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“感染”した時間

花々を見て、煙のまとわりつく木々を見て、のぼっては下るカラスの群れを見て立ちつくすわたしに、ピーターが何か言った。「野菜に囲まれて物思いかい」だったかしら。「おれはカリフラワーより人間がいいぞ」だったかしら。ある朝、朝食どき、テラスでのことだった。ピーター・ウォルシュ……もうすぐインドから戻る。六月?七月?どちらだか忘れた。だって、あの人の手紙は恐ろしく退屈なんですもの。覚えているのは語られた言葉、あの眼差し、ポケットナイフ、笑い顔、不機嫌。何百万の物事が何もかも消え失せて、残ったのがカリフラワーについての二言三言だなんて、とても不思議。
(バージニア・ウルフ著、土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社)

 被災した時間

 大規模な災厄は、人間の時間意識を変える。
 そのことを最初に意識したのは9年前、東日本大震災の直後だった。震災は時間の流れを分断し複線化した。列島は複数の時制へと引き裂かれた。目前の復興に集中せざるを得ない瓦礫の中の時間。錯綜する情報や半減期というフレームの中で宙吊りにされた「原発」の時間。避難所の時間、無人化した村の時間、液状化の時間…。
 この時間意識のありようを、私は木村敏の所説にしたがい3つに分類した(木村敏『時間と自己』中公新書)。

「ポスト・フェストゥム(祭りの後):“爆発”が起きてしまった後の決定的時間」

「イントラ・フェストゥム(祭りの最中):いままさに“爆発”が起きつつある曖昧な時間」

「アンテ・フェストゥム(祭りの前):いずれまた起きる“爆発”を予期する徴候的時間」。

ここで“爆発”と呼んでいるのは、原発被害の拡大の比喩である。そのうえで私はこうも書いた。

おそらくこれは、震災がもたらした新しい事態、というわけではない。もともと時間とはそういうものなのだ。無数の時間線の交錯を、国家や時代という幻想がかろうじてまとめ上げてきた。今回大きく毀損されたのはその幻想のほうだ。骨格がむき出しになった時間の廃墟を前にして、私たちは怒りとも困惑ともつかない自らの表情をもてあましている。
(『被災した時間』中公新書)

 ならば、疫病はどうだろうか。疫病も同様の時間の分断をもたらすだろうか。
 コロナ禍の中でベストセラーになっているカミュの小説『ペスト』には、次のようなくだりがある。ペストの流行によって植民地アルジェリアの港町オラン市が閉鎖・隔離された際の記述(カミュはそれを「追放状態」と呼んでいる)。

したがって自分たちの現在の状態は彼らを満足させることができなかった。みずからの現在に焦燥し、過去に恨みをいだき、しかも未来を奪い去られた、そういうわれわれの姿は、人類の正義あるいは憎しみによって鉄格子のなかに暮させられている人々によく似ていた。結局のところ、この堪えがたい休暇から免れる唯一の方法は、想像によって再び汽車を走らせ、実は頑強に鳴りをひそめている呼鈴の繰り返し鳴る響きで、刻々の時間を満たすことであった。(アルベール・カミュ、宮崎嶺雄訳『ペスト』新潮文庫)

 もちろん『ペスト』はフィクションだ。しかし閉鎖された都市における時間のありように目を向けている点はさすがに慧眼である。カミュの描写は、ロックダウン下の都市の住民がこうむる変容した時間意識の描写として説得力がある。
 ならばコロナ禍もまた、われわれの時間意識を変容させるのではないか。このところ、Twitterのタイムラインには「時間の感覚がおかしい」という呟きが散見される。その理由はしばしば、自宅にこもってテレワークをしているから、と解釈されがちだ。これは日本だけの現象ではない。「失われた〈週末〉を求めて」と題されたこの文章で、著者のShayla Loveは、コロナ禍におけるアメリカ人の時間感覚の変化について記している。

 その原因としては、主にイベントとの関連性で時間の感覚が伸縮するという心理学的な説明がなされている。

「私たちは、一定期間に起きた出来事の数で、時間の経過をざっくりと測っているんです」とハーシュフィールドはいう。「つまり、いつもと同じ期間に、あまりに多数の出来事が起これば、その期間は実際よりも長く感じるというわけです」(UCLAの心理学者、ハル・ハーシュフィールド)

