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キングオージャー新章とガッ↓チャード

『ギーツ』ロスに浸る余裕もなく、新しい戦士がやってくる。

毎年この時期に感慨深く思う。日曜朝のヒーロー作品たちは特殊なもので、一年間追い続け、共に戦ったとしてもきっかり一年でお別れを告げなければならず、その翌週からはまったく新しい顔ぶれと共に一年間を過ごすことになる。お別れとお迎えを同時期にこなさないといけないのは中々精神的に疲弊してしまう。

この切り替えはなかなか慣れなかった。2010年に仮面ライダー作品は、半年間の放送を終了した『ディケイド』から『ダブル』に変わるタイミングで放送開始時期を大きくずらし、それまで冬に切り替わりとなっていた番組を夏から秋にかけて切り替わるように変更した。
それから10年以上経った今もその体制は変わっていない(放送時間の変更はあったが)が、スーパー戦隊側『王様戦隊キングオージャー』が約50話のストーリーを大きく2部に分け、『ギーツ』最終回に第1部の終幕、『ガッチャード』第1話に第2部の開幕を合わせてくるというのは初の試みだった。ひっくり返った。

キングオージャー、第2部始動!

奇しくも(?)前作『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』では『リバイス』最終回に合わせて「俺たちも最終回だ!!」というおふざけ回を披露したが、今作では本気で実践するとは思わなかった。
こうした制作側の努力もあって、本日始まった『仮面ライダーガッチャード』はフラットな感情で迎えることが出来た。『キングオージャー』もまた、新章に心躍らせ、毎週の楽しみだったものが新たに更新された。
現場裏でどんな調整があったのかは想像もできないが、視聴者を楽しませることに尽力したと思われる製作陣の努力は今後のニチアサ史に残すべき偉業ではなかろうか。

『仮面ライダーギーツ』最終回はすべてをひっくり返すような結末、世界創成END、ギーツ神話の幕開けとしての最終回を迎えた。
対し『キングオージャー』は地底国バグナラクとの戦いに武力ではなく謝罪という形で終止符が打たれ、新王国建国という次世代への希望と暗雲立ち込める中で締めくくられた。
どちらも最終回というくくりで見たときにひとしおの感動を受け取れる回だった。特に『キングオージャー』は種族間の諍いを争いでなく、一国の王として戦いを終わらせる、子供向け番組らしからぬ手法に舌を巻いた。

しかし『ギーツ』側も負けてはいない。これまで一年間、変わる替わるフィーチャーが当たるキャラクターを応援し続けてきた視聴者へ応えるようにというか、もはやトドメを刺しにきているキャラクターの『良さ』で魅せる最終回だった。
ギーツに負けず劣らず鍔迫り合ってきたタイクーンとバッファの協力タクティカルブレイク(というか、ゾンビブレイカーのポイズンチャージがかっこよく無かったシーンが無い)、ナーゴと終盤顔を見せていなかったキューンとのその後、そして何より「うまい肉を食う」で視聴者の涙腺をタクティカルブレイクしにくる吾妻道長、お前がナンバーワンだ。

つかみと山場と1年間

『ガッチャード』第1話を終えて、久々に「あぁ、仮面ライダーの第1話だ……」と思ってしまった。
第1話として必要な条件などあるわけではないが、つかみの良い第1話とそうでない第1話があることは間違いない。つかみが良いに越したことはないが、その後の面白さが担保されるわけではない。そうでなかったとしても、1年通して見終わった感想が「つかみさえ良ければ……」なんて思わない。

正直ガッチャードのつかみが良かったとは言い難い。世界観の説明はほどほどの割に、異様に飲み込みのいい主人公と、引っ張ってるのか流されてるのかわからないヒロイン、いやに引き際を弁えている敵役と、平成のオタクにはいまいちハマりの悪いものだった。今後の展開は気になるが、それほどでもない引きで終わり、少し第二話以降が不穏であった。事実として、二話以降のガッチャードが一話のテンションが継続されてたときの徒労感はなんとも言えないものがあった。

