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残念な投資家たち~私はこれで大損しました ② 世界的人気作曲家の慢心

アメリカを代表する人気作曲家

 クリスマスシーズになると、必ず耳にするのが「ホワイトクリスマス」だ。この名曲の生みの親がアーヴィング・バーリン(Irving Berlin)。
アメリカ第2の国家と呼ばれる「ゴッド・ブレス・アメリカ(God Bless America)」やミュージカル「アニーよ銃をとれ」など、多くの名曲を送り出してきたバーリンは、ジョージ・ガーシュインが「アメリカのシューベルト」と呼ぶ、アメリカを代表する作曲家だ。
 1888年、ロシアで生まれたバーリンは、家族と共に5歳でアメリカに渡る。ところが、バーリンが8歳の時に父親が死去、一家の生活は一気に苦しくなる。新聞配達や靴磨きなどしてお金を稼ぎ始めたバーリンは、14歳で家を出ることになった。
 マンハッタンのチャイナクラブで働き始めたバーリン、その仕事は「シンギング・ウェイター」だった。給仕をしながら、客の求めに応じて歌を歌うというものだったが、音楽教育は受けておらず、楽譜も読めなかった。しかし、見よう見まねでピアノを弾き始め、やがて自分で作った曲を披露するようになる。すると、隠れていた才能が一気に開花した。
 バーリンの曲は大好評で、やがてミュージカルの作詞・作曲の依頼を受けるようにまでなる。1918年に作曲されたのが、「ゴッド・ブレス・アメリカ」。世界初のトーキー映画として映画史に名を刻む「ジャズ・シンガー」(1927年)の中で歌われた「ブルースカイ」もバーリンの作品。フランク・シナトラら多くのアーティストが歌うスタンダードナンバーとなっている。次々に名曲を送り出し、貧乏生活から抜け出したバーリン。自らの手で、アメリカンドリームを掴み取ったのであった。

株式投資で大もうけしていたが・・・

 バーリンは手にしたお金で、株式投資を始めた。「黄金の20年代」と呼ばれたこの時代、株価は天井知らずの上昇を続けていた。バーリンの株式資産は400万ドルに膨れ上がり、利益は100万ドルを超えていたという。新聞配達などで糊口しのいでいたバーリンは、すっかりお金持ちの仲間入りをしていたのだ。
 1929年10月のある日、バーリンは友人とレストランで食事をしていた。チャールズ・チャップリン、誰もが知る喜劇俳優だ。
 話題は株式投資になった。大儲けしていたバーリンは、得意げに「君も株をやっているのか?」と尋ねた。
 チャップリンはこう答えた。
「株など信用できるか!」と。
そして、
「もうかっているうちに、売って手を引くことだな」と言い放ったのだ。
 バーリンは激怒した。せっかく、よい儲け話を教えてやろうと思ったのに、何という言い草なんだと。
 そして売り言葉に買い言葉、
「なんだ君は!アメリカを空売りするつもりか!」といい、チャップリンを「非愛国的だ」となじったのだった。

正しかったのは?

 大げんかになった二人。しかし、正しかったのはチャップリンだった。
 会食した翌日から、株価の大暴落が始まった。2人が会食したのは「暗黒の木曜日」(1929年10月24日)の前日だったのである。
 バーリンが築き上げてきた財産は、一瞬で吹き飛んでしまった。バーリンは悄然とした様子で、映画を撮影していたチャップリンを訪ねた。先日の非礼を詫びたバーリンは、「どこでそんな情報を仕入れたのか?」と尋ねたという。
 株式投資家としてのチャップリンは、バーリンを遙かに上回る経験と実績の持ち主だった。
 早くから株式投資をしていたチャップリンは、大きな資産を築いていた。 
   ところが、株価の天井が近いと判断し、暗黒の木曜日が到来する時には、持ち株を処分していたのだ。
 株式投資の有名な格言「もうはまだ、まだはもうなり」を実践していたチャップリン。アメリカ中が「株はまだ上がる」と思っていたときに、「もう上がらない」と判断していたのである。
 チャップリンは優れた投資センスの持ち主だった。それを裏付けるのが、チャップリンの代表作「殺人狂時代」の台詞に出てくる。
 映画の中に、友人たちが株式投資で大損する中で、チャップリン扮する主人公だけが羽振りがよいというシーンがある。その秘訣を尋ねられた主人公は、こう答えるのだ。
「皆が売るから、今が買い時だ」(Buy now when everybody's selling.)
 これは「もうはまだ、まだはもうなり」の格言そのもの。チャップリンの投資哲学が反映された一言であった。
 株価大暴落を予測したチャップリンに対して、せっかく築いた資産を一瞬にして失ったバーリン。その原因は、市場全体の流れに乗り続けて慢心し、冷静な分析を怠ったからであった。

