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坂本龍一の音楽、その近さと遠さ

坂本龍一の音楽、その近さと遠さ
〜まだ聴いたことのない音をもとめて〜

(一)20230328

2023年3月28日、音楽家・坂本龍一が他界した。長く患っていた癌との闘病の果てに。そして、いきなりすごく個人的な話になってしまって非常に申し訳ないが、わたしの母は、その前年の2022年3月27日に死亡した。ちょうど坂本の最後のアルバム「12」でいうと、十曲目と十一曲目の間のことである。ステージ四の末期の癌の手術をしてからほぼ五年ほど生きてくれていた。しかし、それ以上に長く持ち堪えることは難しかったようだ。おそらく、坂本も自らの生を生きられるだけ生ききったはずである。癌を患う人というのは、本当に最後の最後まで懸命に生き続けるものである。わたしたちにはもう、本当にお疲れさまでしたということしかできない。

(二)ライディーン

正直な話、つい最近になるまで坂本龍一の音楽をまったくちゃんと聴いてこなかった。何故かずっと、こちら側ではない向こう岸の人だと思い込んでいたし、その音楽も海外の高名な音楽賞を受賞していたりしていてそう簡単になんの気なしに手を出していいものだとも思えなかった。坂本龍一のいる世界とこちら側の間には、なかなか気軽には渡ることができない大きな川が流れているような気がしていた。つまり、坂本龍一は、どこか遠い存在であったのである。

たぶん、わたしが最初に接した坂本龍一の音楽は、YMOの「ライディーン」だったと思う。当時の小学生の間でも、そのノリがよくて覚えやすい「ディンディンディーン」というシンセサイザーのフレーズは、とても流行っていた。しかし、それはテレビやラジオでよく耳にする沢田研二やピンクレディのヒット曲とそう大差はない、普通の流行歌のひとつとして耳に入ってくるようなものでしかなかったのだが。

当時、小学生であったわたしには、学校の校庭でやった運動会のお遊戯で「ライディーン」を踊った記憶がある。それくらいに、この曲は非常にポピュラーな存在として認識されているものであり、とてもノリのよい大ヒット・ナンバーであったということなのだろう。お遊戯で踊ったダンスは、そのころ話題になっていた原宿の歩行者天国の竹の子族の踊りをそのままコピーしたようなものだったのではないかと思う。左右の手の人差し指であちこち指差すような手の動きをしたり、上下左右にバウンスしたり、えびすくい風に後ろにはねるような動きは、子供がやってもなかなか楽しいものであったと記憶している。

そのような原初的なYMO体験があったためだろうか、子供心にはそれがテクノポップだとかいう何かたいそう新しいものであるというような感覚はちっとも湧いてこなかった。要するに、この最初の遭遇の時点において坂本龍一はわたしの中でそれほどのセンセーションを巻き起こしていなかったのである。このときにYMOの八十年代テクノポップのサウンドに対して「おぉ!」と驚くことができなかったということは、かなり大きい。まだ小学生であったわたしの耳には、「ライディーン」の「ディンディンディーン」というシンセのフレーズも沢田研二の「TOKIO」のイントロの「ポンピョロンピョロロポンピョロン」というフレーズも、そう大差はなく聴こえていたのである。それらは、ただ単に当時の流行のポップスで聴けるちょっとおもしろいサウンドという感覚で捉えられているものでしかなかった。

その後、中学生ぐらいになるとパンクやニューウェイヴをより積極的に聴き出した。誰もがテレビやラジオで楽しめる「ディンディンディーン」や「ポンピョロンピョロロポンピョロン」というフレーズなどよりも、もっと斬新で刺激的なサウンドや音楽を(小生意気にも)求めるようになっていったのであろう。流行のポップスのサウンド(現在、それらの音楽はシティポップなどと呼ばれている)では、もはや物足りなくなっていたのである。

そんなこんなで、ハードコア・パンクやインダストリアルやノイズ/オルタナティヴといったものを、何かに憑かれたように聴き漁るようになってゆき、どんどんポップスのサウンドからは遠く離れる方向へと突き進んでゆく十代を過ごすようになる。そのほとんどはインディペンデント・レーベル(いわゆるインディーズ)からリリースされている音楽であり、ポップな世界の人気者でもあったYMOの坂本龍一とは、あまり接点らしい接点はどんどんなくなってゆく一方であった。(ただし、実際には、その当時に坂本龍一はフリクションやフュー、ヴァージニア・アシュトレイなどのインディーズ系の作品のプロデュースをいくつも手掛けており、まったく接点らしい接点がなかったわけでは決してない。)

インディーズの斬新で刺激的なサウンドや音楽スタイルというのは、基本的には一般的にいうポップなものではあまりない。どちらかといえば、かなり非ポップス的なものである。そして、そうしたインディーズの音楽を支持するわたしたちにとっては、やはりその音楽がインディペンデントなものであるということは、非常に重要なポイントであって、いわゆるメジャー・レーベルからリリースされる音楽は、それがメジャー・レーベルからリリースされているというだけで、非ポップス的なインディーズの対極にある過剰に商業主義に傾いたポップなつまらない音楽にされてしまうということが多かった。リップ・クリームが「Kill Ugly Pop」(醜いポップを殺れ)と歌ったのは、そうしたインディーズ側にあった人々の精神性を極めてアグレッシヴに表明したものなのだろうとわたしたちは信じていた。そして、その当時のテレビ番組などにもちょくちょく出演していた坂本龍一の存在というのは、やはりまったくそうしたインディーズ寄りといえるものだと認識することはできないものであったのだ。

それでも、忌野清志郎と坂本龍一がコラボレートした「い・け・な・いルージュマジック」(1982年)のシングルは、ちゃんと買って聴いたりしていた。忌野清志郎の所属するRCサクセションはメジャー・レーベルから作品をリリースしていたが、その尖った個性をもつどこか異質な存在感は、かなりこちら寄りのものだと認識されるものであったことは確かだ。(1982年、シングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリースしたロンドン・レコードの傘下に独立レーベルのBarca(バルサは、ラテン語に由来しスペイン語でもイタリア語でも小舟を意味する。英語発音ではバーカ)が設立され、一時期ここから忌野清志郎のRCサクセションは作品をリリースしていた。この当時の忌野清志郎は、インディーズ寄りというよりも、ほぼインディーズと地続きなところにいたのである。)

そうこうしているうちにYMOは散開した。散開コンサート用に作られた舞台のセットを撮影用に盛大に燃やしてしまったことなどは、当時「宝島」などをの雑誌を読んでいたので情報としては知っていた。坂本龍一は、大島渚が監督した映画「戦場のメリークリスマス」に出演し、同作品の音楽も担当し、映画の世界でも高い評価を獲得するようになる。ますますインディーズからは程遠い、エスタブリッシュメントの匂いのする側の世界の人だという印象は強くなった。それでも頻繁にマスメディアに取り上げられたり自らメディアへの出演も積極的にしていた坂本龍一が、今どんなことをしているのかといった情報は、極めて表層的にではあるがなんとなく常に把握はできてはいたのだ。

1987年、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「ラスト・エンペラー」に出演し、その音楽も担当した坂本龍一は、この作品でアカデミー賞を受賞し、名実ともに世界のサカモトとなった。そのころ、こちらはアシッド・ハウスと出会っていた。サンプリングと電子音と四つ打ちビートの時代の幕開けである。非常に小気味よくバチバチにハネてキレのよいトッド・テリーのハウス・サウンドには、凄まじく大きな衝撃を受けた。ラスト・エンペラーとトッド・テリーでは、まったく接点らしい接点は見当たらない。当時、坂本龍一はとても遠くにいる人だった。

(三)ハートビート

時代は九十年代に入り、それまでの八十年代とは(たぶん)何かが(確実に)変わった。正確にいうと、何かが変わったような気分が、時代の中にとても色濃く漂っていた。そして、何を思ったか坂本龍一は、ある意味ではその当時の時代の最先端のサウンドでもあったハウス・ミュージックをやりだしたのである。それが1991年のアルバム「Heartbeat」である。

反復するダンス・ビートであり、そのビートの形式そのもののことであるハウス・ミュージックの非音楽的音楽性のような部分に、坂本龍一は(その当時)大いに可能性を感じていたのであろう。すでにニューヨークのクラブ・シーンで富家哲や鄭東和といったほぼ直系の門弟といえる才能たちが華々しく活躍していたことに触発された部分もあったのかもしれぬが、過去のあらゆる音楽の要素をミックスし今までになかった音楽へとリミックスしてゆくハウス・ミュージックに坂本龍一の触手がのびていたという紛れもない事実には実に興味深いものがある。ハウス・ミュージックは、新しい時代の新しい音楽(の可能性を秘めているもの)であり、まさにそこに来たるべき未来があるのだと、地下の薄暗いハウス・ミュージックの鳴り響くダンスフロアで踊っていたわたしたちと同じように坂本龍一も感じていたはずなのだから。

ただし、坂本龍一のハウス・ミュージックは、やはりかなり音楽的でありすぎたような印象がある。色々なものをミックスして、ごった煮にして、非音楽的な境地にまで抜け出している新しい音楽の地平にまで到達しようと、さまざまな実験や逸脱の試みをしてみたのだろうけれど、まだまだそれは十二分に音楽的であるもののように聴こえた。つまり、坂本龍一はハウス・ミュージックの概念や方法論を借りて、新しい九十年代の坂本龍一の(ハウス風の)エレクトロニック音楽を作り出しただけであったのかもしれない。

アンダーグラウンドのダンスフロアで轟音で鳴り響くためだけにあるハウス・ミュージックは、過去のあらゆる音楽の要素をミックスし今までになかった音楽へとリミックスしてゆく実験の果てに、どこか積極的に非音楽的音楽性への逸脱という志向性をもつものともなっていた。一晩中ずっとダンサーたちがハウス・ミュージックのビートで踊り続けるためには、始まりがあり終わりがあり起承転結をするような展開のある音楽は、あまり必要とされなかったからだ。そこには、終わることなく反復するビートや持続するグルーヴ感があれば、もうそれで十分だったのである。

