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タタキアゲエレジイ

(デジタル化とサイバー独裁、加速する国民国家)

首相官邸を訪れたポンペオがぎこちないグータッチをした際に、マスクで口許は見えなかったが何か喋りながらジッと菅義偉の顔を見つめている様子が気になった。英語で何を言われているかわからないのか、新米首相はすぐに目線を外して報道陣の方に向き直ってしまう。このときポンペオは何を思っただろうか。よく見ると、こいつファービーとおんなじ目をしてるな。本当は農家の生まれじゃなくて、中国の工場で作られたんじゃないのか。ディス・イズ・アン・アメリカン・ジョーク。ハッハ。たぶん、そんな感じのことであったのではないかと推察する。
常に目が笑っていない人というのはいる。目に表情や感情が表れず、かなり目つきが悪い印象を周囲に与える。しかし、菅義偉の場合はそれだけではなく、あの目で結構よく周りをチラチラ見て人間観察をしている。あれはきっと周りにいる人々が自分と一緒にいるときの表情や態度や仕草などを細かくチェックしているのだろう。自分の感情や気持ちは表に出さないが、他人の腹の中や心持ちはとにかくよく探る。おそらく自分にあまり自信がないからなのだろう。ゆえに、何かというと周囲の助力(共助!)をあてにせざるをえない。だから、日々の日課として誰が本当の敵か味方なのかを見定めるためのチェックは欠かせないのである。速やかに邪魔者は排除せよ。自分に自信をもてないものは思わぬところで足元をすくわれたりしないように保身を第一に動く。目が笑っていないのは、そのためである。実は片時も緊張感を解いてはいない。しかし、自分の感情を押し殺しすぎるせいで、それが必要とされるような時にもそれを表に出せなくなってしまう。
だがしかし、見るからに無神経そうなポンペオは怯まずにしっかりと目の奥を覗き込んできた。これまでは取るに足らない政府要人のひとりとしか見ていなかった菅義偉という人間の腹の底を探るために。そのえぐるような視線を感じた瞬間、令和おじさんの顔面から完全に表情というものが消え去った。そして、ポンペオから顔を背けるように報道陣のカメラの方に向き直る。逆に相手から見定められていたことに慄くように。自分に自信がないので、その視線に笑顔で応えることもできない。基本的に目つきが悪いので愛想笑いをしても逆効果であることは本人が一番よくわかっているのだろう。
もはやこのまますっかり中国のようになってしまえるだけの下準備は、ほぼほぼ整っているといってよい。何かがあればできるだけ強い統治を請い求める土台の部分もしっかりとしてきているし、世論の風向きとても大した逆風を巻き起こすことはもはやなさそうだ。新政権の支持率は、まだ何もやっていないのにもかかわらず「やってる感」を先行して打ち出す霊感商法紛いの雰囲気づくり戦略が功を奏したのか、実に七割にも達している。芯のないあまりにも周りに流されやすい社会は、完全にアンダー・コントロールである。政権の支持者でなければ人にあらずと言わんばかりの風潮もさらに強まり出してきていて、とりあえず靡いておこうかという大方の流れもほぼ醸成されつつある。批判はすべて的外れ。内閣が正しいと判断するものは全て正しい。
経済最優先の姿勢を前面に出すことで安倍一強体制を引き延ばせるだけ引き伸ばすことに成功してしまったおかげで、ほぼ中国共産党一党独裁体制に近しい、政府の(経済・金融面での)匙加減ひとつで安定や安心(の幻想)を作り出せる社会的な基盤が出来上がってしまった。ほとんど投票する前から結果はわかりきっていた(簡易的かつ制限付きの)自民党総裁選挙を、あれほどまでに毎日のように追いかけてメディアで報道し続けたのはなぜか。わずか約百万人ほどの自民党員のみが関われる選挙が、まるで国政選挙か国民的行事であるかのように注目を集める。それはこの状況がもうすでに一党独裁政治に限りなく近いものになっているからなのであろう。まるで中国共産党内の激しい党派間の権力争いを(大半は共産党員ではない)中国国民が半ば呆れながらも見て楽しむように、自民党内の派閥の闘争や数の論理を面白がってこぞって報道番組が嬉々として解説し、それを全国の視聴者があれこれ言いながら見て楽しむ。これはもう政治と呼べるような範疇にあるものではなく、ただの政治ショーであり、暇を持て余した庶民に対して一種の(政治的?)エンターテインメントを提供するために催されたものでしかない。中国共産党化している自由民主党において勢いよく派閥が息を吹き返すのは当然の流れである。