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ビルディング、ビルヂング


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 十年前の辞書の「ひ」のページを見て、ほのもの出版編集者、緑麻子はひとつの疑問が沸いた。


ビルディング[building][名]コンクリート製の建物の名称。主に長方形で縦に伸びている。ビル。


 この辞書では、ビルのことをビルディングと表現しているが、実はほのもの出版は、「二井ビルヂング」という名称のビルの6階にオフィスを構えている。ほのもの出版はビルヂングの中にあるのに、その出版社が出版する辞書にはビルヂングと言う言葉はない。麻子はそこにひとつの疑問を感じた。

 辞書編纂は十年に一度行われる。もちろん、細々した改訂は行われるのだが、全ての内容の見直しは十年に一度だそうだ。しかし、入社してまだ八年の麻子には、前回の編纂がどのように行われたのかどうか知らなかった。ましてや、今回のチームの内、言語学者の土谷先生以外前回の経験者がいなかった。長田編集長も困り、前回の辞書に載っていた「協力 言語学者 土谷浪漫」の名前を見て、恐る恐る電話をしたそうだ。役員の無茶ぶりに、編集長を中心として一同の不安を麻子は感じていた。

 しかし、その辞書編纂の方法については、長田編集長が全てを任されているとのことだった。一応期限は二年と決められていた。それまで、それぞれのメンバーは自分の仕事の傍らにこの辞書の編纂の仕事も同時に進めていく。編集長はチームを組むことにした。編集部の麻子と魚喜、作田、小説家の雪先生、灯矢先生、アルバイトの赤城さん、正路さん、郷田さんの、計十人のチームで進めていくこととなった。

 長田編集長は、土谷先生と、作家の二人の先生を含めた会議を一ヶ月に一度開催することにした。編集部の四人は週に一度の会議を行うことになった。ここで解決しなかった問題を学者さんと作家さんに意見を求める。彼らは言葉のプロ。なるべく多くの疑問を彼らに解決してもらうことが、この編纂の仕事をスムーズに進めるポイントと考えた。

 これから辞書編纂が始まる。


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 編集部の四人での会議が開かれた。部長が話を始める。

「どうも。改めて、今回は辞書編纂のチームに入ってきてくれてありがとう。地味な仕事かもしれないけど、やりがいはあると思うんだ。十年の歴史を刻む訳だからね。頑張って取り組めば、辞書に対する愛着もわくだろう。と言っても、僕も初めてなんだ。十年前のメンバーは、すでに役員だったり転職したりしてしまっているから。焦ったよ。僕が編集長だなんて。言語学者の土谷先生に電話してみたけれど、いまいち電話だとどのような人か分からなかった。今度会うのが少し緊張するよ。まあ、初めてだから、とりあえずみんなで十年前の辞書をパラパラと眺めてみて、それでどのように編纂を進めて行けばいいか、イメージを広げてみよう。みんなの感性に期待しているよ。」

「部長、土谷先生はいいのですが、小説家の雪先生と灯矢先生はどうして選ばれたんですか?小説家の方にも辞書編纂に協力してもらうものなのですか?」

 編集部で麻子と同期の魚喜が質問した。

「いやあ。やり方は全て任せると言われたからね。しかも小説家の言葉を借りるのは、辞書をブラッシュアップするのに心強いと思うんだ。まあ。二人は僕の知り合いなんだけどね。雪はただの友達だ。」

「え!長田さん、そんな繋がりがあるんですね!すごい!」

 麻子の後輩の作田の心が浮ついた。

「まあ、長年この業界にいればね。作田さんもそのうち作家さんの知り合いだらけになると思うよ。僕はこのキャリアの中では知り合いは少ない方。だから、この地味な仕事を任されたんだと思うんだけど。でも、僕は楽しみだよ。みんなで頑張っていこう。」

 編集長の言葉は、チームの雰囲気を決めた様に思った。

 この日は、先ほども言われた通り、十年前の辞書を見てイメージ膨らませるということに留められた。初歩的な辞書の作り、例えば、単語、品詞、英訳、説明、例文、類語、反対語など、どの情報をどれくらい載せるのか、この辞書のコンセプトにもよるだろう。重厚な辞書か、手軽な辞書か。土谷先生の性格にもよるのかもしれないが、チームのメンバーを見ては「上品で丁寧な辞書」とでも言ったといったところだろうか。編集長にもまだそのコンセプトは見えていなさそうだった。しかし、十年前の辞書を見ても、そこに何かコンセプトと言ったようなものは、イメージがされなかった。むしろ、かなり惰性的というか、通例通り作られただけの、あまり特徴や面白みを感じることはなかった。それは、他の三人の表情を見ても、同じように感じていたのではないかと思った。

