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人の住みえぬ地球

自然界においては、一度に二十万もの個体が姿を消すということは、しばしば起こることである。その種の生存の条件にとって、なんらかの異常な事態が起きているとき悪性の細菌やウィルスがそこにすかさず入り込んでくることがあるし、もしくは悪性の細菌やウィルスによってなんらかの異常な事態が引き起こされて、突然に生命を維持する機能が不全となってしまった多くの個体が、次々と倒れてゆく。(サイガ大量死

あらゆるものが国境や境界線を越えて地球レヴェルで行き来するグローバリゼーションの時代において、ウィルスを媒介とした危機が起こる確率は格段に増大していたと考えるべきであろう。なんらかの過誤や過信から生じた人類の種としての異常状態が、積極的にも消極的にも欲望によって牽引されるグローバリゼーションを加速させ、重大な危機を招き寄せたのではないか。世界的にすべての人々が経済(活動)的にはボーダーレスに、しかし大いに(不可視的に)寄りかかり合いながら生きている。このこと自体が、やや異常といえば異常な事態であったのではなかったか。どこかで誰かが倒れれば、まるでドミノ倒しでもしているかのように世界中の人々がパタリパタリと立ち行かなくなってしまう。人間が動物としての生存の本能を持ち続けているのならば、そのような状態はなるべく避けるような仕組みを(あらかじめ)構築していたであろう。はたしてここ最近の地球的な危機を省みるに人間の生存の本能に異常が生じてきてしまっていたと考えるべきであろうか。それとも人間が動物としての生存の本能を蔑ろにしてしまえるほどに異常な生き物(欠陥動物)になりはててしまっていたということなのだろうか。そして、その人類の異常さが常態化していることで、そこに露見している動物種としての綻びを見せている部分にピンポイントにつけ込んで大繁栄することを画策した進化系のウィルスが絶妙な場所とタイミングで発生することそのものすらも、グローバリゼーションを盲信し続けた人類そのものが招いてしまった事態であったということなのかもしれない。

現代人は、何か生活のスタイルや生活の質そのものを考え直してゆかなくてはならない時期に直面していたのかもしれない。豊かさを追い求めて、それを手に入れて、空前絶後の繁栄が謳歌された。しかし、どこかで地球や世界に対して傲慢になり人間のために割り振られていた領域から大きく踏み出してしまったのではかろうか。様々な問題を作り出し多くの異常の原因となっているのは、地球のすべてをその手に掌握したと思い込んでいる(愚かしい欠陥動物でしかない)人類にほかならないのではないか。

強力な新型ウィルスによる感染症の爆発的流行といった事態を考えるときに、ひとつの非常に発展し発達した大都市に多くの人々が集中して、そこで労働し、食事し、学び、遊び、生殖し、睡眠するという構造的に恒常化した状態は、少しばかり珍奇な行動のスタイルだといえる。何もかもが一つ所に集中してしまうというのは、人類の存続や生存にとって極めて害となることなのではなかろうか。少なくとも自然の状態では、できる限り回避される行状であるといえよう。繁栄する大都市を足元から突き崩すような危機が起きたとき、人類は大きな損失を被ることになるだろう(疫病、大地震、大津波、大洪水と、その原因はいくらでも考えられる)。場合によっては、完全なる滅亡という運命と直面することになるかもしれない。それなのに、なんの疑いもなく一極集中の動きに歯止めをかけることもなく長きに渡り富と豊かさの欲望に対して自由放任の姿勢を取り続けていたのだから驚きである(本当の豊かさとは何だ)。人類は自ら滅びようとしていたのであろうか。死の欲動を燃料にして大都市は繁栄し危ういほどの栄華を誇ったのか。

近代的な衣食住のスタイルや質といった部分から、もしかすると考え直してゆかなくてはならないのかもしれない。金融や土地所有や労働のことなど、大きな問題も間違いなくある。だが、まずは身近なところにある隠れた大問題を再考してゆくことで見えてくるものも少なからずあるだろう。基本的に衣食住のことというのは、そこに多くのものを注ぎ込み過剰である必要がどれほどあるものなのであろう。必要以上に華美になる衣食住にどれほどの意味があるのだろうか。だんだんとわからなくなりつつある。かつてはそれにもちゃんと意味があったのだろうが、今や一握りの富裕層以外はみんな貧しい持たざるものたちなのだから。どんぐりの背比べなどをしていられる余裕はもはやどこにもない。まだ底が見えていないのだろうか。変化はもうすでに身近なところで起きつつある。