そういう意味では、坂本龍一は最初から音楽的な方向からハウス・ミュージックにアプローチしすぎていたのであろうし、アンダーグラウンドのハウス・ミュージックというのは基本的に(音楽についてしっかりと学んだことのない・譜面などさっぱり読めないものによる)反音楽的な音楽という性質をもっていてこそ存立可能となるものですらあったのである。坂本龍一のハウス・ミュージック的な解釈がなされた九十年代的なダンス音楽と、実際のアンダーグラウンドのハウス・ミュージックの距離は、耳で聴き取れる差異以上にとても遠かった。

その当時のわたしは、そうしたアンダーグラウンドのハウス・ミュージックばかりを聴いていた。ハウス・ミュージック専門のインディペンデント・レーベルである、ニューヨークのニュー・グルーヴやストリクトリー・リズム、シカゴのトラックスやDJ・インターナショナル、ダンス・マニア、ハウス・ジャムなどから次々とリリースされる12インチ・シングルを追いかけることに忙しくて、なかなか坂本龍一の音楽にまでは手が回らなかった。あまりに地下に深く潜りすぎて、地上の世界の音楽というのは、もはやわたしの守備範囲となる音楽の範疇の外にあるものであったといっても過言ではない。

後に、アルバム「Heartbeat」で歌っていたのが、ケリ・チャンドラーのプロデュースでヒット曲を飛ばしていたディー・ディー・ブレイヴであったことを知り、後追いでチェックをしたりはした。渋谷のワックス・トラックスかDMRあたりで「Heartbeat」のプロモ盤12インチ・シングルも入手をした。しかしながら、この時期ほどそれまでにまったく接点らしい接点はないように思われた坂本龍一の音楽とわたしとの距離が、「い・け・な・いルージュマジック」の頃に匹敵するくらい縮まって近くなっていたことはなかったのである。自分ではあまり意識できてはいなかったのだけれど。

(四)2001・2011・2020・2022

あのころから、もうすでに三十年という年月が過ぎた。その間には本当に色々なことがあった。だが、やっぱりあっという間に過ぎてしまった三十年であった。ずっと何をするでもなくぼんやりとしていたら、三十年も経ってしまっていた。坂本龍一にとっても、これはあっという間の三十年であったのだろうか。結果的に、それは、その人生の後半部分のほぼ全体となった三十年であったわけであり、きっと本当に色々なことがあって、非常に多くの多岐にわたる仕事を次々と手掛け、さまざまな作品を残してきた三十年であったのだろう。わたしの何もなかった三十年とは比較にならないほどに、とても密度の濃い三十年であったはずである。これはいわゆる〇か百かぐらいの差があるものであり、もはや比較をするまでもなく非常にわかりやすく対照的な三十年であったといえるのではなかろうか。

この三十年の間に起きた色々なことには、ローカルな大事件もあっただろうし、全地球的なグローバルな大事件もあったはずである。それらの大事件の中には、この時代を生きたわれわれだからこそ共通して経験した事柄というものもあっただろう。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件は、間違いなくそのひとつだ。明らかに時代の大きな節目に噴き出すべくして噴き出したような歴史的な大事件であった。この日を境に人類はいろいろな意味で変化することを余儀なくされた。そして、その影響は今なお大きく人類の歴史の上に暗い影を落としつづけている。

そして、2011年3月11日には東日本大震災が発生した。あの日、大きな揺れの中で棚のレコードがどばどば飛び出してくるのを必死に両手でおさえながら、小学生の頃から事あるごとに何度も何度も机の下にもぐる避難訓練を繰り返していたのは、すべてみな今日のこの日のためにしていた準備であったのだと気がついて、激しい揺れのなかで思わずはっとさせられた。ついにその日が来たのだと感じた。このまま死ぬのではないかとも思った。それは、本当にとても恐ろしい出来事だった。それまでに経験したことがないようなレヴェルの恐怖であった。明らかにわたしにとっても、とても深く胸に刻まれた節目になった。そんな、決して忘れられない出来事であり経験となった。時間にすれば、ほんの短い間に起きた出来事だったのかもしれない。だが、ずっとずっとあの時のことは克明に思い出すことができるだろう。

今から約二十年前に同時多発テロがあり、約十年前に大震災があった。この二つのとても大きな時代の節目となるような出来事を経て、さらにまた今もまだ記憶に新しい新型コロナウィルスの世界的なパンデミックを経験した。前世紀のころには想像だにしなかったようなことが、新世紀に入ってから次々と起こっている。わたしについていえば、最初の三十年を生きた世界とその後の二十年ではまったく違う世界になってしまったようにも思える。その変化の極めつけとして、母の死というものがあった。おそらく、この二十一世紀の最初の約二十年間で、どんなことがあろうとちっとも何も変わらずにいられたという人は、圧倒的に少ないはずである。それでなくても社会は流動化して不確定性に満ちている。こんなにも様々ななことを考えさせられるような出来事が次々と立て続けに起こる二十一世紀がくるとは思ってもみなかった。それに、これからだって、何が起こるかわからない。そのたびに、わたしはさらにどんどん変わってゆかざるをえないのかもしれない。

その人生の最後の二十数年で坂本龍一も様々な変化を経験したことであろう。時代が変化し、人間の生き方や考え方が、大きく何度も変わった。そんな新世紀の最初の約二十年間であった。そして、気がつけばまったく接点らしい接点が見当たらないと思われていた坂本龍一の音楽とわたしとの距離感は、いつしかそれほど遥か彼方に離れ離れになっているものではなくなっていたのである。平たくいえば、なんとなく坂本龍一が近くに感じられるようになってきてもいた。それは、この時期に坂本龍一が積極的にコラボレーションを行なっていたアーティストの名前を見ても明らかであった。カールステン・ニコライ(アルヴァ・ノト)、クリスチャン・フェネス、テイラー・デュプリー、クリストファー・ウィリッツといったところは、ちょうど九十年代後半から〇〇年代前半にかけてのマイクロスコピック・サウンドやロウワーケース・サウンドと呼ばれた実験的な音響テクノ・サウンドばかりを聴いていた時期に、わたしも非常によく見かけていた名前ばかりであったからだ。あの「Heartbeat」から約三十年近くが経って、そしてあの「い・け・な・いルージュマジック」から約四十年近くが経って、やはりわたしと坂本龍一の音楽の間の距離はまたしても知らず知らずのうちに近くなり縮まっていたようなのである。

(五)坂本教授

よく知られた坂本龍一の愛称に、教授というものがある。しかし、これはただの愛称というよりも、実際に坂本龍一が教授という大学の役職名とともに名前を呼ばれるにふさわしいような人物であるから、そう呼ばれていたという面もある。東京芸術大学の音楽学部で学んだ坂本龍一は、東京芸大大学院の修士課程も修了している。まさに坂本教授と呼ばれても決しておかしくはない音楽アカデミズムの権化であるかのような経歴の持ち主だ。よって周囲の人々から教授と呼ばれてしまうのも仕方のないことであり、当の坂本龍一もそれをあえて強く否定したり拒否するようなことはできなかったのだろう。

中学生の頃からパンクやハードコア・パンク、インダストリアル、ノイズ/オルタナティヴなどを聴いていたこともあり、わたしにとってはインディペンデントであったりアンチ・エスタブリッシュメントなものこそがその存在を認められるもの、またはかっこいいと思えるものに、いつの間にかなってしまっていたようなところがある。当時の十代の田舎の少年の感覚では、それ以外のものはすべてクソだぜと思い込むぐらいの勢いであったことも確かである。そんな感じであったので、教授という愛称で呼ばれている坂本龍一は、かなりその「それ以外」の中に含まれている存在ではあった。

パンク以降のインディーズ文化において、音楽的アカデミズムは、まったく重要視されるものではなくなってきていたし、そういう流れというものは確実にあった。ベース・ギターを手にしたばかりのジャー・ウーブルが、いきなりパブリック・イメージ・リミテッドのメンバーになっていたり、セックス・ピストルズのアナーキー・ツアーのライヴを見て感化されてバンドを始めたスクリッティ・ポリッティが、ロンドンのレコード店が始めたレーベル、ラフ・トレードから初期衝動の結晶のような自主制作盤をリリースしていた。あの当時、もはや音楽をやるのに、わざわざ大学院までいって音楽の勉強をしなくても全然よい時代となっていたのである。NHKで放送された「インディーズの襲来」(1985年)でもフランク・チキンズはステージ上で「あなたにもやれます」と堂々と宣言していた。

パンク・ロックは若者たちに弾いたこともない楽器を手に取らせバンドを始めさせた。ハウス・ミュージックは、深夜の(非合法な)ウェアハウス・パーティで聴いた反復ビートの新しいダンス・ミュージックを、若者たちがベッドルームに持ち込んだサンプラーやシンセサイザーやドラムマシーンを使って見よう見まねで作り出したことで爆発的に拡散し裾野を広げていった。ただし、シカゴ・ハウスの世界にも教授と呼ばれる人物はいた。「ムーヴ・ユア・アシッド」などの楽曲をプロデュースしたプロフェッサー・ファンク(ファンク教授)である。

プロフェッサー・ファンクは、テン・シティのメンバー(バイロン・バークとバイロン・スティンギリー)がプロデュースしたトゥルースの「ライフ」に、非常にエキセントリックな伝道師の説教を模したようなヴォーカルで参加してもいる。もしかするとファンクの大学院の修士課程は修了しているのかもしれないが、正式に音楽の教育を受けたようなアカデミックな雰囲気はファンク教授の作品にはあまりない。スクラッチ音がチュクチュクと入りまくるクレイジーなアシッド・ハウスの「ムーヴ・ユア・アシッド」を聴けば、それは誰の耳にも明らかであろう。

