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四十八文字の話『ス』       「スワ」(諏訪)神族と会津藩松平容保公との「不思議なご縁」について  ⚪信州人と会津人との頑張り

「國譲り」神話の中で「力比べ」(戦い)に負けた    『建御名方神』(たけみなかたのかみ)。

この負けた側の神様が                逃げた場所である「諏訪」において          有名な信州「諏訪大社」の主祀神であられます。  

六年毎に催される「御柱祭」(おんばしらさい)は     特に有名ですね。


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ですが、更にあろう事か         この負けた神様が何と「軍神❗」として  崇められます。


「源 頼朝」(みなもと よりもと)を始め         「北条 義時」(ほうじょう よしとき)に代表される    鎌倉幕府の歴代執権「北条得宗家」          戦国大名甲斐の「武田信玄」(たけだ しんげん)など   名だたる武将達から崇敬されていました。

それは一般の大衆も同様です。

            

「諏訪神社」は             『建御名方神』の「國譲り」神話時代から 遥かな時を越え             今現在、日本全国に約二万五千社も    御鎮座しております。


皆さんのお住まいの近くにも             御鎮座しているのではないでしょうか?


またこの「諏訪神社」が               信州を中心として東日本に御鎮座数が         多いのは分かりますが、               何故か?                      不思議な事に                    西日本の、とある地域にも多いのです。

           

それは「鹿児島県」です。


これは、島津氏の祖である             「惟宗忠久」(これむね ただひさ)が、         信濃国の塩田荘地頭時代、              まだ薩摩国守護になる前の文治五年(1189)に      奥州藤原氏との戦い「奥州合戦」に赴く前に、     「諏訪大社」に戦勝祈願をした事が「ご縁」となり、  後に多くの「諏訪神社」が              薩摩国に御鎮座された理由となる様です。 

      

古代から、                     大和朝廷に敵対したり                豊臣秀吉の九州征伐に抵抗し、            関ヶ原での「島津義弘」、              幕末期の「西郷隆盛」など多くの「武人」を      輩出している「薩摩」。               この「薩摩隼人」の気風に合っていた         かもしれませんね。

ですが幕末期において               「國譲り神話」における『建御雷神』の役割❗を    演じた「薩摩」において、              正にその追い出した『建御名方神』を祀る      「諏訪神社」が多いのは不思議ですよね。       何か理屈では説明出来ない力が働いたのでは?、    と思う程です。  


現代に繋がる平和な日本の「瑞兆」なのかもしれません。


惟宗(島津)忠久

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で、その「諏訪神社」ですが             御鎮座数の多さにおいては              國譲りを迫り、勝った側の神様            『建御雷神』(たけいかづちのかみ)を祀る       「鹿島神宮」「鹿島神社」の御鎮座数を        凌いでいます。


「力比べ」に負けた側の神様が      何故こんなに多くの人々から       崇められるのでしょうかね?


一説によれば                    負けると分かっていながらも             怯む事なく勇敢に戦ったその御姿に          皆が共感を感じるのでは?と言われています。     

それも確かに有ると思います。

ですが更にもう一つ。

やはり氏子でもあり                 騎馬軍団でもあった「諏訪神族」が          時の有力勢力と手を握りながら            自分達の影響力を広める事により           自らの神様を祀る「御社」を             各地に「御鎮座」していったからではないでしょうか?


『建御名方神』図

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⚪「負けるが勝ち」                

「神話の世界」では負けましたが           この「現実世界」においては             それを挽回したのではないかと思われます。   

皆さん、「負けるが勝ち」と言う諺、ご存知デスヨね。 この諺、古代から伝わる「諏訪」の軍法の格言が    基になっている様です。

私は、特に勝っただ、負けだと            拘るつもりはないですが               やはり負けてしまうと               「過小評価」されがちになるのは否めません。


では「幕末期」において               『建御名方神』と同じ役割を             演じた会津藩主「松平容保」公の場合はどうであるか? と言うより、その後の「会津」自体、         会津の方々はどうなったのか?

「諏訪」においての                 「諏訪神族」の頑張りが有った様に          「会津」における                  「会津人」の頑張りが有りました。          これらについて                   これから述べさせて頂きます。


⚪名もなき偉人達


会津若松城が落城してからは             会津の方々は大変な苦難の生活が続きました。     そして、勝利した側の薩摩長州の人々が        歴史に「名を残す❗」のは当然です。         ですが、その後の会津の人々の中からも        幾多の「偉人達」、                 たとえ余り有名ではなくても             その後の日本の為に貢献した『名もなき偉人‼️』達を  輩出しています。



◎「白虎隊々士」から「東京帝国大学総長」「貴族院議員」へ            

  

  山川健次郎(やまかわ けんじろう)   