当選回数とともに地位が押し上げられてゆく、派閥と政治闘争ごっこが大好きな長老たちの尻にひっついていることが、スカスカな若手議員たちにとっては何よりも一番安全な出世コースなのだ。そして、共産党員でも自民党員でもないものたちは、ただのこけおどしな大文字の政治の傍観者にさせられてしまう。長い年月をかけて積み重ねられた分厚い政治不信。常に明後日の方角を向いてヘラヘラしている権力者。恥も外聞もなく甘い汁に群がる経済人・エコノミスト・エコノミック豚。もはや何を言っても虚しいだけである。ちょっと離れたところからふざけたまつりごと(重要な決定)を遠い目で眺めているだけになる。そんなことよりも厳しさを増してゆく現実の中で今日を生き抜いてゆくことだけで必死なのだ。そうした歪んだ社会システムやそのシステムの確信犯的な出来の悪さによって底辺へ追い落とされた旧中間層を生み出し続けることを信任し容認してしまっているのも、もはや完全に政治というものを諦め切ってしまっている庶民や一般大衆なのであるのだが。負の悪循環が、容赦無く社会の地盤沈下を押し進める。後は得意のご飯論法でプチプチ蚤やシラミたちを潰してゆくだけだ。ふざけたひどい社会に疑問を抱きながらも、あまりそこに大きな波風を立てることを望まない民人たち。急激な変化によって今の生活や生業がガラリと変わってしまうことを彼らは大いに嫌う。それが一番の敵なのだ。変わりたくないものはいつまでも変わらない。
(おそらくは多分に意識的に)もたもたもたもたしているうちに悪性の肺炎を引き起こすウィルスの市中感染は猛烈な勢いで広がり、惜しくも志村けんが命を落とし、パニック状態になった市民の間から悲鳴のような人間の移動や活動を制限する強い措置を望む声がわんわんと高まるだけ高まって、ようやく政府は2020年4月7日に新型コロナウィルス感染症緊急事態宣言を発した。どうやらこの宣言の頃には感染拡大のピークはすでに過ぎていたようなのだが、約一ヶ月半後の5月25日に解除されるまで緊急事態宣言の措置は続けられた。まだウィルスの感染者数は完全にゼロにはなっておらず、コロナの火は燻り続けている中での宣言解除であった。だが、移動や外出の自粛の要請が長く続き、律儀にそれに従う市民が多くいたせいで、今度は経済の世界が悲鳴を上げ始めていた。小売業や飲食・サーヴィス業、観光産業や旅行業を中心とする企業などからガンガンせっつかれて、ウィルスとの共存をモットーに自粛要請を緩める方向に舵を切った形だ。そのせいで宣言解除後ほぼ一ヶ月でウィルスの感染者数は再び急増に転じる。新型コロナウィルスの感染拡大によるパンデミックに乗じて緊急事態宣言を発して、ずっと憧れていた国家緊急権の発動ごっこをちょっとやってみただけだったのかもしれないが、こうした大きな権力というものはそれを扱うだけの総合的・俯瞰的な能力のあるものがしっかりと慎重に取り扱わないと何のプラスの効力も発揮しない。というわけで、今回の緊急事態宣言は、何の意味があったのかよくわからない散々な形で終わった(どんなに政府が強権を発動しようとも、今の日本人というのはさっぱり聞く耳を持たないことが今回の件でうっすらと見えてきた。緊急事態でもパチンコ店の前には行列ができ続けるだろうしホストクラブやキャバクラやスナックは営業を続けるだろう。家賃を払ってくれたり補償をしっかりしてくれるならば休みますけどということを言い訳にして夜の街はちっとも言うことを聞かないだろう。こういうことはもう憲法を改正したからといってどうにかなるというものでもない。その根底には非常に根強い政治不信というものが横たわっている)。これにかなり懲りたのであろう、緊急事態条項を盛り込む改憲に対する積極的な姿勢もすっかり影を潜めてしまう(しかし、何かあってもすぐにケロリと忘れてしまう政治家はとても多いので、注意は必要であろう)。すると今度は菅義偉がデジタル化推進にかなり前のめりに乗り出してきた。
