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手洗いの話

たぶん、みなさんもそうだと思われます。今やどこを探してもマスクもアルコール消毒液も売っているところがない。それならば、とりあえずうがいと手洗いぐらいは(効果を信じて)いつも以上にしておこうかなという気分にはなっていないだろうか。それで、毎日のように手を洗う際に心の中で自分に対してハッピーバースデイの歌をきっちり二回繰り返して歌っていたりする。で、それが毎日毎日続いて何回も何回も繰り返されているうちに、なんだかもう毎日が誕生日のような気がしてきてしまうのである。そうして、だんだんとこの数週間の間に自分がいくつ歳をとったのかもよくわからなくなってきてしまっていないだろうか。もはや、いま自分が何歳であるのかすら判然としなくなってしまっている。花粉症が酷くて、鼻がつまり、頭もボーッとしているせいなのかもしれないが、ハッピーバースデイの歌が妙な催眠暗示効果を及ぼしはじめているである。毎日のようにあの歌を自分で自分に繰り返し歌いかけていることで、誕生日というものの概念がぐずぐずと溶け崩れていくのを感じる。ミニマルな動作の手洗い行為を反復しているうちに勝手に時間を超越したり薄く引き伸ばしたり折り畳んで縮めてしまったりしているようだ。とても危険だが、手洗いにはハッピーバースデイの歌がもはやセットになってしまっているので、どうしたって歌いかけてしまう。そんな習慣がすでにできてしまっているために、もうちょっとやそっとじゃやめるにやめられない。それに、これから都市封鎖や非常事態宣言だなんていう一大事が起こるかもしれないこのタイミングで自分ひとりだけがハッピーバースデイの歌を歌うのをやめるだなんていう甚だ無責任なことが許されるはずがないではないか(その後、やはり非常事態宣言は発せられた。だが、その宣言の中にハッピーバースデイ手洗い命令などはおそらく盛り込まれていなかったと思う)。とにもかくにも、自分の誕生日がいつだかわからなくなろうが、自分が何歳であるのかがわからなくなろうが、手洗いだけはなんとしてでも続けなくてはならない。ウィルスを前にしたら年齢なんてものは後回しだ。マスクもアルコール消毒液も手元にないのだから、せめてそれぐらいのことはこまめにしておくべきなのではなかろうか。また、新型ウィルスに感染するとまず最初に味覚や嗅覚が失われるという報告もなされている。ということは、ここにきてとても多くの人々が自分の誕生日や食べ物の味や匂いを忘れてしまっている事態に見舞われていることになるのではないか。ウィルスの襲撃によって世界中の人々が人間の人間らしさを形成しているもののいくつかをすっぽりと失ってしまっているのだ。これはちょっとした事件である。まず第一に、味や匂いがわからなくなってしまうと、もしも食べたものが傷んでいたり腐ってしまっていたとしても気がつかずに飲み込んでしまう危険性がある。味覚や嗅覚を失った人々が腐ったものを食べて次々とそこら中で泡を吹いて倒れていってしまったら、ウィルスによる肺炎よりもさらにひどい莫大な被害を地球上にもたらすことになるであろう。これから北半球は暖かくなり食べ物が傷みやすい時期になる。瑞々しい食べ物はちょっと目を離したすきにすぐにカビが生えたり腐ったりする。油断もすきもありゃしない。最大限の注意が必要だ。そして、ゆくゆくはさらに大変なことになると予想されるのが、多くの人々が誕生日というものがなんであるのかを忘れてしまっているという由々しき事態である。そこら中に実年齢を失念した人が出現するようになる。自分が何年生きているのか、何年に生まれたのかがわからない。それでも毎日どんどん手を洗うので日ごとにじゃんじゃか歳をとってゆく。自分が何歳であるのかもよくわからなければ、他の人が何歳なのかもまるっきりわからない。誰が先輩で誰が後輩なのか区別がつかなくなる。もはや人を見かけで判断するようなことは全くできなくなる。爆笑問題の田中裕二のように中学生ぐらいに見えても実は五十代半ばのおじさんだったり、逆に芦田愛菜のようにしっかりとした大人の話し方をするレディーに見えても実はまだ高校生のザ・ガールだったりする、というようなことがこれからは日常的に頻発するようになるだろう。見かけはとても若くても毎日せっせと手を洗っている人は、すでに相当な高齢になってしまっているということが往々にしてある。