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「元競馬場」の謎~こんな所にレース場があった ①

かつて、ここに競馬場があった

 東京の幹線道路の一つである目黒通りに、「元競馬場」という場所がある。目黒区下目黒、現在は商店や住宅が密集しているこの地には、その名の通りかつて競馬場があったのだ。「目黒競馬場」である。

目黒駅から1キロメートルほどにある「元競馬場」

 目黒競馬場は、1907(明治40)年に開業した。1周1マイル、敷地面積約6万5000坪(21万㎡)という本格的なもの。バス停付近には記念碑も設置されているが、目を留める人はほとんどいない。

目黒競馬場の記念碑

 こんな場所に、本当に競馬場があったのだろうか?
 付近を歩き始めると、住宅地図の看板にその痕跡を見つけた。
 じっくり見てください。競馬場のコースを見つけられますか?

 地図の左下、「多摩大学目黒高等学校」付近からの緩やかなカーブが始まり、「下目黒五丁目」にかけての直線が、競馬のコースそのものだった。

 住宅地の中に延びるこのカーブこそ、かつての目黒競馬場の痕跡だった。ここを、馬たちが疾走していたのである。

第1回ダービーも開催された目黒競馬場

 目黒競馬場は、日本の競馬場の中核を担う存在であった。レース開催日には多くの人々が押し寄せ、大変な賑わいを見せることになる。当時の写真には、疾走する馬たちの向こうに、大きなスタンドを埋め尽くす人々が記録されている。
 1932(昭和7)年、第1回ダービーが開催されたのも、この目黒競馬場だったのだ。

ウィキペディアより

 しかしこのとき、目黒競馬場は大きな壁に当たっていた。増え続ける観客に応えようと、競馬場の規模拡大を図った。しかし、建設当時は農地だった一帯の宅地化が進み、新たな用地の確保は不可能となっていた。
 また、目黒駅に近い便利な場所に、大きな競馬場があることそのものが、非効率だと考えられるようになる。地元からは、町の開発の妨げになるとして、競馬場の移転を求める声が強まっていった。
 1933(昭和8)年、目黒競馬場は廃止され、東京・府中に新たに建設された東京競馬場に移転されて現在に至る。東京競馬場で開催されているGⅡレース「目黒記念」は、目黒競馬場を記念してのものなのである。
 目黒の地からは、スタンドの歓声も、疾走する馬たちの土埃も、人々の記憶から消えていった。今も残るのは「元競馬場」という地名と記念碑、そして住宅街を走るコースの痕跡だけとなった。

なぜ、競馬なのか・・・競馬を奨励した政府の思惑

 日本初の常設競馬場は、横浜の根岸競馬場(横浜競馬場)だ。1866(慶応2)年、横浜に居留し始めた外国人たちが、自国と同じように競馬を楽しみたいと考えて建設した。欧米人にとって、競馬場は重要な社交場であり、異国であっても、欠くことのできないものだったのである。

根岸競馬場跡:ウィキペディアより

 維新後、今度は明治新政府の主導で、競馬が奨励されてゆく。日本人が主催した最初の西洋式競馬が、1870(明治3)年に開催された。その場所は、東京のど真ん中、誰もが知るある神社の境内だった。
 1884(明治17)年、こんどはある観光名所で、競馬が行われるようになる。その場所が下の写真だが、どこか分かるだろうか? 

このカーブを馬たちが疾走していた

 また、ある人物が大変な競馬好きであったことも、競馬が推奨される要因となった。その人物の名前は、現在も開催されているGⅠレースに刻まれている。
 政府が競馬を推奨したのは、欧米の競馬文化を取り込むためではなかった。そこには政府のある思惑が隠されていた。それは日本の近代化と不可分であり、国家の存亡にもかかわる重大なもの。このため政府は、威信をかけて競馬を推奨し、各地でレースを開催していたのだ。
 その思惑とは一体何なのか? 次回、詳しく解説してゆこう。 


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