いち早くデジタル監視社会化を進めている中国が大規模で的確な都市封鎖と外出制限を人民に科すことによってウィルス感染の拡大を腕力でねじ伏せたのを目の当たりにして、やっぱりこれだと思い立ったのか、国内のコロナ対策のあらゆる面でのぐだぐださの解消のために早急なるデジタル化推進が必要だとぶち上げれば、いくらでも世論の追い風を受けることができると踏んだのか、ピンチヒッター政権によって新しい形の強権による統治が実に狡猾に開始されようとしている。行政の効率化を理由にデジタル化を進めて、いつの間にかデジタル監視社会が完成してしまっていれば、面倒臭い改憲などという手続きを踏まずとも社会の隅々にまで張り巡らせたネットワークからオートマティックに回収されるデジタル・データで全国民を縛り統治する国家主義的・全体主義的・デジタル独裁国家にこの国を一発で変換してしまえるようになる。これが中国を手本とし中国のようになろうとする菅義偉が目論む新たな国家ヴィジョンであり全力で突き進んでゆくことが決意されている路線だ。一般大衆・庶民はまあ何やらメリットがありそうなので自民党員でなくとも喜んでこの行政改革的な動きに肯首する。各種手続きが簡素化され行政サーヴィスも迅速に受けられる。日々の生活の中のわずらわしさが軽減され、効率もよく利便性も高いデジタル化。そうお得そうな面ばかりを宣伝されると、政府の一億総デジタル統計データ化計画に喜んで参加してしまいたくもなる。だがしかし、たとえいくらそれを望んでいなかったとしても、もうすでに全国民に番号は割り振られていて、人間をデータで管理する計画の下地には全ての人間がすっかり取り込まれてしまっているのである。もうどこにも逃れられはしない。点数化、監視、密告、群畜、全体主義。
どうやら新たにデジタル庁なんてものを立ち上げて、バリバリと仕事をしてゆくつもりであるらしい。楽しい楽しい夢にまでみた独裁の国家体制を作り上げてゆくための仕事でもあるわけだから、バリバリバリバリ働いて進めてゆくのも決して苦ではないのだろう。権力欲風味のシロップにまみれたパンケーキを舌なめずりして頬張るように、甘美なる独裁政権をその手に収めようとする。どんなにデジタル庁が突貫工事の急造省庁であっても、もはやその権力の座は少しも揺らぐことはない。全国民はよく手懐けられた犬のように国家のために忠誠を尽くして黙々と働くであろうから。ただし、政権が手にする権力が国民の働き(デジタル依存生活)なしには成り立たないものであるとするならば、デジタル化推進によって完成したデジタル官僚主義政府をそれぞれにダイレクトに(デジタル労働によって)支える全国民はその協力的な活動に対してそれなりの対価・報酬を国から受け取って然るべきなのではないだろうか。デジタル政府は全国民から集められた情報やデータを分析・解析して行政や統治に活用してゆくだろう。よりよいサーヴィスを提供し、暮らしやすい社会を構築してゆくために。人々の活動や移動の状況を把握するために、全ての鉄道の駅の乗降客数や空港の利用者数を日々集積するであろうし、全国のスーパーマーケットやコンビニで購入される品物も性別や年代別や時間帯別に全て日々ビッグデータとして集積されてゆくであろう。それぞれの国民がこの国で生活してゆくことによって刻々と作り出されてゆくデータや情報は、あらゆる側面での活動の効率化に利用するならば国家にとっての大きな財となる。その大きな富や価値を生み出す情報データ財を生産しているのは日々生活する国民であり、国家の政治・統治、経済、社会インフラなどの施策や運用に国民はダイレクトに関係し大きく貢献していることになる。国家が国民の情報やデータを各種政策研究や企業活動、公共事業などに使うならば、その活動によって得られた利益の一部(大部分)を常に全国民に還元しなくてはならない。パンケーキばかり食べていないで情報とデータの使用量を払わなくちゃだよ。われわれは自由に生きて生活するということで政府の事業や活動の重要な一部分を担っているというのにタダ働きをさせるとはなんたることだ。デジタル搾取を許さない。絶対に許さない。全国民が享受するデジタル・サーヴィスの利便性や効率化、自由化のみでは還元しきれない何かがそこにはある。それゆえに、デジタル庁などというぼんやりとした得体の知れない省庁がここぞとばかりに先走ってあれこれおかしなことを陰に日向におっぱじめる前に、国民の権利を守るためのデジタル民主主義の土壌の醸成や足場の確立は急務である。空疎なご飯論法を振りかざす政府のデジタル化推進にかこつけた全体主義体制・独裁体制の構築に抗うためには、デジタル・非デジタルを問わぬ社会全体の再民主化が必要となってくるはず。はんこの文化を守ることもそれなりに重要かも知れないが、かなりの確率で感染症の世紀となるやもしれぬこの二十一世紀の時代状況に即した新型民主主義の運用と応用の仕方をそろそろしっかりと考え始めることも必要なのではなかろうか。そして、それは縦割りを廃止してデジタルで繋いで手っ取り早く大雑把に急いでまとめちゃいますねみたいな方法でできあがってゆく方向性とは真逆のものであることは、とりあえず念頭に置いておいた方がよいであろう。どんなときも国民主権は原則中の原則である。
