう船を建造しながら出発できなかった人を主人公に据えた点にも、なにかしらの思惑が見え隠れしている。

テニスンの詩の中では、シャロットの姫の塔が重要な存在であって、この情景は死せるエレーンを乗せた小舟と併せて『薤露行』の中に描かれた。また、SR[夏の秘めごと]佐久間まゆが扮したようなミレーのオフィーリアについても『草枕』で言及される。
「ゆかさえのキューピッド役はまゆである」という事実を踏まえると、「この種の通過儀礼を越えた実績のあるまゆの目に、ふたりがどう映ったか」という興味が生ずることもあるだろう。まゆは予め、ゆかさえのハッピーエンドもバッドエンドも同じく想像することができたのか、できなかったのか?答えは、『ミライコンパス』の中にあるもののように私には思われる。つまり、まゆにさえ想像できないのである。


[※15]このような二重否定と関連する古い物語の例に、冥府行(黄泉下り)がある。
この物語の主人公の肩書きは、代表例であるオルペウスやヘラクレスを見てのとおり「半神、英雄、詩人、奏者」などだった。
アリストパネスはこれを逆手にとって喜劇に仕立て、アイスキュロスとエウリピデスが冥府でお互いの悲劇のあら探しを繰り広げるような作品(『蛙』のこと)まで書いた。

ポオがこの「半神、英雄、詩人、奏者」という肩書きを拡張したと考えてもよいなら、「魔法使い、狂人、暗号解読者、名探偵」というのがその拡張内容にあたるだろう。
ロス・マクドナルドはホームズを取り上げて「私たちの技術万能社会における有力なカルチュア・ヒーローとしては、事実この種の科学尊重主義の主人公こそうってつけなのかもしれない」と述べつつ、更に「ホームズの陰にひそんでいる十九世紀の詩人といえば、まずバイロンであり、ボードレールであろう」と付け加えた。
私には頷ける話だが、他の方にはどうだかわからない。

この種の拡張はある意味でRPGのジョブ追加に似ているといえなくもない。モーリス・ルブランはルパンを書くことによって「怪盗」という定番ジョブを追加したようなものだろう。
ウィリアム・ギブスンは更に「義体の製造者/使用者、ハッカー、プログラマ」と付け加えたかったのではないだろうか。サイバーパンクには義手・義足・義眼や臓器売買がつきもので、サイボーグ技術は身体の欠落や病気というハンデを補う術というよりむしろ、払った金額と捨てた人体部位に応じて生身の人間以上の能力を付与する二重否定の技術としての可能性を示唆されることがある。彼は、「日本の『あいどる』も、もしかしたら……?」と考えていたかもしれない。いずれも凝り性アーティストと誉められ、また揶揄されうる。

実際に現代日本で、ここに「アイドル、プロデューサー」と続けることはできるのか、できないのか? ……答えはどうあれ、時子様は、そういう構造が成り立つ予感の中にあるのではないかと思われる。
ちとせ嬢はストレートに、Pを「魔法使いさん」と呼んでいる。
マキノンや都ちゃん・頼子さん・志希にゃんもこの観点における重要度は高く、でれぽで時折、突発的に暗号クイズ大会が開かれることがある。
ちなみに、漱石の時代にRPGはなかったせいだろうか、『虞美人草』にはこれをジョブ追加ではなく雅号にたとえた冗談がおかれている。


[※16]ニューロマンサー/冬寂というAIの所有者は、テスィエ=アシュプール株式会社ーーつまりフランス系の同族企業である。その経営陣は全員が創業者マリー=フランス・テスィエか老アシュプールのクローンという設定であった。彼らの一族の成り立ち自体に、どうもイジチュール君の一族を思わせるところがあるーーというのは、私の勘繰りすぎだろうか?

テスィエとアシュプールとは、重力の井戸を登りつめたあげく、宇宙を唾棄すべきものとみなしました。自由界フリーサイドを建造して、新しい群島の富を吸い上げ、富裕に、偏窟になり、迷光ストレイライトの中に肉体の延長を建設しかかりました。われわれは金銭の蔭に身を封じこめ、内に向けて成熟し、継ぎ目のない自我宇宙を創成したのです。

『ニューロマンサー』

大雑把に言えば、テスィエとアシュプールは『ガンダムUC』のビスト財団あたりを連想すれば近いのだろう。宇宙に出てコロニー(引用中の自由界や迷光というのも、要はスペースコロニーのこと)を築き、富裕に、そして偏屈になってゆく。その至るところがラプラスの箱と、肉体の延長ともいえるガンダムの存在だったーーと説明することが許されるならの話だが。


