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絶対の味方でいる。

どうにも、春のこの季節は、ぐるりと大きく変わってゆく気配がして、あまり得意ではない。

といっても、自分の身の回りの環境が変わっている訳では無いのだけど。

忙しなさ?人の動き?「新生活」の文字?駆り立てるような雰囲気に呑み込まれそうになっては耐える。私が慌てることは何も無い。


……もう数年前のことになるが、妹が高校を卒業し、東京の学校へ行くことを決め、家を出たのはまさしく春のことだった。


私たちは3人で暮らしていた。

母、妹、私、の3人。

女3人、とにかく喧嘩が絶えなかった。だれか2人が揉めれば残りの1人が仲裁に入り、また別の日違う2人が揉めれば、やはり残りの1人が仲裁に入りを繰り返す。

3という数字は難しい数字だ。

「お前はどっちの味方なんだ」ではないけど、残りの1人はたまったもんじゃない状況に置かれるのは間違いない。

確かに喧嘩ばかりしていたが、仲が悪かった訳では無い。壮絶な喧嘩を繰り返した記憶も確かにあり、笑いあった記憶も確かにある。

誕生日にケーキを焼いたり、姉妹揃って好きな漫画やアニメに夢中になったり、くだらないテレビで笑ったり、祖母も連れて出かけたり。

特別なことではなくても、いや、その「特別なことではない」をできていたことが、今思い返せばもう日常ではないのだけど、確かにそんな日々があった。


18年って、どんなに長く、どんなにあっという間なのだろう。18年一緒に暮らしてきた最年少の仲間が、離れて暮らすことになる。3が2になる。大きいなあ、1って。

妹が東京の学校へ行くこと、母は反対するかなと思っていたが、反対しなかった。

しかし、春が近づくにつれて、母と妹の喧嘩の頻度が上がっていた。

寂しさと怒りって混ざってしまうのだろうか。

今思えば、母はやはり寂しかったのだろうと思う。常にある寂しさが、何かのきっかけで怒りとして表に出て、喧嘩になってしまう。

本当は喧嘩、したくないのに。

最後の最後まで、言い合いになってしまい、出発の日の前夜、働きに出た母に黙って妹は荷物を持って友達の家へ行ってしまった。

朝方帰ってきた母は、妹と荷物が無いことを知り、ショックで泣き出してしまい慌てる私。

なんていうか……私たちらしいね、と思いながら妹に見送りさせて欲しいという説得のメールをした。

こういうときに動けるのは「残りの1人」だから。


見送りはできた。

私が車を運転して、隣に母を乗せて、駅のロータリーへ停める。

買ってもらった新しいスーツケースを引く妹と会う。

真っ先に妹が泣き出した。母もつられて、泣きながら「頑張ってね」とか「連絡してね」とか途切れ途切れに言葉にしていた。

私は、前日に手紙を書いて用意した。

「無事に着いたら読んでね」と伝え、渡した。

見えなくなるまで見送って、まだ涙の止まらない母を車に乗せて、「寂しいねえ」と言いながら、いつもより1人分広い家に帰った。


もう前のことで、どんなことを書いたか詳細に思い出せないけれど、伝えたかったことは覚えている。


少なくとも、私たちは必ず味方だし、助けて欲しい時は迷わず言って。一緒に考える。それができる3人だということ。


怒られるだろうか、なんて言われるだろうか。そんなことを伺って頼れなかったでは情けない。すぐ行けない距離だからこそ、相談の躊躇いは少しでも取り除けたらいい。

…まあ遠慮とは程遠いところへいる妹な気もするけど、分からないし。

私たちは、たまたま「家族」でそれができる。

でも、それは「家族」である必要も無い。

頼れる人は多い方がいい……とまでは言わないけど、寂しくしたり、心細かったり、お腹が空いた時、安心して頼れる人間が、確かにここに居るということを、確かに伝えたかった。

寂しいっていう感情はどんな状況でもやってきて、違う感情も連れてくるので厄介だ。寂しくなっちゃいけない。大事な人も、私も。


電車に乗った後、バスに乗り込んだ妹は、バスで私の書いた手紙を開けて読む。やはり泣いてしまう妹。行く方だって、不安も寂しさもあるもんね。

それからは喧嘩は滅多にすることなく、たまに会えば相変わらずの会話をする。そんなものよ。会えばいつも通り。

そして遠慮なく頼ったり連絡をくれる妹。元気にしていればそれで良い。


そんなことを、この季節になると思い出す。あの時は大変だったなあって。

季節の変わり目は、気温、におい、景色、全勢力をもって記憶を呼び起こしてくるので、毎年これをやるんですか……という気持ち。とほほ。

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