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さよならわたし

8月は自分にとって清算の季節だ。

毎年何かしらの終わりがくる。

ある時は転校、ある時は引越し、ある時は大切な人が亡くなり、ある時は好きな人と別れ、ある時は仕事を辞める。

これはきっと自分が8月8日生まれだからだと思っている。そういう運命を歩くことになっているのはきっと、無意識のなかに、生まれ変わって「夏」の魔物を退治した気になりたいという意識があるからだ。(実際には夏にも冬にも春にも秋にも魔物なんて存在しない)

霊感があるわけでもないし宗教も風水的な知識も別にないけれど、これまでの不調の原因を自分の輪郭に付く何かにゆだねて、今年の誕生日の数日後、神社にて然るべき手段のお別れをしてきた。なんか仰々しい物言いをしてしまったがふつうにお祓いをしてきた。

明るく元気に生きていたいから、自分が在るべきかたちで在るために出来ることをしてみようと思ったのだ。

平和ボケした幸せの中にいても不幸を知っている顔をしたがる滑稽さに気付き、好意の恐ろしさを思い知らされ、体調を崩し、停滞し、人が勝手に紡いだ言葉や音楽に励まされ、自分にできることは何かを考えた。
結局何にも関係できず自分というものの意味のないことを知る、そんな一年だった。
一年が終わって、また新しい一年が始まる。

どんな日々にできるだろう。明るく元気に生きていられるだろうか。

細胞も、肌にある凹凸も、この手のシワも、23年間傷つきながらも耐えぬいて自分を守ってきた証明だ。誕生日を迎えると「よくここまで生き延びた」と毎年思う。良いも悪いもなくそう思う。

大きい歴史の中で自分という存在はあってないようなものだけれど、自分が関係している人々の中にはたしかに自分は存在している。生き続けても死んでも必ず存在して、自分が関係している人たちが全員死んだときに本当の意味でいなくなる、けれどそれはもう自分には関係のない場所。
だから怖いことなんてない。と、知らされた夏のはじまりだった。

誰かに想われること、毎日一瞬でも思い出されて想われることが幸せだと気付いた。それは生きていても死んでいても変わらない。
明日からも生きていく保証はないけれど、生きている限り誰かを思い出す。
寂しいことも誰かを想った証拠だから、【一つも取り残すことなく】どこまでも持っていきたいと思う。

8月8日に24歳になった。

さよなら23、ありがとう。

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