差別と包容力

国際的に差別が大きな問題となって久しいですがその度に日本でも差別があるから他人事ではないと海外への問題視から国内向けの問題提起になることが多いが果たしてそうなのでしょうか?

■差別と包容力

 差別の定義は意外と難しいようですが一般的には「特定の社会集団のメンバーであることを背景に正当な理由なく人々を不当に何らかの形の排除または拒絶を伴う行為。」と言えると思います。いろいろなカタチの差別がありますがその中でも最も重大な差別は人種差別ですが「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(1965年の第20回国連総会において採択され、1969年に発効し、日本は1995年に加入)の第一条には下記のような定義がされています。

「第一条 1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。」

 人種差別は元々キリスト教がイスラム教への差別をしてきたものであり、アフリカの黒人を平気で奴隷にしたのもイスラム教徒が多かったことが起因していると言われます。ユダヤ人への長年に亘る(現在でも)執拗な差別も宗教絡みです。キリスト教は十字軍や魔女狩り等の国際的な暴挙を続けてきました。アメリカをはじめとするキリスト教を国教とする欧米諸国はこの意味からは人権問題にコミットする資格はありません。それでも現在はその差別を少しでも減らそうとする努力は見られますので中国等への人権侵害を責めても良いと思います。このように宗教面からの人種差別が最大の問題ですがそれは宗教自体に包容力が無いからでしょう。いずれの宗教も信者には救いの手を伸べる等包容力があるかのようにふるまいますが他教に対しては一転して排除する差別的言動に出ます。他教徒の人権は認められませんので人としての扱いはしません。これが差別の本質です。他の分野においても一定のコミュニティーに属さないものを排除、制限することはありますがこの人種差別が最も深刻なものです。科学が未発達で社会も未成熟な中世はともかく(それでも肯定は出来ませんが)、近代そして現代においても世界中に人種差別は蔓延しています。もちろん、表向きは法律などにより禁止されていますが本質的な差別意識は無くなっていませんし、差別も一層巧妙にされています。このような中でお互いに差別を非難し合っているのが現状です。


■日本での差別は?


