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茶碗・アンド・ダンス

社会の形がぐにゃりと昨日(過去)と今日(現在)では一変してしまうほどの大きなインパクトをもった本物の危機(例えば恐ろしい疫病の流行)というものを、幸運にもこれまでにわたし(たち)はほとんど経験してこなかった。そびえたつ文明社会がぽっきりと折れてしまいそうになる危機に関しては、阪神神戸や東日本などの大震災や近年の大規模な豪雨洪水被害、そして9.11や世界各地の紛争や自爆テロなどのショッキングなニュース映像を目の当たりにしてきたこともあり、それに対しどのように精神を維持し対処すべきかはある程度は心得てきてはいたのだけれど(明らかに傍観者的に、だが)。しかしながら、悪性のウィルスのパンデミックが地球規模で世界や社会をじわじわと侵食し蝕んでゆく光景に出くわしたのは、これが初めてであった。そのせいか、そうしたもの(疫病や伝染病)を介して事物を見る視点をもつ資質にも大いに欠けてしまっていたことにもあらためて気づかされた。
そんなようなことを、ここ半年の間の新型コロナウィルスの感染拡大によってもたらされた世界的な未曾有の事態に、真正面から直面してみて、強く実感させられることになった。歴史的な出来事としては、過去にも天変地異などによって何度も飢饉が起こったり疫病が流行って道端にも屍がごろごろと転がったりしていたということを伝える凄惨な絵を見たこともあったし、ペストやチフスや黒死病やスペイン風邪が大流行したことや、大航海時代に人と物の移動とともに新大陸に悪性の疫病がもたらされて多くの先住民が命を落としたというようなことは、少なからず知識としてはもってはいた。だが、それはただ知識として頭の中に入っていただけのことであったようだ。つまり、本当の意味で、実際のこととしてそれを知って理解していたわけではなかったのである。
しかし、大きな疫病の流行が地球上の人々の多くの人々の健康を害し命を奪ってゆく現実を目の当たりにして、様々なものの見え方がこれまでとは少なからず変化してきているように感じる。これは、それまでに曇ったままであった視界がクリアになったというのとは、またちょっとニュアンスが違っている。今まで見えていたものに加えて、そこに今まで見えていなかったものも鮮明に見えるようになってきているということだろうか。視界が広がったり晴れたりというよりも、見るための道具(目)がもうひとつ増えたような気分にさせられるような変化である。今まではバラバラであったものが、さらにつながりをもって奥行きをもって見えるようになったというのか。実際にはもしかすると何も変わってはいないのかもしれない。だがしかし、自分の中では何かがこれまでとはものすごく変わっているような気がするのである。
そして、これまでにあった疫病の大流行という事態においても、そこに生きていた人々の日常生活や当たり前や常識というものは、やはり大きく変わってしまっていたのではないだろうか。目に見えない病原体という敵を前にして、これまでに人間たちが苦労して積み上げてきたものが、なんであろうが簡単に脆くも崩れ去ってしまうというようなことは、幾度となく繰り返されてきたことなのであろう。どんなにこの地球上を隅々まで制覇したと思い込んでいたとしても、唐突に出現して大流行する疫病は、人間が地球上に暮らすちっぽけな生き物の一種であることをあらためて思い知らせてくれる。未知のものを前にしたとき、得体の知れないものを前にしたとき、かなり無防備な身体をもつ人間という生き物の個体は極めて無力である。ほぼ、その場に棒のように立ち竦んでしまって、襲いくるそれを恐る恐る見極めてみることぐらいしかできない(しかし、それを見極めるほどの能力はない)。そんな委縮の情感のみが蔓延った空気に、時代がすっぽりと包まれてしまうと、その中で生きる人々の内面にも様々な変化が起きてくる。何も確かなものはなく、誰も彼も本当の意味であてにはならない。神頼み、仏頼みも、なんだかどこか頼りがない。そうなると、自分で自分なりに何かを考えて前に進んでゆくしかなくなってくる。ゆえに、時代が危機的な状況に陥ったときには、なぜかかならず、人間の思考の能力や頭の中のヴィジョンの鮮明度から導き出されてくるものが大きく前進するようなことになるのかもしれない。そして、そこに危機と思想を隣り合わせて並べて考える、折り重なった高原状態を保つ視点というものが芽生えてくる。ということは、過去の危機の時代に出現したもののなかから今の新型コロナ以降の時代を生きるためのヒントのようなものを何か学びとれるのではないだろうか。そんなことをぼんやりと考えていたのだが、あらためて過去の危機の時代の思想について見てゆくと、そこにこれまでには見えていなかった部分が次々と立ち現れては目に飛び込んできて、もはやヒントをもらうどころの話ではなくなってきてしまった。今はもうすべて一から学び直さなくてはならないような気すらしている。それぐらいに、ちょっとあらゆるものの見え方が変わってきてしまっているのである。とりあえず、まずはこちらが新型コロナ以降の時代に対応できるような状態にまでチューン・アップを終えてからではないと、何も始まらないということであるのではなかろうか。今ここで言えることは、いよいよ本当に大変な時代になってきたということぐらいである。これまでと同じ感覚でやってゆけてしまえるほど、もはや時代はニンゲンたちを甘やかしてはくれないだろう。ぬかるみの道を歩いてゆくためには、それに何らかの形で対応できる靴が絶対に必要なのである。どこまでそのぬかるみが続くかわからない今こそ、どんな道にも対応できるように、できるかぎりの備えをしておくべきときなのではなかろうか。
