つぶやきが文字数大幅オーバーだったからこっちに書くよ。というだけの文書
日本人のスピリットは偉大です。選民思想ではありません。特性の話をしています。
日本語に大きなルーツの一つがあると私は考察する。翻訳をした経験のある方はピンとくる可能性が高いと思うが日本語はテレパス言語であると私は考える。
あまりに話し手の記憶に依存している。それを聞き手は汲み取る必要がありこの行為は常に行われている。
ここでの記憶が指している意味は、我々が話している時に必ず無意識に頭で自身の記憶やイメージをスクロールしながら話している、ということである。
一つの日本語を訳すにもそれと対照できる単語がいくつもあるのだ。詩なら尚更。言語習得中の身であるため断定はできないが傾向としてあると私は感じている。
これが日本語ネイティブもしくは日本語を習得した人々が得る広義での“テレパシー能力”ではなかろうか。
これに加えて神道の思想が根付いていること。外国から来られた方々がこの感覚を感じることが困難であることは察することができる。
実際神道の「八百万の神々」、「擬人化」が外国の方々にとって理解し難いものであると耳にしたことがある。
私はまだまだ勉強不足であるため知りたいことの一つでもあるのだが、形は変われど本質として“畏れ”という感覚・概念は他国にも存在し得るものなのだろうか。