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残念な投資家たち~私はこれで大損しました ⑤元祖成金は歩に戻った

このエッセイは投資に失敗して、大損してしまった人々の記録です。
彼らは何を間違え、どんな末路を辿ったのか・・・。
彼らの「失敗の本質」から、成功への道筋を探ります。

鈴木久五郎~成金と呼ばれた最初の男

 その男はカネを持て余していた。株式投資で大成功し、30歳で莫大な資産を築き上げた。その額は現在の貨幣価値で、500億円とも1000億円ともいわれている。
 しかし、使い道が分からない。現代でも、彗星のように大金持ちが現れ、「月に行く!」などと、その散財ぶりに注目が集まる。この男の場合は、シンプルに「豪遊」だった。
 花街で飲み歩き、料亭の障子や襖を片端から破いて、お札で穴を塞いでみた。池の水の代わりにビールを注ぎ、金魚の模様をあしらった着物を着せた女たちに、池の底に沈めておいた金貨を拾わせてみた。金貨を入れたお汁粉を飲ませててもみた。芸妓30人を引き連れて木曽の御嶽山に出かけ、野良着を着せて農作業をさせるという、意味不明のイベントもしてみた。「家が手狭になった・・・」と感じると、数千坪の敷地に何棟もの家が建つ向島の料亭「花月華壇」を衝動買いし、そこに通うための二頭立て馬車を4台も注文した。
 男の名前は「鈴久」こと鈴木久五郎。鈴久は1877(明治10)年8月、現在の埼玉県春日部市に生まれる。父親は県下第2位の納税額を誇る資産家。鈴木家は代々相場が好きな家柄で、鈴久も相場にのめり込んでゆくことになる。

神奈川県大磯町郷土資料館所蔵

勝負の時が来た!

 1904(明治37)年、日露戦争が始まった。戦争となれば株式相場は大荒れになる。開戦当時は悲観論が優勢だった。戦争に負ければ株価は暴落するが、もちろん勝てば急上昇だ。しかし、鈴久は判断が付かなかった。
 思いあぐねた鈴久は、なぜかロンドン行きの船に飛び乗る。海外の情勢を直接見た方がよいとでも思ったのだろうか・・・。ところが、船が香港に着いたとき、「二〇三高地占領」など、日本の優勢が伝えられてきた。「チャンス到来!」と思った鈴久は、日本にとんぼ返りし、株式市場に参戦したのだった。
「国が戦争という大博打を打ったとき、やはり個人も大博打を打たねばならぬ。負ければ鈴木家百万の財産はちりのごとく、灰のごとく飛ぶかもしれぬが、勝てば百万の財産が五百万にも一千万にもなる。運は天にあり。」と
 国家の命運に自らの命運を託した鈴久は、「買い」で勝負に出た。株価は戦況に反応しながら激しく動き、時に劣勢になることもあったが、鈴久は忍耐強く戦い続けた。
 厳しい戦いの最中、鈴久は肺炎で40度以上の高熱を出し、病院に担ぎ込まれたことがあった。病院の電話を使って、取引を続けた鈴久。「病人が株をやったりしてはいけない」と医者に言われたが、「そんな規則はない」と聞き入れない。業を煮やした病院側は、院内の電話に「相場の電話は堅くお断り申し候」という張り紙をしたという。
 鈴久が命運をかけた日露戦争で、日本は大国ロシアに勝利を収めた。これに伴って株価も急上昇し、買いで攻め続けていた鈴久は大勝ちし、莫大な利益を得た。
「鈴久将軍は時計の針よ。カッタカッタと進み行く」。こんな戯れ歌が広がったのもこの時期。そして鈴久はこう呼ばれるようになる。「成金」と
 成金とは、将棋の「歩兵」が敵陣に入っていきなり「金将」と同じ力を発揮すること。この時期、日露戦争で大儲けし、いきなり大金持ちになった投資家が続出し、成金と呼ばれるようになる。その最初とされるのが鈴久、つまり「元祖成金」なのである。