坂本龍一にとって教授という言葉は、どこか一種の洒落のような響きをもつものであり、最初は仲間内のおふざけの感覚からきている愛称というものでしかなかったのであろう。実際のところ、教授になるつもりはちっともなかったようであるし、東京芸大の学生の頃からミュージシャンや音楽家としても活動も並行して開始している。しかし、実際に教授になるつもりなくとも、坂本龍一にはそうなれるだけのアカデミックな音楽的な知識も学識もしっかり備わってはいた。だから教授なのか。その通り、だから教授なのだ。そして、それなのにもかかわらず実際には教授にはなっていないという現実があるからこそ、その呼び名は一種の洒落の効いた響きをもつようにもなる。

どちらかというと、坂本龍一は、そうした自分の中にある教授的な部分を形成する音楽アカデミズムというものを本当はできるだけ捨て去ろうとしていたようなところがある。一種の洒落で教授と呼ばれるのならまだいいが、いかにも教授的な一面というのはできるだけ表には出さないようにしていたのではないだろうか。いや、あからさまに学識高い教授的な坂本龍一という側面を坂本龍一本人はできるだけ消し去ろうとしていたようなところは確実にあった(特にヴァラエティ番組寄りのテレビタレントと化してもいた九十年代に)。だがしかし、そういう意識的な否定による教授然としていない坂本龍一ではなく、本当に素のただの坂本龍一である坂本龍一こそが、おそらく多くの人が坂本龍一を知る以前の元々の坂本龍一であったはずなのである。坂本龍一が坂本龍一のままで存在できていたのは、まだ華々しく世に出る前の東京芸大の学生・卒業生である頃のことであった。だからこそ、それにもかかわらずわざわざ教授だなんていう少し堅苦しいような肩書きをつけて敢えて呼ばれることや、その呼称そのものがどこか一種の洒落のような趣きをもつものであったのだ。だからもう、坂本龍一がテレビに出演して教授らしからぬくだけた姿を見せることは、それももはや教授の教授らしい一面を見せていることにしかなっていなかったのである。

東京芸大に入学した時点で、もうすでに坂本龍一は、ひと通りの西洋音楽についての学びは終えてしまっていたという。よって、そういう早熟な才能にとっての大学や大学院とは、そうしたアカデミズムの前提となる学びから得られた知識や技術を一旦すべて取っ払って、まっさらなところから自分の音楽を作り上げてゆくための新しい学びの場としてあるものであったようだ。よって、坂本龍一にとっての大学で新たに会得するアカデミズムとは、一般的な意味での学び舎で教示されるものとはまた少し違うものでもあったようである。そして、そういった今までに蓄積した伝統的な音楽の理論や知識とはまったく異なるまったく新しいものを追求してゆこうとする貪欲な方向性の延長線上にYMOもあったといってよい。

1980年、欧州と北米をまわるワールド・ツアーを敢行したYMOが、ロンドンのハマースミス・オデオンでの公演を行った際、当地で活動するインダストリアル・ミュージック〜ノイズ/オルタナティヴ界の急先鋒であるスロッビング・グリッスルのメンバーたちが楽屋を訪れ、当時の世界で最も尖ったサウンドを作り出していた二つのグループが対面するという出来事があった。このとき、坂本龍一は一般的な意味での教授といわれるものとは、最も遠く離れたところにまで到達していたのではなかろうか(スロッビング・グリッスルというグループ名は射精直後の脈打つ男根のことを意味している)。まさに東京芸大時代の坂本龍一が目指していた通りに。

(六)ハウス・イズ・ア・フィーリング

大真面目にパンクを聴いて、何から何まで古い時代のものは否定して(ずっと長いこと、自分が生まれる以前にもうすでに存在していた音楽は、自分が生きている世界とは全く関係のないものだと思って、まったく聴く必要はないという信念をもっていた。だが、中学生のころに、ドアーズとヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴いて、その信念は脆くも崩れ去った)、そしてニュー・ウェイヴをその名称に忠実に聴いてゆくことで、新しい時代の音楽というものを真剣に模索してもいた。まず、すべての否定があり、そこからまったく新しい何かが始まるはずという考え方。その考え方そのものは、坂本龍一にもおそらくあったであろうし、当時のわたしにもあった。ハマースミス・オデオンの楽屋でのYMOとスロッビング・グリッスルの邂逅とは、そうした考え方のふたつの流れが時代の流れのなかでいくらでも近づきうるということの表れでもあったのだろう。しかし、実際のところは、あまりパンクでもニュー・ウェイヴ寄りでもないし、どんなに否定があったとしても決して完全に崩れることのないのが、ある意味では本来的な坂本龍一でもあった。スロッビング・グリッスルのメンバーは、YMOのサカモトのそういった部分に自分たちにはない何か特別な魅力や新しさのようなものを感じていたのかもしれないが。

まず最初に、それまでに学んだすべてを捨て去ろうとしたり、それまでにあったものをすべて否定しようとしたりする。最初の動き出しの方向性は、それぞれに違う時代の違うレヴェルにあったものであったにせよ、それなりに同じような方向へと向かっていたものだったのかもしれない。しかし、坂本龍一の場合は、本当にそれまでに学んでいたものをそこですべて捨て去れていたのであろうか。そこには、どうも怪しいものがあるような気がしてならない。いや、そのどうしても捨て去りきれない音楽アカデミズムによって培われて骨の髄まで染みこんでいる音楽的な感性というものを、どうにかして振り切り捨て去ろうとする苦悩や足掻きのようなものこそが、坂本龍一の音楽だったのだといえるようなところもある。

九十年代に「Heartbeat」でハウス・ミュージックをやったときにも、坂本龍一のそれは本来的なアンダーグラウンド・ダンス・ミュージックとしてのハウス・ミュージックとは、やはりどうしても遠く距離があった。そのかなり洗練された流麗なピアノ・ハウスには、まだかなり抜け切らずに残る音楽アカデミズムの匂いがしていたように感じる。最もハウス・ミュージックにとって重要な、聴くものの身体に訴えかけ踊る/踊らせる要素よりも、まだかなり頭を使って複雑に構成しつくした音階・音塊を聴かせる成分の方が強かったのではなかろうか。ゆえに、坂本龍一の「Heartbeat」は、やはり良くも悪くも音楽的であり、かなり音楽的にも洗練された優良なる質をもつものであったのだ。つまり、坂本龍一のハウス・ミュージックは、どう聴いても坂本龍一のもつ坂本龍一らしさが染みついているハウス・ミュージックのようなものでしかなかったのである。

ハウス・ミュージックは、ひとつの音楽様式でありながら、そのシンプルなフォーマットにはありとあらゆる音楽要素を取り入れる(ミックスする)ことができる。あの当時、誰もがそうハウス・ミュージックの旺盛な雑食性についての迷信のようなものを信じ込んでいた。ハウス・ミュージックは、間違いなく音楽のポストモダニズムのようなものですらあった。ゆえに、すべてをいったん捨て去って音楽というものを脱構築しようとする試みをつづけていた坂本龍一が、あの当時の時代の中心に浮上してきたばかりのハウス・ミュージックに接近してゆくのも、当然といえば当然であったのかもしれない。

奇抜なサウンドと斬新なるセオリーとともに出現したハウス・ミュージックのフォーマットを利用することで、それまでに営々と奏でられつづけてきた音楽を新たな地平、いわゆるポストモダンの音楽といったものへと抜け出させることが可能なのではないか、というようなことをあの当時の坂本龍一もまたうっすらと画策をしていたのではなかろうか。あらゆる音楽の要素をそこに取り込んで、ミックスし、ハウス・リミックスに仕立て上げてしまう。ハウス・ミュージックの方法を用いれば、自分の中にある二つの相対峙する異なる要素をミックスすることも可能なのかもしれない。つまり、そこでならば古典音楽と現代音楽のミクスチャーからなる坂本龍一の音楽のリミックス・ヴァージョンといったものを生み出してしまえるのではなかろうか、という風に。

「Heartbeat」は、根本的にハウス・ミュージック的でありながらも、坂本龍一の音楽への志向性・思考性に寄りすぎていたし、それはつまりハウス・ミュージック的なものに坂本龍一の音楽をミックスしたものでしかなかったのであろう。そして、それは坂本龍一が前もって思い描いていたかもしれない異なる要素を組み合わせて止揚するような弁証法的なハウス・リミックスの領域にまでは遠く到達していなかったのである。ハウス・ミュージックの世界には、ハウスとはフィーリングであるというフレーズが古くからある。畢竟、ハウスとは音楽のスタイルのことではない。それはフィーリングなのだ。だから、そこでハウスの様式を利用して音楽というものを作り出そうという試みをしてしまうと、それはどうしても音楽の外側、音楽の次の次元まで抜け出せていないものになってしまう。そこではハウスのフィーリングは失われてしまい、その音楽はハウス・ミュージック的なものにしかなりはしない。

(七)マイクロスコピック・サウンド

そして、バブル景気の八十年代は遠い昔のことになり、長い長い不況といわれる時代が続いて、すべては終わりのない下り坂をただひたすらに転げ落ちていて、気がつけば見渡す限りの焼け野原になってしまっていた。それでも、その一面の焼け跡のなかにもまだかすかにだが消え去らずに残り続けているものがあって、そこに何かようやくより本質的な本当のものというのが見えるようになってくる。明らかに時代は以前とは変わっていた。大メジャーな存在であった坂本龍一も、かつては過度に装飾され、そうした過剰なイメージの洪水の中に(やや意識的に)埋もれていたのかもしれないが、そうしたゴテゴテした部分は時代の空気が潤いをなくしてカラカラに渇いてゆくとともに、次第に剥げ落ちていってしまったようである。

新しい時代には、新しい時代の音というものがある。時代の変化が音にあらわれるのか、音の変化が時代に影響を及ぼすのか。そうした変化のようなものが、段々と次第に見えるようになってきた。それまでには過剰に着込まされまとわされていたものが、次第次第に鍍金が剥げ落ちて実体を見せるようになってくる。曖昧な音のイメージではなく、音の響きそのものが問われる時代になってきていた。九十年代後半、音響系と呼ばれるサウンドのムーヴメントがあった。このノイズと楽音の中間域を静かに広げてゆくような動きは、その後の新しい時代の音の先駆けであったといっても差し支えなかろう。そうした流れの中に、音響系もしくは音響派の実験的なテクノ・サウンドといったものも登場してきていたのである。

