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【レビュー無料記事】第16回オンライン気づきのサーラー瞑想会(11月21日開催)


★100円設定ですが、レビューですので無料で全文読めます。



第16回オンライン気づきのサーラー瞑想会が終了しました。

タイ仏教のコミュニティ、ウィリヤダンマアシュラムのサーラーの鐘の音に始まり、今ここに気づく瞑想の仲間と2時間を過ごしました。

ご僧侶の説法がアシュラムのサーラーに響く中、それをオンラインで聞きながら日本の参加者のみなさんそれぞれの場所で瞑想を実践しました。

みなさんと体験をシェアする時間では、ご僧侶からの「人にはいろいろ違いがあるが苦しみの理由はみな同じ」というご説法や、参加者の方の「理不尽な出来事が続いて気づき持っても心が騒ぎつつづける時には?」など、気づきのヒントの多い時間になりました。

詳しくはこの後のレポートをご覧ください。

次回のオンライン気づきのサーラー瞑想会17回は12月25日(土曜日)の開催です。

ご僧侶の読経や説法、そして気づきの仲間の気配とともに、また気づきの学びの時間をご一緒できればと思います。

チャルーン・サティオンラインコミュニティスタッフ

ひろ
さとみ
鉄平


🍃シェア会レビュー🍃

🌿ひろさん(瞑想前のお話し)
 スティサート師の説法より、気づきを立てる方法としてメインとサブを立てる方法があり、例えば人の話しを聴く時に、先ず話しを聴くことをメインに気づきの柱を立てて、同時に自分の体にサブで柱を立てると言う様なお話しだった。
 なぜこの話しに興味を持ったのかと言うと、自分自身が人の話しを聴く時に、すごく感情とか思考が湧いて来ると言うことがある。相手の話しを聴いてそれに気づいていくと言うことが、理屈では分かるが、なかなか難しいなと言うのが正直な気持ちだ。
 そう言えば、スティサート師も話している時に時々膝を撫でたりしているが、まさにその時、メインでは話すことに気づきの柱を立て、サブで膝を撫でて体に戻っていると言うことなのかなぁと感じた。
 日常でいかに気づきを使っていくかと言うのがチャルーンサティの本領だと思う。気づきが高まり自然な形で出来ていくといい。
メインとサブについて浦崎さんはどう捉えていますか?

🌱浦崎さん
 話しを聴いている時、相手の感情に呑み込まれそうになった時に、フッと我に戻る杖みたいな感じ。もちろん話しを聴いていることをメインにしているが、ちゃんと吹き飛ばされない様に戻ると言う様な役割もあるんじゃないかと思う。どちらがメインでサブかと言うのも、まあ、スイッチしてもいいし、それを意識することで、ちゃんと体に戻るよと言う上ではメインとサブはいろんな活用ができるのではないか。

🌱ひろさん
 気づきと言うのは、観ることとか、理解することが伴ってないと育っていかないし、いつ育ち始めるのかと言うのもコントロール出来ない。ただ自分を感じることを繰り返して行うことがそれに繋がる。出来ているかなどの判断や評価などではなく、「判断しているな」とか「評価しているな」とただ知るを繰り返して行くことが大事。
 浦崎さん、理解することに関して補足などありますか?

🌱浦崎さん
 理解するとは、試験の範囲内で答えを出さなければいけないと言う答えの出し方ではなく、自ずと分かる。そのためには一回一回、今感じると言うことを知る。答えは出る時に出る。原因を積み重ねて行けば理解が訪れる。原因を作ることしか出来ない。


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🌿浦崎さん(スティサート師の説法のポイント)
・お題目は八聖道のお説法
・八聖道はイメージとして八つ全て一気に実践しなければならないと思われがち。
・八聖道はどれも繋がっているため、どれか一つをしっかりと行えば、他のものにも繋がって行く。
・チャルーンサティの瞑想も“サティ”なので“正念”と言う八聖道の一つで、それを気づきのサーラーで実践している。
・例えば、人によっては“正語”を実践。言葉を使う時は正しい言葉を使うとことを意識していると、それが気づきにも繋がって行く。
・どれか一つ意識してやってみると、それが全部繋がって行き、それに伴っていろんなものが整って行く。
・私達がこの世界に生まれていろんな苦しみや問題を抱えるわけだが、理解とは、世俗の価値観では、何か資格を取るために、何かを得るために、頑張ったら取れるなどの価値観で動くが、タンマの世界では、頑張れば頑張るほど得れない。苦しみを越えたい、悟りたいなど、得ようとしたら逆に得られない。
・ブッタは“得られない”と言っているのではなく、苦しみを越える条件が整えば、苦しみを越えられると仰っている。
・ブッタは“こうなるよと言う道筋”をしっかり教えて下さっているから、哲学とは違うと仰っていた。
・“こうしたらこうなるよ”と言う修行の歩みをしっかりと伝えて下さっている。
・私達一人一人の人生というのはまるで、性別とか国との違いもあるが、一人一人の人生も違う。一人一人が一冊の本みたいなものですねと仰っていた。
・苦しみの原因と言うのは、外側から観るといろんな苦しみがある様に観えるが、元々は渇愛や執着にたどり着く。
・他にも沢山話されていた。