だが、そこで作品の評価を決めつけるほどライダーファンは浅はかではない(と信じている)。
冒頭でも触れたように、ライダー作品にはあらかじめ、1年間の放送という枠が定められている。最後まで付き合う覚悟を初めからしている以上、冒頭にあたる数話で易々と評価を下してはならないだろう。
1年間、最後まで見続けなければ評価してはいけない、とまでは言わないが、1年の中で山場やそうでない話を繰り返して行くもので、冒頭や間の数話が楽しめなかったからといって、作品そのもの評価をするのはナンセンスであるはずだ。時期が限られているからこその評価の仕方もあると思う。

事実、第三話以降の展開ーー、個人的には新キャラクター『黒鉄スパナ』が登場してから見所が増えたと思っている。「次週の展開がどうなるか」よりも「この後1年間でどう言う変化を遂げるのか」というざっくりした楽しみが生まれるのは、ニチアサでしか味わえない、独特な期待感といえるだろう。

評価は評せる時に評せ。

『推しは推せる時に推せ』
次から次へと生まれ、なんなら平成の歴史が次々に周年を迎える、世はまさに大コンテンツ時代。即ちコンテンツの消化速度が問われる現代に生まれた至言である。
コンテンツとの付き合い方なぞ今更問われるまでもない、個人それぞれで付き合い方を定めている方も多いと思われる。そんなこと改めて言われるまでもない、というふうに。
だが一方で、コンテンツの付き合い方が定まっていなかったり、評価を他人に依存していたりするオタクも少なくない(と、勝手に思っている)。

同じく冒頭で述べた通りだが、ロスに浸る余裕なく次の戦士は活躍している。ギーツという作品の評価を心の中で置きながらも、「面白かったか」と聞かれた時に長考に入ってしまう自分が想像できる。評価が固まる前に次世代の波に飲まれてしまったからである。
コンテンツの中で、その作品やジャンルが自分の好みかどうかは自分しか分からない筈だ。そのコンテンツの、自分の中の評価を下せるのは自分だけである。ここを疎かにしておくといざ自分の推しを語る時に浅い言葉しか出てこなくなる。最悪、本当に好きなコンテンツがなにかすら分からなくなってくる。

作品を見終わった後、評価は自分の中で下すべきだ。後回しにせず、必ず時期を定めて評する。言葉に出すか、文章に落とすかは問わない。価値観なんて、後から変わる。その時に評し直せば良い。評価すべきタイミングで1度、評価を下す。感想を呟いたり、ブログにて批評したり、レビューサイトに投稿しても良い。どんな形でも良いから、自分の中で1度その作品にケリをつけるのだ。それを無くして次へは進んでいけないぐらいの気持ちで、その作品との関係を終わらせる。
そうしたら、次にその作品と再開した時に、自分はこのコンテンツが好きで良かったと思えるはずだ。

と、高尚に言ってみたものの、その作品を好きかどうか判断する材料に「語れるか」を置くかどうかは正解とは言えない。先に述べた通り推しとの付き合い方は「個人それぞれ」であるべきだからだ。他人が絡んでいなければそれで良い。
あと、困ったことに、ニチアサには綺麗に終わってくれないという特性がある。秋に終わったライダーには冬映画が、冬映画が終わったライダーにはVシネマが展開される。これに甘えて評価をあと伸ばしにしてしまうのも悪い文化である。綺麗に終わってくれ。

ともあれ、どのコンテンツ、どんな作品にも終わりはあり、そのタイミングで自分の中で評価を下すべきである。終わりと評価はワンセット、己の心の中で評するのだ。

仮面ライダーギーツ、楽しかったです。リアタイしていて良かった作品であり、最終回直後にデザイアドライバーを買いに走ったのは良い思い出になりました。今後覆ることは中々無いであろう圧倒的ライブ感は間違いなくニチアサ枠でしか味わえず、ニチアサ好きで良かったと噛み締めさせてくれた良い作品でした。

このテンションでガッチャードも追いかけます。

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