マイクロスコピック・サウンド(顕微鏡的サウンド)やロウワーケース・サウンド(小文字サウンド)と呼ばれていた実験的な音響テクノは、まさに音そのものや音の響きそのものに向かう傾向を、非常にエクストリームかつささやかに追求する先鋭的なアーティストたちの動きであった。その可能な限りの装飾を取り除いた簡素かつ剥き出しな電子音響によるテクノ・サウンドは、音の連なりそのものが音楽たろうとすること以前や以降のものに接近しているという意味において、いわゆるポスト・ハウス的なサウンドの傾向をもつものであったともいえるのかもしれない。「Heartbeat」以降、坂本龍一のハウス・ミュージックは決して深まることはなかった。だがしかし、その意識的にか無意識的にかハウス・ミュージックへと接近していった非音楽性音楽への探究の傾向は、しっかりとその延長線上へと突き抜けてマイクロスコピック・サウンドのような実験的な音響テクノの領域への着地を準備していたようである。

あらゆる音の要素をミックスしハウス・リミックスへと転化させるハウス・ミュージックが、素材となる音をミックスし混ぜ合わせてゆく足し算の方法論をもつものであるとしたら、音響テクノは音や音の要素をぎりぎりまで差し引いてゆき顕微鏡的な微小な音響にまで引き算してゆくサウンドであった。坂本龍一にとっては、そうした音響テクノへと向かうことは、大ヒットを飛ばしたYMOでメジャーな存在となり「ラスト・エンペラー」の音楽でアカデミー賞を獲得し「世界のサカモト」となって「お金と女性に目が眩んでしまった」時代から、ひとつひとつ無駄なパブリック・イメージや装飾を脱ぎ捨てて、かつての以前にあったもののすべてを捨て去ろうしていた坂本龍一へと原点回帰してゆく動きと、ある意味では同調していたものでもあったのかもしれない。

九十年代後半、ニューヨークで実験的なテクノ・ミュージックやエレクトロニック・サウンドを主にリリースするレーベル、12kを立ち上げたテイラー・デュプリー。後に坂本龍一とのコラボレーションを行うようになる人物であり、現在も12kはレーベルとして存続をしている。あの当時のテイラー・デュプリーは、アーティストとしても12kからの「Untitled(12k1008)」やカイピリーニャからの「(Microscopic Sound)」といった当時まだ黎明期にあった音響テクノの代表的なコンピレーション・アルバムに関わっており、さらにはブレームスシュトラールングからの四枚組コンピレーションCD「Lowercase」にも参加するなど、そのあまり明確な中心点のないささやかな音響ムーヴメントの中心的な役割を担うような人物として注目を集めていた。

個人的に、初めてテイラー・デュプリーがプロデュースする細やかなエレクトロニック・サウンドをヘッドフォンで聴いたときの衝撃は、今でも忘れられない。まさに、コペルニクス的転回とでもいうような天地がひっくり返るほどの音響聴取体験であった。そのかわり、初めてテイラー・デュプリーのサウンドを普通に聴いたときのことは、ちっとも覚えていない。普通に聴くとそれは、とてもささやかな音でスピーカーからポコポコとかポトッポトッと極めてシンプルな反復のビートが、実にストイックな雰囲気で鳴り続けているようなものでしかない。ミニマル・テクノに特有の前のめりなグルーヴ感やループ感も、そこにはほとんどなく、ただささやかに鳴り続けているだけなのである。何の変哲もない何か電気的な物音やノイズのようなビートで、いわゆる実験的な音響系のテクノという趣きをもつものであるということだけはそこから伝わってくるものであった。

ただし、その物音のようなポコポコをヘッドフォンを使用して聴いてみると、その印象はがらりと変わったのである。スピーカーからはものすごく小さい音で鳴っていただけのエレクトロニック・ビートは、ヘッドフォンを通じてダイレクトに左右の聴取器官へと取り込まれることで、まるで巨大な鋼鉄の杭を頭の中に打ち込んでくるかのようにボツンボツンと凄まじく大きな音響となって脳内に鳴り響いたのである。スピーカーからの小さな出音ではあまりよく聴き取れなかったビート以外のサウンドも、ヘッドフォンを使用すると、はっきりと大きく頭のなか一面に広がってゆくように鳴り響いた。深いエコーやリヴァーヴのかかったエレクトロニック・サウンドが、脳内に隈なく充満してゆき、さらに空間を大きく押し広げてゆくかのようダイナミックに響き渡ってゆくさまを非常にヴィヴィッドに体感することができた。それは、あきらかに普通に音楽や音そのものを(空気の振動としてのみ)聴くのとはまたひと味ちがった音楽体験であった。

ただ単に音響テクノというと音響とテクノをくっつけただけのようで、なかなかその本質は伝わりにくいかもしれないが、あの当時に出現したマイクロスコピック・サウンドやロウワーケース・サウンドは、ある意味においてサウンドの革命であったのだと思われる。それは普通では聴き取れないほどにささやかなエレクトロニック・サウンドによる(現実の世界の音への)逆襲であった。それまでのチャンネルごとに音の要素をミックスして足してゆくサウンドの構築方法から、極限まで音の要素を引き抜いていった先で、ささやかなエレクトロニック・サウンドが巨大な響きを生み出してしまうということの逆説的なメソッドの発見であった。ミックス的リミックスの発想を転換したデミックス的なリミックスが、音そのものや音の響きそのものに対して、それを聴くものの目と耳をあらためて大きくひらかせたのである。

(八)21世紀のアンビエント

明らかに何かが変化してきていることが段々と明るみになってきたのは、もしくは大きな変化が坂本龍一の(原点回帰的な)変化として目に見えるような形をもってあらわれてきたのは、2006年にレーベルとしても活動を行う総合的な音楽プロジェクトのコモンズを設立したころからだろうか。テイラー・デュプリーの12kから作品をリリースしているクリストファー・ウィリッツと坂本龍一がコラボレーションを行なったり、そのコモンズから発表されたアルバムを12kが再リリースしたりするなど、そのより自由なサウンドの追及がなされてゆく傾向に音響系のシーンとの近しい関係性の構築が関係していることは明かであった。その流れの中で、2010年代には坂本龍一とテイラー・デュプリーによるいくつかの共同制作アルバムが残されている。

2010年代というか2011年以降というか、はっきりいえば東日本大震災の後に、はっきり見えるようになってきたものがある。それが、もうあまり必要のなさそうなものと、とても本質的で大変に重要な意味をもっているものとの境界線であった。坂本龍一は、より本質的なサウンドである音そのものや音響そのものへと向かうようになり、そこでテイラー・デュプリーなどの音響テクノの流れを汲むアーティストやプロデューサーたちとのコラボレーションを積極的に行なうようになってゆく。変化の流れの発端は、二十一世紀初めのアメリカ同時多発テロ事件のころにはもうあったのだろう。その後、日本では東日本大震災があり、かなりはっきりと価値観が転換してゆく流れができてきて、2020年の新型コロナウィルスの世界的蔓延によるパンデミックにより、もはやどうやっても元に戻らないところまで時代の変化の動きは進んだ。

この時期に、やはりわたしもアンビエントばかりを聴くようになっていた。ドローンやただ持続して成り続けるエレクトロニック・サウンドだけでもう、耳で聴くのが精一杯というような状態であった。メロディ・旋律のような動きのある音の流れというものが、とても邪魔なものとして聴こえるようになってしまっていた。二十一世紀の初めからの大きな変化と不安ばかりがつのってゆく時代の最後の駄目押しのような感じで、あらためて人間の生や死について考えさせられるパンデミックがあり、そして個人的には非常に大きな出来事となる実母の死があった。そうしたさまざまな外的要因から、音そのものや音の響きだけでもう十分だと感じるようになってゆくと同時に、そうした音そのものや音の響きだけをじっくりと聴いてゆくことで、そこにあるサウンドの本質的な豊かな広がりというものに、あらためて目や耳を向けられるようにもなってきていた。それはまさに、わたしにとってもまた原初的な音の体験や音そのものへの原点回帰の動きであったのかもしれない。それは、あの十代の頃のノイズ/オルタナティヴを聴いていた時代の、コイルやサイキックTVやオルガナムやナース・ウィズ・ウーンド、H.N.A.S.、P16.D4、ハフラー・トリオなどをひとりでじっくりと齧りつくように聴いていた当時から、通奏低音としてずっとわたしの中にあった傾向であったようにも思えるのである。

「い・け・な・いルージュマジック」から四十年が経って、坂本龍一とわたしはどこかとても似通っているような場所にたどりついていたようである。非常に長い時間を要しはしたが、あのころからずっともちつづけていた非音楽的音楽への意識や、広義の音楽の新しい可能性というものを模索してゆく探求の中で、少しずつその距離が近づいていったのかもしれない。また、あの時期に気がついたらアンビエントにたどりついていたという人は、かなり多かったのはなかろうか。音響、つまり音の響きそのものが、時代の不安感にさらされていた多くの耳をそちらの方向へとひきつけていたのであろう。この時期に坂本龍一は闘病生活を送りながら2017年の「Async」以来となるアルバムの制作を行なっていた。わたしは母を亡くし、ぽっかりと心と身体に大きな穴が開いてしまったような状態になりながら、もしかしたらイーノであれば当時のわたしの中にあった大きな漠然とした空虚さを埋めてくれる音の断片のようなものを提示してくれるのではないかと思い、過去のアンビエント作品などを片っ端から聴き返したりしていた(そして、その当時に「不安ビエント」と題された変な文章をいくつか書いた)。そして、そんなところにちょうどブライアン・イーノの「Film Music 1976-2020」(2020年)に続く新しいアルバムがリリースされたのである。