内閣記者会のグループインタヴューというものがある。この催しは相当に奇妙で実に異様なものである。官邸の部屋の奥のテーブルの中央に菅義偉が座り、そのテーブルの前に左右に分かれて(右手に一、左手に二)小さなテーブルがあって三人の記者が座って、この記者たちだけによるグループで首相にインタヴューを行うというものだ。それ以外の記者は、このグループインタヴューの模様を外野から眺めて内容を取材をする。変に形式ばっていて妙に厳かさを演出しているような会で、普通の記者会見とは大きく趣きを異にしている。なぜ普通の記者会見をしないのか。次々と記者の質問を受け付けてポンポンとそれに答えてゆくような記者会見のスタイルを菅義偉がかなり苦手にしていて何かそれに代わるものとしてグループインタヴューという形式が採用されたという説もあるが、あまり理由は定かではない。厳しい記者からの追及を受けてはひとたまりもないような脆さの上に嘘やハッタリも織り交ぜて築かれている内閣であり政権であるわけだから、それをかわすための妙策を講じることは菅義偉にとって首相としては真っ先に取り組まなくてはならない課題であったのだろうけれど。そして、どう見てもおかしい仕組みの内閣記者会のグループインタヴューが官邸で催され続けている。この催しがすごくおかしいのはあらかじめ記者からの質問はほぼ決まっていて、菅義偉はメモ用紙に書かれている回答文をただ読むだけであるという点である。これはもう完全に記者会見などというものではないし、グループでのインタヴューといえるようなものでもない。ただグループで前もって全てが書き記されている紙を見ながらセリフを言い合っているようにしか見えない(ちょっとでも突っ込みを入れると、すぐに前後不覚となり失言してしまう)。茶番劇といえるほどの劇のレヴェルにも達してはいない。全く何なのだこれは。近頃は、政府の皇室化ということがあちこちでいわれていたりもする。菅義偉は皇室ごっこでもやっているつもりなのでろうか。見るからにポンコツなのやお頭の弱いものたちが永田町にどさどさと集い、恐ろしい勢いで国会議員のレヴェルが低下し、国民の間で政治不信の思いが募りに募り、政治に対する徹底した無関心が蔓延してゆく。そんな状況を逆手に取って裏と表を狡猾に使い分け好き勝手にやりたい放題やってきたのが菅義偉のような政治家であった。ある意味ではドナルド・トランプのようなアンチ・エスタブリッシュメントからこの四十七年間なにもしてこなかったポンコツと揶揄されるようなタイプのきな臭い政治家である。政治のための政治を第一に考えてばかりいて終始それしか考えていない職業政治家でもある。グループインタヴューでは台本のように取り決められた質問と答えが述べられるだけ。真っ白なクロスがかけられた奥のテーブルの前面には柔らかな色合いの花々が飾られていて、その中央に菅義偉が置き物のようにちょこんと座っている。いきなり突拍子もない質問を浴びせかけられるような場面ではないので、叩き上げのパンケーキも穏やかな口調でゆっくりとテーブルの上に用意されているメモをチラチラ見ながら話すだけである。数あるメディアの中から代表して質問する記者を少数選んで言葉を交わす様式は、どこか皇室メンバーの誕生日に際してのインタヴューを思わせるような雰囲気も些かある。総理大臣による皇室ごっことは、もう何を考えているのかさっぱり分からない。しかし、このおかしなインタヴューの催しを、何の違和感をもたずに見れてしまう人々も実は多くいるのだろう。よく見慣れた閣議前の内閣勢揃いの場面などにある、この国の権力中枢が発しようとする厳かさの表出のさらなるパターンのひとつとして内閣記者会のグループインタヴューというものがあるのではないか。数々の不祥事や胡散臭い問題が頻出し国民の政治不信は高まるばかりで政府は内閣を権威付けするための厳粛さや尊崇さのアピールに躍起になっている。で、そんなごっこ遊びに乗じて菅義偉も国民にお言葉を伝えるかのようにグループインタヴューでの回答をメモを見ながら恭しく読み上げているだけなのではないか。しかし、あまり器用なタイプではないのでちょっとした小芝居すらもできないのか、どちらかというと皇室化というよりも耄碌したおじいさんが周囲の世話人たちによって用意された紙に書かれている文字を辿々しく読んでいるという風(あまり意味を理解せずに読んでいるだけなのか、読み上げる文章の区切り方が常におかしい)にしか見えなかったりもするのであるが。