時代が危機の度合いを深めれば深めるほどに、水平方向にも垂直方向にも強く射程距離の長い思想が深く懊悩する人々の間から興るようである。人類の過去の軌跡をじっくりと振り返ることで、つくづくそう思えるようになってきた。何もない時に卓越した思想を残すのは、一握りの大天才だけかもしれない。だがしかし、危機のときには、誰もが大いに考える。その中からたくさんの思想が大輪の花を咲かせんとして繁茂してくる。やはり、何十万いや何百万もの人々の命を無碍に奪う疫病というものを目の当たりにしては、これほどまでに人間の健康や命や身体、社会、世界、現在・過去・未来、人間そのものや死について考えさせられることになる状況というのもそうそうないような気がしてならなくなるのではないか。誰もが、自分で自分に根本的な問題を投げかけて、日々それに答えてゆこうとする。こうしたことは、歴史上においても度々そのような深刻さに満ちた危機の時代の様々な場面の中で繰り返されてきたことなのであろう。皮肉なことであるが、危機のときほど人間はよく哲学してしまうようである。おそらく、どんな時にでも、あれこれくよくよ考えないという人のもそこそこいるのだろうけれど。だがしかし、もしもそういうタイプの人たちばかりであったとしたら、繰り返し襲いかかってくる巨大な危機に直面してきた歴史の中で、何度も何度も同じように打ちのめされて、とっくの昔に人類は地球上から絶滅してしまっていたかもしれない。だからこそ、考える人は危機を乗り越え、今もまた新型コロナウィルスの止めどない猛威を前にしてわれわれはあれこれくよくよと考え込んでしまっているということなのではないだろうか。

そこで、何らかの危機の時代を生き抜くための答えにつながりそうなものをあれこれと探していたときに、ひょんなところで出くわして、そうかこれかと思い当たったのが、ここ最近また民藝(運動)の再評価によって脚光を浴びはじめている柳宗悦のことであった。1989年に東京で生まれた柳は、幼い頃に実父をインフルエンザによる肺炎で亡くし、1919年には実兄をスペイン風邪で亡くしている。悪性のウィルス性の風邪が流行し、多くの命が失われていた時代に、柳は疫病というものの脅威を非常に身近なものと感じながら、明日は我が身と考え注意深く生きていたに違いない。そして、スペイン風邪の流行と同じころに朝鮮の工芸品(李氏朝鮮)の美を発見し、日本政府による同化や教化に主眼を置いた植民地政策に異を唱える「朝鮮人を想う」「朝鮮の友に贈る書」などの文書を発表、そうした思索や行動の中から後の民藝運動などにつながる古くて新しい価値観の上にたつ美と平和を創造する思想の萌芽をこの時代に育んでもいる。それはやはり、往時の柳の目に、すでに手垢塗れとなっていたイデオロギーによって鈍らされている眼力では見えなくなっていたものが、はっきりと見ることができるようになっていたがゆえに新しき道が開けた結果であったのだともいえよう。名もなき朝鮮の工人の手になる雑器に健康で悠大なる美の線や形を見出せたことは、危機の時代だからこそ起こる透察の広がりや深まりが土台としてあったことに由来していると考えることもできるかもしれない。
人間による人間のための健康で健全なる美とは、できる限りの作為を排したところに宿るものである。何もしないことで、何かがなされる。名もなき工人たちは分業による流れ作業で毎日毎日何十何百という数の雑器の製造を手掛けていた。そこには器の周りに簡単な絣の模様を筆で絵付けするだけの工程を来る日も来る日も何十年も続けている工人の存在があっただろう。そのうちに工人は晩飯のおかずのことを考えながらでも鼻歌を歌いながらでも勝手に手と筆が動いて器全体と調和のとれた模様をぱっぱと書き入れることができるようになる。そうした工人たちの作業は、最終的には澄み切った水のような無心の状態で行われるものとなってゆくはずだ。作業中に何か他のことを考えることすらもが作業のスピードの妨げになってくる。そこにはもはや作為のようなものは微塵もなく、絣の模様はその器の上にもともとあったものであるかのようになんの違和感もなくそこに描かれる。ただし、機械が同じ絵を器に高速で描き続けるのでは味気というものがない。人間が無心になりひとつひとつ厳密には異なる器に直感的にひとつひとつ厳密には異なる模様を描き込んでゆく。他力の美は自力の美を健康の面で上回ると柳はいう。民藝運動は、そうした名もなき工人による工芸の美の再発見の動きから始まった。そして、柳の思想は絶対他力からなる美の法門をくぐり抜けて、浄土宗の称名念仏や他力本願の教えへと接近してゆくようにもなる(その逆もまた真であり、浄土教の教えへと接近してゆくことで、民藝や工藝の美への信心もより深まった)。
