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マルクス・ガブリエルと普遍の問題(メモ)

「ガブリエルの「実在」とか「本質」とかに対する考え方が、ちょっと素朴すぎる」
「私は今の新実在論の考え方には危ういところもあるなとも思うのです。自由の普遍性をどう社会的に担保していくのか。信念対立が起きた場合に、それをいかに調整して普遍性に向かっていくのか。そういう点がマルクス・ガブリエルとか現代実在論を読むと物足りない」

おそらく新実在論の立場からいうと、いわゆる普遍なるものはどこにも存在しないのではなかろうか。よってそこでは普遍性というものもなく、社会的に担保される自由の普遍性というものも実在する何かとしては考えられない。いや、普遍性というものはそれぞれの意味の場においてはそれはもういくらでもある。しかし、普遍的な普遍性というものはない。あるのは無限の普遍のみだ。
多くの意味の場において閃かれる普遍なるものが重なり合うとき、動的平衡のような力(イメージの力)がはたらいてそこに間主観的な普遍らしきものが生まれ出る。それが今ここにあるとされている、現実の社会において普遍や普遍性と呼び習わされているもののあらましである。そのような無限の普遍の束が、ひとつにまとまる全体性を錯誤して確信されるとき、そこに属さぬものを反普遍性を帯びたものとして排除してしまう(悪しき)動きが生ずる。本来は存在しないはずの普遍(らしきもの)が差別を生み、差別主義の切先となる。逆に裏返していえば、そこに普遍はないからこそ普遍らしきものや普遍性らしきものによって誤った真正性や正当性が(意地になって)迸らされ、そこに根拠なき排他性が作動してしまうのである。
社会の成員の大多数からなる無限の普遍の束の集合は、道徳や善悪の秩序を担保するものともなる。だが、そこでいう道徳や秩序は普遍のものではない。それは普遍らしきもので、「いつ、どこで、誰が考えても納得できる」ものでは全くないからだ。一としてのまとまりをもつ普遍というものはない。普遍なるものの全体は存在しないから。そのバラバラになった意味の場が折り重なる無限の普遍の束の集合も、本当の意味での道徳や秩序は生じさせはしない。道徳の全体も秩序の全体も、実は存在しないから。

「しかしガブリエルはそのこと[ポストモダン思想]をいわばすっ飛ばした」

複雑で難解なポストモダン思想/現代思想は、確固たる答えの出ない問題を根底や根本から考え直して近代(モダン)の理念や理性を否定したり脱構築したりすることに血道をあげてきた。だが、いつまでもそれを続けていては埒があかないから、そういった部分をすっ飛ばしてしまいたくなる気分はとてもよくわかる。
そこ(細部)に拘っていては、結局は思考の堂々巡りが繰り返されるだけで、何も前に進まない。ポストモダン思想はもともとポストモダン(ポスト・モダン)なものなのだから、さらにその先があるのかというそもそもの問題もある。
だがしかし、豊かな成果をもたらしもした二十世紀のポストモダン思想をごっそりとすっ飛ばしてしまうことの危うさも決して小さいものではない。堂々巡りの思考の中で拾いとられた大事な思想の果実の部分を全く踏まえずにその先へ進んでしまうようなことが、実際にそう簡単にできてしまうものなのであろうか。堂々巡りには出口らしきものはないだろうから、その先にはそう簡単にはいけそうにないが、いつも同じところを堂々巡りしているわけではないのだ。かつまた、その堂々巡りを迂回しようにも、どれだけ大回りしなくてはならないのかということも見当がつかない。そう考えると、ひとまずは堂々巡りをしてみてあちこち巡り巡ってみた方が、賢い道の選択ということにはならないであろうか。現代思想にもそれなりに意味はあったのだと思うのだが。
ガブリエルはそうした新実在論の前段階にあたる部分を一通りがっつりと学び、そこから現代の人間が抱え込んでいる問題の根源や構造といわれるものをしっかりと見て我が身に関わり合うものとして受け取っている。ゆえに、すっ飛ばしていることがことさらに問題となるのだとしたら、それを受け取る側にガブリエルと新実在論がよって立つものと同じ土台が築かれていないという点にこそあるのではないか。そのことが様々な齟齬や誤認を生んでしまっているように思えてならない。
全て学んでじっくり考えてから、新しい考え方に取り組むというのは、考えなくてはならない問題が難解で晦渋であればあるほどに難しいことであるし、膨大な時間も労力も頭脳も本番以前にしこたま使わなくてはならないことにもなる。それに、面倒臭いし、まどろっこしい。現代のスマートでシュッとしている人々が最も好まないものがそこにはある。
だから、手っ取り早く超速で現代思想をひとまたぎにしているガブリエルの書いていることに飛びつくのであろう。そして、そこから最も新しい知を吸収しようとする。このこと自体は決して悪いことではない。至極真っ当なことであろう。太古の時代の中学生なども「わかりたいあなたのための現代思想・入門」や今村仁司の「現代思想のキーワード」を手にとって新しい知の世界に手っ取り早く触れようとしていたわけであるから。
とりあえず、新実在論や新実存主義に常にシンが冠されていることは、実はとても重要な部分である。新実在論や新実存主義を、それだけで独立したものとして学び考えることは厳密にいえば可能であろう。だが、それをより理解するためには、シンのついていない実在論や実存主義について知ることも重要な意味をもってくる。ガブリエルがいかにシンなのかを理解すれば、新実在論や新実存主義について学び考えるにあたってポストモダン思想や現代思想をすっ飛ばすことの意味もまた自ずと見えてくるのではなかろうか。