人間の生の本能を鈍らせて、その結果として異常なものにしてしまっているのは、そうした生そのものを直接的に形作る衣食住などのとても身近なところにあるすでに鈍麻している要素であったのではなかろうか。それらのものは総じて近代以降に大きく様変わりしたものでもある。現代の様々な状況を踏まえてみて、それらを少しずつ見直してみることは、来たるべき新時代へ向けての有意義な下準備とはならないであろうか。例えば、楽に簡単に脱ぎ着できるシンプルな(防疫性や防護性の高い)服は、様々なオシャレや着飾るための煩わしさから人々を解放してくれるかもしれない。快適で気持ちのよい最低限の日常的な活動が行えるだけの居住スペースが確保されていれば、大抵の動物は難なく暮らしてゆけるだろう。お屋敷や大豪邸は人間の愚かしさを象徴する(憐むべき)建造物なのではなかろうか。生きるために必要な栄養素を手軽に摂取できる食べ物や飲み物は、いずれ過食や飽食という言葉を死語にするだろう。科学や技術の進歩はゆくゆくは必ずや人間の衣食住を大きく変化させるはずである。前時代的な無駄ははぎ取られ、将来の人間の生はもっともっとシンプルで見晴らしのよいものとなるだろう。

人類にとって肉食は必要不可欠なものなのだろうか。大きく育った動物の身体を食すことで、人間は地球上にもたらされ蓄積された多くのエネルギーを独占し消費している。これも近代以降に(人間のためだけに)加速して増大した消費の領域だ。それまでに多くの生き物たちに少しずつ配分されて(循環して)いたエネルギーを、がめつい人間が独り占めするようになった。生存の領域を奪われ人間世界の拡大によって駆逐されてしまった生き物も少なくはない。だが、そのことによって自然界で長年に渡りバランスが保たれていた有限なエネルギーの流れが大きく崩れてしまい、その影響がめぐりめぐって人間に近しい場所にいる動物の中に人間に対して大きな害をもたらす新種のウィルスを発生させることになったのだとしたら、それもまた因果応報といったところであろうか。
ウィルス性の新型肺炎を発症すると、喫煙者ほど重篤化する確率が高いという。また、夜の酒場の居酒屋・バー・キャバレーなどが感染者を多く発生させたクラスターとなることも多いという。そう考えると飲酒や喫煙は人類の未来にとって本当に必要不可欠なものなのか、改めて議論してみることも大事だろう。飲んで吸ってアクティヴな生活を送ることが、人間の基本的な習性なのか、改めて考えてみることも大事だろう。それをまともに考えられるほど、もはや人間の動物的本能は本来的な状態に保持されてはいないのかもしれないが。

新型ウィルスの爆発的な感染拡大は、人類全体に非常に大きな影響を及ぼすに違いない。生命や身体に対する考え方もこれを機に大きく変わってくるのではないか。目に見えるものよりも目に見えないものに意識が向かうようになってゆくのかもしれない。そして、人との接触における距離感の持ち方も間違いなく変化してゆくだろう。人間のもつ暗い部分はさらに暗くなり、明るい部分はさらに小さくか弱いものになってゆくのかもしれない。幻滅と絶望が世界に充満して、ニヒリズムでさえもが発火して火花を散らす。ニーチェ没後百二十年となる年に、遂にあらゆる価値の価値転換の時代が幕を開けるのではないかとさえ思えてくる。
迫りくる危機の時を前にして、この世界と社会には様々な看過しがたい問題があることがはっきりと浮き彫りになってきた。今こそ何かを本格的に変えるべき時なのではないかと思い始めた人も、実は結構多いのではなかろうか。二十一世紀の初頭にようやく新しい時代が訪れつつある。あるいは本当の二十一世紀がようやく幕を開けるというというべきであろうか。変革の気運が高まり、古い時代がここで終わり、新しい時代がここから始まる。
ここで、これまでを振り返り反省し様々なことを考え直すきっかけを生じさせてくれたのが、目に見えない新型ウィルスから仕掛けられた生命・生存を脅かす容赦のない攻撃であったようだ。そのような得体の知れない本当の恐怖に直面するまで、人間は全く目覚めることがなかった。もうすでに(過去には大いなる脅威であった)戦争だなんていうものは、ゲームやビジネスと密接に結びついた戦略的なコミュニケーションの一種へと成り果ててしまっている。人の命までをも食い物にしようとするビジネス・パーソンによって、いかようにも手心を加えることが可能であるのが、現代の戦争だ。そこでは騒ぎを大きくし盤面を混乱させたものが一番多く儲けを得る。ただのゲームでしかないものが本当の恐怖に近づくことはない。あらゆるものが、人間の手の中で行われてしまっている。そして、非常に多くの人々が不可思議にもそれを許している。現実とのギャップを抱えながらも。だが、その枠からはみ出してしまうような一大事は、必ずどこかで起こる。新型ウィルスの感染爆発が、本当の恐怖を伴う全く新しい現実として、われわれの日々の生活にいきなり降りかかってきたように。