謎の投資家とのデスマッチ

 破竹の勢いで勝ち進む鈴久に、投資家人生をかけた大勝負が巡ってくる。鐘紡(鐘淵紡績)株を巡る興亡だ。鐘紡は「カネボウ」の前身で、当時の国内最大手の紡績会社だった。
 1906(明治39)年、紡績業の将来に明るい未来を描いていた鈴久は、買いで攻めていった。ところが、なぜか思うように上がらない。どこかに大きな売り手が潜んでいるようだった。
 やがて、その正体が明らかになる。呉錦堂、神戸に住む華僑の大物相場師だった。鈴久は野村財閥の創始者となる野村徳七らも巻き込んで、呉を相手に真っ向勝負を続けるが決着が着かず、やがて軍資金が枯渇してしまった。
 追い詰められた鈴久は、安田銀行(後の富士銀行・現在のみずほ銀行・みずほコーポレート銀行)の創業者の安田善治郎に、軍資金の援助を求めた。 安田は鈴久の求めに応じて資金を出したが、同時にこう釘を刺した。
「資金はいくらでも出すから安心しておいでなさい。ただし、相手が倒れたら素早く身をかわしてしまうんだ。この好景気も、お前さんと呉錦堂の勝負がヤマで、後は下り坂だからそのつもりでいるように」と。
 このとき安田68歳、明治維新後の激動の経済界を生き抜き、その冷徹な振る舞いから「吸血鬼」と呼ばれてきた大物中の大物の援助を得た鈴久は、ついに呉をねじ伏せた。
 呉が率いていた売りが崩れたことで鐘紡株は暴騰、わずか半年で3倍となる。ついに呉は破産、その知らせに鈴久は「ざまあ見ろ!」と絶叫したという。大勝負に勝利した鈴久は、わずか30歳にして、現在の貨幣価値500億円とも1000億円ともいわれている資産を手にしたのであった。


「自惚れて判断の明を失っていた」

 鈴久が勝利の雄叫びを上げた翌年の正月、赤坂や新橋など、東京の一流どころの料亭は全て鈴久が押さえて、大盤振る舞いをした。しかし、これが「最後の宴」となってしまう。
 日露戦争の戦勝気分は消え去り、株価は下落に転じ、やがて暴落と言える状況となる。このとき、鐘紡株の買い占めで鈴久と共に動いた野村徳七は、危機を察知して売りに回っていた。
 一方、鈴久は強気の姿勢を崩さなかった。株価が下がる中で買い向かったのだ。しかし、株価は下がる一方となる。300円目前だった鐘紡株は、わずか半年後には77円70銭にまで暴落してしまったのだ。
 栄華を誇った鈴久は、あっけなく破産する。鈴久の成金時代はわずか1年ほどで終わりを迎えたのだ。
 屋敷をはじめとした、鈴久の全資産は売り払われた。本宅にするつもりで買った向島の料亭に住むことはなく、注文していた馬車が届いたのも破産後のこと。そして鈴久は、家賃4円50銭の借家に移り住むことになったのである。
 呉との勝負に勝った後、安田の助言に従い、市場から撤退していれば、破産することなく、莫大な資産を残すことができたはずだった。
 鈴久は同じような警告を、明治の元勲大隈重信からも受けていた。鈴久が絶頂にあった時、大隈は売り逃げるように忠告、「資産は土地と株と現金に三等分しておけ」と。残念ながら、こうした貴重な助言は鈴久の心に届いていなかったのだ。
 人々は破産した鈴久をみてこういった。「成金が再び歩に帰った」と。
 雑誌「実業乃世界」(明治42年5月号)に、「私の失敗時代の回顧と楽天主義」と題したされた鈴久の告白が掲載された。
「なぜ私が失敗したかといえば、要するに天下の大勢を見るめいがなかったからである。まだ大丈夫だと思っているうちに、世は変わっていた」と語る鈴久。その上で、「もし、大隈の意見を聞いていれば、おそらく失敗しなかっただろう」振り返っているのだ。
 しかし、鈴久はこう続けている。「何しろ当時、私は日の出の勢いであった。自分は説においては伯(大隈のこと)に負けるけれども、実行力においては優っていると思っていたと語る。そして、大隈の忠告を受けた後、しばしの間株価が上昇していたことから、「やっぱり私の方が勝っているのだ」と、心の中でひそかに伯を机上の空論家と見なしていた」というのだ。
相場の転換点を読めずに、全てを失った鈴久。一方、株価暴落時に素早く売りに転じた野村徳七は、莫大なもうけを叩き出し、今に続く野村グループの基礎を築き上げた。その一方で、鈴久は「残念な投資家」となり、株式市場から消え去った。「成金」は瞬く間に「歩」に戻ってしまった。30歳の若さであった。