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「鹿鳴館の華」

と謳われた                     「大山捨松」(おおやま すてまつ 旧姓「山川」) の兄。

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九歳で藩校「日新館」に学び藩の軍政改革により    十五歳の時「白虎隊」に入り「会津戦争」を戦います。 飯盛山で自刃し、悲劇の話として今に伝わる     「会津白虎隊士中二番隊」。             その隊を正に、最後に見送った一人です。


飯盛山 白虎隊自刃ノ図 

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その後、                      その時の仇敵であった「薩摩長州」の方々の      援助もあり                     世が明治になり四年後の十八歳の時          政府の米留学生に選ばれ渡米。            エール大学で「物理学」を学びます。         (この頃から、山川健次郎氏は            「会津」、「薩摩」、「長州」などとの        狭い俯瞰などではない、               よりも拡い「日ノ本」自体を意識するように      なったと推察されます。)      

帰国後、東京の「開成高校」で教鞭を取り       東京大学に編入され                 日本初の「物理学教授」、「理学博士」となり     以後「東京帝国大学総長」、             「九州帝国大学総長」、               「京都帝国大学総長」を歴任。   


ご自身の専門分野である「物理学」の         日本における教育の基礎と発展に貢献します。     

その恩恵ですかね?  

その後                      「湯川秀樹」博士や                「朝永振一朗」博士を始めとして           日本人が一番多く受賞している            「ノーベル賞」分野は                『物理学』なんですよ。


日本人で初めてノーベル賞を受賞した「湯川秀樹」博士

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◎会津、そして日本のナイチンゲール 


   瓜生岩子(うりゅう いわこ) 


   東京台東区浅草「浅草寺」 瓜生岩子像

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日本における社会福祉児童福祉の先駆者。       

東京下町は浅草「浅草寺」。

こちらのお寺の境内の片隅に、            参道の「浅草仲見世」の賑わいに比べれば、      少し静かな雰囲気である               本堂の南西側の一角。

そこに                       ちょっとした広場が有るのですが、          ご存知でしょうか?

その広場に、小さな「ご婦人の銅像」が有ります。

幾度も浅草寺に行っておりますし           そこに女性の銅像が有る事は             何気なく知っていました。             が、このご婦人が                  「日本のナイチンゲール」と呼ばれていた女性とは   ごく最近まで知りませんでした。



瓜生岩子さんは裕福な家庭に生まれましたが      父親を早く亡くし母親の実家で暮らします。      その後、会津藩の御典医を勤めていた叔父の下に奉公し 仕事の手伝いをします。               

その時に体験した、緊迫した医療現場、        やってくる患者の容態や               ある事情での堕胎や間引き、             とても満足な扱いを受けてない子供達の姿に接し    大きな衝撃を受けます。

その後結婚し、子宝に恵まれます。

が、夫や、頼りにしていた御典医の叔父、       母親が次々と亡くなり                失念に陥ります。

その時、懇意の和尚さんがこう言いました。

「世の中には、お前より不幸な人達が   いっぱいいる。             どうだ、                これからはお前の一切を         それらの人々のために尽くしてみないか。 お前は他人の喜びを自分の事の様に、   受け入れる事が出来る人なんだよ。」


それを聞いた瓜生岩子さんは、            その後、日本の「社会福祉」への道を歩み始めます。


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そのきっかけは、            あの「会津戦争」でした。 


御典医だった叔父の医療現場で見た         「救いを求める人々」の姿を思い出したのか      道端に倒れている死者に野菊を供えたり        叔父から教わったであろう医術で           

傷ついた兵を              それも「敵も味方も別け隔てなく❗」   治療します。



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世が明治になると岩子さんの活動は          更に活発になります。

子供の教育の学校や                 孤児達のための養護施設を作ります。         当然不足する金銭面の援助を訴えるため奔走し     福島県令(現在の福島県知事)の知遇を得てからは     益々、社会福祉活動を広く展開します。        

更に上京し、                    孤児貧民救済のための施設を             全国に設置するよう「嘆願書」を帝国議会に提出。   議会に「嘆願書」を出す事など            日本の女性では初めの出来事です。 


こうした一連の活動が                次第に世間に知られるようなり            一般の人々は勿論ですが               特に満足な生活や教育を受けられていない人達からも  支持される様になります。

その後                       「その名声」、「活動実績」を耳にした、       実業家「渋沢栄一」氏に請われ            当時の、東京市養育院幼童世話係長を         半年間勤めました。  

また日清戦争後、日本の領土になった         台湾においても教養活動を実施。           

そしてこれらの功績が認められ            日本女性初の「藍綬喪章」を受ける事となります。


浅草「浅草寺」にある銅像は             明治三十四年(1901)、                日本資本主義の父「渋沢栄一」氏の尽力により     建てられました。

 


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「一書」(ある人、曰く)

