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ラーメンにまつわるいくつかのこと

【志村けん追悼】

チャルメラの音を聞きつつ雨やどり。たぶん小学五年生ぐらいの頃だったと思う。国語の授業で詠んだ句である。五七五で文章を作ってみるという課題だったのだろうか。あまりよく覚えてはいない。目標は俳句を作るということだったのだろうか。だがしかし、この句にはどうも季語というものがないようだ。つまり俳句もどきである。小学生なのであまり厳密には考えていなかったのであろう。
たぶん雨やどりが夏の季語だと勘違いをしていた可能性は高い。それで、このような俳句もどきを詠んでしまったのであろう。きっと国語の授業だからありきたりな五七五作文ではなく俳句を作るはずだったのだと思う。だから、それっぽい言葉をあえて使っている。子供ながらに。もしかすると、さだまさしのヒット曲「雨やどり」(77年)に影響された部分も少なからずあったのかもしれない。歌になるくらいだから雨やどりという言葉は詩的な感じがすると思い込んでいて、それで俳句作りの際に使ってみたのではなかろうか(「雨やどり」は小学校の低学年の頃に流行した歌であった)。小学五年生ぐらいの少年がすることだから、まあそんなところだろう。
短冊型の用紙に清書して、色とりどりの台紙に貼り付けた、クラス全員分の五七五作文が、廊下に面した教室の外の掲示板にしばらく張り出されていた。当時、廊下で自分の句が目に入るたびに、なかなか風情のあるいい作品だなあと思っていたりした。だがしかし、今なって見返してみると、この十七字だけでは、何が何やらさっぱり分からない。後から十七字に付け足して背景や状況の説明が必要なようでは、あまりよい句だとはいえないだろう。いや、はっきりいって、この句はあまりよくない。
チャルメラとは、ラッパ状の笛のこと。牛の角に似た形状が真っ先に思い浮かぶのだが、古代から西アジアに存在した木管楽器が、そのルーツにあたる。チャルメラで演奏される(吹かれる)定形のメロディもまた、チャルメラと呼ばれている。「ソラシーラソ、ソラシラソラー」が、そのチャルメラのメロディの音階である。ソとラとシの三音だけで構成されるフレーズは、その単純さゆえに一度聴いたら忘れられないような強い印象を残す。そして、いつしか前半の「ソラシーラソ」の部分が、「チャルメ~ラ」と歌っているように聴こえるようになってくる。それぞれのチャルメラ奏者は、フレーズの所々でこぶしを回したり、長音を取り入れたりタメを作ったりして、思い思いに存分に個性をアピールしてみせる。だが、どんなに強いクセがあってもチャルメラはチャルメラであった。チャルメラがチャルメラと歌っているように聴こえた。そのちょっと甲高く耳に響くような音色は、どこか人間的なあたたかみがあり、何ともいえない哀感を漂わせてもいた。
屋台のラーメン店が夜の街で客寄せのために吹いていた楽器がチャルメラであった。そのチャルメラのちょっと物悲しくも侘しい音色から、屋台のラーメン店のことを夜泣きラーメンともいった。リアカーを改造した簡易的にラーメンの調理が出来るようになっている小型店舗型屋台を引いて歩く、屋台の主人がそれを吹いていたのである。小学校の高学年になったころ、何を思ったか近所に新しく出来た英語の学習塾に通うようになった。中学生になったら始まる英語の授業への準備ということもあったが、なんとなく未知のものである英語というものに興味があり、親と相談してその週一回の塾に通うようになった。わたしにとっては、それが最初で最後の学習塾であった。それまでは特に習い事もしていなかったし、何かのスポーツのティームに所属することもなかった。あまり団体行動が好きではなかったこともある。ひとりでちまちま何かしている方が、気が楽でよかった。そんなのはほぼ遊んでいるのと一緒で何の学習にもならず、ただ無駄に時間を過ごしていただけだったのであろうが。子供の頃に何かやったといったら、その英語の塾とボーイスカウトぐらいであった(少しは集団行動ができるようにと入団させられたのであろうが、やはり性格的なものもあったのだろう、ほとんど苦手は克服できないままであった)。