そして、あらためてよく考えてみると、鎌倉中期の浄土宗・浄土教の開祖たちもまた危機の時代の人々であったのではないかと思い当たった。天変地異や悪天候による飢饉や血生臭い戦乱が絶えず、悪性の疫病も流行し、多くの人々が生活に困窮し疲弊していた時代に、従来の彼岸からもたらされる教えを説く仏教思想を飛躍的に発展させて(もしくは逆転させて)、衆生の絶対的な救済の道をずばりと説いてみせたのが、非僧非俗の捨て聖として念仏宗・浄土真宗を布教して歩いていた親鸞であった。浄土三部経「大無量寿経」の第十八願をアグレッシヴに解釈することにより、誰もが阿弥陀如来によって救われ成仏できることが、誰にでもわかりやすくクリアに宣明された。親鸞による衆生救済の念仏宗が広まることによって、飢饉や疫病の最中にどんなに多くの人々が命を落とそうとも、それはそれだけ称名によって救われて仏となった人々の数も増えるということを意味するようにもなった。今は暗く絶望に閉ざされているようにみえるこの世も、いつかは生き延びたもののために戻ってきてくれた(成仏した)仏たちの光によって明るくほのかに照らされるようになるだろう。そのために阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願をまるごと信用し、そのときをひたすら待つしかないのである。それゆえに念仏とともに生きるしかないのである。それぞれの生にふさわしい人生を、それぞれに。如来による救済も、あくまでもそれが絶対的な他力であるからこそ逆に説得力をもつ。危機の時代を生きる人々が、どんなに困窮し疲弊していても自力でなんとかできるのであれば、はなからみんなそうしているであろうし、それぐらいで抜け出せる程度の絶望の暗さであったならば危機の時代と認識されることもないだろう。多くの人々にとって、もはや称名を唱えることぐらいしか打つ手はなくなっている。そこで、もはや救済に程度の差や制限を設けている場合ではないと、親鸞はできるだけ多くのものが乗り込める大きな船を用意した(書類を用意して申請するなどといった複雑でわかりづらい手続きは全て取っ払って)。少しでも多くの希望の光を、この地獄のような世に今すぐにもたらすために。何から何まで凡夫たちのために。何から何まで他力本願で。
親鸞の死後、多くの身近な場所で宗祖と接していたものたちの手によって、その教えを後世に伝えるための愚禿の言葉の集成の作業が行われた。そのうちでも最も重要な書のひとつといわれているのが「歎異抄」である(まとめたのは弟子の唯円といわれているのだが、あまり定かなことはわかっていない)。この「歎異抄」の第二条の冒頭にて、親鸞は弟子たちに向けてこんなことをいっている。「おのおの十余箇国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」と。おそらく、これはかつて東国を愚禿然とした姿で流浪していた当時の親鸞の相当に先鋭的な教えに触れ、そのフレッシュでヴィヴィッドな念仏宗に帰依したものたちが、後に京都に戻った親鸞のもとにまでわざわざ訪ねてきて、その教えの詳しい部分を問い聞こうとしたという場面において、親鸞が語ったことをそのままに伝える文であろう。意訳をすれば、遠いところをよく来られたなご苦労ご苦労と長旅の疲れを労う言葉ととれる。だが、やはり気になるのは、その長旅そのものが身命を省みぬものであり、その旅路が往生極楽へのの道とも並べ喩えられているような点である。客人たちは東国から京都まで十以上の国と国との境を越えて訪ねてきた。しかも、これは平時におけることではなかったはずである。まさに危機の時代のことであり、各地で飢饉が起こり、流行の疫病も蔓延していたはずである。困窮した人々は殺気立ち、わずかな食料を奪い合い、旅の道のあちらこちらには野垂れ死んだ骸が放置されている。そして、今もそうであるが、悪い疫病が蔓延しているときには、極力不要不急の移動は避けなければならない。人の身体を介して人から人へと病が広がることは鎌倉時代の人々も実際の現象から理屈として理解していたであろう。そんな状況下で(師の話を聞くためだけに)多くの国境を越えて人が移動するということは、まさに身命をかえりみぬ所業だと言われても仕方がない。そうした渡航に関することについての認識には八百年前も現代もさほど変わりはないようだ。疫病の感染者があちらの宿こちらの宿で濃厚接触して飛沫を浴びたり浴びさせられたり病原をばら撒きながら歩き回る旅路は、間違いなく往生極楽への道にも隣接しているという見方もできる。昨日まで無症状だったものが、急激に重症化する。伝染したものは、もう元には戻せない。そうなったら、もはや親鸞に何かを問いたずねるまでもなく、阿弥陀如来の四十八願にすがるしかないのである。称名とともにある旅路は西へ西へと向かう。

1919年3月1日、感染力の強い悪性のインフルエンザであったスペイン風邪の世界的な流行の最中に、朝鮮半島のソウルにおいて三・一抗日運動がおこった。日本政府による同化を根本とした植民地政策に耐えかねた市民や学生たちが同時多発的に草の根的に立ち上げた独立運動は、次第に大きなうねりとなり大規模なデモ行動にまで発展する。だが、この勇気ある人々の異議申し立てを日本政府は朝鮮総督府を通じて力によって弾圧してしまう。柳宗悦は、こうした朝鮮半島の情勢を具に見て感じたことを、極めて直接的な言葉で綴った私的意見書とも読めそうな文章にまとめて、この時期に相次いで発表している。それが、19年5月に読売新聞に掲載された「朝鮮人を想う」であり。さらに20年6月に雑誌『改造』において発表された「朝鮮の友に贈る書」である。いずれも国の植民地政策に異を唱えてただ噛みつくというよりも、朝鮮半島に暮らす人々に想いを寄せ半島の文化や暮らしに想いを寄せることを第一義とした、非常に柳らしさが表に出た心からの気持ちのこめられた感動的な文章となっている。スペイン風邪の第二波の流行の只中で書かれた「朝鮮の友に贈る書」は、その極めて植民地寄りな内容から一旦は雑誌掲載が見送られるが、その後本文の一部を伏せ字にした状態で発表されている。感染症が流行する危機の時代に、柳がどれほどの強烈な意志と切迫感をもってこの一文を書いて発表したのかが、こうしたエピソードからもうかがえる。
