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【無料記事レビュー】第12回オンライン気づきのサーラー(アーサラハブチャー祭り)


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第12回オンライン気づきのサーラーが終了しました。

タイ仏教のコミュニティ、ウィリヤダンマアシュラムのサーラー=集会所の鐘の音のもと、気づきのトレーニングの仲間たちとチャルーン・サティをする2時間を過ごしました。

今回は、アーサラハブチャー…ブッダが初めて説法をされた日を記念するタイ仏教3大祭の一つ…の日に気づきのトレーニングを行い、またろうそくの明かりでブッダのご遺徳に感謝をささげました。

またご参加いただいたプラユキ師からは、この日が事実上の仏教の誕生日で私たちの精進を改めて決意する日であることや気づきのトレーニングのプロセスやポイントなどいろいろなご教示をいただきました。

詳しくはこの後のレポートをご覧ください。

次回のオンライン気づきのサーラーは8月21日(土曜日)に開催します。

ご僧侶の読経や説法、そして気づきの仲間の気配とともに、また学びの時間をご一緒できればと思います。

チャルーンサティ・オンラインコミュニティスタッフ

ひろ
さとみ
鉄平


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 参加しているタイの方にも画面を通してプラユキ師ご挨拶。

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ウィエンティエン。ろうそくとお花を持ってサーラー内を3周します

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多くのご参加ありがとうございました!



第12回 気づきのサーラーシェア会

参加数:31名
ゲスト:プラユキ・ナラテボー師

(以下のシェア内容は、スタッフが聞き取ったものを文章化していますので完全ではありません。どのような雰囲気かをお伝えするためのものですので、この文章を引用することはお控えください。)


🌿アーサーラハブチャーについて
  解説:プラユキ・ナラテボー師

・日本では三宝節と訳される。
・三つの宝。即ち『仏・法・僧』がこの日にめでたく全部成立したと言うこと。
・一修行者だったゴータマ・シッダールタがダンマをお悟りになられ、ブッダとなった。
・ダンマ自体は宇宙法則、自然法則なので常にあるが、その法則をブッダが発見していなければ、この世に出ることも無かった。
・更に、5人の僧侶がブッタの説法を聴き、僧団が出来、『仏・法・僧』が成立し、仏教が誕生した。
・法をブッダが発見し、僧侶達が後世へ伝えてくれた。そのおかげで私達はこうやって修行ができている。
・そういうことに想いを馳せる事により、感謝し、法を学び、実践してブッダや僧侶が至られた境地に邁進しよう!と励みにする日として続けられるといいと思う。

🌿ヴィエンティエンについて
  
・お堂を三回まわる。
・一周目:ブッダの九徳を偲ぶ
・二周目:タンマの六徳を偲ぶ
・三周目:サンガの九徳を偲ぶ
・感謝を捧げる
・仏法僧の恩恵を受けて、仏道精進、邁進していくぞ!という決意を胸に思いながらまわる
・タイでは雨季が始まる時季で、明日から安居と言って、托鉢はまわるが、それ以外は出かけずジッとお寺を中心に修行を進める。
・雨季にむやみに出歩くと草や虫を踏んでしまう可能性があるため、不殺生戒の意味も含まれる

🌿仏教三大行事と仏法僧の威徳の解説

・大乗仏教:
   4/8 :降誕会(花まつり)
   12/8:成道会
   2/5 :涅槃会

・テーラワーダ仏教:
   旧暦6月満月:仏誕節(ブッダが生まれ、悟り、涅槃に入られた日)
     ※タイ→ヴィサカブチャー

   旧暦8月満月:三宝節(ブッダが初めて法を説き、弟子がそれを受け止め僧団となり、仏法僧が揃った日)
     ※タイ→アーサーラハブチャー

   旧暦3月満月:万仏節
     ※タイ→マーカブチャー

🙏仏の九徳
 ①阿羅漢であり(一切の煩悩を滅尽し、尊敬、供養を受けるに値する方)
 ②正自覚者であり(完全たる悟りを最初に悟って、悟りへの道を教えられる方)
 ③明行具足者であり(八種の智慧と十五種の行「性格に関する徳」が備わっている方)
 ④善逝であり(正しく涅槃に到達した、善く修行を完成した、正しく善い言葉を語る方)
 ⑤世間解であり(宇宙、衆生、諸行と言う三つの世界を知り尽くした方)
 ⑥無上の調御丈夫であり(人々を指導することにおいては無上の能力を持つ方)
 ⑦天人師であり(人間、神々等一切衆生の唯一の師)
 ⑧覚者であり(真理に目覚めた方、佛陀)
 ⑨世尊である(全ての福徳を備えた方)
※( )は日本テーラワーダ仏教協会 日常読誦経典より