家から数百メートルほどの距離にあった英語の塾からの帰り道は、まだ夜の八時か九時頃の時刻であったものの、街灯がポツポツと灯るだけの暗い住宅街の夜道であった。そこを近所の同級生と、なぜかいつも小走りで戻ってきていた。小学生の子供が夜遅くに外出して道を歩いているのは、よくないことだとでも思っていたのであろうか。よく知った道でも、人気のない暗い夜の時間帯には、どこか不気味に感じられる部分があって、当時の小学生の間で都市伝説化していた口裂け女なども本気で怖がっていたため、知らず知らずのうちに急ぎ足で家に帰るようになっていたのかもしれない。口裂け女が架空の作り話であることは分かっていた。それでも、何か怖い存在が身近な薄暗いところにもいつも潜んでいるような感じはしていた。何かよくわからないけれど子供が悪さをすると罰をあてにやってくるような不思議な怖い存在が。
実際、家の近くのどぶ川の脇の道を、毎日のようにピンクの服を着てフラフラ歩いている女性がいたことを覚えている。婚約していたらしいのだが結婚間近になって相手の男性に逃げられてしまい、精神的に不安定な状態になってしまったのだと、近所の大人たちが話しているのを聞いたことがあった。だからその人は怖い存在というよりも、とてもかわいそうな人という感じで周囲の人はそっと見守っていたように記憶している。しかしながら、夜の薄暗い川沿いの道でピンクの服を着てぼんやり歩いている女性とばったり出くわしたら、かなり怖かったであろう(たぶん彼女の年齢はまだ二十代後半ぐらいの若さだったと思う。だが、白粉や口紅などの化粧品を顔にいっぱい塗っていたので、ちょっと年齢不詳な不気味な佇まいにはなってしまっていた)。ただし、あの女の人が歩いていたのは、いつも昼間から夕方のまだ明るい時間帯だったので、塾の帰りに遭遇したことは一度もなかった。
夜道を塾から帰ってくる時刻、ちょうどいつも近くにラーメンの屋台がきていることが多かった。何度か住宅街の道をゆっくり横切ってゆく屋台らしきものを見かけたことがある。夜食用というか夕飯用にラーメンを売り歩いていたのだろうか。塾からの帰りに住宅街の道をバタバタと走っていると、あのチャルメラの音がどこからか聞こえてきた。そして、暗い住宅街の夜道とチャルメラのメロディは、いつしか自分の中でセットのようになっていた。(『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)において著者の速水健朗は「昭和四〇年代末に生まれ、屋台のチャルメラの記憶を有さない筆者の世代」と書いている。このあたりの感覚は少しの年齢の違いや当時の居住地域などの違いによって、かなりチャルメラ体験に差があるようにも思われる。ただし、あの昭和50年代に郊外の住宅街で聞けた天然モノのチャルメラの音というのは、かなり貴重で珍しいものであったことだけは間違いないのかもしれない。)
土曜日の夜にTBSテレビで放送されていたザ・ドリフターズの人気番組「8時だョ!全員集合」は、たびたび近くの川越市民会館から全国に生中継されていた。市民会館は、道を一本隔てて通っている小学校のすぐ目の前にあった。「8時だョ!全員集合」の放送がある日は、市民会館の前の駐車場には何台もの機材や舞台セットを運んできたトラックが停車していて、午前中から多くのスタッフが忙しそうに動き回っていた。すると、そのスタッフの中にもしかするとドリフのメンバーがいるのではないかと思って何かを期待してしまう小学生たちは、土曜日の午前中の授業の合間の休み時間になるたびに、校庭の前面の道を隔てて向かいの位置にある市民会館がよく見える場所にがんがん集まってしまっていた。そうこうしているうちに、その騒然とした小学校の校庭の状況を横目に、会館の脇の機材を積んだトラックの陰あたりでキャッチボールを始める二人の男が現れる。そのうちのひとりがパーマのかかった長髪で、どうも志村けんらしいという憶測が瞬く間に広まり、小学校の校庭の隅に集まって金網のフェンスにへばりついている子供たちから大きな歓声があがる。「シムラー!シムラー!」。完全に呼び捨てである。しかし、校庭と道とを隔てるフェンスに顔を押し付けるように向こう側の様子を見ていた子供たちも、それ以上に近づいてそれが誰なのかを実際に確認することができず、それが本当に志村けんであったのかは結局のところ誰にもわからずじまいであった。