桜守の佐野藤右衛門が、テレビ番組でちょっと興味深いことを語っていた。ちらっと見ただけなので細かいところまでは覚えていないが、交雑にこそ桜の最も桜らしい部分があるというようなことを話していたように思う。桜の歴史とは交雑の歴史であり、その交雑によって桜は現在にまで栄え続けることができたというような、一般的な桜観とはまた違う角度からの桜の見え方を語っていてはっとさせられた。まさに桜を育てる桜守ならではの視点ともいえようか。
桜には原種となる木が約十種ほどある。しかし、それぞれの種は自然の環境においても人間の手を介しても広く交配しており、何百種もの交配種や交雑種が生まれてきている。藤右衛門によれば、何度も何度も繰り返されてきた交雑によって桜の木の一本一本にはまったく別の個性が備わっているのだという。新しく芽吹いた木は、みんなそれぞれに新種といってもよいくらいのものであるようだ。ということは、ほとんどの桜の木は交雑種なのである。その交雑種の中でどの程度(花や葉の形が)原種に近いかで分類が行われている、ということなのだろうか。
ただし、公園や川縁などでよく見かけるソメイヨシノは、江戸時代に花を楽しむためだけに生み出された交配種であるため、もうすでに生殖の能力は退化してしまっていて、そこから新たな交雑種を生み出すことはない。つまりソメイヨシノに花は咲いても、そこにタネはできないのだ。開花して、散って、葉が芽吹き、散って、また開花するの繰り返しだ。よって、成木の枝から接木や挿木をして増やしてゆくしか手はない。すべてのソメイヨシノは、どこかのソメイヨシノのクローン木なのである。子孫を残すことができない種であるため、ソメイヨシノは桜の木としてはもうすでに終わっている。各個体が種としての終着駅であるから。そんなソメイヨシノを守り、後世に絶えることなく残してゆくこともまた桜守の仕事なのである。
交配や交雑によって生み出された新しい種は、それぞれに新しい個性をもち、それらの新しい個性の中からさらに新しい世代の新しい性質や可能性をもった桜が育まれてゆくことになる。交雑によって多様な個性が生み出されてゆくことにより、桜の木は時代の変化にも対応することができる。多様な個性をもつ新世代の中から気候の変動や生環境の変化に適応することのできる種が、さらなる交配や交雑を重ねて時代の荒波を乗り越えてゆく。また、細菌やウィルスに感染することで罹患する疫病に対しても多様な交雑種の中から病気に強い種が立ち塞がって、常に新しい世代の桜に命を繋ぎ種の特性を残していった。つまり、原種の純粋性を堅持してゆくよりも交配や交雑による多様化こそが本能的な種の生存戦略として選択されていたということなのであろう。
全く新しい個性をもった交雑種の中にも元々の原種がもっていた遺伝子の情報は間違いなく受け継がれている。その遺伝子からの情報の影響が強くでたものと弱くでたものとでは、それぞれに異なる個性の交雑種となってゆくのは必然であろう。また、何代にも渡って原種からは遠く離れていってしまったものが、何かのはずみで長い年月を経て再びとても原種に近い個性のものに戻ってくることもあるだろう。ほとんどすべての個体が交雑種であり、ほぼ新種のようなものであるから、その多様性こそが様々な変化に対する対応の方策であるとともに、もともとの種のDNAの保持という部分もそこには託されている。遺伝子情報を広く拡散させてゆくことが種としての生のポテンシャルをも高めることになるのである。
人間とは根本的にあらゆる生き物がそうであるように、ひとつの(動物)種として進化し進歩しようとする本能的な意志をもつものなのではなかろうか。しかし、近代の国民国家(ネーション)という人間の括り・まとまりの出現は、人間の自然な交雑に制限をかけようとする動きであったともいえる。弛まず繰り広げられてきた人類の進化と進歩の歩みは、近代国民国家をひとつの国民国家へとまとめあげるナショナリズムの魔力のもとで、人類の手によって却って妨げられてきてしまったのである。グローバリズムとは、一面においてはナショナリズムが進化を妨げようとする動きに対抗する自然で本能的な反抗の運動であったのかもしれない。極力、ネイションのようなものがもつ虚なる引力や重力を無力化してゆくことこそが、コミュニケートする生き物である人間の人と人との自然な交雑を生み、そこにありうべき交流を促進し、様々な変化に対応するための進化と進歩を遂げた新たな種を準備する土壌を形成してゆくことになるのではなかろうか。