🙏法の六徳
 ①徹頭徹尾善く説かれた教えであり
 ②行じた者が、自ら実証した教えであり
 ③普遍性があり、時を経ず、果を与える教えであり
 ④みなさん!来たれ!見よ!と自信を持って伝えられる教えであり
 ⑤実践者を苦の終滅、最終地点、涅槃まで導く教えであり
 ⑥賢者達によって各自悟られるべき教えである

🙏サンガの九徳
 ①世尊の弟子たる僧団は、正しい道を実践するのもである
 ②真っ直ぐに道を歩む者である
 ③涅槃を目指して修行する者達である
 ④尊敬に値する道を実践する者達である(四双八輩というハ類に属し、預流果以上の僧団)
   ※ 預流果:三つの煩悩をクリアした方
 ⑤遠くから持ってくるものを受けるに値し
 ⑥来客として徳を受けるに値し
 ⑦徳を積むために供えるものを受けるに値し
 ⑧礼拝を受けるに値し
 ⑨無上の福田である

と言う、それぞれのクオリティーを確認していく

🌱Q 1
ひろさん:
  悟りの段階って想像もつかないが、
  そういうものがだんだんと出てくるものなのか?

😊プラユキ師:
  ある意味では出てくるということもある。
  もともとあった縛られていたものの縄が解けるみたいなニュアンス。
  縛られた10項目が、だんだん3項目解かれていき、最後の段階まで解かれていく感じ。


🌿ダンマ(=世界の法則性)は4つの文脈で語られることがある。

①ダンマ
②ブッダの教え
③善いダンマと悪いダンマ(タンマとアタンマ)
  →法則性なので分けようと思えば善と悪に分けられる。
  →法則性を正しく運用するのか?悪用するのか?
④ダンマが顕現するという表現がある。
  →私達が目の当たりに悟る。


🌱Q 2
ひろさん:
  悪いダンマとは?

😊プラユキ師:
  不善全般。
  怒り、貪り・・・悪法に分類
  善いダンマと悪いダンマを分類してより分けて使う方法もある

🌱Q 3
ひろさん:
  5人の弟子に説法をされた時に初めてダンマが生まれたとのこと。
  もともとあったダンマと生まれたダンマとはどういう意味か?

😊プラユキ師:
  発見されずに埋もれてた。
  実際はこの世界の法則性なので、無常性だったり、無我であったり、縁起とか、そういったものがもうこの世界に遍満しているというか、それ自体がもう成り立っている。
  それはまだ誰にも見つかってないわけで、それをブッダが発見してくれて、こうなってるよ〜❣️と表現してくれて、初めて私達の世界に顕になったと言う意味での誕生。
  もともとのダンマは、もう地球が生まれた時からあったと言うわけ。
私達の目に触れることができたのは、ブッダが発見して広めてくれたから。
  ブッダが発見して広めない限り、ダンマに触れることは出来なかった。

🌱Q 4
ひろさん:
  ブッダは善友がいることは悟りそのものであると言ってたと思うが?

😊プラユキ師:
  悟りそのものとは言ってない。
  善友があるということは悟りの前兆という表現。
  良き善友がいるということは、そこから善き学びがあるということ。
  善き学びがあるということは、それ故に私達が善きことを理解する可能性が生まれる→(これを如理作為と言う)
  それを実践できる可能性が生まれる。
  一番原点になるのは善き友があるということ。
  それが無ければ善い教えも聴く機会を持てない。
善い教えを聴く機会を持てないと、善い教えを理解できる機会を持てない。
善い教えを理解できなければ、善い教えを実践できる機会も持てない。


🌱Q 5
Aさん:
  善いダンマと悪いダンマについて。
  善いダンマが『無常・苦・無我』に対し
  悪いダンマは『常・楽・我』ということか?