(九)フォーエヴァーアンドエヴァーノーモア

2022年10月14日、ブライアン・イーノはアルバム「Foreverandevernomore」をリリースした。これはイーノのヴォーカルを全編にフィーチュアしている久々のアルバムということで話題となった。だが、もはやイーノが歌っていようがいなかろうが「Foreverandevernomore」がアンビエントなアルバムであることに異論を差し挟むことはできないといってしまってもよいような気さえする。それくらいにイーノ=アンビエントという図式は確立されてしまっている。また、この作品をヴォーカル入りアンビエント・アルバムとカテゴライズすることもできるのではないかとさえ思うが、今やもうアンビエントという大きな枠そのものが、どこまでもひろく広がっている時代であるので、イーノが喋っていようが歌っていようがすべてもう広義のアンビエントととらえてしまって差し支えないようにも思われる。

厳密には、アンビエントとは音楽ジャンルの名称ではない。アンビエント・ミュージックなどというものはなく、ただのアンビエントだけがある。アンビエント的な音楽としてのアンビエント・ミュージックというものも、その後のアンビエントの歴史の中で生み出されるようになってきたが、それが本来的な意味でのアンビエントであるのかはちょっとはっきりしないものがある。アンビエントとは、どういうもので、ここからここまでがアンビエントであるという領域そのものの定義すらもが、ある意味ではアンビエント的にあるものであって、まったく明らかなものではないからだ。だからこそ、あれもこれも広義のアンビエントだととらえることで、あらゆるアンビエント的なものをアンビエントの範疇にあるものだとすることも可能となる。もしかすると、アンビエントのオリジネーターといわれるブライアン・イーノもまた、そうした広義のアンビエント的なサウンドというものをずっと追求しつづけているアーティストであるのかもしれない。

アンビエントは音楽ではない。いわば、それは音そのものや音響・音の響きそのもののことである。あらゆる音の波や音の響きをアンビエントという。アンビエントは、常にそこにある音や音の響きのことである。そのような意味で、ブライアン・イーノがプロデュースするアンビエント作品や実験的なエレクトロニック・ミュージックの作品とは、そうしたアンビエントというものの間口を率先して広げてゆく試みとしてあるものでもあり、その実践そのものなのである。2022年の新しいアルバム「Foreverandevernomore」もまた、そうした試みや実践のひとつにほかならない。

そして、2023年4月22日には「Foreverandevernomore」のヴォーカル抜きのヴァージョンとなる「Forever Voiceless」がリリースされた。これは、ほぼ全編に渡ってアルバムにフィーチュアされていたイーノの歌をすっかり取り除き、従来型のアンビエント・アルバムに近い形で「Foreverandevernomore」を聴くことのできるスペシャル・エディションである。そして、これは、あらためてヴォーカルとアンビエントとはいかなる関係性にあるのかを考えさせられるヴァージョンでもあった。

最初から、こういうものがあれば聴いてみたいなとは思っていたが、何か確固たる信念をもって声で何かを伝えるためにイーノはあえてアルバムで歌っているのだと思っていたので、元のアルバムから歌われている言葉を全て取り除いてしまうようなことはきっとないのだろうと考えてはいた。しかし、イーノはあえて「Forever Voiceless」なる小粋なタイトルをつけて、元々のヴォーカル・アルバムを音とサウンドだけの形で聴くことを公式に許可してくれた。これは、先にヴォーカルのあるオリジナル・ヴァージョンのアルバムを聴いていた耳には、歌なしのヴァージョンを聴いても以前に聴いたヴォーカル入りのヴァージョンが記憶の中で再生されるであろうから、大して問題はないということなのだろうか。それとも、はじめて「Forever Voiceless」から聴くという人にも、ヴォーカル・アルバムで歌われていた言葉が表現していた各々の楽曲のメッセージは、その音とサウンドだけでも十分に伝わりうるという表現者としてのイーノの自信のあらわれなのだろうか。

はたして、生前の坂本龍一はイーノのアルバム「Foreverandevernomore」を聴いていただろうか。今のこの時代にイーノが自ら歌うアルバムを制作したことをどう思っていただろう。そして、このイーノの新しいアルバムを気に入っただろうか。だがしかし、もしかするとインスト版の「Forever Voiceless」の方が、坂本はより気に入ったかもしれない。このアルバムの老成した落ち着きのあるゆったりとしたサウンドには、どこか坂本龍一の最晩年の作品の作風と共通するような雰囲気を感じ取ることができる。もしかすると坂本龍一は「Forever Voiceless」を非常に興味深く聴いたかもしれない。だが、残念ながらこのインスト版のアルバムは、彼がこの世を去ってから約一ヶ月が経った頃にリリースされた。

もしも、「Forever Voiceless」を聴いていたら坂本龍一の耳は、そこに「Foreverandevernomore」にあったイーノの歌の痕跡や記憶を聴いただろうか。それとも、そこに「Foreverandevernomore」という作品の本質部を形成している音やサウンドを聴きとって、それに興味深く耳を傾けていただろうか。そして、そこに自分の最新のアルバムのとの共通点を見つけただろうか。それとも、そんなことはちっとも考えずにイーノの作り出したサウンドにじっくりと耳を傾けて聴いていただけだっただろうか。

(十)12

坂本龍一の最後のアルバム「12」がリリースされたのは、2023年1月17日のこと。イーノの歌入りアルバムと歌抜きアルバムのリリースの、ちょうど中間点あたりに当たるころである。この日は、坂本龍一の71回目の誕生日であり、これが生前最後の誕生日となった。今から思うと、アルバムはなんだかとてもサラッとリリースされたような印象がある。特に大々的に喧伝されるようなこともなく、とてもサラッと近況を知らせる季節の挨拶のように出たアルバムだったように感じる。1月5日にテレビ放送された「Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes」も後から思えばあれはアルバムのリリースに向けたプロモーションの一環であったのかと、やっと思い当たるくらいであった。だから、本当にこれが最後のアルバムになるとは当時は微塵も思っていなかったのだ。この「12」の後にも、こうした近況を知らせるようなアルバムが続いてぽんぽんとリリースされてゆくのではないかという気がしていた。そして、もはや「12」そのものよりも、その後に続くであろう近況アルバムのシリーズの方が楽しみで仕方がなくなってもいた。

アルバム「12」には、坂本が病気療養中に東京の仮住まいの部屋で2021年3月から翌22年4月までの約一年間にひとりで録音した12のトラックが収録されている。とてもシンプルで簡素な宅録作品であるし、とてもパーソナルな音楽作品だともいえる。約一年の間に録音された12の曲というと、毎月ひとつずつ録音していったアルバムというような形態が思い浮かんだりもするが、それぞれのトラックの録音時期は結構まばらである。21年に録音されたものは春3月と冬の11月と12月にそれぞれひとつずつの3曲のみで、残りの9曲は22年の1月から4月までの間に集中的に録音されている。これは癌と闘い入退院を繰り返していた坂本が、比較的体調が安定し楽器に向かうことができた時期が、約一年の間にこの録音の期間ぐらいしかなかったことを表してもいるのだろう。アルバムの各トラックのタイトルは八桁の数字になっており、その作品がいつ制作・録音されたものなのかがその数字によって年月日がわかるようになっている。

病体ながらも体調のよい日に再びシンセサイザーの音を浴びて音楽リハビリするための、日記のように記録された音のスケッチ画をそのままひとまとめにしたものが、アルバム「12」となった。つまり、ほとんど軽いスケッチ画程度のものでさえなかなか録音することができなかった21年から、かなり集中的に音楽に向き合えるようになっていった22年の春までの、ゆるやかな回復の記録がアルバム化されているのだともいえる。

2019年のインタヴュー記事「坂本龍一、武満徹との50年を振り返る」の中で、坂本は「ぼくにとって絵を描くように音楽を作るような手段がやっと整いつつある」と語っている。この頃から新しい音楽制作のためのソフトウェアや音との向き合い方などの技術や環境が充分に整ってきていたことが、たとえ病体であっても日記(絵日記だろうか?)を書くように音のスケッチを録音してゆくことを坂本に試みさせたのかもしれない。そんな音のスケッチ画(絵日記)を12ピース詰め合わせたアルバム「12」であるが、それぞれのトラックはかなりラフな音のスケッチであることもあって、あまり万人受けしそうな内容であるとは(おそらく)いえない。しかし、これが坂本が生前に最後にリリースしたアルバムであることから、リリースから約三ヶ月後におそらく本人もまったく予期していなかったであろう形で遺作となった「12」に大きく脚光が当たることにもなった。かつての映画のサントラで聴かれたようなドラマチックな楽曲が並んでいるわけでもないし、栄養剤のCMに使用され大ヒットを記録したピアノ曲のようなとっつきやすくわかりやすいメロディが並んでいるわけでもない。万人によく知られているイメージそのままの坂本龍一を追悼しようと思ってアルバム「12」を聴いた人々は、もしかするとかなりの割合でちょっと期待していたものと違うと感じてしまったのではなかろうか。それは、つまり晩年の坂本が絵を描くように音楽を作るようになって、ようやくかつての坂本龍一のイメージをごっそりと剥ぎ取ることができたということでもあるのだろう。そういう意味ではアルバム「12」は、音のスケッチ画集のような作品であることもあり、作曲家や音楽家というよりも音の作家としての坂本龍一のひとつの到達点となる作品であったともいえるのではなかろうか。

音のスケッチ画集のようなアルバム「12」は、どこか和歌や俳句の歌集や俳句集のような雰囲気ももっている。そのとてつもなくシンプルな音で描き出されたスケッチ画は、療養中の坂本が自身の心象の風景や現実の風景を和歌や俳句に詠んで、それを短冊に一筆書きでさらさらっとしたためたもののようにも聴こえるのである。もはや作品にタイトルをつけることもなく、松尾芭蕉が五七五の十七字に自然を詠み込み侘びや軽みを表現したように、ただシンプルに音と音のび響きだけで主客合一の風景をそのまま書き留めてゆく、そんな蕉風の境地にまで坂本が到達しているようにも感じられるアルバムなのである。