志村けんがラーメン屋を営む高齢のお婆さんに扮してドタバタ劇を繰り広げるコントをご存知だろうか。変なおじさんやバカ殿などと並んで十八番のネタのひとつである。そのコントに登場するのが人気キャラクターのひとみばあさんである。このラーメン屋のお婆さんにはモデルがいるとずっと言われていた。志村けんのルーツを調べたNHKの番組「ファミリー・ヒストリー」では、ドリフターズの付き人であり六人目のメンバーとしても知られていたすわしんじがそのことについて語っていた。志村けんが秀でていた人間というものがもつ愛すべきおもしろい面を見つける天性の観察眼を紹介するという形で。そして、そのキャラクターのモデルとなったお婆さんがいたのが、当時よく「8時だョ!全員集合」で訪れていた川越の(市民会館の近くの)ラーメン屋であったというのである。腰がもうくの字以上に曲がってしまっていて、店のテーブルの高さより頭が下にあるようなお婆さんが、その店にはいたらしい。そして、厨房に立っているお婆さんの息子らしき男性と常に口やかましく言い合って喧嘩ばかりしている。ラーメンを運んでくるときには、腰が曲がっていて手元がよく見えないからか、いつも親指がドンブリの中に入ってしまっている。それでも、その店のラーメンが格別に美味かったからか、志村やすわなどのドリフの面々は、川越に来るたびにそのお婆さんのいるラーメン店に足を運んでいたようである。噂では、市民会館の近くにあった 「かどや」というラーメン屋が、その店だという。店の名前からすると、いくつかの道路が交わる辻にあったラーメン屋だったのだろう。かどやという名前、聞いたことがあるような気もすればないような気もする。
そのラーメン屋がどこにあったのか、今となっては皆目見当もつかない。それらしき店は、今ではもうどこにも見当たらないから。遠い記憶の中に何となくそれらしきものはあったような気もするのだが、それもまたほとんど定かではない。ひと昔かふた昔前、まだ小学生ぐらいだった頃、市民会館の周辺にはちらほらと飲食店や飲み屋があったし、古くからの八百屋や魚屋や駄菓子屋などの小規模な店舗がいくつか営業していたように思う。近くにスーパーマーケット(生協やマルエツ)ができて、それもだんだんとなくなっていってしまった。市民会館のすぐ脇の第一小学校の近辺(市立図書館付近)には、かつての名残りが少しだけ見受けられる場所がある。以前は何か商売をしていたと思われる造りの家がいくつかあるが、今はひっそりとしていてかつてのような賑やかさは全くない。ほぼ、何の変哲もない通り沿いの住宅街でしかなくなっている。小学生ぐらいの頃の街のことで、今も強く印象に残っているのが、現在も粘り強く営業を続けている老舗の映画館、スカラ座の斜め向かいにあった大衆居酒屋の「いっちゃん」である(スカラ座の近くには名物あんバタでその名を轟かせた岩田屋もあった)。この店は俳優で宮下町出身の市村正親の御母堂が営んでいた飲み屋であった。小学生の頃は、まだ空が明るいうちから飲んだくれて酔っ払っているだらしのない大人たちが大きな声で話す声が店の外までよく聞こえてきていて、あまりあの店の印象はよくなかった。だが、今となってはあの店のあの感じこそが古くからの市街地の盛り場の雰囲気を伝える(最後の残り火のような)ものであったのではないかとも思えるのである。
毎日、家から三十分近くかけて歩いて通っていた小学校の周辺には市役所や市民会館や市民体育館などがあり、江戸時代にはそれらがあった場所は全て河越城(川越城)の内部であった。一帯は城趾の地区であり、武家屋敷などが構えられていた場所もあった(いっちゃんがあった元町一丁目は、城の大手門のすぐ外側にあたる)。時代が明治になって廃藩置県、秩禄処分や廃刀令などの新政府の近代化政策が進められ、封建的な権力層であった武士の階級が崩壊し消滅すると、かつての城内の大部分や武家屋敷であった地帯は市民が使用できる土地として解放され、そして新たに開発されてゆくこととなった。やがて新興の市街地が大手門の内側、元町一丁目の東側や南東側にもじわじわと広がり、そこに生活用品や食品などを扱う店舗や飲食店などが次々と開店していったのだろう。蔵造りの街並のある街道沿いの古い市街地の東側の辺りが、それにあたる。寺社の門前や街道沿いに発展した古くからの商売の中心地(城下町)と、新たに開発された商業地城と住宅地(郭町という町名に代表される、かつては城内であった地域)は、しだいに区別なくひとつの街に混ざり合ってゆくことになる。