[※17]『貴婦人と一角獣』のタペストリーは、ガンダムUCの終盤にも登場するが、マ・クベの壺と違って架空のものではない。史実におけるこの一幅には完全に忘れ去られていた時期があったそうで、それを再発見したのは『カルメン』の作者メリメだった。

芥川の『歯車』の中にも、メリメの書簡集が登場する。
それについて、普仏戦争の敗戦からパリ・コミューンへと続くどさくさの中で、メリメの蔵書と遺稿のうち重要なものまで焼失してしまったことについて、「誰かその内容を知るものはいないか?」「いない」という芥川の反語的独白が出たという仮説を玩ぶ人間が、一人ぐらいいたって誰も構うまい。ひとまずそういうことにして、話を進める。オチのある与太話とお考えいただきたい。

さて『歯車』はまずこのタペストリーに繋がる連想を成立させる準備として、何度も合成獣Chimèreのイメージを持ち出しにかかったようだ。

「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフェニックスという鳥の、……」
この名高い漢学者は、こういう僕の話にも興味を感じているらしかった。僕は機械的にしゃべっているうちにだんだん病的な破壊欲を感じ、堯舜を架空の人物にしたのは勿論、『春秋』の著者もずっと後の漢代の人だったことを話し出した。するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るように僕の話を截り離した。
「もし堯舜もいなかったとすれば、孔子は嘘をつかれたことになる。聖人の嘘をつかれるはずはない。」

『歯車』

病的な破壊欲ーー私はこの態度を、やはりポオの『天邪鬼』や、マラルメの詩の中にも見たように思う。

この、かつては存在したが 今や廃絶された人間の虚無こそはーー
「様々の地平線の記憶とは、なんであったか、ただ汝には、地上であろうが?」
吠えるのだ、この夢は。すると、声はたちまちに、晴朗さを失って、
空間は、玩ばるるが如くに、ただ叫ぶ、「私は知らぬ!」と。

マラルメ『喪の乾盃』渡辺守章訳

『歯車』の漢学者にせよ、「私は知らぬ!」の声の主にせよ、彼らは自分の信じる世界観を後生大事に守って、その外には一歩も出ない。それを構築するために積み重ねてきた日々があるのだから、まあ仕方ないといえば仕方がないことではある。
しかし彼らはいうなれば、いずれも"ptyx"の一事を追いつつ追い回される日々に疲れて、"nul ptyx"には打ち込めないでいるのだ。

"ptyx"こと《我が唯一つの願い》の中身が人それぞれなのだとすれば、我々にとっての相互理解を可能とするものーー接点がない人物にこちらを向かせる材料は、残念ながら"nul ptyx"の中にしか存在しないのかもしれない。

こうして詩人の天邪鬼(または病的な破壊欲)は、退屈な学者先生や大衆を相手に"nul ptyx"を突きつけてやろうと目論み、そのための策謀を練り始める。怖いもの知らずもいいところである。
だが"nul ptyx"を作品の題材とするためには、本来なら意識の外にあるべきものを注視しなくてはならないし、そんなことを日課にしていれば当然、神経を病むこともある。なかんづく、なにを"ptyx"とみなすべきかを見失う。

それは邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐して帰郷したという『韓非子』中の青年だった。今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。

『歯車』

この「寿陵余子」という仮名で芥川が書いた『骨董羹』ーー幸田露伴がいうには蘇軾が考案した料理で、ごった煮のこと。芥川はこれを『マクベス』の魔女たちがかき混ぜた釜の中身になぞらえてタイトルに据えたーーはフランス文学に関係することもいろいろ書いてあって、今回の考察内容とも全くの無関係ではないのだが、ともあれ『歯車』の話を続ける。

『歯車』における"ptyx"は、まず外国人の世間話の中に"all right"として現れる。「なにがオオル・ライトなのであろう?」
その疑問の答えは、義兄の死を報せる電話をきっかけにして、決定的に"la mort"、つまり死と関連付けられてしまう。

"MORT"はネオユニヴァースの謎語彙の中でも特異な位置を占める単語

仮に人生が"nul ptyx"であるとして、"ptyx"の正体が死であるなら、人生は「死ではない」以上の内容を含まない。死でさえなければなんでもよい。
どんな人間も、生きて向かうべき先などどこにもない。こうなると虚無まではあと一歩手前、彼はその淵に立っているのかもしれない。