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🌳シェア会🌳

☘️Aさん
 浦崎さんのスティサート師の説法のお話しが面白かったので、ゾクゾクして聴いていた。世俗とは違うということが面白い。普通努力して何かを得られるが、条件が整ったら生じるというのが面白いと言うか、聴いてみたいなぁと思った。
苦の原因、苦しみの原因を観て、そこから更に観て行くと執着とかがあると。分かりにくいのは、普通自分も俗人なので、一生懸命頑張ろうとして失敗する。瞑想を頑張ろうとして失敗するってしょっちゅうある。上手くいかない。
 でも、努力しないでやるとか、条件が整うと言うのは、タムレンレンとかにもしかしたら繋がるのかもしれないが、“努力しないで”と言うと逆説的で、努力を手放した方が、逆に“来る”みたいな、そう言うことかなぁと思うが、“条件が整う”と言うことをもう少しお話し頂ければと思う。スティサート師の説法のポイントをもう少し掘り下げて聴きたい。

🌱浦崎さん
・何かを成し遂げたい。例えば修行したいと言うのも、最初は欲と言うか、頑張ろうとする意欲で、想いはとても大事。
・次に結果を得たいと言う感じになると、最初の純粋な気持ちでは無く、“結果を引き寄せたい”みたいな気持ちになってしまうと、実際に正しい原因を整えなくても“結果だけ得たい”になりがち。私達人間は欲に捉われてしまうことがある。
・山登りみたいな感じ。山登りは一足飛びにポーンと上まで行きたいと思うかもしれないが、一歩一歩、歩んでいれば自ずと頂上に着く。歩いている間頂上ばっかり眺めていると、辛くてもう止めようと思ってしまう。
・正しい原因を作ると言うのは、一歩一歩、歩くと言うことと、スティサート師の説法を伺っていて、そんなイメージかなぁと思った。
・世俗の中で何かになりたいと思った時でも一歩一歩、歩いて行かないと。
・努力を止めるわけではなく、一歩一歩、確実に歩くことが大事。
・早く結果を得ようとする、そっちの頑張りを手放して行く。
・この見分けを私達はハマり込んでいるとなかなか気づき難い。
・だんだん心の微細な感じが分かって来ると、「あっ、これは結果を欲しがってるなぁ」と言う感情に気づきに間に合えば、手放せると言う感じになって来る。

🍃Aさん
その辺の逆説的な話しがすごく面白い。難しくけど深い。有効な話しだと思うので、ぜひ訳して貰いたい。

🌱ひろさん
スティサート師の説法の中で、みんなそれぞれ人間的なところは違うが、苦しみの原因は同じだと言う理解でいいのか?

🌱浦崎さん
 表面的に出てくる物語はいろいろある。家族、お金、仕事など、人生の物語としては違うが、よくよく観てみると、“こうなりたいのになれなかった” “欲しいのに得られなかった” “愛する人が去って行って淋しい”とかいろいろあるが、どんどん突き詰めて観ると、執着してしまっていることが苦しみとなっていることが分かる。

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☘️Bさん
久しぶりに参加。
スティサート師の説法を聴きながら手動瞑想を行った。
グループで瞑想、ブッダの教えを学ぶと言うのは励まされる。
また参加したい。

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☘️Cさん
 前回、初めて参加した時にも話したが、周りのちょっとした樹と繋がっている様な感じがしていて、それがどんどん広がって、太陽の光を浴びてもそうだし、家の中にいる時も全てと繋がっている様な感じになっている。すごく幸せな感じで過ごせることが出来て、今日も瞑想している間にタイとも繋がっている様な感じ。皆さんとも繋がっている様な感じ。すごくありがたいなぁと感謝の気持ちが湧いてきて、そんな気持ちで今日は瞑想させていただいた。
 本当に仏教に出逢えて良かったなぁと思っている。
 ここの集まりに参加させて貰ったのが、今までで一番居心地が良く、いいところを見つけて本当にラッキーだったと思っている。
これからも宜しくお願いします。