グローバリゼーションによって、全地球規模的な規模での都市化が進行し、人とモノとマネーが激しく行き来する止まることなく動き続ける総市場化された世界が出現した。しかし、そのような動きの激しい社会のあり方そのものが新型ウィルスによる危険な感染症のパンデミックを招いたのだともいえる。人間の身体に寄生してウィルスは地球の隅々にまで瞬く間に蔓延してゆく。その爆発的な感染の拡大が可能となったのも、やはりグローバル化された世界と極度に過密に都市化した都市が出現していたからこそだともいえるだろう。
だが、グローバリゼーションが進行した世界とは、人間に種としての進化や進歩をもたらすことになる交雑や交流の速度をも加速させているという面ももつ。パンデミックによるマイナス面よりも少しでも種としての進化や進歩のスピードが勝っていれば、人類は常に時代の一歩前に進んでいることになるだろう。世界のグローバル化とは、人類が生存のために(積極的に)選び取った道であったといえるのかもしれない。そして、そのグローバリゼーションとは、経済の発展や市場の繁栄よりも人間の種としての向上や成長に主眼をおいた新しい世界を目指すものであるということは決して忘れるべきではないだろう。だが、新型ウィルスは猛然とグローバル化に向かう世界の流れそのものを完全に変えてしまった。近代国民国家が国家主義的イデオロギーによって抑止し制限してきた、人間本来の交雑や交流の欲動が完全に解放される道に、(移動制限の)黄信号は点ったままとなるのだろうか。もしくは、それは目を覚ました生存の本能によって大きく振り切られることになるのか。
人間と人間を強く結びつけるものであり生殖や繁殖とも密接な関係にあるものの、逆に人間という種にとっては極めて毒性の高いものでもある保守性をどのように乗り越えてゆけるかが、これからの世界の流れや方向性にとっては重要な鍵となってくる。どこまでもオープンに、ゆるやかにひとつの人類という種としての確かなつながりをもって、制限なく交わり、進化し進歩し成長し向上してゆくことができるか。立ちはだかる高い壁はいくつもある。だが、ここにきて本当に時代は曲がり角に差しかかり、そこにある問題の数々がはっきりと見えてきている。後は、ただ曇りのない目でそれを見極めて、ひとつずつ丁寧かつ的確に対処をしてゆくだけだ。
明らかに潮目は変わった。もはや時代遅れなナショナリズムの高まりは、日本人をソメイヨシノにしてしまうだけであろう。ニッポン大好きで日本が最高だと口走りがちな人々は、率先して日本を象徴する美しい桜の花=ソメイヨシノのようになりたがるのかもしれないが。だが、そうなれば美しい国の美しい民人たちは桜守の手を介さずしては生きてゆくこともままならなくなる。生殖の機能は退化し美しいクローン日本人を増殖させてゆくしか生き延びてゆく道はもうないのだから。ムスタファ・モンドのような桜守によって計画的に統制された、年に一度ほんの数週間だけ咲き誇る社会。もはや進化や進歩とは無縁の美しく完成されたネイション、それが近未来の日本の姿なのである。
困難な時と危機なる時が次の新しい世代と新しい時代を準備する。多様な交雑種の中から、この過酷な世界を生き抜いてゆく強みをもつ古くて新たらしい人間が現れる。交雑を可能にする多様性を維持するためにも、同一性を重んじる均質化を推し進める動きには歯止めがかけられるべきであるし、基本的に全ての種に存在の意義を認めてゆかなくてはならない。これまでは力の強い種によって隅に追いやられていた弱々しい種にもいまここにあるべき意味があることを知らなくてはいけない。そして、そうした高次の強い種の人々の出現こそが、未知なる敵との戦いに勝利し、新たな人類がこの地球上での生存を掴み取ってゆくための、もはや最低限必要とされる条件となっているのではなかろうか。これまでと同じままでは、すぐにまた新型の細菌やウィルスの餌食となってしまうことであろう。世界は変化する。交雑は、常にそれを先回りして種の運命をも待ち伏せる。オンリー・ザ・ストロング・サヴァイヴ。本当の意味でそういう時代がおとずれつつある。昨日までのストロングは、もうここではまったく通用しない。