余談で申し訳ないです。               私はある時期東京の下町当たりに           住んでいた時期が有りました。            まだ「コロナ」が蔓延する遥か~以前の頃です。

真夏ともなると                   よく缶チューハイを片手に「まっ昼間」から      浅草までよく歩いたものです。

そして「浅草寺」に着くと、             境内の隅にある                   西側「奥山おまいりまち」から入ると近い場所に有る  ちょっとした小さな広場で、             よく酒を呑んでました。

そしてそこには、                  優しそうで、小さくて                可愛いお婆ちゃんの銅像が有りました。

正にその銅像の向かい側にある            ちょうど良い大きさの石に腰を降ろして        呑んでました。

その頃は余り意識せずに呑んでましたが、       このコラムを書くに当たり              色々調べていたところ、               その時の、                     銅像のお婆ちゃんが                 会津の「名もなき偉人」だった事が判り        ビックリしました。


どういったご縁が有るのか?       私には分かりませんが          このご婦人「瓜生岩子」さんの名を    世間にもっと知って欲しい‼️と想い、   今回取り上げてさせて          頂きました。     


「一書」 終わり


浅草「浅草寺」境内図 ⑧瓜生岩子像

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◎僅か「六百人」にも満たない兵力で   北京公使館街を取り囲む         中国「義和団」兵一万人‼️を相手に    籠城戦を指揮。             各国公使とその家族           更に避難してきた居留民達を       二ヶ月もの間、守り通した軍人。     この人物の功績が            欧州中に高く評価され          二年後の「日英同盟」締結に繋がります。

 

     柴五郎(しば ごろう) 



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母親の機転により、まだ幼かった柴五郎は       会津戦争に巻き込まれずに済みます。         ですが、その戦争で                 母親を始め、祖母、兄嫁、姉妹を全て亡くします。

明治の世となり                   故郷の人達の尽力の下で              「陸軍幼年学校」に合格し              軍人の道を歩みます。                主に情報分野に力を入れ               英語、仏語、中国語に堪能になります。

明治三十二年(1899)駐在武官として北京に赴任。    その時                      「義和団」(中国の清時代の結社)事件が発生し      特に西洋人達が被害を受けます。

柴五郎が赴任した日本公使館は            各欧州諸国の公使館と同じ地域に有り         その数は日本を含め                 十一ヶ国でした。


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「西洋を滅ぼす❗」を                スローガンとする「義和団」が            北京に有る「北京公使館街」を狙わない理由が     ないです。     

案の定                 この北京にある公使館街を        実に「一万人以上の義和団兵」が     取り囲みます。


   義和団兵

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各国公使官達は互いに協力し合うにも、        既に「パニック❗」状態であり、           話し合いをしても何も纏まりません。         

その中で、只一人、冷静な振る舞いを見せ、      的確な意見を提示していた「柴五郎」陸軍中佐は    次第に各国公使から支持され、            その時、欧州各国の中で               「欧州代表公使」であったマクドナルド英国公使から  駐在する各国兵を含めて               前線で指揮する「権限」を与えられます。 


その後、               「柴五郎」中佐に率いられた       日本兵を中心とする各国の義勇軍は、   実に見事に統制され、          勇猛果敢な働きをします。

    


これらを目の前で                  実際に見ていた各国欧州人からは、          絶大な称賛‼️を浴びます。

             

ある英国人はこんな事を言います。 

「もう彼の奴隷になってもいい」と。


この踏ん張りにより、                約二ヶ月後、                    やっと待望の救援軍が来て、             北京公使館街は救われました。


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その後                 この時の活躍により、          「柴五郎」の名は            欧州中に伝わる事となります。


一個人の日本人の名が                近代欧州において知れ渡る初めての現象だと      思われます。                    日露戦争の英雄、                 「東郷平八郎」(とうごう へいはちろう)提督、     「乃木希典」(のぎ まれすけ)将軍の名声が       欧州に拡がる前の話です。


その現象により                   英国のビクトリア女王を始め、            各国の欧州王室から「勲章」が授与されます。


ビクトリア女王

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そしてこの時の「欧州代表公使」であった       マクドナルド英国公使官。              彼は帰国後、英国政府にこう報告します。       


「日本の武士道は           我々西洋の騎士道と相通づる物である。  東洋において              我々が手を組むのは日本しかない」


       

当時、七つの海を支配していた            世界最強国である「大英帝国」も           アジアにおけるロシアの動きに            対処し切れずにいました。

そして、                      この出来事が契機として英国政府は、         それまで亜細亜の単なる小国としか思っていなかった  「日本」を評価する事となり             手を結ぶ❗政策に転換します。


つまり、                この時の「柴五郎」の活躍が、      明治三十五年(1902)の         「日英同盟」締結に           発展‼️結実‼️します。


この「日英同盟」が           その後勃発した「日露戦争」       (明治三十七年(1904)~三十八年(1905))  において、               欧州最大の陸軍国であったロシアに対し、 陰に陽に「日英同盟」による       かなりの圧力を掛ける事となり、     結果、この『日本』を勝利に導きます。  

『日本』が               ロシアの「植民地」になる事を      防いだのですよ‼️


正にこの日ノ本を            護って頂いた             「偉人‼️」ではないでしょうか? 



