四十八文字の話『セ』清和源氏 「源頼朝」公の伊豆島流し②
前回からの続きになります。
前回の話で「源頼朝」公は「平清盛」公より東国に派遣された、と書きました。でも皆さんの中には、「そんな事あるわけがない」「それは無理な話では?」と思われますよね。おそらくその根拠は、「源頼朝」公からすると「平清盛」公は「自分の父親の仇❗」です。その父親の仇から「済まぬが東国へ行ってくれぬか」と頼まれても、承諾はしないでしょう、と言うことだと思います。実はかく言うこの私もそう思います🙇。じゃ、何故そんな事書いてんだ❗との、お叱りを受けそうですが、これからその理由を記させて頂きます。ですが前もって少し言わして頂ければ
何も「清盛」公ご自身が命令する事はない、という事です。
「頼朝」公の派遣と言う難しい方策を取らず、自分の身内や部下を派遣する方が早い話、簡単デスヨね。それが出来るなら格段に楽❗です。ですが「平清盛」公はそうはしなかった。と言うより出来なかったと思われます。
話が少し変わりますが。皆さんは学校の歴史の授業で、「建久三年」(1192)に「源頼朝が征夷大将軍に任じられ、これより鎌倉に本格的な武家政権が出来た」と習ったかと思います。でも私は今この年齢になって、その時の教科書の内容を関し改めて思うんですが、何か、1192年に、この日本と言う国に突然「鎌倉」と言う街が現れた❗、という印象を凄く感じてしまいます。そして何故「鎌倉」に幕府を開いたのか?、との理由が「鎌倉は三方を山に囲まれた守りやすい場所」だから、と。それも確かにそうでしょうが、それよりももっと大事な理由が有る、と思われます。
それは、「鎌倉」は「頼朝」公が幕府を開く前の遥か百五十年前から源氏の「拠点」なんですよ❗
河内源氏二代目「源義義」公
「源頼朝」公のご先祖、河内源氏二代目「源頼義」(よりよし)公が、数々の武功が評価され、「相模守」に任じられた長元九年(1036)以来の歴史が「鎌倉」には有ります。また、京都の「岩清水八幡宮」から勧請して鎌倉に祀り上げたのが、現在の「鶴岡八幡宮」です。それは康平六年(1063)の事です。
岩清水八幡宮
鶴岡八幡宮
もしその当時の鎌倉が源氏の勢力がまだまだ貧弱な地ならば、わざわざ京都から大神社の「御霊」を勧請など出来ますかね?源氏にとって、もう既に「磐石の地」「拠点」だったから出来た事ではないでしょうか?それらを合わせて考えてみると、「頼朝」公が鎌倉に幕府が開いた第一の理由は
「昔から源氏の拠点だから」
になる筈です。でも学校のテストにこんな回答を書いたら点数、取れないデスネ😄
またこれは私も最近知ったのですが。「鎌倉」は古代から何と❗「鉄」が採れる所だった、そうです。皆さん、何も鎌倉で「鉄鉱石」が採れた❗わけではないですよ☺️実は「七里ヶ浜」など「鎌倉」近辺の海岸からは、良質な「砂鉄」が採れるそうです。良質な「砂鉄」が採れる、と言うことは、上等な「刀剣」が作れる、と言うことになります。これも理由の一つかと。因みに「鎌倉」の「かま」は元々鉄を熱する「釜」に通じ、また「鎌」も刃物ですので、さぞや良い農機具も作れたのでないでしょうか。
七里ヶ浜 岸が黒いのは「砂鉄」です。
この様に昔から「源氏の拠点」である「鎌倉」。こういった場所に、平家の息のかかった人物が派遣されたらどうなっていたでしょうかね?
争い事が起きやすくなり、下手すりゃ、「戦争」になるかもしれません。そんなリスクを冒してまでも、「平清盛」公が使者に自分の身内を選ぶとは思えません。
🌺皆さんは、「平家にあらずんば、平家にあらず」と言われていた程栄えていたとされる「平家」は、さぞかし当時は「向かうところ敵なし❗」状態だったかと想像されると思います。
デスガ、こう考えて下さい。確かに「朝廷」「帝」などを巻き込んだ「保元の乱」「平治の乱」に勝ち、権力を欲しいままにしました。ですが、冷静に考えると、戦に勝った「戦場」は飽くまで日本の一部分に過ぎない「京都」。
日本全国を統一したわけではありません。
「京都」を舞台にした「局地戦」に勝ったに過ぎません。
ですから意外にその勢力は大きくはない、と思われます。
その証拠に、源平の戦いは「壇之浦」で終わってますよね?九州の手前、山口県沖の壇之浦で、何故終わったのか?
それは
同時の九州は「源氏」の拠点だったからです。
壇之浦 古戦場
後世に伝わる程、大勢力ではなかった様に思われます。「清盛」公、そういった思いから、「平家」の将来を憂えて、関東「舟運利権」が欲しかったのでは?🌺
自分の身内を送れない、「頼朝」公は自分の言う事などは従わないと想定される、でも「舟運利権」は欲しい、ならば一体どうすれば良いのか?