〈住みづらい場所〉

とても住みづらいこの場所に。息をひそめて、じっとしている。もう何もすることができない。ここは、とても住みづらい場所だ。ここは、とても生き辛い場所だ。息をひそめて、静かに、苦痛を運んでくるだけの時間を、ただじっとやり過ごそうとしている。
雨戸がガタガタと鳴っている。風に吹かれて鳴っている。大気が動いている。その大きな動きに古びた雨戸が為す術もなくさらされている。風に吹かれてガタガタと鳴っている。吹き飛ばされまいと、必死で雨戸が家にしがみついている。ガタガタガタガタ、悲鳴をあげながら。
強い風が吹いて、このままどこかに吹き飛ばされてしまいそうになる。もっと強い風が吹いてきたら、どこかに吹き飛んでしまうことであろう。もっともっと強い風が吹いて、みんなどこかに吹き飛んでいってしまえばいい。風が強い。どうすることもできない。とても風が強い。

息苦しさしかない。とても息苦しい。強く息を吸って、酸素を少しでも多く肺に取り込もうと試みる。
そうしても、そのほとんどは肺を素通りして胃に落ちていってしまう。空気で満たされた胃が大きく膨らんで、腹の皮を突き破らんばかりに前に突き出てくる。
とても息苦しい。とても苦しい。どんなに息を大きく吸っても、ちっとも息苦しさは解消されない。
吸い込んだ空気で胃が膨れて、横隔膜が押し上げられていることで、下からも肺が圧迫され、さらに肺に新鮮な空気が取り込めなくなり、十分な酸素を体内に行き渡らせることができず、息苦しさだけが増してゆく。
吸っても吸っても吸っても吸っても楽にはならない。苦しくて、もっと強く大きく息を吸う。それでもただただ腹が膨れて苦しくなるばかり。苦しいのに、ちっとも息苦しさは解消されない。苦しいのに。

仰向けに横たわり、死にかけた金魚のように口を開けて、大きく息をしている。吸っても吸っても息苦しい。大きく膨れて突き出した腹を上にして、呻くような荒い息を繰り返す。このままでは窒息してしまう。酸素が足りない。ただただ苦しい。
まだ死にたくない。そう思う。しかし、これから何年も先まで生きてゆく自分の姿というのもなかなか想像することができない。苦しくて、苦しくて、この苦しみとともに何年も先まで生きてゆく自分の姿というのを想像したくはなくなる。
もう、もたないのではなかろうか。ちょっとずつ人間らしい生活に耐えられはなくなりつつあることを感じる。起き上がるのが辛い。動くのが辛い。もう今でさえそうなのだから、この先はもっともっと耐えられないものばかりになることは自明である。
どんどん動けなくなってゆく。苦しくて。少し動くだけで、後がひどいことになる。このまま、ここにずっと動かずにいても、よいのだろうか。そして、そのままどこまでも奥底に沈んでゆくのだろう。静かに。ひっそりと。何一つ物音も立てずに。静かに。ひっそりと。

なぜ、こんなにも急速に自分だけが弱ってゆくのだろう。ひとりだけどこまでも落ちてゆく。誰もが当たり前にできることが、とてもきつくて当たり前にできない。もはや普通に普通のことができない。立てない。歩けない。すぐに息苦しくなって、足にくる。とてもきついので、ゆっくり歩くようにする。すると、歩数が増えるせいか、さらに足に疲労がくる。どうして、みんなあんなに平然と顔色ひとつ変えることなくすたすたと歩いてゆけるのだろう。何の困難も感じることなく歩けるということは、何と幸せなことであろうか。

ここはとても住みづらい場所になりつつある。

地球上の大気には、どれくらいの酸素が含まれているのか。その酸素の量がどれくらいまで低下したとしても人類は地球上で普通に生存していられるのだろうか。詳しいことは、あまりよく知らない。それぐらいのことはインターネットで調べてみれば、すぐにわかることなのかもしれない。だが、基本的に数字に弱いというか数字嫌いなところがあるので、何パーセントだとか何割だとか、数字で示されても何となくピンとこなかったりする。問題は、どれくらいですごく息苦しくなって、どれくらいで生きていられなくなるか、それだけだ。それは、もっともっと身体機能的というか皮膚感覚的、いや呼吸器系的な感覚を第一とするようなものなのである。
たぶん、ほんの少し大気の状態が変質しただけでも、ここではもう生きてゆけなくなってしまうのだろう。そして、そのちょっとした変化というのは、何の前触れもなく突然に、もしかすると明日起きるかもしれない。地球温暖化の影響でシベリアの永久凍土が溶け始め、何千年も前から氷の中に閉じ込められていた大量の炭素が放出され、大気中の二酸化炭素やメタンの量を増大させる恐れがあるという。決定的な変化は突然訪れて、何となく呼吸しづらく、息苦しく、少し変だなと思っているうちに、バタバタと人が倒れてゆく。一瞬にしてここで生きてゆける人間はいなくなってしまう。人に何かを深く考える暇さえも与えずに。それが、地球の一部で起きるのか。全地球規模で一斉に起こるのか。まだ誰にもわからない。