 だからこそ、曜日ごとの決まり事やルーティンをもうけ、週末は仕事からギアチェンジして過ごそう、と著者は提案する。おそらくそれ自体は正しいはずだし、私もできるだけそうするよう心掛けてはいる。
 ただ、いま私が感じつつある時間意識の変容は、曜日や経過時間の感覚がわからない、というだけのものではない。時間の見当識は失っていないが、経験様式が変わってしまったような感覚なのだ。それが多くの人と共有可能な感覚であることを期待しつつ、以下の文章を記しておく。時代の記録(クロニクル)になりそこねたとしても、個人的備忘録にはなるだろう。

同期する「コロナ時計」
 2020年5月5日付のnote「失われた『環状島』」で私は、「日付」がないパンデミックの奇妙な忘却されやすさについて検討した。震災との対比で言えば、深刻な社会的外傷をもたらす震災に比べ、パンデミックは外傷化されにくい。震災後の「時制の分断」は、そうした外傷に起因する時間意識の変容だったとも考えられる。ならばコロナはどうか? 外傷を遺しにくいコロナは、時間意識に及ぼす影響も小さいのだろうか?
 そんなはずはない。少なくとも私の時間意識は少なからず変容した。ただしそれは、震災の影響とは対照的だ。震災は時間を分断したが、コロナは時間を均質化するのではないか。私には、全世界が「コロナ時計」に強制的に同期されつつある、としか思えない。この同期を逃れられる場所は、地球上のどこにもないかのようだ。同期を無視することは命にかかわる——かのようにふるまうことを期待されている——からだ。
 話を一般化する前に、いま私に起きつつあることを記しておく。
 時間意識の変容は、まず記憶の混乱として生じた。コロナ以前の記憶との距離感がつかめない。さまざまな記憶が、はるか遠くに感じられる。コロナ以降の時系列も曖昧だ。ダイアモンドプリンセス? アベノマスク? 志村けん逝去? つい最近だった気もするが、何もかもはるか昔のことのような気もする。いったい3月に、4月に、自分は何をしていただろうか。スケジューラを確認すれば「何をしたか」の記憶はある。まだ認知症の気はなさそうだ。しかし出来事の前後関係や距離感、いわば記憶のパースペクティブがどうもおかしい。フワフワして手応えがなく、のっぺりとして立体感がない。サイクルはあるがリズムがない。こんなおぞましい感覚は、いまだかつて経験がない。
 むろん生活の変化は影響しているだろう。講演会や講座、トークイベントの類いはすべて中止。会議や打ち合わせ、会食の予定もすべてなくなった。大学の授業もゼミも中止で、時折ZOOMミーティングが入る程度。病院への出勤を除けば、食材の買い出しくらいしか外出はしない。自宅では原稿を書き、遠隔授業のための動画を作り、本を読み、料理をし、猫に点滴をして、VODで観そびれていた映画を観る。その繰り返しだ。
 診療は続けている。実は本業が精神科医なもので、週に3日ほど患者を診察している。余談ながら記しておけば、コロナ禍の不安やストレスについて質問しても、ほとんどの患者は「気になりません」と答えてくれる。たまに「つらい」と訴える患者に聞くと、コロナの不安よりは家族全員がずっと家に居ることのストレスだったりする。
 決定的に変わったのは、生活の均質化だ。日課がワンパターンになり、不測の事態が滅多に起こらず、“濃厚接触”の相手はほぼ家人のみ。むろん私はひきこもり生活がそう嫌いではないし、雑用も含めて日々こなすべきことは色々とあって、時間をもてあますということはない。よって、現在の生活が、さしあたりひどく苦痛ということはない。
 にもかかわらず、時間の感覚は決定的に変質した。その理由について考えている。
 やはり、最大の要因はコロナ禍だ。その報道にまったく接していない人は、ほとんどいないだろう。なにしろ生活に関わるのだ。緊急事態宣言は解除されるのか。休業補償はどうなるのか。マスクは、消毒液は、例の10万円は、いつどこで手に入るのか。日々のニュースが国民全員の「生」にこれほど密接な影響を持ったのは、戦後初めてのことではないか。結果、私も含め人々の興味と関心は、コロナの動向を中心にありえないほどシンクロさせられている。日本ばかりではない。全世界がそうなのだ。
 世界はいわば「コロナ時計」のもとに強制同期させられている。感染が終息しつつあるとされる台湾や韓国も、おそらく例外ではないだろう。グローバルネットワークやSNSが、この空前の一体感を加速する。国ごとに、地域ごとに流れる固有の時間は消滅しつつある。いまこそ連帯せよと賢人たちに説かれるまでもない、世界はすでに、かつてないほど「同じ時間」を生きている。
 こうした同期の副作用だろうか、われわれはもはや「未来」を予測できない。それは誰かの言葉を借りるなら「未来人ネタは全部嘘だった」ということでもある。ネット上に時々書き込まれる予言ネタは、どれ一つとしてこのパンデミックを予見できなかった。人類が克服したはずの「感染症」が、まるで「弱いくせに超しつこいチンピラ」のように回帰してくるなどというシナリオは、どこにも存在しなかった。
 ついこのあいだ、ひさびさにSF映画の金字塔「ブレードランナー」を観て愕然とした。わが裡なる「コロナ・ピューリタニズム」のせいだろうか、あの世界が魅力的である以上に「不潔」に見えてしまったのだ。そう、スラムとハイパーテクノロジーが同居する、サイバーパンクな未来はもう来ない。理由は単に「不潔」だから。ウィルスとの共存を選ぶほかはない以上、SFの未来イメージも大幅な変質を強いられるほかはないだろう。コロナは我々の想像力すらも蝕みつつあるのだ。それが時間意識に影響しないはずがない。