🌱🌱🌱🌱🌱

☘️Dさん
 仕事でゴタゴタがあり、平常心でいられない状態となった。翌日もこの気持ちが続くのだろうなぁと思いながら就寝。
 事実行為としての嫌な気持ちはあるのだが、妙に冷静に自分を俯瞰している自分がいた。腑に落ちずに怒っている気持ちはあるが、それはそれでしょうがないと言う、すごく冷静でいられる自分がいた。これまでに経験したことが無い。
 これは、瞑想の時間がコロナの影響もあって多くなった事と、浦崎さんのFacebook Liveの配信のお陰で、同じ時間に継続的に瞑想実践しルーティン化していると言うことが、心が落ち着いたまま事実を受け止められた。
“私”が無くなって“行為の部分だけ”が鮮明になり、「あっ!そうなんだな」と納得できた。こう言った修行と言うのは、“継続は力なり”だなぁと思った。

🌱ひろさん
浦崎さんへ。瞑想のルーティンの良さ、意味とは?

🌱浦崎さん
・いつ結果が出るかと言うのは分からない。
・それを感じられる、「あっ、こういう感じかな?」と感じられるのは人それぞれだと思う。
・いつまでに達成しようと言ってもできるものでは無い。
・Dさんがこれまで感じられなかったことが、今回感じられたと言うことは、ゴールでは無いが、「あれっ?これまでと違うなぁ」と“違いを感じられる”と言うことがとても大事な事だと思う。
・さっきのスティサート師の説法でも、「理解が出来ると、それに対する対応の仕方が分かる」と仰っていた。
・例えば、火があったらわざわざ踏みに行かない。避ける。
・もう一つの例えでティアン師が「うんちを尊重しろ」と仰っていた。犬や鳥のうんちを見たら避ける。わざわざ踏みに行かない。うんちに気づかなかった時に踏んでしまうわけで、「あっ❗️これ、うんちだ‼️」と分かったら、うんちをまるで尊重する様に避ける。
・それが観えたら、それに相応しい対応が出来る。観えてしまえば正しく対応出来る。ここがDさんのお話しと通じるところかなぁと思う。
・心の世界は手放そうと思ってもなかなか手放せるものでの無い。
・さっきの、頑張って達成すると言うものではなく、本当に正しくコツコツと修行を積んで行って、そして、ある日、「あっ!こんな感じかな?」と分かると言うものなのかなぁと思う。

🌱🌱🌱🌱🌱

☘️Eさん
 瞑想を始めて、怒りとか悲しみとかの激しい感情を割りと速く掴んで、速く対処出来ていて、上手く行くことが多くなった。
 ただ、最近厄介だなぁと思っているのが、怠け心的な、やる気の無さみたいなのがある。あんまりハデじゃ無いので、結構自分がそれにくっ付いてしまってから気づいて、「だいぶやる気ないなぁ…」みたいな。「めんどくさいから今日は瞑想飛ばそう!」みたいな感じになってしまう。なかなかこれが強敵だなぁと思う。
 怒りはすごく分かりやすい。食欲なども分かりやすい。
怠け心はジワジワやって来て、気づくとくっ付いちゃっているので、なかなか難しいなぁと困っている。

🌱ひろさん
スティサート師も瞑想で飽きたら庭を履くとかして自分の気持ちを切り替えるなどと言われていた。

🌱Satomi
 私も今でも怠け心は起こる。
 その時の対応として、「飽き飽きが来た!」と思うようにしている。
やりたくないなぁと思ったら、「あっ!飽き飽きだ!」と知る。そう思ったら“何も考えずに動く”ことにしている。それを何回も繰り返すことで、飽き飽きも減って行き、気持ちも軽くなって動ける様になる。
浦崎さんのnoteに書いてあることで、その通りやっているだけ。

🌱 Eさん
「飽き飽きが来た!」と言うのと、ひろさんが言っていた作務では無いが、用事を挟んでと言う二つを組み合わせたら対処出来そうな感じがして来た。
ありがとうございます。

🌱🌱🌱🌱🌱

☘️Fさん
 いつもの通り、皆さんの経験と質問のお答えが一つ一つ身に沁みると言うか、楽しいなと思って聞かせて貰っている。毎日瞑想している中で、症状が生じてきたのと、気づいて消滅して行くというのを繰り返す感じ。
 時には同じことが繰り返し繰り返し生じてきて、もうn繋がっている様に感じる。
 例えば、仕事で理不尽なことを言われたことが瞑想の時に浮かんで来て、ちゃんと気づくが、ずーっと気づいているのに無くならない。消滅しない。それが長く続いて来ると、10分とか20分とか続いて、さすがに嫌気が出てくる。「自分のやっていることは正しいのか?」と思いながら気づく、手放すと言う意識は出来るだけ続けてやっている。
 これがちょっと辛い時間にもなったりして…ただ、翌日には完全に消滅していて、どうと言うことが無くなる。その10分〜20分の辛い時間について皆さんにお伺いしたい。