またまた話が少し逸れますが。            

下の写真は                     その「日露戦争」の一場面である           有名な「水師営の会見」を写した物です。

降伏を申し出てきたロシアの             「旅順要塞司令官」ステッセル将軍を招き入れる    「乃木希典」(のぎ まれすけ)将軍 (中列 左から二人目)。

そしてその後ろ、                  後列左から二人目の軍人、              お名前を「山田英夫」(やまだ ひでお)と、仰います。  


元会津藩主「松平容保」公の三男です。

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◎世紀の御成婚


今から約百年前、昭和三年(1928)に         「世紀の御成婚‼️」が執り行われました。


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⚪御成婚の新郎                

『秩父宮雍仁親王』                 

 ( ちちぶのみや やすひとしんのう           昭和天皇の弟、今上天皇の大祖父 )  

⚪新婦                      

「松平節子(後に勢津子に改名)」(まつだいら せつこ)。


この新婦

元会津藩主「松平容保」公の孫娘です。


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この時の会津の人達の喜びは            「一塩」(ひとしお)どころではなかった様です。

明治になり、会津の方々は              世間からは「逆賊」、「朝敵」と言われてきました。  それが                       その当事者である元藩主「松平容保」公の孫娘が   「皇室」に入ったわけですからね。         

「スポーツの宮様」として人気の有った       『秩父宮雍仁親王』。                (「秩父宮ラグビー場」の名はご存知ですよね)      


またこれは偶然にしては出来すぎでしょうか?

この宮様の「お印」(シンボルマーク)がナント

「若松」‼️です。


「國譲り」を              強引に迫ってきた            現皇室に繋がる            「高天原天つ神」からの        「贈答品❗」でしょうかね。



またまたこれから記す話は              少し話が逸れて申し訳ないですが。      


大正天皇には                    皇子が四人いらっしゃいました。 


    左側より、祐仁皇太子(後の昭和天皇)      三笠宮 高松宮 秩父宮

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その内の三人の皇子のお妃が       幕末期「薩摩長州」と対立した      「大物佐幕派❗」の孫娘なんです。



◎香淳皇太后(こうじゅん こうたいごう)


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『祐仁皇太子』

(ひろひとこうたいし 後の昭和天皇)の         お妃。 


この妃の祖父は                   幕末に薩摩長州から                「魔王」と呼ばれ警戒された            『久邇宮朝彦親王』(くにのみや あさひこしんのう)。



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早くから英明で知られ                水戸藩からは                    「大塔宮」(おおとうのみや 後醍醐天皇の皇子)の    再来、と謳われた宮様。


安政五年(1858)に結ばれた「日米修好通商条約」の   「勅許」に猛反対。                

また徳川十三代「徳川家定」公の将軍継嗣問題では   「一橋慶喜」公を支持したため            江戸幕府井伊大老に警戒され             安政の大獄で「永蟄居」にされます。

ですが、「桜田門外の変」後に復帰。

「八月十八日の政変」においては          「三条実美」(さんじょう さねとみ)を始めとする    尊攘派公卿を追い出した               公武合体派の中心的な「親王」様。

維新後、幽閉されてしまいますが           また再び復帰。      

明治八年に「伊勢神宮」の祭主となります。      また明治十五年には三重県伊勢市に          この日本において数の少ない「神職」を育成する    「皇學館大学」を創立した親王様です。



◎徳川喜久子(とくがわ きくこ) 

訪問先のドイツにて

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『高松宮宣仁親王』

(たかまつのみや のぶひとしんのう           昭和天皇、秩父宮様の弟)の妃。            


この方                 最後の将軍「徳川慶喜」公の       孫です。


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母親の實枝子様が「結腸癌」で亡くなった事から    「癌撲滅」活動に尽力されたお妃。

昭和四十三年(1968)に「高松宮妃癌研究基金」     更には平成五年(1993)「国立ハンセン病資料館」    創立に尽力。

が、皮肉にも夫の高松宮様は「肺癌」で、       更にご自身も「乳癌」を患い             平成十六年(2004)薨去されます。


そして秩父宮妃「松平節子」様は          「松平容保」公の孫娘。


この三人のお妃が共に                「佐幕派の重鎮」のお孫さん、です❗


やはり、対立を回避し          互いにそれぞれに            忘れる事など出来ない「想い」を     胸に残しながらも            この日ノ本の将来を想い         手に手を取った結果であると       想われます。


 




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