「朝鮮の友に贈る書」の冒頭部分に、このような一節がある。「情愛は今私を強く貴方がたに誘う。私は黙してはいられない。どうして貴方がたに近づく事がいけないのであろう。親しさが血に湧き上る時、心は心に話し掛けたいではないか。出来得るなら、私は温かくこの手をさえさし出したい。かかることはこの世において自然な求めだと、貴方がたも信じて下さるだろう。」
強いシンパシーを寄せずにはいられない植民地・朝鮮の人々への熱い思いの丈をストレートに(相手の立場を慮りつつ)吐露するような一文である。柳のエモーショナルな側面が前面に出ている。日本人と朝鮮人は全くの別物であるという優越的な思想から朝鮮半島の植民地支配を正当化する人々にとっては、日本人が朝鮮人に近づき親しく話しかけることさえもが忌み嫌われるような傾向があった。柳はそうした歪みきって不健康な思考に真っ向から異を唱える。長きにわたり朝鮮半島は日本列島のすぐ隣にある良き友であったではないか。そうした古くからの友に対して、その友が非常に困難な時の中にあり、(母語で声も挙げられずに)危機に喘いでいるときに、温かく手を差し伸べることはごく自然なことなのではないか。日本人の中にもそのように考えている人がいることを隣人であり友であるみなさんは信じてくれるだろうか。柳の言葉は切実で渾身のものである。
ただし、これがスペイン風邪の大流行の時期に書かれたものであることを考えに入れると、ちょっとまた少し違った風にも見えてくるのである。ウィルスの感染というのが主に人と人との(濃厚な)接触によって起こるものであると考えると、そのときそこでは人と人とが距離を詰めて近づくことも親しく話すことも手を差し伸べることもなかなか容易にできることではなくなってしまうだろう。この危機の時に日本人と朝鮮人はともに良き友でありながらも厳重な感染症対策によっても距離を隔てられてしまっていたのではないか。(現在の感覚をもってして)そのように考えると、柳の一文には、より切迫した思いというものが込められているようにも読めてくる。どんなに強く直接手を差し伸べようと思ってもスペイン風邪が猛威をふるっている状況ではそれは叶いそうもない。本当は、見えない敵によっても阻まれているのです。そのことをどうかわかってくださいと、柳は朝鮮の友に対して心から訴えかけているようにも見える。
これを2020年の言い方で表すと、三密の回避とかソーシャル・ディスタンスの確保、そして不要不急の外出の自粛といったような感じになるであろうか。スペイン風邪の時代にも感染防止のためにマスクの装着は推奨されていたようだから、マスクをしてソーシャル・ディスタンスを保ち心で心に話し掛けることが対策ともなる。また、当時は混み合った狭い汽車の客車に長時間座り続けることになる遠距離の旅行なども極力取りやめるように広報されていたようだ。ということは、やはり朝鮮半島への船旅なども自粛が求められていたのであろう。実際に国家レヴェルで渡航の制限があったのかは定かではないが、長距離の船舶での移動は狭く密閉された船室でのウィルス感染の危険性を考えればできるだけ控えるようにするというのが道理であっただろう。横浜港に帰港したクルーズ船で起きた集団感染のことを思えば、この危機の時期の船旅は極力避けるべきものであることは誰の目にも明らかだ。スペイン風邪も、第一次世界大戦の戦場に参戦するために若いアメリカ兵が大量に乗り込んでいたヨーロッパ行きの艦船の中で最初の爆発的な感染が起きたという。そして、多くのウィルスを保持していたアメリカ兵が上陸したヨーロッパ各地の戦場でさらに感染が拡大し、そのエピセンターを経由して世界的に蔓延してゆくこととなったのである。そうした経緯を鑑みれば日本列島と朝鮮半島の間の船での往来にも特段の注意が払われていたであろうことは想像に難くない。ゆえに柳の文章も実にエモーショナルな響きをたたえることになる。ソーシャル・ディスタンスを保たねばならない時代こそ、心と心の通じ合いが物をいう。友に語りかける言葉は海を超えて届いただろう。人が人に会いたいと思う気持ちは、時代がいくら移り変わっても何ら変化はしてはいないことに気づかされる。

柳宗悦は1938年から何度か沖縄の地を訪れている。ちょうど太平洋戦争が勃発する少し前の、もうすでにいたるところできな臭い匂いが立ち込めていたころのことである。柳田國男や折口信夫が沖縄の伝統文化や習俗に失われてしまった在りし日の日本や原初の日本の姿形を見出して研究の対象としたように、柳もまた沖縄を実際に自分の目で見てそこに手つかずのままに保存されている古来よりの日本の(アジアの)美を発見した。そして、質素だが健全で力強さをたたえる沖縄の数々の工芸品に、李氏朝鮮の陶磁器を見て感じたものとも共通する奥深い美が宿っているさまを見た。柳は沖縄を訪れるたびに地元の市に足を運び目についた工芸品のあれこれを日本民藝館での展示のために大量に買い込んでいたという。ただ、その後の太平洋戦争末期の沖縄地上戦において多くの貴重な工芸品や工房が灰塵と帰してしまう運命を辿ったことを考えると、この柳のコレクター的な爆買い行動こそが、大量の素朴な工芸品が島外に持ち出されて戦禍を免れる不幸中の幸いにもなった。駒場の日本民藝館が空襲の被害を受けなかった幸運も重なり、沖縄の工芸品にとっての防空壕やシェルターとなる役目を果たしたのである。