扇、手袋、めがねーーひとりの人間が生を終ろうという時のことです。どんな品物を形見として身につけていることか、または秘蔵していることか、そんなことは誰にもわかることじゃありますまい。

コナン・ドイル『金縁の鼻眼鏡』延原謙訳

まかり間違えば、ゆかさえもこのような虚無へと陥りかねなかった。ーーそれは『Secret Mirage』の恐ろしい一面といえる。もちろんその一面だけが『Secret Mirage』ではないのだが、……

電氣の兩極に似てゐるのかな。何しろ反對なものを一しよに持つてゐる。

『歯車』

その「一しよに持つてゐる」様は、天秤にも似ているかもしれないし、もしかしたら漱石が描いたところの『幻影の盾』にも似ているかもしれない。
この盾は、岡本綺堂の『修善寺物語』を読んで私が思うに、能面にも似た機能を備えている。
10周年記念アニメでゆかりを置いて戦いに赴く紗枝はんは、これらの作品の登場人物ーーウィリアムや桂と同じ道を選んだのだろうというのが、私の感じ取った印象である。

 盾にはきずがある。右の肩から左へ斜に切りつけた刀の痕が見える。玉を並べたような鋲の一つを半ば潰して、ゴーゴン・メジューサに似た夜叉の耳のあたりを纏う蛇の頭を叩いて、横に延板の平らな地へ微かな細長いくぼみが出来ている。ウィリアムにこの創の因縁を聞くと何にもいわぬ。知らぬかといえば知るという。知るかといえば言いがたしという。
 人にいえぬ盾の由来の裏には、人にいえぬ恋の恨みが潜んでいる。人にいわぬ盾の歴史の中には世も入らぬ神も入らぬとまで思いつめたるのぞみの綱が繋がれている。ウィリアムが日ごと夜ごとに繰り返す心の物語りはこの盾と浅からぬ覊絆きずなで結び付けられている。いざという時この盾を執って……望はこれである。心の奥に何者かほのめいて消えがたき前世の名残の如きを、白日の下に引き出して明ら様に見極むるは、この盾の力である。

夏目漱石『幻影の盾』

「上様お風呂を召さるる折柄、鎌倉勢が不意の夜討ち……」と、桂は土に横たわりながら言った。
「味方は小人数、必死に闘う……。女であれこそこの桂も、御奉公始めの御奉公納めに、このおもてをつけてお身代わりと早速に分別して……。夜の暗いを幸いに打ち物をとって庭に降りて、左金吾頼家これにありと呼ばわりながら走せいだすと、群がる敵は夜目遠目にまことの上様ぞと心得て、撃ちもらさじと追っかくる……」

岡本綺堂『修善寺物語』

試練の果て、ウィリアムが足を踏み入れるその境地は、時に「玲瓏虚無」と書かれ、また「純一無雑の清浄界」とも書かれる。このあたりの発想はRêve  Purという概念にも通じていることだろう。特に「純一無雑」という言い回しは、後の『それから』にも百合とセットで出てくる。

漱石自身は、単に「一心不乱」の一事について書こうとしたらこうなったのだと作品の冒頭で断っている。
芥川は、実にこういう文章を書く人物を師と仰ぎ、また時に畏れた。

漱石のいう「一心不乱」は、紗枝はんの文脈にあてはめるなら「あんじょうおきばり」である。
紗枝はんは自分の言葉が自分にふりかかることを恐れない人であって、「ゆかりはんの素顔が見たいなら、うちもここはひとつ、きばらなあきまへんなぁ」という熱意が、劇の中に投影された彼女自身の像を操作したのだとも言える。

さて、フルートの先生も、昔からゆかりの才能を信じてはいたのだが、どうやらそれは"ptyx"ーー先生の考える仕事の永遠性に関する限りにおいての話だったかもしれない。どちらかといえば、芥川よりは漱石の立場に近かっただろう。
しかしRêve Purにおけるふたりの「真面目さ」を目の当たりにした先生は、とうとう彼女たちの"nul ptyx"の価値をも認めるようになったのではないだろうか。

画面のこちら側の私も思わずガッツポーズ

だとすればゆかりの賭けは、自分自身のみならず、先生のためにも新しい視野を拓いたのである。これを私は「かわいい癒しをもたらす」という彼女の理想が実現した一例であるとみなしている。もちろんバレンタインSSRで見られるゆかさえの仲良しぶりも、そんな癒しのひとつである。