😊プラユキ師:
  偏った見方を“悪いダンマ”と表現。
  全てが常だ、全てが楽だなどと
  『常・楽・我』に捉われた見方をすることになると執着となり
   それは悪いダンマに分類される。

Aさん:
  ダンマ、ダンマを繰り返すお経がある。
  その存在をそのまま受け入れるという掴みか?

😊プラユキ師:
  クサラーダンマ・・・善のダンマ
  アクサラーダンマ・・・不善のダンマ
  ありのままであるよねと言う見方で観ていく
  ダンマをもう一つ高い視点から観ていくお経

  いろんなダンマがある。
  その中には善いダンマも悪いダンマもある。
  善も悪も無く、単に法則性として自然の中にある価値観点を抜いた視点からダンマを観る視点と、価値、善も悪もあるものとして観る視点からも観れるという感じ。

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🌿シェアコーナー

☘️Bさん:
  最近の気づきとして、プラユキさんの瞑想会で説明されてた『五力+捨』の“捨”は、無視や無関心では無いと説明され、今回ピンと来た。
  瞑想中に考えてみたところ、思考を今までは無視や無関心だったんだと思った。いろんな思考が湧いて来た時、思考を無視するのはかわいそうだな。無関心も、思考を無視するのももったいないな。
なんか良いことがあるんじゃないかと、そんな視点だったが、そうじゃなくて、無執着なんだなぁと。思考が湧いて来た時に、無視するのでも無関心でもなく、執着しない。そうなると、すごく観ていられる。それでやっと思考がどこから来て、どういう風に消えていくのかというのを執着せずに観ることができると気づいたのが手掛かりとなった。


😊プラユキ師:
  まさにその視点が『中道』というところかもしれない。
  “捨”には『無執着』と『中道』と言う意味がある。
  平常心。捉われず、正常でいられる。
  例えば、これは毒物だな。毒物じゃないな、と。
  毒物があっても良いが、それを取って食べれば体に影響を及ぼす。
  あるな。と、ただ理解している分には、それは大事には至らず。
  対応のあり方としては“触れる感じ”
  ちょっぴり触れてみて、分かりつつも、それにしがみつかない。
  そんな視点がもてると、世にある悲しみ、憎しみなどの様々な感情があっても巻き込まれないでいられる。でも、味はよく分かる。と言う意味では世界を共感する時の在り方として、捨によって体感できる。


☘️Cさん:
  久しぶりに参加。日常的にも忙しく、仏教に触れ合う時間を取ることができなかった。そう言う時こそ瞑想をするのが良いことを、しばらく離れていて痛感しているところ。
 なので、今回、ちゃんとやろうかなぁと思い再開した。
 今日は三宝節などの仏教の文化に触れられて、すごく良い時間を過ごせました。


☘️Dさん:
  瞑想は始めたばかり。お坊さんの読経の声が割れていた。
  手動瞑想を行なっていて、結構辛かった。不快だった。
  お経自体が不快なわけではなく、音が割れていたのが不快だった。
  しばらく観察していた。すると、ハウリングするちょっと手前になる と、勝手に予期して不安というか、嫌な感じ、不快が大きくなることが分かった。で、しばらくしたら、なんかよくわからないが、慣れてきちゃった。
  自分は経験が少なく、本当かどうか分からないが、修正が苦手で、自ら苦を取りに行っちゃう。
  で、ハウリングが無くなったら、寂しくなっちゃった。もう少し瞑想時間を積んで、本当なのか確認したい。瞑想、1時間で止められるのが悲しくて。でも、それだって嫌な人なんですよ。屈折してますよね!


😊プラユキ師:
  嫌な人、屈折してるというのは、もう価値判断。
  そこで敢えて嫌な人を作っちゃう感じになる。それが思考の働き。その思考をしなければ、ただのそういったものに最初は捉われて嫌だなぁと思うが、でもある種、発見して、慣れというか、或いは捉われが無くなったのか、そのことによって、また今度はそれが心地よく感じられるようになったという。まさに、それ自体が全て縁起によって起こっているということである。それをそのまま、あるがままに観ていて、別に、そういう自分はおかしい人だ、嫌な人だとかで、自我的な解釈をしないでやっていくと、更に更に『法』が観えてくる楽しさを感じられていくかと思う。

🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃
  
✨プラユキさん、お忙しい中皆様からのご質問に誠意を持って丁寧にお応え頂き、本当にありがとうございました🙏
このお導きを無駄にすること無く、学び、精進致します🙏🙏🙏✨

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