(注)
「吸えば即死の「酸欠空気」が外環道工事現場から発生。事業者は住民に説明せず工事を強行」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d83acdbeecb489266caf1c98775f94e64aa826f5
このニュース記事内に「空気中の酸素濃度は約21%。例えば、これが6%以下なら人は即死する。」という記述があった。

アレルギー性の咳喘息の発作が断続的に続き、たびたび息苦しい思いをしていた時期に上記の文章をちょろちょろと書いていた。当初は自分でも何が原因で息苦しさや体調の不良を感じているのかがわからず、とにかく息詰まるような苦しさに耐えてじっとしているしかない時期であった。その後に何度か良くなったり悪くなったりの時期を繰り返して、ついに立ち上がって動くのがやっとというような大きな発作に見舞われ、ようやく医師の診察を受けた。そこで何とか原因が分かり、薬の処方も始まり、少しは落ち着いた。だが、あの息苦しさは忘れられない。どんなに息を吸い込んでも、全く息ができないので、何度もこのまま死ぬのではないかと思った。ただただ息苦しくて、思うように動けない状態が続くので、どうしても悲観的にもなる。やはり、その息苦しさというのはアレルギー反応によって呼吸器が正常に機能せず、息を吸っても吸っても体内に酸素を十分に取り込めず血中酸素濃度がガクッと落ちてしまっているところからきていたのだろう。血中の酸素濃度が大きく低下していると身体そのものを思うように動かせなくなり(あちこち痛み出す)、さらに肺で酸素を取り込むことができなくなっているので、発作的な息苦しさはどんどん増大する。おそらく新型ウィルスによる肺炎の息苦しさも、同様に息をしても思うように酸素を体内に取り込めず、血中酸素濃度が低下することからきているものなのであろう。肋骨がすべて骨折してしまうのではないかと思うほど胸の強い痛みをともなう咳が続き、胃の中の内容物まで吐き出してしまうほどに激しく咳き込み、息苦しさ(血中酸素濃度低下)から全身の調子が悪くなる(激しい腰痛に見舞われる)。自力で十分な酸素が取り込めなくなると、もはやあらゆる面において悪循環しか生じなくなるのだ。新型肺炎も人工呼吸器や人工肺を装着するほどに重症化すると、脳にも十分に血(酸素)がめぐらず、もはやほとんど意識はない状態となってしまうのだろう。喘息の発作でさえ息苦しい酸素欠乏から少し気が遠くなり、このまま死んでしまってあの世に行くことになるのではないかと思ったりするぐらいだから、しっかり酸素を体内に取り込めないことの怖さは身をもって理解できる。今年の一月の初旬にも、激しく咳き込む日が続き、発作的な息苦しさにたびたび見舞われていた。日本で最初の新型ウィルスの感染者が見つかる少し前のことである。だが、その月の上旬にはもう、病院で診察を受け、喘息の吸入薬を少し強いものに変えていたので、症状としては落ち着いていた。しかし、あの発作的な息苦しさや激しい咳がもう少し遅い時期に出ていたら、もしかすると自分は新型ウィルスに早速感染してしまっているのではないかと思って、意味もなく右往左往してしまっていたかもしれない。

春らしい暖かい日が続いたと思ったらいきなり大雪。地表の凹凸をすべて削りとるような猛烈さでびゅうびゅう吹き抜けてゆく風。あちらこちらで頻発する竜巻。冬は毎年暖かく、いつまで経っても真冬にならない。都市部では桜が毎年のように例年より記録的に早く開花する。春の終わりにはもうすでに真夏のように暑くなり、梅雨時には生温かい雨が激しく降り注ぎ、かと思うと猛暑日や酷暑日がだらだらと続く。秋には百年に一度というレヴェルの超大型台風が毎年のように列島に豪雨被害をもたらす。そして、いつまで経っても冬らしい冬がおとずれず、そうしているうちにもう春がきて夏になる。