その沖縄には多和田井(タータガー)にまつわる、ある言い伝えがある。多和田井とは、現在の南城市(かつての佐敷町)の津波古という小さな集落にあった井戸のこと。沖縄では井戸のことをカーと呼び、集落ごとに常に人々が水を汲みに集まる非常に重要な意味をもつ場となっていた。そうした多くのカーの中でも多和田のカーであるタータガーは渾々と美味しい水が湧く名水の井戸として広く知られていた。ある日、多和田のハンジャナシーという老婆が多和田井で水を汲んでいると一人の旅人がそこを通りかかった。旅人はその澄んだ井戸の水を一杯所望した。すると老婆は持っていた茶碗の縁を一箇所だけサッと欠いて「ここから飲みなさい」といって水を差し出した。喉を潤し多和田井の水の美味しさと老婆の気遣いに大いに感激した旅人は、この集落で何か困っていることはないかと訊ねた。老婆は春の二回の稲祭が村人たちにとって大きな負担となっていることと夏に俄雨が多いことが困りごとだと旅人に正直に伝えた。これを聞いた旅人は、この集落では春の稲祭は免除となり夏の雨に困ることもなくなるだろうと申し述べて多和田井を立ち去った。この不思議な旅人の訪問以降、津波古では稲祭は初穂祭のみを行うだけでよいというお達しがあり、さらには夏の俄雨が稲架掛けにかかることもなくなったという。ひとりの老婆のよい行いによって、村全体の願いが聞き入れられたのである。
老婆が井戸の水を差し出すときに、わざわざ茶碗の縁を割ったのは、まだ誰も口をつけて飲んでいない部分を茶碗に新たに作るためであった。これは村人たちが日常的に使っている茶碗から穢れを祓う儀式・儀礼であったともいえる。もしかすると老婆は不思議な旅人がたまたま津波古の多和田井を通りかかった神であることを悟っていたのかもしれない。また、茶碗の縁を欠くという行為は、まだ誰も口をつけて飲んでいない部分を茶碗に作るということで、ある意味では感染症対策からそうしているものだともいえそうだ。その行為により茶碗から穢れと汚れが取り除かれたのである。欠けた茶碗は、ウィルスや細菌への感染の恐れから旅人を解放したに違いない。そして、それは実に日本人らしいのおもてなしの心の表れでもあったのだ。
この言い伝えは、他者とモノをシェアする・分かち合う・共有する際に、汚れ・穢れを取り除くようにすることの重要さを教えている。そして、それとともに、目には見えないものをそこに見るようにすることの大切さも教訓として示しているのではなかろうか。ただただ普段通りに漫然と生活活動を行っているだけであるとしたら、少し手拭いなどで茶碗の縁をさっと拭いて旅人に水を差し出すだけであっただろう。しかし、老婆は茶碗の縁を欠いてまで汚れ・穢れを取り除いた。そのことで、ただ普通に茶碗を差し出したときには何も起こらなかったであろうが、途方もなく多くのものを得ることになったのである。これは、そこにある目に見えないものを見て十分に対策を行うことによって、人間的な活動や人間同士のコミュニケーションは、何も対策をしていない時よりも何倍も可能になり何倍も豊かなものになることを示唆してくれているようでもある。きっと、茶碗の縁を欠くぐらいの対策は、いつの時代にも必要とされているものなのである。

古代や中世の絵巻物を注意深く眺めていると、絵の端の方に白い覆面をつけた犬神人という人々が描き込まれていることがある。犬神人とは、大きな神社に祀られた神に直接仕える人々のことであり、身分としては社会の中からはあぶれてしまっていて寺社の境内や河原に身を寄せている最下級民で、つまり人としての扱いを受けていない非人に属する身分のものたちのことをいう。ただし、非人と蔑まれる一方で神のそばに仕える神官としての仕事を託されてもいたため、ある種の聖別視もされてはいた。また、京の都では犬神人たちが死者の埋葬を一手に引き受けていたという。この臨終の時ととともに腐敗し始める人間の骸に触れることになる犬神人の(浄めの)仕事が、その非人としての存在を不可触な聖性を帯びつつも濁穢たるものとも結びつくアンビヴァレントなものにしていったといえる。
そんな京の街中でもちょっと特異な部類に属する人々と見られていた犬神人は、僧のような衣を着て白い覆面をし、時に笠をかぶっているという、まさに見るからに異形のものたちでもあった。おそらく腐乱した遺体の葬送や火葬、寺社境内の清掃など浄めの仕事を主に行っていたことから、鼻をつくような異臭や舞い上がる塵埃から鼻腔や口腔や喉を守るために顔面を覆う覆面をしていたのであろう。しかしながら、ほぼあまり衛生状態のよくない場所での活動が主であっただろうから、何らかの病気への感染予防として(もしくはよりシンプルに体調管理のため)覆面で鼻や口を覆っていたということもあるのではなかろうか。犬神人の覆面は、現代のマスクを装着する感染症対策とどこか合い通ずるものがあるように見えて仕方がない。浄めと覆面・マスクが結びついていることについても今も昔も変わりはないのではないか。そんなことを考えて近所のスーパーマーケットでカゴを抱えてマスクを装着して買い物をしていると、思わず自分が犬神人にでもなってしまったかのような気分にもなってくる。そして、絵巻物の片隅にその姿が描かれている犬神人は、非人でありながらも京都の街で一番意識が高い人々のように見えてきたりもするのである。