もしかすると逆に手を洗う回数が足りていなさすぎて、気がつくと自分が一番の年下になってしまっていることだってあるかもしれない。そうなると身の回りにいる人々はみな目上の人になってしまって、尊敬の念を抱かなくてはならなくなるが、来る日も来る日も暇さえあれば手を洗うようにしているだけでその立場もすぐに逆転するに違いない。そもそも誕生日というものがなんであるかを忘れてしまっているのだから、それを基準に年齢で人の上下を決めること自体がナンセンスであり極めて困難なこととなってくる。つまり、手洗いが蔓延る世界では、すべての人が同じ立場で生きることが可能となるであろう。これまでの年功序列型の社会は、完全に無化されてひっくり返されてしまう。年齢なんていう変てこなものに胡座をかいてきたものたちにとっては、このウィルス性の価値転換の猛威は一大事であるはずだ。日本人はあまりにも忘れっぽくて、なかなか集合的記憶というものをもてない国民性で知られている(欧米では、これは戦争だの一言であらかた通じるのだけど、それが日本ではあまり通用しない。幸か不幸か)。これまではそれほどばれていなかったが、ここにきてだんだんとその化けの皮が剥がれつつある。そして、今回の突然のパンデミックが最後のダメ押しになってしまった観はある。ちょっと日本人は信用できない(経済は中身のないハリボテで、アンダー・コントロールはフェイクだ)。今、世界中の多くの人々がそう感じはじめているのではなかろうか。もしくは、世界地図の中から日本という小国が大前提として完全に除外され始めているところなのか。19年12月8日に湖北省の武漢で新型ウィルスの初の感染者の発症が確認されている。年が明けて1月1日には武漢市の中心部で一大クラスターとなっていると目された海鮮市場が閉鎖された(この時期、どちらかというと世界の目はのちにスレイマニ司令官の暗殺事件やその報復のミサイル攻撃に発展するアメリカとイランの間の緊張の高まりに集まっていた。これにより全く武漢で起きていたことが深刻に取り扱われなかったことは、人類史的なレヴェルの悲劇であったかもしれない)。ただし、その直前の19年の年末に四川省の成都に日中韓の首脳たちが集まって会談(ここでは主に外交問題が議題となっていたと思われるが、会談で新型肺炎について話し合われたかは定かではない。だが、ここで中国から何か重要な情報を得ていたのにあれだけ緩く遅い対応しかでいなかったのだとしたら、それはそれで大問題であるが)していたことを記憶している人は、もうほとんどいないだろう。もし、あの会談の場所が武漢だったら。その後の世界はいったいどうなっていただろうか。すぐ忘れてしまう人々にとっては、そんなことはどうでもよいことなのかもしれないが。ただし、元々そんなに物覚えがよくないのに、さらに色々忘れてしまっていったい日本人は大丈夫なのか。ウィルスの影響で味覚や嗅覚や誕生日だけでなく、もっともっと大事なことまで忘れてしまうようになるのではなかろうか。自分の名前を忘れてしまう人、文字を忘れてしまう人、貨幣の使い方を忘れてしまう人、靴の紐の結び方を忘れてしまう人、ゴミの分別の方法を忘れてしまう人、しゃっくりの止め方を忘れてしまう人、考えるということを忘れてしまう人などなど、多種多様な幾重にも大切なことを忘れてしまっている人が巷にあふれかえるだろう。もしかすると、来年の今ごろには延期したオリンピックを忘れずにしなくちゃいけなかったことを、すっかり忘れてしまっていたりするのかもしれない。そもそもオリンピックってなんだっけ、なんていってしまったりするぐらいに。毎日が誕生日のお祝いだから、もう何か特別なことをする必要なんてなくなってしまうのかもしれない。特別ではない、なんでもない日が最高に喜びに満ちた日になる。手を洗おう。汚れきった世界にさようなら。手を洗おう。汚れきった世界にさようなら。さあ、お祝いだ。ハッピーバースデー・トゥ・ユー。おめでとう。ハッピーバースデー・トゥ・ミー。おめでとう。今日というまた新たな一日とともに世界はいつもいつも生まれ変わる。またわたしが生まれた。わたしがまた生まれた、このなんでもない日、バンザイ。


2020年3月ごろに書いて4月の頭にフェイスブックに投稿した短文に少し手を加えた別ヴァージョン。斉藤環「“感染”した時間」をちらっと読んでみて、もう少し広げられるテーマなのではないかという気がしてきている。

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