太平洋の海水温の上昇が様々な問題を引き起こしている。だが、その前に様々な問題が原因となって太平洋の海水温が上昇しているのである。しかし、そこにある様々な問題のほとんどは人間の底なしの貪欲さによって発生したものであるに違いない。その人間の底なしの貪欲さが太平洋の海水温を上昇させて様々な二次的・三次的な深刻な問題を引き起こし、この地球上での人間の日常的な生活や生存を脅やかす事態となっている。まるでその貪欲さを海や空や大地がたしなめるかのようでもある。
人間が文明を滅ぼす。人間が人類を滅亡させる。人間が文明を作り上げて、文明は人間にとって住みやすい環境を作り上げ幸福に生きるために更新されてきた。家を造り、町を作り、都市を造り、食べるもの、飲むもの、着るもの、読むもの、見るもの、遊ぶもの、楽しむもの、娯楽のためのもの、必要ないもの、ありとあらゆる物を流通させ、ありとあらゆるものを動かし、交換し、移動させ、大量のエネルギーを作り出し、大量のエネルギーを必要とする住みやすく暮らしやすい環境の中で、それらを大量に消費した。人間の文明とは、それそのものも莫大なエネルギーからなり、莫大なエネルギーに満ちている。生きるためのエネルギー、より向上しようとするエネルギー、もっと住みやすい環境を求めるエネルギー、もっと暮らしやすい環境を求めるエネルギー、もっと便利で快適な暮らしを求めるエネルギー、欲望を欲望するエネルギー。エネルギーがエネルギーを生み、過剰に滞留してしまうエネルギーを大量に消費するために、もっともっと大量のエネルギーを使うために過剰なまでに大量のエネルギーを使って、その浪費による減少分を過剰な浪費のためのエネルギーで補い続ける。どこまでも貪欲に。
文明を高く高く堆く築き上げつつ、あるとき人間は少し立ち止まって考えた。自分たちはここで何をしているのかと。人間にとって住みやすい環境を作ることは、地球の環境に対して過度な負担をかけることに向かい始めてはいないだろうか。産業革命が起こり、機械化に拍車がかかり、長い年月をかけてゆっくりと進展してきた文明は、技術の進歩とともに加速して自然の領域を侵食してゆくようになった。
目覚しく高度なものになってゆく技術によって、いつかバランスの不均衡が食い止められると信じられていた。しかし、その環境へとのしかかる負担は重くなり続けていて、そのスピードに人間すらもが追いつけてはいない。そして、さらに引き離され続けている。暴走が起きても、もはや人間にそれを押しとどめる術はない。技術は人類に決して華々しくはない終末を用意してくれた。それを知っていても、見て見ぬふりをして人間たちは日常の些事に没頭し住みやすい環境や暮らしやすい空間を追求し続けている。人間は、最後の最後まで何とかなるだろうと思い込み続ける。最悪の事態が起きてしまってから、ようやく気づく。笑い話のようだが、それが人間というものだ。
今、最悪の事態が、徐々に地球上の様々な場所で起こりつつある。集中豪雨、雷雨、竜巻、洪水、崩落、決壊、浸水、火山噴火、大地震、大雪、寒波、干魃、酷暑、山火事、巨大台風、爆弾低気圧、温暖化。まだ何かしらの異常な兆候に気づいていない人なんているのだろうか。ただし、気づいていたとしても、気候や気象のことなんて放っておけばいずれ何とかなるだろうという思い込みがあって、多くの人々をそれまでと同じように眠らせたままにしてしまう。気候は周期的なものであり、巡り巡るものである。去年と今年が違って当たり前。もしも、悪くなる一方であったとしても、たまたまそういう巡り合わせだったのだと見て見ぬ振りをしてしまう。
何かが起こる。ずっと危惧されていた惨事が、ずっと言われていた通りに起こる。大量の人間が死ぬ。繁栄していた都市が、住みやすい環境が、崩壊する。何か最悪なことが起きた後では遅い。あの日の地震や津波の被害を遥かに越える被害が出る。歴史的な災害となる。
首都圏で記録的な大雪が三日続いただけで、数千人いや数万人の人が被災者となる。あるものは住む場所がなくなり、あるものは食べるものも飲むものもなくなり、被災した多くの人々が避難所に詰めかける。それほどの記録的な大雪は、毎年は降らないだろう。だが、それはこれまでの常識でしかない。常識では考えられないことがいくらでも起こる。それが現在の世界だ。このまま海水温が下がらないと、さらに気候変動による異常気象は悪化してゆくだろう。多くの人々は、それがわかっている。それでも何も改善されない。かつては大量破壊兵器などの戦争機械が地球上にある脅威であった。今ではコントロールを失った自然そのものが人類の地球上での生存にとっての最終兵器となっている。