 麻子はたまたま開いた「ひ」のページが目にとまった。そこには「ビルディング」という言葉が載っていた。

「あ、ちょっと気になったんですけど、いいですか?」

「どうぞ。」

「私たちの会社、二井ビルヂングの中にあるじゃないですか。」


「うん、まあビルヂングと言う人は、ほとんど聞いたことないけどな。二井ビルってみんな言っているが、正式名称は『二井ビルヂング』ですね。」

「そうですよね。入り口に思い切りそう書いてありますし。今『ビルディング』のところ見ていたんですけど、ビルヂングとビルディングって、どちらが正式な言い方なのでしょうか。」

「うん。いい疑問だね。これを読んでいるといくつか、そういった疑問がわいてくることがあると思う。そういうのを、土谷先生達もいるときに話し合ってみようか。」

「なるほど、そういう流れで進めていくんですね。」

「みんな他の仕事もあるだろうし、この会議の時間以外はこの辞書を開かなくてもいいからね。もちろん開いてもいいんだけど。報酬は出ると思うけど、仕事が増えるばっかりじゃね。無理せず、やっていきましょう。」

 この日はこのような形で会議が終わった。私のメモ帳の一行目には、「ビルヂング、ビルディング」と記載された。

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 編集部での会議は三回行われ、いずれも一回目と同じような雰囲気で行われた。この三回で、先生に聞きたいことは四人で百五十ほど集まっていた。先生達との会議は月に一度の三時間の予定なので、これではもしかしたら時間がかかりすぎるのかもしれないと麻子はやや心配になった。部長はというと、相変わらずの雰囲気で会議に臨もうとしていた。

「やあ緑さん、お疲れ様。今日は先生達も初めてだから、挨拶と、お互いを知るような時間になったらいいのかなと思っているよ。でも、疑問もたまっていることだし、できる限り消化できるようにしたいところでもあるね。」

「辞書、間に合いますかね。実際どれくらいのペースで進めていくものなのか、よく分からなくて不安ですね。」

「大丈夫だよ。緑さんは一番疑問を挙げてくれてすごくありがたいよ。だから余計なことを考えないで、内容について突き詰めて考えてほしいな。進捗の管理とかは、魚喜さんの方が向いてそうだから、彼女にお願いするよ。適材適所でやっていきましょう。」

「はい。分かりました。ありがとうございます。」

 先生達が徐々に会議室に集合した。土谷先生は丸いめがねをかけた、髪の毛とひげが長い、まさに学者またはアーティスト、いや仙人と言った雰囲気で、気軽に話しかけられそうになかった。長田部長は持ち前の穏やかさで関係性を作るために挨拶をしていた。小説家の雪先生は四十代の真面目そうな女性で、しかし会話はとても楽しくする人だった。灯矢先生は独特な雰囲気で、あまり集団行動は苦手そうな、五十代くらいの男性だった。

 早速会議を始めることになった。

「はい、今日はお集まりいただいてありがとうございます。今日は初回ということで、先生方には十年前の辞書を見ていただきまして、それで、私たちの方で、実は百五十個ほど言葉についての疑問がたまっておりまして、そこまで急いでいる訳ではないのですが、一つずつ解決しながら辞書作りのお手伝いをお願いできればと思っております。」

 土谷先生が口を開く。

「百五十個とは、みなさんやる気がありますね。十年前のことは、正直なことを申しますと忘れてしまいました。辞書の仕事に関わったこと、覚えていない。ただ、この辞書を見る限り、私は、特に何もしていないような気がするのです。当時の人たちはあまりやる気が無かったのかもしれない。」