危機の時代における新しい生活様式への移行。それまでとは異なる日常の中で、様々なものを見て感じてゆくことが大切になる。そのことによってそれまでとは異なる新しい思考の芽が生活の中から育まれてくるだろう。日々の生活や日々の考え方の中から生じてくる新しい思考は、危機の時代のそれを踏まえた新しい時代の形の思想をも形作ってゆくことになるであろう。
かつて、今も忘れがたいひとつの病気の時代があった。初めて名前を聞くような得体の知れない未知の感染症が、世界中を恐怖させた。ヒト免疫不全ウィルスによる感染症、いわゆるエイズである。ウィルス(HIV)の感染により体内の免疫細胞が次々と破壊され、人間の身体を守るはずの免疫システムが全く機能しなくなってしまう。それが原因で、様々な合併症が引き起こされ、最終的には死に至るというとても恐ろしい病気だ。最初にエイズについて知ったのは、おそらく83年夏に歌手のクラウス・ノミが急死したときであったと思う。この一件は一部では大きな話題になり、聞き慣れないエイズという病気についての紹介などもそこではなされていた(ノミの件は「宝島」などでも伝えられていたと思う。スージー甘金のマンガにもネタとして採用されていたように思う)。まあ、日本においてはどマイナーな洋楽を聴くごく一部の界隈の人々だけが、この時期にエイズという病気を一歩先んじて認識しただけなのかも知れないが。それでも、やはりこのタイミングで世界的にもエイズの時代は幕を開けていたのである。人間を死に至らしめる(目に見えない)ウィルスが世界中に存在していることに、当時はまだ中学生であったが強い恐怖を覚えたことを記憶している。
当初、エイズというのはあまりよくわからない病気だった。とても危険なウィルスであることは間違いないようであったが、まだその治療法が確立されていないこともあって、どこか得体の知れない不気味さの方だけがどんどん先行してしまっていた。そのために感染して発症してしまうということは、それすなわち死を意味しているようにも思われていた。その手の施しようのなさから、様々なエイズにまつわる噂や憶測が乱れ飛んでいた。避妊具を使わないで性行為をすると感染ると言われていたし、キスをしても感染るという話もあった。そして、どうやら手を繋ぐぐらいならば感染らないということであった。しかしながら、やっと中学生になったばかりの田舎の丸刈り頭の少年にとっては、キスも性行為も手を繋ぐのもかなり縁遠いものであって、エイズという病気そのものが現実的には遠い異星の話であるかのような感覚すらあった。実際にクラウス・ノミの歌声には、どこか人間離れしている印象があったし。そのため、ノミの歌声や風貌とエイズのイメージは強く結びついてしまっていて、すべてどこか遠い場所の情報を伝聞するようなものとなりつつもあった。
しばらくして、少しずつエイズの得体の知れなさからくる噂や憶測などのセンセーショナルな部分が落ち着いてくると、その病の内実の部分でのセンセーショナルさが大きく前面に出てくることになった。85年、俳優のロック・ハドソンがエイズに感染していることを公表し、その後に同性愛者であることも自ら明らかにした。この勇気ある告白は、この恐ろしい病気への関心を高め、人々の病気に対する正しい認識や理解を広めるためのものであったのだろうが、その人気俳優のエイズ感染という事実のセンセーショナルさやセクシャリティの告白直後のハドソンの死などの要素が変に結びついて、同性愛とエイズを一体のものとみなすような風潮を生み出してしまうことにもなった。その後、普段はヘテロ男性の仮面をかぶって何食わぬ顔で生活している同性愛者たちが、影でこそこそ(性的な)活動をすることで恐ろしいエイズという病気を蔓延させ市中感染に拍車をかけているというようなイメージが、徐々に一般的なものとなっていってしまう。元々がカトリックの宗教教理の側面からも白眼視されバッシングを受けていた同性愛、ゲイ・セックスや肛門性愛は、ウィルス感染症を介して社会の中で徹底して悪と見なされるようになってゆくようになったのである。
少しずつエイズという病気に関する詳細な情報が明らかになってくると、それがアンダーグラウンドに生きる人々を直撃してその界隈に直接降りかかる病気であることが段々とわかってきた。夜の街の最深部で日頃は秘密にしている欲望を解放し快楽を貪る同性愛者たちや同じ注射器を使い回して粗悪な安物の薬物を互いに打ちあう薬物中毒者たちなどの陽が当たらぬ人の目が届かぬ地下の世界にしか生きる場所がない人々や貧困層の社会的な弱者たちが、まずは続々とこの病気の犠牲となっていた。誰でもエイズに感染する危険性はあるはずなのだが、こうした地下の世界では秘められた快楽を得るために日常的に体液や血液の交換をともなう濃厚な接触が繰り返されていたこともあって、蔓延してゆくスピードも地上の世界よりは格段に早かったようだ。そうした人の目の届かない世界には病気の感染を食い止める対策が入り込む余地も余裕もまだまったくなく、ウィルスの蔓延を食い止めることは容易にはできなかった。また、元々が隠れた被差別者であった感染者がなかなか自ら名乗り出ることもできなかったケースも多くあり、次々と死者の数だけが増えてゆく状況が続いた。