「歩」としての後半生

 株式投資で破産した鈴久だったが、人生を投げ出すことはなかった。破産後、相場の世界から身をひく一方で、鈴久は政治の世界に進み、明治41年には群馬県から衆議院議員に立候補して当選した。
 議員活動は一期だけに終わったが、その後新しい会社を設立し、法律違反を起こして逮捕されるなど、世間を騒がせ続けたこともあった。
 鈴久こと鈴木久五郎は1943(昭和18)年8月に66年の生涯を終えた。相場で失敗してもなお、存分に生きた生涯であった。
 長女の文子は「もの心がついて彼は、ズッと逆境続きで・・・お正月というのに電気もガスも止められました。当時お餅どころか一袋四銭のお多福豆すら買えませんでした」と語っている。「歩」として懸命に生きる姿が浮かんでくるエピソードだ。
 その豪遊だけが語り継がれている鈴久だが、その絶頂期にある人物に資金援助している。中国の革命家である孫文だ。当時、日本に亡命中だった孫文は、革命に必要な資金を集めようと動いていた。鈴久に面会した孫文は、「革命もやはり一種の投機ですから、あなたが投機をやる気持ちがよくわかります」と語りかけた。その言葉に共鳴した鈴久は、資金の提供を申し出たのであった。
 革命に成功し、中華民国臨時大統領になった孫文は、1913(大正2)年に国賓として来日する。鈴久に再会した孫文は「お礼をしたい」と申し出る。このとき鈴久はすでに破産していた。粗末な借家暮らしで、生活費のやりくりに必死の毎日、くたびれた着物を着て孫文の前に現れた。
「あのとき出したお金を少し返してもらいたい・・・」という言葉を飲み込んだ鈴久は、こう申し出た。
「もうすぐ子供が生まれます。その子の名前にあなたの名前の一字をいただきたい。」
「それはめでたい。どうぞご自由に」と答えた孫文。生まれてきた長女に付けられた名前が「文子」であったのだ。

鈴久に学ぶべきこととは

「元祖成金」として、語り伝えられてきた鈴久。鈴久を成金たらしめたのは、思いつきに基づいた強引な株式投資手法と幸運に恵まれた結果であり、それが長続きしなかったのも当然と言えるだろう。
 しかし、周到な準備を重ね、慎重な決断をしたとしても、必ずしも成功しないのが相場の世界である。鈴久に学ぶべきは、その投資手法ではなく、人生を貫いた楽観主義ではないだろうか。
「自惚れて判断の明を失っていた」と、破産の理由を語る鈴久だが、絶望することはなかった。鈴久は生来の楽天家だった。このときの暴落で、多くの投資家が自ら命を絶っていたが、鈴久はあっけらかんとしていたのだ。
「失敗したらどうなるか。そんな覚悟は持っていなかった。ただどうにかできるだろうと思っていた」と「私はいわば楽天主義だ。楽天主義だから、あのような急激な境遇の変化を受けても悪名も被らず、日をもってますます先輩と交際し、今日あるのだ」と。
 相場で失敗しても、命を取られることはない。人生の終わりではないのだ。投資で行き詰まったとき、ぜひ、鈴久のことを思い出して欲しい。「成金」から「歩」に戻ってもなお、意気軒昂で生涯を全うした男のことを。

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