1906年(明治39年)、県内では初となる電車の路線がこの市街地を走ることになる。川越電気鉄道である。これは市内に火力発電所を建設した川越電灯が興した鉄道会社であった。市街地と荒川を隔てた大宮までを結ぶ全長約13キロという短い路線であったが、当時としては県内の政治と経済の中心地でありふたつの大きな繁華街・遊興地を結ぶ貴重な新交通機関であったのではなかろうか。そして、この鉄道の起点となっていた駅が、川越久保町であった。その名に反して、現在の区割りでいうと久保町ではなく三久保町にあった駅であり、位置的には喜多院と成田山別院の北側のすぐ目と鼻の先、浮島稲荷神社のある浮島公園の西側、今は中央公民館や東京電力があるあたりの道路の形状が、始発と終着の駅である川越久保町駅を起点にぐるりと四角いループ状に線路が敷かれていた名残りを留めている。駅ができると、そこに鉄道を利用する人が行き交う交通の流れができ、周辺には商店や飲食店、お茶屋、飲み屋などが軒を並べるようになっていったと思われる。川越久保町駅があった場所と市民会館は約二百メートルほどの距離であり、徒歩でふらりとなだらかな坂を下って行っても市民会館からは数分で行ける。もしかすると、志村がコントのキャラのモデルにしたお婆さんのラーメン店も、元々は昭和初期ぐらいまでに久保町の駅前近辺にできたものではなかったのだろうか。川越電気鉄道は、武蔵鉄道や西武鉄道との吸収合併などによる改名を繰り返しながら06年の営業開始から41年(昭和16年)に廃線となるまで走り続けていた。40年(昭和15年)に現在の(JR)川越線が開通し、その役目を終えた形となる。昭和の初めの若い頃には店の看板娘であった中華そば店の女性が、ドリフターズが「8時だョ!全員集合」で人気を博していた昭和の40年代から50年代頃には腰の曲がったおばあさんになっていたということもありえない話ではないだろう。もうその頃には川越電気鉄道の廃線から四十年近くが経ち、久保町のあたりは、かつてほどの賑わいからは遠く隔たっていただろう。市内の繁華街は、旧市街地の南側に新たに開発された(皮肉にも)西武鉄道の本川越駅や川越線と東武鉄道が交わる川越駅近辺に急速に移って行ってしまっていた。
市街からは少し離れた新興の住宅街にチャルメラが出現していた頃、かつてあった老舗のかどやのような店も、もともとの店舗と出前だけでやってゆく業態では行き詰まりはじめ、それに加えて屋台での営業なども並行して行なうようになっていたのかもしれない。もはやそうでもしないと、以前のような売上を維持できなくなってしまっていただろう。それで、店舗だけで賄えないのであれば、ラーメン屋の側から消費者が多く居住する場所まで近づいてゆく戦法がとられた。あの頃(昭和50年代以降)こそが、家族で経営するような街のこじんまりとしたラーメン屋が次々と消えていった時期のとば口であったように今となっては思えて仕方がないのである。
中学生ぐらいになると、放課後に自転車に乗って駅の近くの商店街まで遊びにゆくようになる。大きな百貨店の丸広の前には、ミスタードーナツや蕎麦屋やフルーツパーラーなどのファストフード店や軽食の店が、休憩用のベンチを取り囲むように狭いスペースにずらっとコの字型に立ち並んでいた(マクドナルドは丸広百貨店の一階の入り口脇にあり、商店街の街路を挟んでその向かい側にはミスタードーナツがあった)。そして、それらの店の裏手は丸広の駐車場になっていて、マイカーをその駐車場に停めた買い物客は、いやでもその飲食店スペースを通らなくてはならないというシステムとなっていた。百貨店で買い物をして小腹が空いた家族連れが、帰り際に手軽に立ち寄れる飲食店に吸い込まれてゆくという仕組みである。そして、その丸広の目の前の店舗群の中に、ラーメンチェーン店のスガキヤがいつの間にか進出していた。中学生にとっては、スガキヤのラーメンは安くてとても魅力的だった。たしか一杯190円だったと思う。マイルドな白濁したスープが特徴で、いつも腹を空かせている中学生であればペロリと食べられてしまうサイズであった。これにコショウをドバドバ投入して食べるのが、ぼくらの間では定番の楽しみ方となっていた。