🌱Satomi
 私も仕事で理不尽な事をたくさん言われて病気にまでなった。今は克服しているが、やっぱり以前のことを思い出し、フラッシュバックして苦しくなったりすることがある。そんな時は、「あー、また来たなー」と受け入れて横に置いて置く。そして別の仕事に集中する。私の場合は茶碗を洗ったり、料理したり。すると、いつのまにか消える。手放せる。それの繰り返しで、だんだん薄まって行く感じ。

🌱Cさん
 私の場合、状況は違うが、子供の頃から嫌なことがあり、そのことがずっと尾を引いてて、大人になっても思い出す。
 私は自分を責めることをして生活してきた子供だった。何をやっても足が悪いからダメなんだと言う思いが常に頭から離れず、ずっと苦しんでいた。
 瞑想したから克服出来たと言うことでは無いが、考え方としてそう言う思考に入った時に、頭の中にそう言う思考を作るプログラミングがあって、それが勝手にカチッとswが入ったみたいにループ状にずっと繰り返す。
それに自分がハマってしまうと抜け出せなくてその中にずっといると言う感じになる。
 仏教を勉強したり、瞑想したりしている内に、娘の手助けもあって、“古いプログラムだからそれが頭に残ってて、勝手に動いている”と。“それは今、自分がただ再生しているだけだけど、今の自分の考えとは違う”と言うのにちょっとずつ気づく様になると、その古いプログラムを削除出来る様になる。そうすると、そう言うものが起きても、もう、そのループには入らずに済む。今までカチッとハマっていたswが無くなり、そこにはもう行かなくなる。
 私は子供の頃からいろんなことがあったので、子供の頃に作った訳の分からないプログラムが山の様にあり、でも、1個ずつ気づいて行くと、なんでそんな考え方をするんだろうと思うようになり、その思考が浮かんできた時に「あっ、これは今の私ではない。昔の私が作っていたものなんだと気づける様になる。思い出した思考は常に過去の自分が作ったもの。それを自分が引っ張り出して来て同じことをやっているだけのこと。本当に要らないものを山の様に捨てて、今は、今を生きることが出来る様になった。
 ヒントになるかは分からないが、こう言う例もあるということでお話しさせていただいた。

🌱Eさん
 自分の場合、瞑想を始めてから激烈に嫌なことに会うことが少なくなった。嫌なことがあったらあったで一緒にいてあげる。嫌なことを言われて悲しくなったり、怒ったりしたら、ネガティブな感情を受容する。そして一緒にいてあげる様にすると、感情が意外に弱くなるなぁと最近思う。弱くなって来るのに気づいて消えると言うことが多くなって来ている。

🌱Fさん
皆さん、いろんなお話しをありがとうございました。
また参考にさせていただき、日々精進していきます。

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☘️Gさん
 やって来るものは先ず受け取って、嫌なものとして消そう、闘おうとはせず、優しく一緒にいてあげると言うのが自分の好みではある。
置けるのであれば置いておく。置いたものも変化するので、上手く消えて行ってくれるかも知れない。
 上手く消えない場合は一人では無理なので、誰かに聴いて貰うとか、グループで共有するとかして誰かの力を借りて対応すると言うのが良いと思う。
自分は取り敢えずどんなものでもありがたく受け取って、それからどうしようかなぁと考える。

 日常生活を普通に送れるというのはとっても良い。修行だと思う。気づきと共に。その時に“私が、私が”の“我”がたくさん出て来る。それに「あっ!来た!」と気づいて、それとどうお付き合いするかと。
 来たなと思ったら、私の場合、自分だけではなく、全体の中に自分がいると思って、その全体のことを考えたりする。全体の中の自分が全体に戻ると、フッと“我”が外に出たなと言う感じ。その時、“我”が小さくなったり薄まったりする。
 そう言うのを日常生活の中でちょこちょこやって行くのが楽しい。日常生活が本番なので、どれだけ我が立ち上がって来るのかに気づいてどうするか?その積み重ねだと思う。人生を試されている様な感じもあり、どうするかって言うのも生き甲斐に繋がっているのかなぁと思う。