とても淡く揺らめくようなシンセサイザーやピアノによって奏でられる音の響き。ここには、ただそれだけがある。まるで芭蕉の俳句を読むかのように、これを聴くものは極めてシンプルな音の響き、そしてその音そのものを味わわされることになる。ある意味では、これ以上ないほどに純粋にアンビエント的なアンビエント・サウンドである。いや、アンビエント以上にアンビエントな音響であるのかもしれない。今まさに自然の音や環境音へと溶け込もうとしているような楽音を、ここでわれわれは耳にすることになる。それは、もはや音楽であろうとしていないような音であり、音楽になろうとするそばから崩れていってしまう音(音楽)であり、まさしくアンビエントな音の響きなのである。これまで、音楽家として制作してきた音楽の隙間にひっそりと紛れ込ませていた音やサウンドの実験を、ようやく全開にして開け放ち開け広げることができた作品が、このアルバム「12」なのではなかろうか。この最後のアルバムで、ようやく坂本龍一は本当の坂本龍一の音に到達することができたのかもしれない。

(一一)2024(一年後)

と、ここまで書いたところで、ほぼ一年ほどすっかりこの文章を放置してしまった。ある程度までは書いたものの、最後のアルバムについて書くところで筆がとまり、最後にこの文章をどうまとめてゆくのかの方向性もちょっと見えなくなってしまった。気がつけば、近いとか遠いとかいう距離感のことばかりを書いていたようにも思う。それが何なのだという気もした。だがしかし、こうしてまた作業を再開した。おそらく、少し遠く感じていたものが、また少し近くに感じられるようになってきたのであろう。アルバム「12」については、メモ書き程度の文が残されていたので、それをひとまず読める文章にしてゆくところから作業を再開した。そして、一年前に書いたものの見直しを、少しずつ始めた。

2024年春、坂本龍一の死から一年の月日が経って、「Last Days 坂本龍一 最期の日々」「未来へのETUDE 坂本龍一監督から東北ユースオーケストラへ」といった新たなドキュメンタリー番組が放送された。これらの番組を見たことで、再びこの文章に手をつけようという気分が芽生えてきた。少し時間が経ったことで、もう少し冷静に坂本龍一という人物や音楽について見てゆくことができるようになったということなのかもしれない。

そして、この一年にも及ぶ作業をさぼりつづけていた年月は、以前に自分が書いたものに対するいくつかの疑問についてじっくりと考える時間にもなった。今あらためて感じることは、はたして坂本龍一は、主に前世紀の精力的に華々しい活動をしていた若かりし時期と、今世紀に入ってからの徐々に老成してゆき晩年期を迎えてゆく時期とで、本当に変化をしたのかということである。今から一年前のまだ坂本が亡くなってから日が浅かった頃には、何か大きな変化のようなものがあって、元々はどこか遠い存在であった坂本龍一が段々と音響やノイズへのこだわりを見せはじめて、少しずつ近い存在だと感じられるようになってきたのだと思っていた。だが、今では本当にそこで何か大きな変化があったのだろうかと、少し疑問に思うようにもなってきている。

2024年4月7日に放送された「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を見て、ずっと坂本龍一は坂本龍一のままでいたのであって、何も変わらなかったのではないかと思うようになってきたのだった。坂本龍一はその最後の人生の瞬間まで、YMO以前の坂本龍一と本質的な部分では何ひとつ変わらなかったのではないか。つまり、最初から最後まで坂本龍一はずっと坂本龍一であったというように感じたのである。

2023年3月28日に坂本が最後の日を迎えるまでの約二年間の闘病の日々をまとめた「Last Days 坂本龍一 最期の日々」では、主に親族によって自宅や病室などのプライヴェートな空間で撮影された、まさに「最期の日々」を生きている坂本龍一の姿を記録した映像が数多く使用されていた。そして、その映像に映し出されていたのは、ちっともぶれてはいない実に坂本龍一らしい坂本龍一の素の姿であり素の表情であった。つまり、最初から最後までずっとあんな感じで、坂本龍一は坂本龍一のままであったのだ。

闘病中に変な動きをすると免疫力がアップするという情報を得て、すぐにそれを実践してみる坂本龍一の姿が映像に残されていた。そこには往年のバングルス「Walk Like An Egyptian」の振り付けのようなおかしなダンスを大真面目に踊っている坂本の姿があった。あまりにも無邪気というか、まるで子供がふざけているかのようなダンスであった。だがしかし、やはりああいう感じこそが坂本龍一という人であり、まさに子供の頃からずっと変わらずにそこにあり続けていたものなのだろうなという気はした。基本的に、坂本龍一とは、ああ見えても常に何かおもしろいことしたいと思っているような、まるで子供のような人だったのである。

そういった、いつまでも子供っぽいとか子供らしさをもちつづけているという部分は、おそらく坂本龍一の作品にも常にあらわれ出ていたのではなかろうか。実のところ、坂本龍一という人の本質的な決して変わらぬ部分というのは、そういう純粋な子供らしさの部分であったのではないかとも思うのだ。時代とともに、または年齢を重ねてゆくとともに、変化していっているように見えていたものは、深く自らの音楽や芸術を追求しつづけていたということの表れでしかなく、そのあくなき追求を坂本になさせていたものこそが坂本の中に常にあった子供の頃のままのピュアな探究心であったのではないかとさえ思うのである。

だがしかし、そういつまでもいつまでも子供っぽいままでありつづけるということは、それすなわち成熟というものとは相反しつづけるということでもある。ただし、成熟しないことは、ある意味では日本人特有の特色であるともいわれている。そういう意味では、坂本龍一の作品とはそういった未熟性とまではいわずとも日本人的な子供っぽさというものを(ずっと常に)もっていたものだったのではあるまいか。

坂本龍一の音楽が、日本のあまり普段から音楽を聴かない人々や一般的な大衆層にまでよく知られ広く親しまれているのには、やはりそこに誰にでもわかりやすいやさしさや誰の心にも訴えかけその琴線を震わすような、とてもわかりやすいメロディがあったからなのであろう。映画「戦場のメリクリスマス」のテーマ曲である「Merry Christmas Mr. Lawrence」やテレビCMに使用され大ヒットを記録した「Energy Flow」などでも明らかなように、これらの広く親しまれている楽曲には、その冒頭部分に非常にわかりやすくシンプルで耳に残りやすいメロディが明確にある。これらのメロディを耳にすれば、ある一定の年齢以上の人々であれば、すぐにそれが坂本龍一によるメロディであると認識することができるであろう。

誰にでもわかりやすいやさしいメロディがあった後に、少しだけひょっこりと極度に実験性に傾いたパートや難解な展開部が顔を出したり、もしくは極めて精緻に計算された混沌の音像があらわれるのだが、しかし最後にはまたわかりやすいメロディに回帰して、全体を戦メリや癒しの坂本龍一のイメージでコーティングして締めくくられる。そして、ほとんどの人は、そこで坂本龍一の胸に響くようなメロディアスな面を聴いただけで十分な満足感を得ているのだ。そして、そこにわかりやすいメロディとともにあった少しだけわかりやすさから外れていた部分のことは、もうすでに忘れてしまっているか、もしくは最初から少しも気にも留めていない。

このように、さまざまな場面で、これまでの四十年以上に渡り、純粋な子供っぽさをもっている坂本龍一の音楽とは、とても日本的な大人になりきれない日本人向けのポピュラー音楽として機能する面を多分にもつものとしてあったのかもしれない。わかりやすいポップでメロディアスな面と複雑な実験や理論的前衛の面を混ぜ合わせ、消化しきれぬものをそのままにしたままで、わかりやすい方向へとあっさり(中途半端に)止揚してしまうという、坂本の弁証法的なスタイルというものを、いくつもの曲で聴くことができる。そして、やはりその音楽の傾向には、坂本龍一がいつまでも子供っぽさや子供らしさをもちつづけていたことも少なからず関係していたのであろうと思わざるを得ない部分も確かにあるのである。

そして、世紀をまたぎ徐々に老成してきてからの坂本龍一は、元々の子供っぽさや子供らしさをより突き進めて子供らしい純粋無垢さでサウンドや音響を追求するようになっていったのだ。成熟へと向かわない日本人的な感覚をもってしては、弁証法スタイルでも弁証法を逆立ちさせても表現しきれないものは必ずある。おそらく坂本龍一はヘーゲルの弁証法のスタイルよりもニーチェの三段階の変化というものにより共感していたようにも思われる(「Last Days 坂本龍一 最期の日々」の中で坂本の闘病中の日記がたびたび紹介されていたが、そこでこれまでは「野獣のように生きていた」というような記述が見受けられた。あれはやはり三段階のうちの砂漠の獅子の段階を意識したものだったのではなかろうか)ので、前世紀の世紀末にある程度までやるべきことをやりきってしまったところで止揚に向かうのではなく次の段階の幼子へと少しずつ移行ゆくようになっていったということなのではないか(いつまでも子供っぽさや子供らしさをもちつづけていた人なので、そこから幼子の段階へといってもそこに何らかの大きな変化があったということはなかったのかもしれないが)。そして、その段階において、より純粋に坂本龍一の中に響く坂本龍一の音というものの発見があったのだろう。そこから音と音の響きそのものと子供のように戯れる作風へと向かい、その探究の深まりによってアルバム「12」が残されたということなのかもしれない。

(一二)近くて遠く遠くて近い音

ヘッドフォンを使用してアルバム「12」を聴くと、普通にスピーカーを使って聴いていたときには聴き漏らしてしまっていた極めて微細な部分までを聴き取ることができる。じっくりとヘッドフォンからダイレクトに耳に注入される音の響きを余すところなく聴いてゆくことで、あらためて気づかされることも多くある。