 問題にされる差別は単に個人レベルの好き嫌いに起因するものでは無く以上のような社会自体によるものを示します。
 これまでも海外諸国の差別問題が話題になりますがその度に日本でも差別があったのだから他人事ではないという言い方で日本の差別の存在を容認し、責めることが多いものです。果たしてそうでしょうか?
 遡ること1919年(対象8年)に第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本は「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべき提案」を行い、多くの諸国から感謝の意が伝えられました(反対したアメリカ国内の全米黒人地位向上協会からも謝意が伝えられた)。しかし、植民地を要する英米は強く反対し、16か国の内、11か国が賛成したが議長であったアメリカ合衆国大統領ウィルソンは全員一致で無ければ可決されないと言って否決しました。
 国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初です。このことは非常に重要であり、現在の差別問題を明確に指摘できる先進国は日本なのです。
 戦時中のユダヤ人救出や戦前のポーランドの子供達のシベリアからの救出(当時は一般国民も全国から支援をし、献身的な看護婦はポーランドから称えられました)等人道面での国際的な活動は多くありましたがこれも人種差別感が無いから出来ることです。
 日本では仏教も神道も他の宗教を排他しませんし、これを原因とした差別はありません。かつてキリスト教を迫害したなどと言われますがこれは日本の植民地化、奴隷化を目論むキリスト教布教を防備したためであり、弾圧というと権力者による横暴に聞こえてしまいますが植民地化からの当然の防衛策です。もし、当時、キリスト教を導入していたら平和な江戸時代も無く、欧米諸国の食い物にされていたでしょう。
 当時は仏教が堕落し、飢饉そして戦乱の世でしたので新たな救いを求めたことは理解できますし、西洋の文化や商品、武器ももたらしましたのでそれらも背景にあります。堕落したと言っても仏教や新道が根付いていましたが国民は受け入れました。何でも受け入れることが日本の根本的な考え方からです。その上で有用な情報文化は取り入れ、不要なものは受け継ぎません。この多様性と包容力が日本文化を発展・持続させてきました。
 キリスト教は目標とする植民地政策が迫害のような扱いを招いたという自業自得ですので、何故、日本が潜伏(隠れ)キリシタンを世界遺産登録をしたのか全く理解できません。
 また、これも有名な逸話ですが1960年に当時世界的なジャズのスーパースターであったアートブレーキ―が世界での演奏旅行の一環で来日しました。飛行場では大歓迎でしたが彼は先ずこの大歓迎に驚きました。さらに、一ファンが彼に「一緒に写真を撮って欲しい」と頼んだことに驚き、「俺は黒人だぜ。本当にいいのか?」と聞き返したそうです。当時はアメリカでも世界のどこでも彼らの音楽は人気がありましたが黒人としての人種差別は厳しいものがあり、人とは扱われませんでしたので、来日時の戦後でも白人が一緒に写真に写ること等は考えらえないものでした。彼は「世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれ自分を人として接してくれた」のは自国と日本だけであったと感激し、その後はこの日本の差別なき包容力のある社会を世界にアピールし続けました。
 日本人はそもそも人種差別と言う概念が無いため、ファンとしては当然の強い気持ちでした。
 もちろんどんな社会も問題を含んでいます。数百年前に遡り、もともとは死刑執行人や動物の解体(肉屋、皮革製造等)、葬儀屋など不浄とされる仕事等に携わる人々がエタヒニンと呼ばれ一般社会とは別の集落に隔離されてきた事実はあり現代でも一部の地域にその名残はありますが大半の国民は意識していない状況になっています(もちろん、この解消については難しいですが解消への努力は継続的に必要です)。
 よく言われる女性差別はどうでしょうか?かつては選挙権も無く、高等教育へのハードルも高いものがありましたが近代化に応じて早々にそれらは解消され、財布の紐を握り実質的な家計・世帯の主となってきました。就業へのハードル解消への取組みは不可欠ですが事実上、女性社会となっている日本においてはこの良さを持続させつつ、男女がそれぞれ行きやすくするための努力を続けることが重要であり、女性差別だとして騒ぐ必要は無いと思われます。ジェンダー問題を専攻する女性教授などは多いですが何を研究し、提案しているのでしょうか?就業は重要ですが一方で昨今は就業しなければ社会に役に立っていない、女性の権利を放棄している等の極端な論調も見られます。育児や家事を軽視しすぎでしょう。家計・世帯は社会の重要な構成要素であり、これがしっかりしてきたため、日本社会は安定してきました。これを軽視して、育児も家事等も外注すれば良いというものでは無いと思います。そもそも、これらは単なる作業ではないので外注や夫に任せられない重要で難しいものです。いつも言っているのは男性に出来きることは男性にやらせればいいのが基本だと思います
 もちろん相互に好きなことをやればいいのですが無理に出来ないことをやることは相互に、そして社会全体としてマイナスでしょう。

■今後の日本の動き方

 さて、差別問題は長い歴史の中で生まれてきたものであるため複雑で難し問題ですが日本はもっと欧米に対して人種差別が無いこと今後とも深い包容力で何でも受け入れることを強調する必要が有ります。これに限らず日本の美徳のひとつが控え目、謙譲であるため、この美徳をアピールすること自体がやや矛盾していますが国内ではともかく、世界に無い概念を知ってもらうためには上手くアピールする必要が有ります。そして、これは理解してもらえます。昨今、著名なスポーツ選手やチームの控え目で礼儀正しい行為を海外のファンやメディアが賞賛していること多くなりましたので、彼らにも十分理解できますし、将来は実践してくれるでしょう。

 今後の国際秩序の再編に向けて日本はもっと積極的にかかわるべきだと思いますし、日本のこれまでの文化を浸透させることが新たな世界秩序に有用です。言い方を変えればこれまでの歴史からみて欧米諸国が旗を振って人権や国際紛争の仲介などにあたるのは過去の言動を指摘される(「おまえが言うか?」と逆襲されます)でしょうし、東南アジア等過去の被植民地国は日本への信頼、期待は想像以上に大きいものです。ただ、こちらから積極的に動かなければ複雑な国際関係の中で彼らから動きにくいと思いますのでその状況を考慮しつつしたたかに動くべきだと思います。

(この件は以前「国際秩序への関与」として投稿しましたのでこれもご覧ください。)

https://note.com/urbancross21/n/n764f5d4d1bad

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