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☘️Hさん
Aさんのお話しに共感するところがあった。
⚪️プラユキさん:今ここに無い理想の自分に縛られない。
⚪️スティサート師:行き先に心を奪われない。
⚪️カンポンさん:善き結果を得ようとするのではなく、善き原因を今作って行きましょう。
 結果に捉われる時と言うのは、善き結果を頭の中だけで思い描いている未来で、心が未来へ行ってしまっている。今、ここの一歩を踏み重ねましょう。この3つの言葉を紙に書いて貼っている。要するに、すぐ忘れてしまうから。結果とか、そっちの方へ行ってしまいがちになる。
 だからこれを見て思い出す様にしている。その様にするのが気づきとしても良いのかなぁと思う。
 私の場合、怒りと言うのを今すぐ解決出来たらいいのになぁと。理想の結果にいつの間にか心が奪われてしまっているのかなぁと。それとのギャップがあるから苦しんでいるのかなぁと。そう思うと、怒りが大きい時と言うのは相手と分かり合えないなぁ。そんな時と言うのは、その人との理解との距離が遠い様なもので、距離が遠い場合と言うのはなかなか埋まらない。
 先程の浦崎さんの山登りの例で、山頂に直ぐに行きたいけれど、でも一歩一歩、歩んでいくしかないという事で、そういう意味では先を急がず、やっぱりこの今の一歩に戻すと言うのが大切なのかなぁ。そう言う意味でこの3つの言葉がお役に立てるといいなぁと思った。


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☘️Iさん
 皆さんの話しを聴いていて、特にDさん、Eさんの話しで“我”がどんどん減って行き、“行為だけ”になる感じと言うのが、苦しみを減らすポイントだなぁと自分でもすごく思っていたことで、無我と言うか、“業”が行為で流れているんだなぁという感覚になってから、結構日常生活で人にキツいことを言われた場合、自分が悪いところは受け止めるが、別に全部自分が受け止めて凹まなくて良いと言う感覚でいられて、その後、余計な悩みに繋がらないと言うことがよくあって、これって本当に良いことだなぁと思う。
 その反面、どうしても自分の昔からあった弱点と言うか、変なところで臆病だったり、家族間の事だとどうしてもカッとなってしまうなど、なかなか上手く行かないなぁと思うこともある。
そう言うのも“無我”で、パッと解決‼︎と言うよりも、弱点は弱点として見守ってあげると言うか、傍にいてあげると言う感覚が大切だなぁと思った。

 デイサービスで働く様になって3ヶ月になるが、体操の担当になり、自分は元々人見知りで、人の前で話すと言うのが子供の頃から苦手だったが、意外と楽しく出来るなぁと思っている。
 最近、出来る喜びとか楽しいと言う感情に注意を向けようと言う意識が出て来た。以前はなかなか出来なかった。不快の方が、気づきに頼ろうとするが、快い感覚って、もうそこにハマり込んでしまい、何かあるとガクンと苦しみになってしまう。でも今は、楽しい、快い感覚があるので、そちらにも注意を向けようと思う。

🌱🌱🌱🌱🌱

🌿浦崎さん
今回もありがとうございました。
一人一人のお話が深くて、どんどんどんどん心の微細な感覚をしっかり観ようとしておられる。その様な感じを受けた。
Hさんの3つの言葉を書いて貼っていらっしゃると言うことで、素晴らしい実践だなぁと思った。
 スティサート師がもう一つ面白いお話しをされていて、私達は人間として生まれたと言うことが、もうすでに物凄い可能性を秘めているんだと。
他の動物と比べて人間と言うのはまさに未熟で生まれて来るが故に、何をするにもトレーニングして、喋ったり、食べたり、歩いたりするのも訓練の結果として身につけて来た。
 私達人間が言葉と言うものを持ってコミニュケーションを取れると言うことが、すごく幸運なことなんだよと仰っていた。
 言葉でもって、今私達がコミニュケーションをとって、ブッダの学びを何語でも語れる。そして、語れる仲間がいると言うことは本当にどれだけ幸運なことかと言うお話しをされていたので、言葉を貼っておられると言うことを聴いてスティサート師の話しを思い出した。私達は本当にラッキーだと言うことを確認させて貰った。

 来月のサーラーで説法があった場合、同時通訳を選択出来る様にしておく。
 この会もだんだん自ずとバージョンアップして行っている。最初からこんな風になることを狙っていたわけではない。一歩一歩、正しい努力を積み重ねて行くと、それに相応しいステップが、また観えて来るみたいな感じなのかなぁと思って感謝している。一人では作り上げられない。
ありがとうございました。

                          (以上です)

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