ピアノの音の響きは、どこまでもどこまでも空間に広がってゆくようでいて、かと思うと聴取可能な範囲でぐるぐると回っているようでもあって、どこか密室的な狭苦しい場所に閉じ込められているような感じもある。これは、闘病のために滞在していた東京の仮住まいの部屋のサイズが影響しているのかもしれないが、だがそのサイズ感であることでより最後に坂本がひっそりと残した置き手紙というか音響によるメモ書きのようなこじんまりとした雰囲気が醸し出されていて、これはこれでなかなかに味のあるものとして聴くことができる。だがしかし、剥き出しのシンセサイザーによる底の見えない暗闇をどこまでも降下してゆくような低音の響きは、そこからひたひたと忍び寄る死の匂いが漂ってくるような感じがして、どこかとてつもなく薄ら寒くなってきてしまう。また、ピアノの録音の際にマイクが偶然に拾ってしまったさまざまな物音が、やはりなぜだかとても印象に残る。楽音の響きはどこまでも広く漂い拡散してゆくように聴こえるが、それらとてもそれを取り巻くアンビエンスのサウンドのごく一部でしかないということを、常に物音を聴き取り続ける器官である左右の耳を、あえてヘッドフォンで密閉しながら擬似的に聴取体験(アンビエント体験)させられるような音響となっているのだ。

音をスピーカーから流して聴くか、ヘッドフォンを装着して細部まで聴き漏らさずに聴くか。それぞれの聴き方によってアルバム「12」は、それぞれに少し違った聴こえ方をするだろう。元々の記録されている音源のソースは同じものであったとしても。たぶん、これまでの坂本龍一の音楽においても、時代や年代によって何か変化や違いのようなものがあったとするならば、そのようなちょっとした差異があっただけであったような気もする。それは、それを聴くものの耳にとっては、小さくささやかだけど重要な差異であり変化である。しかし、記録された元々の音そのもののソースは同じで何も違っていないのだし、坂本龍一の本質的な部分というのもまたおそらくちっとも変わってはいないのである。

表現の手法や技法は変化しても、その本質の部分にぶれているところがなければ、その表現は一貫して変わらぬところをもつものとなるだろう。そして、それを聴く方にとっても、聴く環境や聴取する方法や手段によって、聴こえ方が変化することは常にある。だがそれは、顕微鏡で見るような変化であり、そのままで普通に見る(聴く)だけであると、外観はほとんど何も変化していないように見える(聴こえる)ものなのだ。しかし、それを細部まで覗き込むと、それはあきらかに変化している(ように聴こえる)し、驚くほどの(驚天動地級の)変化がそこにあることを確認することもできる。

顕微鏡を覗き込むようにヘッドフォンでダイレクトにゼロ距離で聴くか、スピーカーから出力され空気を振動させながら伝わってくる音を様々な物音やノイズを介在させながら聴き取るか。そこにある差異とは、近さと遠さによってもたらされるものでしかない。そして、そこにある差異もそこに生じる変化も、すべてはやはり近さと遠さからくるものでしかないのである。

そこにあるのは普通に聴いていては聴き取れないような微分的な音の差異であり変化する音の世界である。だが、坂本龍一の音楽には、最初から最後までそうした近さと遠さの差異しかなかったような気もしてくるのである。そこには差異や違いや変化があったのではなく、いつだって近さと遠さがあっただけだったのかもしれない。

ブライアン・イーノが「Foreverandevernomore」から自らのヴォーカルによる表現を減算して「Forever Voiceless」をリリースしたように、坂本龍一ももしかしたら「12」からシンセサイザーやピアノによる楽音の表現を抜き取って「Instrumentless 12」のような作品をリリースしただろうか。そこにはもはや、録音作業をした部屋の中や外で生じている環境の音、鳥の鳴き声や風の吹く音、そして病に冒された身体が発する荒い呼吸の音ぐらいしか聴くことはできないだろう。だがしかし、もしかするとそれこそが坂本龍一が最後に最も聴きたいと思っていたような音であるのかもしれない。そこには、その瞬間にたった一度きりしか存在しない貴重な宝物のような生きた音があり、まだ誰も一度も聴いたことがないどこまでも純粋な音楽が鳴って響いているはずなのだから。


補論(一)アーサー・ラッセルと坂本龍一

1951年生まれのアーサー・ラッセルと1952年生まれの坂本龍一。坂本は1月17日の早生まれなので、日本であれば二人は同学年の同級生だったかもしれない、同世代のアーティストである。二人ともミュージシャンであり作曲家でありプロデューサーでもある。ラッセルはチェロを弾き、坂本はピアノを弾く。しかし、二人ともチェロやピアノの世界だけにとどまらぬ、広大な宇宙規模の独自の音楽世界を生み出した。アーサー・ラッセルと坂本龍一は、どこか遠いようで近く、近いようでいてどこか遠い。

アーサー・ラッセルは、チェロ奏者として西洋の古典から近現代の音楽までを学ぶとともに、西海岸で古典インド音楽などの東洋の音楽についても積極的に学んでいた。それは、ちょうど六十年代末から七十年代初頭にかけてのフラワー・ムーヴメントの時代のことであった。この当時に、ラッセルがアレン・ギンズバーグの詩の朗読のバックでチェロの演奏をしていたという逸話はよくしられている。その後、ニューヨークの大学や専門学校でさらに音楽ついて学びながら、チェルシー・ホテルで有名なウェストエンドのチェルシー地区にあったニューヨークのアヴァンギャルド芸術の拠点のひとつ、ザ・キッチンに若き音楽監督として関わってゆくようになる。

七十年代の半ば、坂本龍一はプレYMO期であり、大学院を出て洋の東西を問わずに様々なエスニック・ミュージックに触れ、電子音楽に新しい時代の音楽の可能性を見出しつつある時期であった。ニューヨークのラッセルも、ザ・キッチンでフィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒ、グレン・ブランカやノー・ウェイヴ系のミュージシャンと間近に接し、当時世界で最も尖っていたミニマル・ミュージックや実験的な現代音楽・電子音楽などから多大な影響を受ける。そして、そのグラスやライヒ直系の反復するミニマルなビートへの傾倒は、ラッセルとニューヨークのアンダーグラウンド・ディスコのシーンとを運命的に巡りあわせることになる。

七十年代後半から八十年代初頭にかけて、ラッセルは実験的なミニマル・ミュージックやニューヨーク・パンクのトーキング・ヘッズのサウンドなどからの影響のもと、ニューウェイヴ・ディスコというかディスコのニューウェイヴと呼べるようなダンス・シングルをいくつもプロデュースし、ニューヨークのディスコやクラブのダンスフロアでスマッシュ・ヒットさせている。これはちょうど坂本龍一がYMOの一員として華々しく活躍し、ワールド、ツアーを行い世界中の人々をダンスさせていた時期と重なる。当時、ラッセルのディスコ・シングルは、YMOほど華々しく世界的な成功を収めることはなかったけれど、ラッセルが手がけたルーズ・ジョインツの「Is It All Over My Face」やダイナソー・Lの「Go Bang」といった楽曲は、今もなおニューヨークのガラージやロフト系のダンス・クラシックスとして世界的に高い評価を得ている。

アーサー・ラッセルは、ミニマル・ミュージックの反復の手法を活用して、西洋と東洋、古典と現代、アヴァンギャルドとディスコといった異なるふたつのものを混ぜ合わせようとしていたのかもしれない。そのような新しい音楽を、現代音楽、ロフト・ジャズ、ニューヨーク・パンク、ゲイ・ディスコなどの様々なシーンとの関わりをもちながら模索していたのである。そういう意味では、ラッセルは、様々な音楽シーンが近接しているニューヨークならではの地域的な特色を最大限に利用して、まだ誰も聴いたことがないような音楽を生み出していたともいえるであろう。それは、次第にミニマル・ミュージックとダンス・ミュージックの両極を貫く軸で大きく回転しながら、宇宙的な規模で深まりラッセルの作り出す音楽を極限まで研ぎ澄まされたものにしてゆくことになる。

アヴァンギャルド音楽の殿堂にして自らも演奏活動を行なっていたザ・キッチン、音楽仲間のトーキング・ヘッズやモダン・ラヴァーズが出演するC.B.G.B.やマクシズ・カンザス・シティなどのライヴハウス、ルーズ・ジョインツやダイナソー・Lの楽曲をリミックスしたDJたちがDJプレイを行なっているロフトやギャラリーやパラダイス・ガラージといったアンダーグラウンドのゲイ・クラブといった様々なシーンにコミットし、いくつもの顔をもっていたラッセルは、その活動領域はほぼマンハッタンのダウンタウンの狭い範囲に限られていたにもかかわらず、その全体像をなかなか見渡せない存在でもあった。

個人的に、初めてアーサー・ラッセルの音楽を聴いたのは、おそらく当時のレーガン大統領の危ない失言をサンプリングしたエレクトロ・ディスコのボンゾ・ゴーズ・トゥ・ワシントンの「5 Minutes」(1984年)ではなかったかと思う。86年にはソロ・アルバム「World Of Echo」が発表され、イギリス盤はラフ・トレードからリリースされていたこともあり、日本でもニューウェイヴ系のアーティストのアルバムとして少しだけ話題にはなっていたようだ。だがしかし、やはり88年にリリースされたトッド・テリーのヒット曲「Bango」の元ネタ曲として、ダイナソー・Lの「Go Bang」が使用されていたことは格段に大きな事件であった。そして、そこを入り口にして、われわれのような十代のハウス・キッズたちは宇宙のように広大なアーサー・ラッセルの音楽世界にずぶずぶと足を踏み入れてゆくこととなったのである。

1992年4月4日、アーサー・ラッセルはエイズによる合併症により四十歳という若さで他界した。そのころ、ニューヨークは九十年代のハウス・ミュージックの中心地となり、サウンド・ファクトリーやシェルターなど八十年代のクラブ・カルチャーの伝統を受け継ぐナイトクラブが活況を呈し、若いハウス世代のキッズたちがラッセルが手がけた名盤の数々を再発見している最中であった。この当時、坂本龍一はベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「ラスト・エンペラー」「シェルタリング・スカイ」の音楽を手がけて高く評価され、拠点を本格的にニューヨークに移してアルバム「Heartbeat」を発表し大規模なツアーを行い、世界のサカモトと呼ぶに相応しい華々しい活躍ぶりを見せていた。そして、この年の夏にはバルセロナ・オリンピックの開会式でオーケストラ曲「El Mar Mediterrani」を発表している。そのような音楽キャリアにおける成功の最高到達点に坂本龍一が上り詰めていたころ、同世代の才能にあふれるひとりの音楽家が、華々しい世界的な活躍からはほど遠いところでエイズという病に冒されてこの世を去った。まさに、この二人には何か因縁めいた光と影というものを感じずにはいられない。