地球の裏側の一本の木の緑の葉っぱの裏側を這っている一匹の芋虫。その虫の姿だけを想像するのではなく、自分と虫の間にあるもの全てで世界であることを実感すること。その間にあるものの全てによって全ては成り立ち、あらゆるものは関係し関連していること。それを知ること。それを認識すること。
自分と虫との間にある世界の全てを知ることはできない。それでも、世界の全ては今ここにいるわたしたちの全てに関係している。
世界の全てがそこにそのようにあることによって、わたしたちにとっての全てはここにこのようにある。
わたしが存在しなければ、この世界は今ここにあるようには存在しないだろう。
全て何一つとして欠けてはならない、わたしにとっては。ここにある全てに意味がある。
しかし、それは、この世界においてだけのことであり、別の世界のことはわからない。何一つとしてわからないというわけではないが、全てのものの意味をこちらの世界とそちらの世界で全く同じように共有できるとは思えない。
そもそも、わたしは世界をほかの人とは違うように見ていると思っている。その見方や視点の特異さやユニークさこそがわたしだと考えている。何もかもがほかの人とぴったり一致してしまうのであれば、ここにわたしがいる必要は全くなくなってしまう。これまでもこれからもわたしのような人間は一人として存在しないからこそ、ここにわたしが今こうしている意味がある。

大気に多くの汚染物質が含まれるようになってくると、人間の鼻の穴の毛は、より太く長いものになってゆくだろう。より高度なフォルター機能を発揮するために。そのように人間の身体には周囲の環境に順応する能力がある。そして、かなり汚染された大気の中でも、平気で生きてゆけるようになるくらいに身体が強くなってゆくのかもしれない。生活環境がゆっくりと(劣悪なものに)変化していったとしても、人間はその中で世代を何代も重ねつつ個体の機能を進化させて、生き延びてゆく道を模索しながらその時々の地球に適応してゆくはずだ。
百年に一度というレヴェルの異常気象、急激な環境の変化、細菌やウィルスによってもたらされる病気・疫病の流行。激動ともいえるような変化についてゆけない場面に次々と直面するとき、人間は種として急速に弱ってゆくかもしれない。生存の本能が衰えることで、個体数は低下する。あまりにも急激で甚大な環境の悪化は、あっけなく人類を滅亡させてしまうことだってありうるだろう。

人類滅亡のシナリオのヴァリエーションは、もうすでに無数に用意されていることだろう。新型のウィルスは、人間の地球上での活動を大きく制限させ、その個体の数を激減させるに足るだけの効果をもつことが明らかになった。自然界が人類に対して牙を剥くとしたら、この方法が最も手っ取り早い手段となるのではなかろうか。人間の身体の機能を利用して、その機能そのものを内側から自家崩壊させる。ウィルスにとってみれば、ちょっとしたポトラッチ的な祭りが同時多発的に全地球規模で開催されているようなものでしかないのではなかろうか。ただし、人類がウィルスのせいで滅亡してしまえば、そうした大きな規模での祭り(フェス)が開催されなくなってしまうのが、当のウィルスにとっては難点といえば難点であろうか。いずれにしても、そうした滅亡の時期が21世紀末から22世紀初頭にかけてであったとしても、全くおかしくはない。未知なる強力なウィルスを前にしては、人間の身体などというものは非常に弱く脆く、ほとんどなす術もなく滅してゆくしかないのだから。

もうすぐ、この惑星は、人間が住めるような場所ではなくなってしまうことを、人類の大半はもう薄々感じ取っているのではなかろうか。この広大な宇宙に、人間のように面倒臭い生き物が生息し繁栄することが可能な環境があったこと自体が、とんでもなく奇跡的なことであったのかもしれない。そして、地球は、そのほんの一時の様々な生物が寄生し繁殖していた状態を脱して、宇宙にどこにでもあるありふれた星のひとつへと移行してゆく。非連続性から連続性へ。それはまさに地球の死である(今の状態を生きていると見れば)。だが、もうすでに宇宙の大部分は死んでしまっているのだから、それもまた定められていた運命なのだと悟るしかない。人の住みえた地球を人の住みえぬ地球にしてしまえるのも、あるいはその逆も、それは人というものの能力次第でしかない。人の住みえた地球のみしか人の住みえぬ地球にはなれない、のだから。

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