人類は如何に神々として滅びるか

 神話、とよばれるものは、文明の黎明期に誕生する。神話が語る主なものの一つは、世界の始まりについてである。どうして、どうやって、海は生まれ、山が隆起し、大地は豊かに実り、われわれはここに在ることとなったのか。神話は、万物の誕生を、始原を語る。

 始まりがあれば、いつかは終わりがやってくる。世界各地に神話が生み出されていた時期(年代のばらつきはあろうが)を人類の幼年期とするならば、現代を生きるわれわれは、その老年期を生きているのではないか。ともかく、いつかは終わりがやってくる。世界の始まりが神々の物語であったのなら、世界の終わりもまた神々の物語であって不自然なことがあろうか。事実、われわれは神々になろうとし、また滅びようとしているかのごとくである。

  ともあれ神になるためにも資格や条件といわれるものは必要だ。われわれ人類が有資格者たり得るかどうか検証するために、その条件を一つずつ挙げていこう。

 ・第一条件 神々の死(殺害)

 「神は死んだ」と言ったのは、ツァラツストラの狂人ということである。もっともニーチェ氏は、そのあとに「人間に同情したために、神は死んだ」とも付け加えている。そうであるならば、神(々)は自殺したのだと言えなくもない。はたして、われわれは神々を殺したのだろうか。それとも神々は自ら死を選んだのだろうか。どちらにしろ、われわれが神々の死を確認したのだけは間違いのないところだ。

 たとえば、「信仰の自由」などというのも、神々の死を認めていなければありえない概念である。一体、どのような神(々)の信仰者が、まったく別の神(々)を認め、尊重するなどということが可能だろうか。神とは絶対の存在であり、聖典とは真実でなければ、宗教が存在するはずもない。Aという宗教と、Bという宗教は並立しえないのが普通である。二つ以上の相矛盾する絶対真実は存在しえない。せいぜい、他を蔑み無視するのが精一杯であり、Aを信仰するならば、Bを否定しなければ、信仰は成り立たない。われわれはむしろ胸をはって言うではないか。「私は宗教を信じない」と。「神はもうずっと前に死んだのだ」と。

 

・第二条件 神々の権利の獲得

 神々としてあるためには、神々としてありうるという権利を得なければいけない。
 これは第一条件の「神々の死」の延長線上にそのまま用意されている。神々が死んでしまったので、残されたわれわれ人類が、その遺産を相続するというわけだ。

 相続するものは、もっぱら「自由」とよばれる。ただの自由ではなく、「際限のない自由」だ。神々がまだ生きていた時代、われわれは、神々が許してくれる制限の中で生き、行動していた。しかしながら、神々がいなくなってしまったために、われわれは、生きる意味、どうしてこの世に生まれてきたのかという目的を失ってしまった。

 生きることに意味はなく、あらかじめ与えられた目的はないのだから、どう生きようが勝手というわけだ。
『大丈夫だ、心配ない。この生に意味はなく、目的はなかろうとも、われわれは自身で意味と目的を見つけ、より良く生きようとするだろう。しかし、それはかつて神々が望んだ「良き生き方」には関わりなく、われわれが自由の名において自己決定する新しい「良き生き方」なのだ』
 われわれは神々のいなくなった空や、海や、大地に向かって、我々自身に言い聞かせるように、こう宣言した。

 

・第三条件 神々としての能力

 有史以来、人類がやりとげた難事、大事業、大発明をいちいち数え上げてみるならば、われわれは、われわれ自身の偉大さに呆然とすることだろう。

 まったく、人類は神々にもみまがう、もしくはすでに神々をも超越した仕事をなしえたのかもしれない。が、神としての仕事というには十分ではない。 
 神としての仕事とは、神にしかできない仕事、神にしか許されていない仕事である。

 それは明らかに、「命を造る」ことである。

 人類は科学によって、その能力を手にしようとしている。もしくは、もうほとんど手にしている。少し前ならクローン技術を誰しもが頭に浮かべたことだろう。今はAIという言葉をよく聞く。ロボット、人工知能を搭載したロボット、アンドロイド……。

 人類はもうほとんど自らの手で命を造りかけている。造物主となるのは時間の問題のように思われる。

 

 神々を殺し、相続人としてその権利を遺産として引き継いだ人類は、科学によって、神々としての能力をも身につけるだろう。

 この老衰した精神と肉体には、負担の多い荷を背負って、人類は神々として滅びるに違いない。

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