日本学術会議の新会員の任命拒否のことについては、やることなすことが少し低級すぎてもはやあれこれ述べる気にはほとんどならない。おじいさんとおじいさんの間の嫉妬と怨恨が絡んだ泥仕合紛いの底の部分までもが見えてきてしまい、ばかばかしいとしか思えなくなってきた(最終的にはすべて杉田の責任ということにしてしまえばよいのだ。どんなに有能でも、その存在が鼻につくようになったら容赦無く切り捨てる。徹底してしらばっくれる菅義偉にとっては痛くも痒くもない事案である。後は長く居座り続けた杉田の陰で辛酸を舐めてきたものに甘い言葉のひとつでもかけてやりすみやかに登用してやればよいだけの話である)。結局、安倍政治を絶対に許さないと腹の底から最も思っているのは菅義偉その人なのではなかろうか。初期のコロナ対策で官邸主導体制が強化されて官房長官であっても蚊帳の外にされてしまったことをしっかり根にもっているのだろう。そこに積年の恨みつらみや憎しみも加わって。隙あらば仇敵を陥れる好機をねらっている。とりあえず、現在の自民党一強体制を土台に中国共産党の一党独裁政治を手本とするデジタル監視社会化を強く推進しようとしている政権であるので、あまり聞きたくもないようなことを提言したり答申してくる日本学術会議なんてものは遅かれ早かれお払い箱にされてしまう運命にあったということなのだろう。ただ、会議の存続のために学者連中がこぞってパンケーキを奢ってあげるようなことになるとしたら、これはもう本当に世も末だ。そして、決して今に始まったことではないが、現政権は情報公開の姿勢や透明性の堅持という意識に著しくかけている。聞かれても答えない。そのうえ、平気で解釈を変更し、改竄・隠蔽する。選挙で選ばれた代議員が陰でこそこそ話し合って決めたことであろうとそれは選挙で選ばれた代議員たちが国民になりかわってこそこそ話し合って決めたものであるのだからそれもまた民主的な決定となるというねじれた道理である。
今、もうすでに時代は大きく変わろうとしてる。七十代にもなろうかという高齢の指導者や政治家ばかりを目の当たりにすることも、もうこれからの時代にはほとんどなくなってゆくのであろう。地球上のいたるところで人々は、今のこの老いた世代の人たちにあまりにも多くのことを長きに渡り担わせすぎてきたのかもしれない。ただ、まだ苦しく大変だった時代をよく知る年長者というだけで敬いすぎてしまったのだろう。だが、それももうすぐ終わる。まもなく旧態依然とした価値観は跡形もなく崩れ去る。1945年より前の倫理や道徳や価値観を明確に引きずる世代(戦後に爆発的にこの地球上に誕生したベビーブーマー世代及び戦争末期の戦中派とそこに隣接して強く影響力を及ぼされた東京オリンピックのころぐらいまでに生まれた世代)のやり口は、この大いなる価値転換のときにあって、もはや完全に機能しなくなりつつある。そのことを彼らも意識的にか無意識的にかうすうす感じ取っているから、少しでも命脈を保ち続けようとしてかなり破れかぶれ感のある悪あがきをする。その最たるものがドナルド・トランプの米国大統領就任であり、安倍晋三の再チャレンジ長期政権であり、それを継承すると言い放つことで信任を得られると思い込んでいる菅パンケーキ内閣だ。目一杯に頑張って地位と権力にしがみつき続けようとする姿は、もはや哀れみの感情すら誘う。もうそういう時代じゃないですから。たぶんもう後戻りはしないから。あの頃は通用したのかもしれないけど、今はもうそういうの通用しないから。忖度なんて無意味だから。叩き上げ自慢とかもうちゃんちゃらおかしいから。叩き上げで技術を身に付けてきた工員やエンジニアたちがいっぱい失業したり転職したりしてますから。この二十年間、本当にたくさんの人たちが居場所を失って苦しんできていますから。みんなみんな政治家たちの仕事ぶりが十分に足りていなかったせいだから。それなのに新型コロナウィルスのときだけ家を失わないように仕事を失わないように会社が潰れないように株価や為替が下落しないようにとがぽがぽ金が投入されてばらまかれるのはなんだかちょっとおかしいですから。パンケーキの中味が自助・共助・公助では本物の叩き上げを不幸にしてしまうだけだから。人柄が信頼できないし、政策にも期待がもてそうにないから。もう終わりだから。生き延びるために、もう終わりにするから。もう終わりだから。もう終わりにするから。さよなら叩き上げ。さようなら。さようなら。窓の外は十月の雨。ぼくはここからはなれるよ。無数なる地へ。霧笛が俺を呼んでいる。

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