中学校の近くの初雁公園の入り口にある小峯商店は、太麺の焼きそばが食べられる駄菓子店であった(現在ではB級グルメの太麺焼きそばで知られている老舗だが、当時は夏場に市民プール帰りの子供や隣の初雁球場で行われる高校野球の県予選を見に来た客が寄ってゆくためだけにあるような狭っ苦しい店内に小さなカウンターと古いテーブルが一つあるだけの何の変哲もない店であった)。その小峯商店にはよく土曜日の昼に学校から歩いて焼きそばを食べに行った。これにもテーブルの上にあるウスターソースをドバドバとかけて、濃い茶色のソースの海に焼きそばが浸っているような感じにして食べるのがわたしたちの作法であった。太麺の焼きそばにソースが絡んで、茶色というよりも黒っぽくなっている見た目は、雨の日に地表に出てきて濡れた泥にまみれて真っ黒になっているミミズを思わせた。よって、中学生の間では小峯商店の焼きそばはミミズ焼きそばと呼ばれていた(いや、たぶんかなり多くの人々にそう呼ばれていたのではないかと思う。ウスターソースまみれにするまでもなく、まさにミミズぐらいの太さの焼きそばであったから)。ちなみに、小学生の頃には、週末に家族で近所のどさん子ラーメンをよく食べに行った。どさん子の味を知ったせいで、いまだにラーメンといったら味噌ラーメンという舌になってしまっている。星野女子高校の近くの幹線道路沿いに、どさん子ラーメンはあった。市街地からは少しだけ外れた場所にあったが、いつも週末は道路が渋滞している駅近辺の飲食店よりも郊外の住宅街に住む家族にとっては気軽に食べに行きやすい店であった。
郊外の街にもファミリー・レストラン(すかいらーく、サイゼリアなど)やラーメン屋のチェーン店が次々と進出し、昔ながらの中華そば/支那そばを提供していたかどやのような店にとっては、とてつもなく大きな脅威となっていたことであろう。それに市街地の移動はとどまることなく進んでいて、子供たちが多く集まるような賑やかな地域は鉄道の駅周辺の商店街付近に限られてきていた(川越駅から南北に伸びる歩行者優先の商店街、新富町通り(サンロード、現クレアモール)は、埼玉の竹下通りといわれるほどの賑わいをみせるようになっていた(臆面もなく埼玉の竹下通りといってしまう感覚が猛烈に田舎臭いし、明らかにダサい。だが、その匂い立つような芋臭さこそが新富町通りの魅力でもあった))。かつて丸広百貨店(仲町交差点付近)があった一番街は、完全に時代から取り残された一昔前の商売を続ける歴史ある街並みというイメージが定着し、新しく開発された商業地の対極にあるものへと沈下してしまっていた。そんな蔵造りの商店が立ち並ぶ旧市街地が、にわかに観光地化して復活を果たしたのは、少なく見積もってもここ10年ぐらいのことである。90年代から00年代にかけての時期には、まだあまりパッとしてはいなかった。89年(平成元年)の大河ドラマ『春日局』の主人公である春日局のゆかりの地(喜多院に江戸城内で春日局が使用していた書院が移設されている)として、一時期ちょっとしたフィーヴァーは起きた。だが、その後しばらくするといつしかそれも沈静化してしまっていた。現在の賑わいにつながる何度目かのブレイクのきっかけとなったのは、朝ドラ『つばさ』(09年)やアニメ『神様はじめました』(12年)といった物語の舞台となったことで注目を集めたからなのではなかろうか。その後、ロケ地や聖地を訪れる人々が増えてきて、街ブラする人々でいっぱいになった。スカラ座の斜め前のいっちゃんが営業していたのは、いつ頃までであっただろう。いつも店内から賑やかな人々の喋り声が聞こえてくる、典型的な労働者と飲んだくれのための赤ちょうちんであった。もしも、誰かが店を守り続けて今もしぶとく営業を続けていたならば、かなりの数の観光客が足を向ける超人気店になっていたと思われる。だが、ちょっと間に合わなかったようだ。