 その後、数秒の沈黙が流れたが、空気を読んで雪先生が自己紹介をしてくれた。

「作家の雪です。辞書編纂のお手伝いなんて、とても楽しそうでわくわくしていますわ。どうぞよろしくお願いいたします。」

「灯矢です。できることはやりますので、よろしくお願いします。」

「それでは、早速辞書のほうみてもらいましょうか。」

部長が仕切る。

「いや、我々の仕事は、辞書を作ることではなく、君たちの疑問を解決することだから、その百五十個の疑問をポンポン解決した方がいい。」

 土谷先生の歯切れのよい発言に、一同は同意した。

「ではそうすることにしましょう。じゃあ、編集部の三人から、どうぞ」

 麻子が話し出す。麻子は最初に見つけた疑問である「ビルヂング、ビルディング」について、ずっと頭から離れずにいた。この建物に出勤する度に、「ここは二井ビルヂング」と、脳内でリピートされてしまっていた。なので、今回この疑問について質問できることを非常に楽しみにしていた。

「はい、では一つ目からお願いします。えー『ビルディング』なのですが、実は今いらしているビルは『二井ビルヂング』なのですね。オフィス街を見ても「ビルディング」と表記された建物と、「ビルヂング」と表記された建物があるのですが、どちらが正しいのでしょうか。」

 土谷先生が口を開く。

「古い外来語、遡ること明治時代頃に来日した英語は、日本人の耳からしたら馴染みのない発音だった。だから、アメリカ人が「ビルディング」と発音したとしても、日本人にその「ディ」の音韻がなかったから、誰もが「ヂ」と聞こえてしまったのだ。国を超えた音韻の認識の差は、よくある話だ。」

 雪先生が口を開く。

「私もこの建物に入るとき、思いましたわ。ビルヂングって書いてあったので。ビルディングや、ビルという言葉に慣れている現代だから、とてもその言葉に奥行き、歴史を感じましたわ。今土谷先生が言ったとおり、昔の人が聞き取った、音の化石とてもいうのでしょうか。そういう言葉は面白いですわね。」

 灯矢先生も口を開く。

「例えば、今の時代に「ビルヂング」と口にするのは、少し恥ずかしい気持ちになりますね。それはなぜなのでしょう。ビルディングはスタイリッシュな印象なのですが、ビルヂングは田舎くさいような、外来語でありながら、昔の日本人がぽかんとした表情で「ビ・ル・ヂ・ン・グ」といっているのが、目に浮かびますね。」

 再び土谷先生が口を開く。

「音韻自体に意味は無いのですが、音韻の印象で、その言葉を口にする表情や思考が目に浮かぶというのはとても面白いですね。英語に親近感のある現代の日本人はビルディングの方がしっくりきますが、どうしてほとんど死語となったビルヂングが残っているのか、非常に気になりますね。 次は雪先生。

「それは、建物だからじゃないでしょうか。建物は人間以上に歴史の流れがゆっくりなのです。だって、世界中に歴史的建造物ってありますでしょ。建物には、その時代が刻まれるけれど、築年数が重なれば建物の中にも時間は流れますでしょ。この二井ビルヂングからしたら、まだビルヂングと名付けられて、そんなに時間が経っていない印象なのかもしれませんわ。人間って、成長が早いなあって思っているかもしれないわ。」

 灯矢先生。

「では、もし建物に視力があったとしたら、この世界はどのように見えているのでしょうか。大きな動物ほど時間の流れがゆっくりに感じるというのは生物学的には分かっていますが、ビルは巨大ですよね。人間はハエがぶんぶん飛ぶように見えているのでしょうか。んー、これ小説にしようかな。」

 麻子はふと、部長の顔を見た。部長の顔には「あせり」もしくは「あきれ」と書いてある様に見えた。麻子はこのペースで辞書は編纂できるのだろうかと不安に思った。そして、他の二人の編集者も、表情から同じことを考えていることが読み取られた。


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 先生方三人は、ビルヂングとビルディングについて二時間話し続けた。とても楽しそうだった。しびれを切らした部長が「ビルヂングとビルディングについては、いったん後回しにしましょうか」と止めてくれた。残りの一時間で、足早に他の十個ほどの疑問についても話をした。

 その後の編集者の四人の会議で、もうあの三人の前で「ビルヂング、ビルディング」の話はしないようにしようと約束をした。辞書の記載は、



ビル[building][名]コンクリート製の建物の名称。主に長方形で縦に伸びている。ビルディングまたはビルヂングの略。


になった。

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