リアリティや実在なんていうものも、もしもそこにあるのだとしたらそれは無限にある多くの意味の場や多くの文脈の中でとりあえずの一致をみているところのリアリティや実在らしきものがそう呼び習わされているということでしかない。そこに普遍性というものはないし、あるのは無限の普遍のみである。
ただし、そのような形式による現出であってもなお自由や人権や民主主義というものはわれわれの目の前に実在する。ある意味では、とても民主主義的な方法で。そこでそれらがリアリティをもつことができるのは、無限の文脈が重なり合う意味の場の束が出現する瞬間(トールヴィック・アウゲンブリック)のみであるのだけれど。ただし、一瞬の閃きゆえの(イメージの力の)強度がそこにはある。
現在、個々人の無限の文脈の重なり合いからなるとりあえずの実在や自由や正義や秩序といったものを前提にして社会が形成されていて、そこにおいて人間たちの生活が営まれている。しかしながら、個々人の認識や個々人の文脈をもってして、それ(無限)が否定されるようなことは決してない。だがしかし、それはある文脈の重なりや意味の場の束の中においてのみ正当性をもつものであることは間違いないのだ。文脈が変われば(一瞬で)全ては変わる。とりあえずの普遍は、ずっとある普遍ではない。

世界は存在しない。普遍は存在しない。ガブリエルの新実在論は、普遍や普遍的なもの(別の言い方をすれば、旧普遍や旧普遍的なもの)が存在しないことを自明のものとしている人間のそれぞれがそれぞれに意味のある生活を生きることを目指している。そうした遠大なるヴィジョンを掲げているのだから、普遍や普遍的なものだけでなくあらゆるものの一なる全体はないと宣告し続けなくてはならないのは当然のことである。今ここにある世界らしきものの中に多発しているあらゆる現実の由々しき問題とは、例えば普遍や普遍的なものを認めるような世界構造の根本の部分にまで浸透している誤った思考や考え方から生じているといってよい。そうした様々な問題を根本から取り除くためには、世界内のそれぞれの存在者を一なる全体であるところの真正さと結びつけて認識し前提としている思考の根底部分からすっかり変えてゆかねばならない。ガブリエルの思想は、とてもとっつきやすそうな佇まいで半ばメインストリームのポップ哲学的にも流布されているのだが、実際には極めてラディカルで恐ろしく深い。間違いなく、かなり危険なことを考えている人である。それは本当に人類の歴史そのものをがらりと変革してしまうような哲学なのである(その哲学は人類の歴史そのものをがらりと変革してしまうようには全然見えない新実在論的な方法を人間の精神の面で作動させて人類の歴史そのものをがらりと変革してしまうのであろう)。だが、もしこのいかれた世界をよりよい場所もしくは正しく本来あるべき姿に変えてゆくとするならば、もはや新実在論しか道はないように思えて仕方がなかったりもするのである。というか、そこに(最後の希望を託して)賭けたい。ガブリエルの思想は、半ば諦めかけていた次のステップに進むことができるような気分にさせてくれる。それは、どれほどの今を生きる瀕死のポストモダン行者やニヒリストたちを前向きにさせてくれるだろうか。孤独に思索し懊悩し哲学していたものたちにどんなポジティヴな影響を及ぼしてゆくのか。とても楽しみだ。読めば見えてくる。ぐんぐん見えてくる。ぐんぐんぐんぐん見えてくる。