驚くべきチャップリンの投資術

 実はチャップリン、経済学の書籍を読みあさり、経済指標にも目を通していた「理論派」の投資家だった。
 暗黒の木曜日以前に株式を処分した経緯を、チャップリンは自伝の中で明らかにしている。
「『街の灯』の撮影中に株式市場が暴落した。幸いにもわたしはH・ダグラス少佐の『社会信用論』を読んでいたので、被害を免れた。この本は資本主義社会の構造を分析、図解し、基本的にはすべての利益は貨銀から生まれてくることを論じたものだった。したがって、失業は、利益の減少と資本の縮小を招くことになる。私はこの説にひどく感心して、合衆国の失業者が1400万人に達した1929年に、手持ちの株と債券を全て売却し・・・」(「チャップリン自伝」中野好夫訳 新潮社)と書き記したチャップリン。映画で見せるコミカルなチャップリンからは想像もできない、鋭利で高度な投資判断だ。
「社会信用論」は1924年の出版で、経済の繁栄が永遠ではないことを指摘していた。しかし時は黄金の20年代の最中で、注目されることはなかった。その指摘が正しかったことは1930年代に大恐慌に突入したことで明らかになり、再評価されることになる。
 早い段階で「社会信用論」を読み込んでいたチャップリンは、自らの投資判断にこれを生かし、株価大暴落の被害を免れていた。その天才的な相場観は、周到な準備と研究によって形作られていたのだった。
 これに対してバーリンは、勢いに任せて株式投資を行っていたといわざるを得ない。偶然にも空前の株価上昇局面に遭遇し、熱狂する人々に追従することでだけで、大いに儲けることができただけのこと。相場の大きな転換点を予測することなど、不可能だったのである。

熱狂に乗るのは容易だが、降りるのは困難だ

 バーリンが失敗した原因は、すでに紹介したニュートンと同じだ。株価上昇の熱狂に巻き込まれ、根拠のない強気に支配されてゆく。その結果、崩壊の兆候を見過ごし、今度は暴落の熱狂の渦に引き込まれてしまうのだ。
 しかしながら、熱狂の波に乗ることも大切なこと。黄金の20年代、アメリカでは多くの人が投資熱に浮かされたていた。もちろん、一線を画していた人もいたが、彼らは大きなチャンスを逸していたことも事実なのだ。投資をする以上、熱狂の波に乗るのも必要なこと。重要なのは、株価上昇が永遠ではないと認識した上で、売り抜けるタイミングを見いだせるかという点に尽きる。
 バーリンは波に乗るまではよかったが、降りるチャンスを逸してしまった。この点、チャップリンの投資術は傑出していた。熱狂に乗るのも、降りるのもうまかった。人々の心を捉え続けてきたチャップリンの才能が、投資の世界でも発揮されたといえるだろう。

大損したバーリンのその後

 株式投資で大損したバーリンだが、作曲活動は衰えることなく、その後も多くの名曲を送り出してゆく。生涯で作曲した曲数は3000以上と、アメリカの音楽史上に輝く業績をのこしたバーリン。株価暴落で大損したニュートンが、晩年に「錬金術」にのめり込んでしまったのとは対照的だ。
 バーリンが1989年に101歳でこの世を去ったとき、その功績をたたえて記念切手が発行された。まさにアメリカの国民的作曲家であったのだ。
 バーリンは投資家としては、残念だったかもしれない。しかし、投資に失敗したからといって、絶望してはならない。人生を生き抜く上で、投資は重要な要素だが、全てではないのだ。
 第二次世界大戦最中の1942年、ビング・クロスビーが歌うホワイトクリスマスがリリースされた。現在までのシングルセールスは5000万枚と推計され、「世界で最も売れたシングル」として、ギネス世界記録に認定されている。(第二次大戦前のデータが不備で、これを考慮すると第2位との集計もある。)
 投資に失敗はつきものだ。でも、もし失敗したらホワイトクリスマスを聞いてみよう。バーリンが生み出した美しいメロディーには、株式投資家としての失敗と、作曲家としての成功が刻まれているのである。

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