現在、人気ラーメン店が集中する地域のことを、人はラーメン激戦区と呼ぶ。その地域では、ひしめき合う名店が一杯のラーメンの出来栄えでしのぎを削り合い、局地的に集中する店と店の相乗効果で地域全体が熱い盛り上がるを見せるようになる。そして、いつしかラーメン屋というと、激戦区に出店するような麺やスープや具材にこだわる、ラーメンのマニアたちに支持される有名店だけが大きな脚光を浴びるという流れが出来上がってしまっていた。そうなってくると、昔ながらの支那そば屋や中華そば屋が、激戦区化していない郊外の街からもひっそりと消えてなくなっていってしまうようになる。話題のラーメンを食べるということが、普通にラーメンを食べるという行為の実践とイコールになってしまったかのようだ。そうなると、名もないラーメン店で食べることにはほとんど何の意味も見出せなくなってしまう。天才的な名人の技と味で鳴らすラーメン職人と市井の昔ながらのラーメン職人との間には、いつの間にかもはや埋めることのできない(見えない)階級の格差が形成されてしまったのではないか。厳つくラーメン道を追求するこだわりの麺屋ではない、ただの日本人向けの中華料理の一品としてのラーメンを出す店。身構えて出かける外食という感覚ではなく、家で食事をするテーブルの延長線上にあるような店。その何気なさゆえに昔ながらの支那そば屋や中華そば屋といった食べ物屋は、どこまでもふんわりとごくごく日常的なものであるはずのものであった外の店で食べる(外食)という行為の蚊帳の外にいつしか追いやられてしまったのかもしれない。
あの日、塾からの帰り道で聞いたチェルメラの音というのは、あのひとみばあさんの小さなラーメン屋が消え行ってしまう寸前の最後の灯火から発せられていたようなものであったのではなかろうか。そう思うと、あの小学生の頃の俳句(もどき)にも、何ともいえない深みが、多少こじつけでありながらも生まれでてくるようでもある。昭和の終わり頃、金属的でありながらどこか人間臭く頼りなさげに響き渡っていたチャルメラの音は、その温かみの奥に何ともいえない寂しさや侘しさをにじませて、静まり返った夜の住宅街の虚空に断末魔のいななきを投げかけていたのである。チャルメラのおとぞとほくになりにけり。

(2018年の夏から秋頃にかけて書いたもの)

追記

はたして、ドリフの志村けんはいっちゃんに行ったことがあっただろうか。市民会館での生放送が終了した後、出演者や裏方のスタッフたちと打ち上げを兼ねて近場の飲み屋に食事に出かけるようなこともあったのかもしれない。会場から歩いて数分で着くような場所にいっちゃんはあった。当時、土曜日の夜ともなれば、狭い店内にすし詰め状態になってとても賑やかに営業がなされていたはずである。
志村けんと市村正親は、年齢的には一歳違いであり、市村の方が学年ではひとつ上になる。74年(昭和49年)に志村はドリフターズの正式メンバーとなり、市村は劇団四季に正式に入団している。二十代前半の下積み時代を経て、舞台での活躍をスタートさせたのもふたりは同時期であった。
しかし、かたや正統派の俳優・演劇人であり、かたやコミックバンドあがりのスラップスティック・コメディアンということで、活動のフィールドは全く異なるものであった。ともに衆生にエンターテインメントを提供する舞台人ではあったものの。
志村が全員集合で子供たちの大爆笑の渦の中にいたころ、押しも押されぬ劇団四季の看板役者として市村も観客からの盛大な拍手を浴びていた。きっと、全員集合のスタッフや生放送を見学にきた芸能関係者の中には、川越のいっちゃんが市村の母親がやっている店であると知っているものもいたであろう。だが、それと知っていて、わざわざコメディアンの志村は店に行ったであろうか。同じ舞台人としてスター俳優を育んだ店いっちゃんで楽しく飲むことができたのだろうか。
当時まだわたしは子供だったので、残念ながらいっちゃんの店内に足を踏み入れたことは一度もなかった。小学校からの帰り道やスカラ座に映画を観にいった際に、あの小さな店の前はよく通った。カウンター席の後ろの壁のあたりには、市村とゆかりのある劇団関係者のサイン色紙などがずらりと飾られていたりしたのだろうか。その中にひょっこり志村けんのサイン色紙が紛れ込んでいたとしても別になにもおかしくはないようにも感じられる。
ざっくばらんないっちゃんの店の雰囲気を、おそらく志村も大いに気に入ったであろうことは容易に想像はつく。郊外の田舎の街のガタピシいってそうな居酒屋は、きっと志村の地元の東村山あたりにもあり、少年時代からそういった店の存在や雰囲気や匂いには身近に親しんでいたであろうから。

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