追記
新実在論の内容について細かく粗探しをしてそれを論うことは実はとても容易なことである。まだガブリエルは新実在論についてのほとんどの部分を書いてはいないし、それをまとめる作業もしてはいない。日本では新進気鋭の哲学者としてテレビの番組で取り上げられてたびたび新実在論について語っているが、その時々で様々な角度から語られるために非常にいろいろと錯綜しているし、おそらく思索の深まりとともにそれはぐんぐんと変化・進化もしている。先日放送された「マルクス・ガブリエル 精神のワクチン」において説明された新実在論も、どうも少しばかり更新されているように感じられた。そこでは「イメージを結びつける力」(「イメージの力」)というものがシンなる実在が出来する瞬間の前景に色濃く打ち出されていた。力(フォース)がはたらく場とは、どこかニーチェ的な匂いを漂わせつつもそれを無限に超越しているようでなんとも想像力をかき立てられる(「権力への意志が、解釈の働きをするのである」)。今後もこの「イメージの力」が重要視されてキータームとなってゆくのかはまだわからない。それくらいにまだガブリエルの新実在論は生成過程の初期段階にある。かなりまだやわやわなのだ。その骨格はある。それを展開させてゆくための青写真もほぼ見えている。だが、まだそれだけなのである。ただ、ガブリエルがいつか新実在論についての全てを書き、その思想の金字塔を打ち立てるのかというと、そういうことはたぶん決してないだろう。新実在論を完成させることはガブリエルの真の目標ではないのかもしれない。それは多岐にわたり多種多様な分野を網羅した新実在論のエンチクロペディをまとめるようなものである。おそらくはガブリエルひとりでそれを成し遂げようとすることは不可能に近い。新実在論とはガブリエルによる新実在論的な考え方や論拠を土台にして、世界中の哲学者や科学者の手によって網の目を張り巡らせてゆくように完成へと押し上げられてゆくものだと考えられるだろうか。その完成させられた全体が必要なのではない。どこもかしこも真実在論的に成り立っていて、水や空気のように当たり前のようにそれがそこにあるということが究極的にはベストだ。わたしたちは今、そんな新実在論の考え方が生成する過程に立ち会っていることになる。まだ産声を上げて間もないというのに、これだけの注目を集め、いまだになんだかよくわからないものであるのに不思議なほどの高い波及力を誇ってもいる。これは並大抵のことではない。これまでにこんな広まりかたをみせた哲学的な思想のムーヴメントがあっただろうか。新実在論というまったく新しい時代の物事の考え方が、人々の間で育まれてゆき、錬磨されてゆく様を具に見れるということは実に幸せなことなのではなかろうか。いまここで本当に正真正銘のシンなる時代が少しずつ動き始めているのだから。
最新ヴァージョンのガブリエルの言説に触れることのできる「マルクス・ガブリエル 精神のワクチン」においてもかなり顕著になってきているように感じられるが、新実在論について語ることはかなり難しい作業になってきているのではないか。簡単に誰にでもわかりやすく伝えようとすればするほど、既成概念や既成のイデオロギーがまとわりついている(本質的な)ものがどうしても話の流れを滞らせあれよあれよという間に聞く側はこんがらがってきてしまう。だが、話者は簡単に誰にでもわかりやすく伝えようと努めているので、その説明の語りは断片的には意味が通じたり伝わったりする。終始気さくに語るガブリエルは、なんとなくさらっとすごいことを言っているようにも見えるし、見方によっては訳のわからないことを早口で捲し立てているただの変なドイツ人にも見えてしまうだろう。しかし、以前にはニューヨークで両親について話したり、今回は生まれ故郷の街を紹介したりと、どんどんとガブリエルその人から感じ取れる人間味が分厚く増してきているのは、なんだかちょっと変な感じだ。こちらは新実在論について知りたいだけなのに、いつの間にかテレビ画面を通じてガブリエルのことばかりを見ている。これはロック・スターとファンの関係性を反復しているということか。人間味が増すということは、そこにマルクス・ガブリエルの意味の場がはっきりとした輪郭をもって見えてくるということでもある。そして、その意味の場にテレビ画面を見つめる視聴者の意味の場(文脈)が重なる。この重なり合いの瞬間に「マルクス・ガブリエル 精神のワクチン」というテレビ番組が(イメージを結びつける力のはたらきによって)実存している。無限の意味の場の重なり合いだけがあり、何かを通じてそれを知ること、それを感じること、それを想像してみることもまた新実存主義や新実在論というものを自己の精神に引き寄せて理解し血肉化してゆくためのトレーニングとなるということであろうか。