この当時に最も大きな病気の感染地帯となり数多くの感染者を出していたのが、世界有数の人種の坩堝であり超人口過密地帯と化していたニューヨークの街であった。その雑多な人間たちがひしめき合う繁華街の夜の時間帯に出現するのが、ニューヨークのもうひとつの顔ともいえる華やかでグロテスクなアンダーグラウンド・カルチャーの震央地である。世界でも最も伝統のあるニューヨークのアンダーグラウンド・ナイトクラブ・シーンは、その徹底した快楽主義的な傾向から、突如出現したエイズの猛威の前になかば壊滅的な被害をこうむることとなる。
しかし、そんな危機の時代の中にあってもナイトクラブでは変わらずにダンスのための音楽は鳴り続けていた。得体の知れないエイズという病が次々と身近な人々の命を奪ってゆく日々の中で、ひたひたと迫りくる底知れぬ病気の恐怖から逃避するためにか、週末の夜に本来の自分を取り戻し魂を解放しようとクラブに集った人々が没入したダンスは、いやがおうにも熱を帯びることになっていったのかもしれない。80年代、エイズの危機の時代にダンスフロアの文化は、地下の世界にまさに時代のあだ花のように妖しく色鮮やかに花開いた。このある種の特別な時代に、地下という場で地下にしか住うことのできない人々を核として、莫大な熱量を閉じ込めた夜毎のパーティが、人知れず発露される人々の自由で無際限なクリエイティヴィティを通じて急速に洗練・精錬され、ダンスフロアの文化がより深化していったであろうことは間違いない。
ニューヨークのパラダイス・ガラージ、シカゴのウェアハウスとミュージック・ボックスといったゲイ・ディスコ・サウンドの80年代ヴァージョンであるハウス・ミュージックをダンスフロアに広めたナイトクラブも、その存在の意味合いや重要度には極めて大きく重いものがあるものの、実際に営業をしていた期間は決して長くはなかった。77年にフランキー・ナックルズをDJに迎えてシカゴにオープンしたウェアハウスは、82年には新たにロン・ハーディをDJに迎えてミュージック・ボックスへとリニューアルする。同時期にフランキー・ナックルズが自らオープンした新たなナイトクラブ、パワー・プラントとロン・ハーディのミュージック・ボックスは、ウェアハウスのダンスフロアがもたらした強烈なインパクトから生み出されたシカゴ産ハウス・ミュージックの斬新なダンス・サウンドの発信源として大きな役割を果たしていた。
しかしながら、ふたりの偉大なDJがしのぎを削り合うことで大きな盛り上がりを見せていたシカゴのナイトクラブ・シーンであったのだが、87年にシカゴ市がナイトクラブの深夜の営業時間帯に規制を課した余波を受けてパワー・プラントもミュージック・ボックスも立て続けに店を閉じてしまうことになる。やはり、夜の街で賑わいを見せていたナイトクラブの営業が規制の対象となったのには、感染症対策としてエイズの蔓延を食い止めるために疑わしき場所(汚染想定箇所)をしらみ潰しに消してゆく措置の一環という面もあったのであろう。アンダーグラウンドのシーンを中心にゲイ・ダンス・ミュージックの最新形態と口伝えに喧伝されていたハウス・ミュージックが注目の的となり、シカゴの街を飛び出して世界的な広がりを見せる中、その元祖で本場のハウス・サウンドで踊れるダンスフロアであるパワー・プラントやミュージック・ボックスという店が真っ先に槍玉にあげられてしまったのはある意味では致し方ないところではあったのかもしれない。それだけハウス・ミュージックというものが、エイズと並列に置かれて語られてしまうくらいに得体の知れない暗くジメジメしたところから湧いて出てきた斬新で驚異的なダンス音楽だという捉えられ方であったのであろう。
77年にオープンしたパラダイス・ガラージは、天才DJと称されるラリー・レヴァンがその類稀なる才能を花開かせたナイトクラブであり、アンダーグラウンドの会員制ゲイ・ダンス・クラブでありながらも長らくニューヨークのナイト・カルチャーの頂点に君臨した伝説のナイト・スポットであった。今なおパラダイス・ガラージを史上最高のナイトクラブと評する声は数多い。また、そんなパラダイス・ガラージのダンスフロアは、ニューヨークの街でいち早くシカゴのハウス・ミュージックがプレイされた場でもあった。ラリー・レヴァンとフランキー・ナックルズは古くからの友人であったため、シカゴのナイトクラブで発生した新しいダンス音楽の情報や音源を共有していたのだろう。ハウス・ミュージックも最初期にはまだその音源はほとんどレコード化されておらず、テープなどの状態でDJからDJへと手渡しで広まってゆくことで少しずつダンスフロアに浸透していったはずである。
しかし、そんなパラダイス・ガラージも87年9月には閉店を余儀なくされてしまう。ナイトクラブとして使用している倉庫ビルの賃貸契約の延長ができなかったことが閉店の表向きの理由である。だがしかし、80年代後半に入り景気後退の影響が色濃く街に影を落とし、そこにエイズの大流行による一般の人々のナイトタイム・カルチャーからの撤退も相次ぎ、さらにはエイズという病気に対する偏見からゲイ・クラブが白眼視されるようにもなって風当たりも強くなっていた。そして、ナイトクラブのオウナーであるマイケル・ブロディもまたエイズに感染・発症していて、そのまま営業を続けることは極めて困難な状態であった(ちなみにブロディはナイトクラブの閉店から僅か約三ヶ月後に他界している)。不気味なエイズという死に至る病気が、80年代に最も創造的であったダンスフロアの文化を根底から打ち壊してしまっていた。危機の時代に街と文化に根を張りしぶとく枝葉を伸ばし生き延びた、ウェアハウス、ミュージック・ボックス、パラダイス・ガラージであったが、やはり時代の流れと強い逆風には逆らえなかったのである。