複数の時間線
 コロナ禍の経験からはっきりしたことの一つは、人間の時間感覚が、その複数性によって支えられていた、ということだ。木村の分類は、気質分類のような装いを持ってはいるが、実はその3分類のすべてが個人の時間意識に含まれている【註1】。祭りの前、祭りの中、祭りの後。これに限らず、人間の時間意識は、主に社会とのつながりや人間関係によって規定された無数の時間の流れをより合わせたものだ。その流れを仮に「時間線」と呼ぼう。
 ベルクソンからハイデガーに至る時間の哲学については、今は措こう。あるいは尺度を用いて計測可能な「時間の認知心理学」も今は忘れよう。これから論じられるのは、木村敏が言うところの現象学的な時間の精神病理学だ。異常な条件と環境の下で、時間の質的な体験様式がいかなる変化をこうむるのか。
 時間にはクロノス時間とカイロス時間とがある。クロノス時間とは、時計で計測可能な客観的時間のことだ。これに対しカイロス時間は主観的時間を意味する。恋人と過ごす時間を一瞬に、退屈な講義の時間を永遠にするのがカイロス時間だ。クロノス時間は万人が共有しているが、カイロス時間は個人ごとに異なるし、後述するように個人の中にも無数のカイロスがある。
 極論すれば、個人の生を構成する時間線は、終わったイベント、予定されたイベント、会った人、これから会う人、といった関わりの数だけ無数に存在する【註2】。このおびただしいカイロス時間群こそが、時間の経験と記憶の連続性とパースペクティブを可能にする当のものだったのだ。
 もちろんこのことは、私の創見ではない。冒頭に引用したヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』において、そうした時間意識がすでに活写されている。ウルフは「現在の瞬間」の中に、現在のみならず、過去の記憶や未来の予感といった無数のイメージが潜在しているさまを繰り返し描く。彼女はそれを「トンネル掘り」と呼んでいたが、この技法で描かれる「意識の流れ」は、おびただしい時間線がおりなす混色の織物のようだ。
 コロナ時計は、クロノス時間ではない。それはイベントと統計、不安とパニックによって駆動される、単純化されたカイロス時間だ。コロナ時計への強制同期は、私を含む多くの人の「時間線の複数性」を一気に縮減してしまった。それを象徴する言葉が、あの「不要不急」だ。やむをえないこととはいえ、「不要不急」の自粛こそが、時間線を単純化した最大の要因であろう。その結果、記憶の遠近法が崩れはじめ、ふやけた現在が「今|今|今|…」と不連続に連なり続けている。