新型コロナウィルスによる感染症の蔓延によって、おそらくほとんどの世界中の大きな都市で感染の拡大防止のための外出制限の措置がとられた。これにより普段は賑やかな街の中心地から人の姿がぱったりと消え、世界の繁栄を駆動していると考えられていた人々の旺盛な社会活動や経済活動は大きくスロー・ダウンすることを余儀なくされた。人間が利己的に活動しないことによって、街中を連なって走っていた自動車やトラックの数は減り、大規模な大量消費のための製造工場が生産を一時停止し、ひっきりなしに上空を行き来していた大型旅客機も飛ばなくなり、空気や水の汚染が格段に減少し都市の生活環境の程度は大幅にクリーンに向上するという実に皮肉な状況も現れ出てきた。全ては人間があまりにも動きすぎるせいで起きていたことであったのだ。新型コロナウィルスについても資源開発のためか食料確保のためかこれまで以上に人間が自然界に踏み込んだことでそれまでにはあまり接点のなかった動物と人間との接触が生じ、そこから人間の間へのウィルスの感染が始まったともいわれる。人間があまりにも動きすぎたせいで今回のパンデミックが起きたかもしれないのである。このことはあらためてよく考えられるべきことであろう。今から何年後のことになるかわからないが、新型コロナウィルスの感染症の蔓延を収束させることができたときに、全てをコロナ前のように戻してしまって本当によいのであろうか。まだまだ時間がたっぷりありそうなので、全地球規模でじっくりと考えてゆかなくてはならない。
パンデミックの最中に閑散とした公園を散歩していたマルクス・ガブリエルは、そこら中に緑色のオウムがいることに初めて気がついたという。日本では一時期かなり夕方のニュース番組などでも取り上げられていたが、ガブリエルが暮らすボンの街でもおそらく大量に野生化したオウムが繁殖しているのであろう。最初はペットとして飼われていたものが逃亡したり遺棄されたりして野生化したものと考えられるが、元々はインドやアフリカ中西部に生息していた外来種であるため在来の野鳥の棲む自然環境や生態系に悪影響を及ぼすのではないかと懸念されてもいる。だが、その緑のオウム(実際にはワカケホンセイインコというインコ)の存在に、これまでのガブリエルは全く気づいていなかったようだ。コロナ以前の慌ただしく時間に追い立てられるような日々の生活の中では、街の中のどこにどんな鳥がいるかを見てみる余裕すらなかったということなのだ。それが新型コロナウィルスの感染症のパンデミックが起こり全ての人間の都市での活動がスロー・ダウンしたことで、目の前の見慣れた街の景色の中にこれまでには目を向けていながらも見えていなかったものが見えるようになってきたのだ。消費資本主義社会の魔の呪縛から解放されて忘れかけていた自然の美しさに気がつかされたとガブリエルはいう。これは、目には見えないウィルスというものによって引き起こされたパンデミックが地球上の人間を等しく立ち止まらせたことで、そこら中にあふれかえる物質よりも上位にあるもの(自然・ピュシス)がその目に見えるようになってきたということだ。人々の思考が変わることで、これまでの社会の中では支配的であった喩物論的な幻想によって蔑ろにされ見えなくされていたものに人々が気づき、ようやく開かれた目を穿たれた物質と物質の隙間に向けるようになってゆく。静かにだが重大な変化がこの地球上で起きている。世界の見え方が変われば、誰もが世界はひとつではないことに気づくだろう。世界は存在しない。ただ目に見えるものの解釈が無限に変化するだけである。緑のオウムが見えたとき、ガブリエルにとって世界は全く新しいものとなった。文脈は更新され、より豊かなものとなった。もう後戻りはできない。あらゆる幻想は打ち破られる(べきだ)。
新実在論は、あらゆる価値の価値転換に通ずる。ニーチェが十九世紀末に書いていたことが、今ようやく本格的に動き出そうとしているかのようだ。そういえばツァラトゥストラが山から降りてきたのは、下界の人間たちが新型コロナウィルスによるパンデミックでいやに騒がしくなっていたからではなかったか。そして、小さな人間たちに超人を教えようとする。超限を説くガブリエルは、もしや二十一世紀のツァラトゥストラなのではないのか。とすると、まだまだ道は長く険しそうである。しかし、緑のオウムを見つけて素直に感動してしまえる感覚こそが、おそらくは(「世界は存在しない」と宣明する)ガブリエルにとっての最大の強みでありわかりやすい弱点や突っ込みどころでもあるのだろう。ニーチェがワグナーやディオニソスに関心を寄せ続けたように、ガブリエルが一角獣や「となりのサインフェルド」について語りがちなところもある意味では象徴的だ。それでも新実在論は哀れみや同情によって倒れ伏すことはない。それは善悪の彼岸の善である。つまりは超限善だ。

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