エイズによる死から十年ほどが経った二十一世紀の初頭に、ようやくアーサー・ラッセルの知られざる音楽的業績に対する再評価の動きが高まり始め、生前に録音された様々な音源がふたたび日の目を見ることとなった。また、未発表音源の発掘作業も進められ、生前には日の目を見ることがなかったまさに知られざるラッセルの音楽のリリースも続けられている。これらのラッセル関連の作品のリリースによって、ラッセルの音楽宇宙の全貌が少しずつ明かされてゆくとともに、未発表音源の発掘リリースなどにより、ラッセルの音楽宇宙はさらに広大になるとともに混沌の度合いを増してゆくことにもなった。

ラッセルの未発表音源の中には、ギターやピアノなどによるシンプルなバッキングによるラッセルのちょっと頼りなさげにへなへなしているカントリー・フォーク調の歌唱を前面に押し出して聴かせるシンガーソングライター的なデモ録音の作品なども存在している(「Love Is Overtaking Me」「Iowa Dream」)。その朴訥としていながらもラッセルならではの味のある不思議な魅力を持つ楽曲は、初期のルー・リードのソロでのデモ録音などにもどこか近いような雰囲気がある。もしも、このような方向性でラッセルがシンガーソングライター系のソロ・アーティストとしてデビューをしていたら、ロフト・ジャズやミニマル・ミュージック、ゲイ・ディスコなどのアンダーグラウンドな世界での活躍とは異なる、メジャーなポピュラー・ミュージックの世界での成功ももしかすると夢ではなかったのではないかとすら思えるのだ。

遠く離れたいくつもの音楽の極の広がりを内包しながら、それらの極の間を絶えず揺れて行き来しているようでいて、それらのムーヴメントの全体が、果てしなく広大な音楽宇宙を形成している。その広大さのすべては、凡人にはそう簡単に見通すことができるものではない。そういう独自の音楽の宇宙をもっているという点において、坂本龍一とアーサー・ラッセルは、どこかとても似通っているところがあり、たぶん実際にとても近い。だがしかし、この二人は、どこかで決定的にとても遠い。

日のあたるポピュラー・ミュージックの世界での成功を夢見ていながらも、そこからとても近くて遠い場所であったアヴァンギャルド芸術とアンダーグラウンド・ミュージックの世界で、その短い生涯を終えたアーサー・ラッセル。教授レヴェルの高度な音楽的知識・学識とそのアカデミズムに裏打ちされた高い能力で世界的な成功を収めつつも、その出自のひとつでもあった前衛的で反音楽的な地平へと静かに戻っていった坂本龍一。もしも、何かの拍子にもうひとつ殻を突き破るような大きなヒット作品に恵まれていたら(1981年、ラッセルはパワー・ポップ・バンド、ネセサリーズのキーボーディストとしてサイアーからアルバム「Big Sky」でデビューしている。だが、結果は鳴かず飛ばずであった)、ラッセルもまた坂本のようなメジャーな存在になっていたのかもしれない(そのせいで、坂本のように虚像と実像の間で苦しむことになったかもしれないが)。また、坂本も学生時代にもっと拗れて、よりディープで難解なアヴァンギャルド芸術の方向へと積極的に進んでいたら、ラッセルのようにアンダーグラウンドの知る人ぞ知る存在のままであったのかもしれない。

不思議である。アーサー・ラッセルと坂本龍一は、とても似ているような気もするが、実際には真逆の音楽人生を歩んだ。まさに、光と影、ポジとネガであるかのように。しかしながら、ともにそれぞれ広大無辺の音楽宇宙を生み出して、そこで数々の歴史的な名作を残したことだけは間違いない。その宇宙の探索は、これからも宇宙探検家によって続けられてゆくだろうし、そこで生み出された作品はいつまでも残り続けるだろう。アーサー・ラッセルと坂本龍一は、近いけれど遠いような存在でありながらも、実はやっぱり遠いようで近いところもある二人なのである。

補論(二)横山SAKEVIと坂本龍一

2023年8月24日、G.I.S.M.の横山SAKEVIがこの世を去った。これは、かなり衝撃的なニュースであった。もはやジャパニーズ・ハードコアの世界におけるあるの種の神話的イコンのような存在でもあったので、あまり生きるとか死ぬとかいったこととは結びつきにくい人であった。だから、なんだかとてもショックだった。そして、それは坂本龍一の死から約五ヶ月ほど経ったころのことであった。年齢は一回りぐらい違う二人だが、同じ年に亡くなるなどということは想像だにしていなかった。しかし、この同じ時期の死をきっかけにして、じっくりと考えてみると横山SAKEVIと坂本龍一は、実はとても遠い存在のようでいながら、もしかすると少し近い存在でもあったのではないかと思えてきた。

この二人の近接点となる部分には、七十年代の東京のアンダーグラウンドのフリージャズや前衛音楽のシーンがある。そして、その二つの実際にはとても遠いところにある星と星のような点と点を線で結ぶように近づけていたのが、A-Musikの竹田賢一の存在であった。坂本と土取利行のコラボレーション・アルバム「Disappointment - Hateruma」(1976年)のプロデュースを手掛けたのは竹田であり、また前衛的で反音楽的なA-Musikのアルバム「E Kú Ìrójú」(1984年)には坂本が参加している。七十年代から八十年代初頭にかけて、坂本龍一と竹田賢一は非常に近い距離での活動を行なっていた。

1981年9月5日と6日に池袋の豊島公会堂で開催された「テン・ミニッツ・ソロ・インプロヴィゼイション・フェスティバル」では、竹田賢一は初日のトップ・バッターで登場して十分間の即興演奏を行なっている。そして、この同じ日に横山SAKEVIは横山茂久名義でこのフェスティヴァルに参加しているのだ(ちなみに、この同じ日にはG.I.S.M.のドラマーであった香村かをり、不失者の灰野敬二、A-Musikのメンバーなども参加していた)。こうした前衛即興音楽のシーンにおいて横山SAKEVIがヴォイス・パフォーマンスやノイズ系のパフォーマンスを行なっていたことに対しては何の不思議もないし、寧ろそちらの方向でそのまま進んでいたとしても、おそらく世界的に名の知られるパフォーマーとなって大成していたことであろう。

だがしかし、そこで気になるのは当時の横山茂久と竹田賢一の間にどれくらいの距離の近さがあったのかという点である。1979年に早稲田のJORAで竹田が始めたヴェッダ・ミュージック・ワークショップ(吉祥寺マイナーでのライヴ録音盤「愛欲人民十時劇場」(1980年)にも参加)の周辺でも横山SAKEVIはおそらく活動していたのではなかろうか。その後、1985年に横山SAKEVIとジョン・ダンカンの編集によって刊行された雑誌「Performance Of War」には、竹田賢一が「死のステップは軽く」という一文を寄稿している。

しかしながら、1981年のおそらく「テン・ミニッツ・ソロ・インプロヴィゼイション・フェスティバル」の開催とほぼ同時期に横山SAKEVIはハードコア・パンク・バンド、G.I.S.M.での活動を即興的かつハプニング的な東大赤門GIGにて開始している。もしかすると、横山SAKEVIは、当初はG.I.S.M.での活動もまたテン・ミニッツ・ソロ・インプロヴィゼイション・フェスティバルでのようなものと同列のノイズ寄りのハードな音楽と即興前衛パフォーマンスの融合のようなものと考えていたのかもしれない。だがしかし、アナーキー&ヴァイオレンスを標榜するG.I.S.M.の苛烈かつ凶暴なハードコア・パンクは、東京のパンク・シーンにおいて急速に重要な位置を占めるものとなっていった。そして、G.I.S.M.の横山SAKEVIの後にデス・ヴォイスやデス声と呼ばれることになる特異なヴォイス・パフォーマンスのイメージは、強烈に人々の記憶に残るライヴを行うごとに大きく注目を集めるものとなっていったのである。

G.I.S.M.のファースト・ミニ・アルバム「DETESTation」(1983年)は、そのリリースとほぼ同時に八十年代初頭のジャパニーズ・ハードコア・パンクに一大金字塔を打ち立てるような一聴してすぐにわかる名作であった。横山SAKEVIの人間性の極北においてパフォームするようなダミ声ヴォーカルとランディ内田の多彩なハードかつメタル的なギター・ワークは、まさに世界的にも唯一無二な、まだ誰も聴いたことがなかったようなサウンドを生み出していた。そして、G.I.S.M.はその後のハードコア・パンクのサウンドに多大なる影響を及ぼしてゆくことになる。これは、坂本のYMOでいうと「Yellow Magic Orchestra」(1978年)や「Solid State Survivor」(1979年)に匹敵するような歴史的な一枚であった。この七十年代後半から八十年代初頭にかけての時期に、横山SAKEVIと坂本龍一は、それまでに世界に存在していなかったような音楽を、そしてその後の世界の音楽の歴史を変えてしまうような作品を、それぞれの場所で生み出していたのである。

それから四十年という年月が経ってもまだ、横山SAKEVIはG.I.S.M.の横山SAKEVIのイメージのままであり、坂本龍一はYMOの坂本龍一のイメージのままであった。それぞれのグループは、もはや往時のような活動はしていなくても、ずっとそのイメージは二人についてまわった。それほどに、あの時代に発表されたG.I.S.M.とYMOの作品が、全世界に与えたインパクトは計り知れないほどに大きかったということなのであろう。

2023年の3月と8月に、世界は偉大な音楽の才能を相次いで失ったことになる。横山SAKEVIと坂本龍一。二人はとても遠く遠く離れているようで、もしかするととても驚くほどの近さをもつような存在でもあったのかもしれない。

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