思案して思い付いたのが
「誰かに、間を取り持って頂くか❗」と言う案ではないかと。
そしてその適任者はおそらく「藤原氏」だと思われます。
源氏は元来「藤原氏」の身辺警護をも任務とし、藤原氏にとっては言わば「親衛隊」の様な存在ですので、互いの関係も悪くないと思われます。「頼朝」公のご先祖、河内源氏の初代「源頼信」(よりのぶ)公は、藤原全盛期を築いた「藤原道長」(ふじわらみちなが)に仕え、「道長四天王」と呼ばれていた程です。
下図は、藤原道長が「望月ノ歌」を詠んだ千年後❗に顔を出した「望月」ですよ。
藤原道長
🌺またまた話が逸れますが。藤原氏についてはこういう話が有ります。
「藤原氏」の出自は、「大陸から来た渡来人」であると。
公卿のトップ階級である「五摂家」。更にその筆頭である「近衛家」(このえ:藤原氏一族)の家紋は「牡丹」を象った印です。
近衛家の家紋
正式な「国花」とは定められてはいませんが、中国の人々の大多数が「中国の国花は牡丹だ」という意識が有る様ですね。また唐の「玄宗」皇帝を始め、古代の中国皇帝はこよなく牡丹の花を愛しました。その「牡丹」の花を自らの家紋にしているのは何か理由が有るのでは?
また、幕末期に朝廷側(勿論対応するのは公卿ですが)と折衝を担当していたとある徳川幕府老中が、陰で、こんな事を言っていた話が残ってます。
「ちゃんころ坊主めが。生意気な事を言いおって!」
この「ちゃんころ坊主」の「ちゃんころ」。これは日本で昔から戦前の頃まで使われていた中国人に対する侮辱した言い方です。(かつて、アメリカが日本に対して使った「Jap」(じゃっぷ)と同じです)
大和朝廷時代の豪族は、元々大陸や半島からの渡来人である場合が殆どなので、真相はどうであれ、「中臣氏」の末裔である藤原氏もその可能性は有ると言うことです。
一方の源氏。源義経公や、源氏のDNAを引き継ぐ「新田氏」や「足利氏」の、あの大平原を舞台に、騎馬を駆使した「戦い方」。こちらも何か?、「大陸騎馬民族の血」を感じませんか?
この「藤原氏」と「源氏」。元が同族?だとすると、「馬が合う」のは当たり前デスネ😆
さあ、話を戻しましょう!
「平清盛」公。直接自分からではなく「藤原氏」を介して、「源頼朝」公に「東国派遣」を依頼したのではと推察します。勿論「藤原氏」にはそれなりの「見返り」を約束して。
その後、「頼朝」公が兵を挙げます。ですが緒戦の「石橋山の合戦」で負ます。「頼朝」公、この形勢をどうやって挽回したか?
正に、関東舟運の肝❗「浦賀水道」を渡って房総に行き、俗に「房総平氏」と言われる勢力を後ろ楯にし、反撃に転じます。
その後どうなったかは、皆さんはご存知デスヨね。
浦賀水道
「清盛」公、その「頼朝」公の反撃を見届ける前に亡くなります。
🌺来年の大河ドラマ「鎌倉殿と13人」で「平清盛」公を演じるのは、俳優「松平健さん」です。日本の、そして「時代劇」を演じる代表的な俳優さんです❗
上の写真は、平成二十九年「おんな城主 直虎」で「武田信玄」役で出演した「松平健」さん。来年の役柄を創造するにこんな風体で演じるのかなと。また、前回の記事で私が子供の頃観ていた「兵隊やくざ」主演の「勝新太郎」さん。「松平健」さんはこの「勝新太郎」さん愛弟子です。
勝新太郎さん
何やら、この二人の御仁、似てますね❗🌺
「関東舟運」を手に入れる‼️、そういう想いを持ちながら亡くなった「清盛」公。これにより「清盛」公の想いは、潰えたのでしょうか?
でもそうでもないですよ‼️
「清盛」公が亡くなったからおよそ三百年後。正に「頼朝」公が派遣されたその「伊豆❗」において、とある人物が突如「歴史」の表舞台に出現します。名を「伊勢新九郎」(いせしんくろう)、皆さまご存知の「北条早雲」公(ほうじょうそううん)です。この方から続く、所謂「北条五代」により、関東全域を、そして「舟運」は、統一されたかと思われます。
北条早雲 像
この人物、姓から分かる通り「伊勢氏」の出自であり、そしてこの「伊勢氏」、かの「平清盛」公を輩出した「伊勢平氏」の流れ‼️、「末裔」です。
この「三百年」越しの関東統一、「平清盛」公の「執念」デスカネ。
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