解離した時間
 実はこの状況は、木村が離人症患者の時間体験に関する記述にきわめて近い(前掲書)。
 離人症とはこの場合、外界から現実感が失われることを意味する。現代の精神医学においては、これは解離症状のひとつだ。解離にはさまざまな定義があるが、私の解釈では、強いストレスに曝される経験によって、心の中にある種の隔壁が生じた状態を指す。隔壁にはさまざまな「深さ」がある。記憶のレベルに生じた場合は「健忘」ないし「全生活史健忘(いわゆる記憶喪失)」になるし、人格レベルに隔壁ができると「解離性同一性障害(いわゆる多重人格)」になる。隔壁とはもちろん比喩で、知覚や経験、記憶の連続性が失われた状態を意味している。
 それでは離人症患者は、時間をどのように経験しているのか。木村の記述を以下に引用してみよう。
「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行
かない。てんでばらばらでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いま、いま、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない」
「時計を見ればいま何時ということはわかるけれども、時間が経って行くという実感がない」
「時と時とのあいだがなくなってしまった」
 ここまで重篤ではないにせよ、私が感じている時間意識はこれにきわめて近い。野間はいみじくも、こうした時間意識のありようを「コントラ・フェストゥム」と呼んだ(野間俊一「抵抗する解離―コントラ・フェストゥムと現代」 柴山雅俊(編)『離の病理―自己・世界・時代― 』岩崎学術出版社)。祝祭的な「リアル」から遠ざけられる時間意識。
 ここまで書いて、ようやく気づいた。なんのことはない、私自身がずっと「解離」していたのだ。コロナ時計に同期した生活を取り巻くゼリー状にふやけた外界、過ぎ去る日々のとらえどころのなさ、時間感覚の曖昧さ、無力感というより脱力感、奇妙な現実感の希薄さ。先の見通せない仮住まいの日々が、時間の感覚を溶解させる。これは確かに離人感だ。通常の離人感と異なるのは、この感覚が自分だけでなく、多くの人に共有されているに違いないという確信がある点だろう。
 木村が指摘するように、離人症においては時間が断片化する。しかし、その逆もありうるのではないか。先述したとおり、時間の連続性を担保していたのは絡み合う複数の時間線であり、時間線は縮減されるほど断片化がすすむのだとしたら。この時間の不連続性は、現実感の希薄化をももたらす。言い換えるなら、日常のリアリティを支えていたのも、重畳し輻輳する無数のカイロス時間の束なのではないだろうか
 解離とは意識の狭窄だ。狭窄した意識はしばしば「退行」につながる。より未熟な意識状態に陥ることは、認知の変容にもつながるだろう。典型的には相手を敵か味方に分類したがる白黒思考と、自分の苛立ちを相手からの攻撃と取り違える投影性同一視だ。いずれもネット環境下で増幅されやすい感情であり、このところネット上がいつにも増して殺伐として見えるのはこのためもあろう。この点については機会を改めて検討したい。

 それではこの状況下で、「解離」から回復する手だてはあるのだろうか。
 離人症当事者たる私が言うのも妙な話だが、私は「ある」と考えている。そう、複数の時間線を回復すれば良いのだ。そのために、何が出来るか。その答えについても、さきほど触れておいた。「不要不急」の回復である
 無駄なこと、無意味なこと、非生産的なこと。そうしたことが時間線を増殖させ、リアルな時間の回復につながるとしたらどうだろう。思えばコロナ禍の初期に流行した「蘇作り」は象徴的だった。映画を観る、漫画を読む、長編小説に挑む(フィクションには無数の時間線が埋め込まれている)。頼まれてもいない文章をnoteに書く。ヒヨコを飼い、シイタケを栽培し、プラモデルを作る。そして、それらのことについて、可能な限り対話(おしゃべり)すること。
 それが“生産的”かどうかはどうでもいい。ただ活動——何かをすること——の機会の多様性のみが複数の時間線を育み、われわれの日常のリアルを支えている。外向きの不要不急を控えざるを得ない今こそ、内向きの不要不急を充実させる必要があるのだ【註3】。


【註1】これは木村の時間論のオリジナルがマルクス主義者のルカーチやガベルに依拠していることを考慮するなら当然とも言える。
【註2】本当は重要な記憶の数だけ存在すると言いたいのだが、ここはあえて単純化した表現にしておく。
【註3】ところで「不要不急の必要性を力説する」という矛盾については、みないふりをしていただければ幸いである。

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