パラダイス・ガラージの閉店からちょうど一ヶ月後の10月19日にニューヨーク証券取引所の株価が大暴落しブラック・マンデイが起きている。まさに、時代が移り変わった瞬間であった。80年代のナイトクラブに繰り広げられていた華やかで狂騒的なデカダンスの響宴の空気は、この頃を境に一気に遠い昔のものとなっていってしまう。
経済的にも疫学的にも大きな危機の時代があり、ひとつの巨大なカタストロフにより様々な影響が社会の隅々にまで広がり、そこにあった全てを変えてしまった。そこに人がいて街がある。見た目には何も変わっていないように見えても、確実に何かが変わった。一般の人の目の届かないアンダーグラウンドの世界では、ウェアハウスが、ミュージック・ボックスが、パラダイス・ガラージが、永遠に失われてしまった。ナイトクラブ・カルチャーの黄金時代といわれた80年代は、もう二度と戻ってはこない。だが、そこで生み出されていたダンスフロア発祥の文化や終わりのないダンスのために発明された新しい音楽は、その後もしぶとく生き延びている。
90年代初頭、ハウス・ミュージックはシカゴの小さなアンダーグラウンド・クラブから瞬く間に広まり、世界中のナイトクラブのダンスフロアで聴くことができるほどにまでなる。まるで、伝染病や感染症などの疫病が人と人との接触を介して市中という市中に蔓延してゆくように。直接の起源となったダンスフロアは、もうすでに消滅している。それでも、普遍性をもつダンス音楽と結びついたダンスフロアの文化から発生したウィルスは、常にビートを求めて移動するダンサーたちの身体を介して新たな宿主となるダンスフロアをすかさず見つけて、そこにパラダイス・ガラージやウェアハウスから受け継ぐダンスの遺伝子を複製し、アンプリファイドされたビートともにそれを増幅させることで、危機の時代に生み出されたタフな文化のエッセンスを繰り返し反復して再現し、それを着々と伝播・浸透させていった。その文化のウィルスの性質の苛烈さと強靭さから、ダンスフロアのハウス感染は世界的な規模での爆発的なものとなったのである。
ハウス・ミュージックとは、エイズという病気が猛烈な速度で広まっていった時代が生んだ、新しい形の病気の音楽(音楽の病気)であったのかもしれない。もしくは、生まれ落ちたときから先天的にウィルスに感染していたキャリア系の音楽といった方が相応しいだろうか。まさに、水面下で人知れずエイズが蔓延し流行していたシカゴやニューヨークといった大都市のアンダーグラウンド・クラブで発生し、その密な空間において培養され、多くの人々の身体を媒介として拡大・成長していったサウンドであった。ゆえに、その全ての過程においてウィルスが少しも関わっていなかったわけがないのである。それは変異(ミックス、リミックス)を繰り返して何世代も生き延びる。ハウス・ミュージックとは、人々の分断や憎悪を生む死や病をもたらしかねない悪性のウィルス(だけ)をもつ音楽ではない。それは、その真逆の人々を結びつける愛のウィルスをも伝染させていた。そここそが大きい意味をもつ。ウィルスがもっているのは人体に悪い影響を及ぼし死を招くような側面ばかりではないことを、ハウス・ミュージックは教えてくれる。それは分断を食い止め、繋ぎ止め、丸くおさめるダンス音楽である。多様な人々をダンスフロアに集わせ、踊らせる。ハウスは、区別しない、差別しない。人と人とを包み込み、緩くつなげる。パンデミックとは、危機を招来するものであり、広い意味での愛に満ちた世界へ向けての一筋の希望の光でもある。

柳宗悦は「工藝の美」(「民藝四十年」岩波文庫)において、「美の消長と社会の消長と、二つの歴史はいつも並ぶ」「現実と美とが結ばれる時、大衆と美とが結ばれる時、その時こそ美に充ちる地上の王国が目前に現れるであろう」と書いている。危機のとき、まず考えなくてはならないのは美(現在と将来の)についてであることがよくわかる。美のないところでは、なにもはじまらない。美のあるところには真もあり善も満ちる。とても当たり前のことではあるが、危機のときにはそこがあらためて問われることになるだろう。まずは土台が美しくなければ、その上になにを打ち立てようがことごとく美は消長する。美に充ちる地上の王国がかなわぬのならば、美も社会も消長したままでよい。もはや、かつてのような世界には戻れない。現実とも大衆とも美がかけ離れている世界は、これ以上許容されるものではない。そこには、美もなければ真にも善にも大きく欠けているであろうから。欠けた茶碗は美である。マスク・覆面は美である。新しい(優しい・円やかな)真美善の倫理がそこにある。美とは、穏やかな美である。それは時には下手物とも呼ばれるような、なんの変哲もない美である。ただの四つ打ちのビートとベースラインの反復である。作為の美では決してない。水や空気のようにそこにある美である。美は微笑む。ただ微笑む。微笑みのないところには未来もない。美しくあれ。乱調だろうと構わない。ただ、ひたすらに美しくあれ。危機のときこそ、そのことが根本から問われている。

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