タイトルなし

【無料記事】パイサーン師の説法~オンラインで気づきを育むQ&A(10)テレビをつけて家族と一緒にご飯を食べながら、食べることに気づきを向けるのは難しいです。一人で食べなければならないのでしょうか?


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タイ仏教に関する説法を
日々少しずつ訳しています。

新しい説法を訳しています。

10月1日~21日までの3週間。

プッティカーという財団の主催による
『オンラインで気づきを育む』
パイサーン・ウィサーロ師のガイダンスによる
瞑想オンラインでのコースが実践されていました。


これは、今回で4期目。
約3000人以上の方がオンラインで学びました。
最初の1週間は、朝6時と夕方4時に基本、生放送。
朝には課題が出て、
夕方には質疑への回答をパイサーン師が行います。
第2週と第3週は、水曜日と土曜日の夕方4時に
質疑への回答。ただ課題は毎朝アップされます。

パイサーン師の解説、および日々の課題も
学びになりますが、とりわけ質問者からの回答が
非常に学びになりますので
この質疑の分を訳していきたいと思います。


第10回めの今日は

「テレビをつけて家族と一緒にご飯を食べながら、
 食べることに気づきを向けるのは難しいです。
 一人で食べなければならないのでしょうか?」


という質問です。


 これまた、多くの方が
 感じられている質問かもしれません。

 パイサーン師、
 今日もクリアーに
 答えてくださっています。


この記事は、継続有料マガジン
「月刊:浦崎雅代のタイの空(Faa)に見守られて」
内の記事で、継続購読すると月500円で読めます。
単品で100円でも読めますが
毎日アップしていきますので
継続購読がお得です。
もしよかったら、こちらのマガジンをご購読
よろしくお願いします。

(仏歴2561(2018)年10月2日)
 


<質問 10>

    ご飯を食べる時、一かみ、一かみ
 気づきながら食べるのが難しいです。
 
 なぜなら家族と一緒に食べていて
 テレビをつけて食べているからです。

 私は家族と離れて、
 一人で食べなければならないのでしょうか?


<パイサーン師の答え>

その必要はありません。

   ちょっと振り返ってみてください。
 瞑想修行を始める前
 家族と一緒にご飯を食べていた時
 テレビをつけて食べていて、そのテレビが
 邪魔だなと感じながらご飯を食べていましたか?

 あるいは、ただただいつものように
 ご飯を食べていましたか?

 もし瞑想修行を始めてから
 そのテレビが邪魔に感じるようであれば
 その修行のやり方は間違っています。

 修行は、実践すればするほど
 『ただただ』の力が高まっていくはずなのです。

 もし気づきがあれば
 音という刺激が生じても
 心まで刺激を受けることなく
 ただただ、感じることができるでしょう。

 修行をする前は
 音の刺激があったら、その音に
 心までついていって浮かれてしまいます。

 それを、はまりこみ
 というわけです。

 修行をはじめたら、外側の刺激を
 否定したり、拒否したり、
 思考が生じることを嫌悪したりしている。。

 それは誤った方法です。
 流されていくのでもありません。
 否定したり、戦うのでもありません。
 
   流されていくのは、はまり込みですが
 否定したり、戦ったりして
 イライラすることがあるとすれば
 それは、心の置き所を間違えています。

 気づきを高めること。

 それは私たちに、ただただいる
 ことの手助けをしてくれるものです。

 たとえ外側からどのような刺激があっても
 ただただいる、ことが
 できるようになってきます。

 ですから、ご飯を食べる時に
 気づきをもって食べるということ。

 家族がテレビをつけようがつけまいが
 気にする必要はありません。

    テレビからの音が聞こえたら
 聞こえたな、とただただその場にいれば
 いいのです。

 イライラすることはありません。

 イライラが生じたら、
   そのイライラに気づきを向けて
   イライラを置いておけばいいだけです。

 家族の人が話をしてきたら
 いつものように自然に話せばいいだけです。

 話をしていることに
 気づきを向けながら話す。

 話しが終わったらまた
 一かみ、一かみ、食べることに
 戻ればいいわけです。

 これも、一つ一つのことを
 やっているんですよ。

 食べる時には、食べることに気づきを向け
 話しかけられたら、話すことに気づきを向ける。

 話しかけられいるのに
 食べることだけに集中しなければならない、と
 話を無視する必要はありません。

 話をしたら、また
 心はまた食べることに戻る。

    食べることと、話すこと。
 それぞれに今やっていることに
 気づきを向けることが可能なのです。

 話している時に、ご飯のことを思い出し
 ご飯を食べている時に、
 話す内容を思い出すのではありません。

 話している時は、その人と話す
 そのものに気づきを向けていく。

 ご飯を食べている時は
 ご飯を食べていることそのものに
 気づきを向けていく。

 ですから、一つ一つのことに
 気づきを向けていく。

 それは、たとえ家族と一緒に
 ご飯を食べている時でもできます。

 家族だけではなく
 仲間たち複数の人とご飯を食べている時でも
 できますよ。

 話に誘ってこられても、大丈夫です。

 あるいは、誰かが誰かと話していて
 その音があなたの耳に届いていても
 問題はありません。

 苦しむ必要はありませんよ。

   なぜでしょう?
 
 それは、気づきがあるからです。

 もし気づきを鍛えているのに
 まわりの音にイライラ、むかむかして
 いたたまれなくなってきていたら
 それは、心の置き所が間違っています。

 ご飯を気づきをもって食べている時に
 テレビの音が邪魔してくる~!と感じる。

 それも、心の置き所が間違っています。

 気づきというのは、
 たただだ、の力が高まっていくことなのですから。

 心が真ん中に、ニュートラルに
 なっていくものなのです。

 ですから家族に背を向けて
 一人で食べる必要などありません。

 もしそうやって食べていたら
 家族の方との関係に問題が生じるでしょう。

   家族の方にしてみたら

 何なの? 
 修行をはじめたら、まるで
 家族との関係を断ってしまっているではないか!

 と、思われることも想像に難くありません。

 そんなふうに人との接触を
 断つことが修行なのではありません。

 日常生活の中で、普通に、自然に
 関係を持ちながら修行をすることは可能なのです。

 ただ、それらの環境に流されて
 はまり込むことなく
 それらの環境を否定し、戦うことなく。

 刺激に対して怒ったり
 拒否したりするのでもありません。

。。。。。。。。。。
浦崎感想

    一かみ、一かみ、
 ただただ気づきをもって食べる。
 
 もちろん、一人で食べる方が
 やりやすいですよね。

 お坊様たちの日々の食事や、
 瞑想リトリートのコースの場合は
 おしゃべりをしないで食べますが、
 それは気づきやすい環境を整える
 という意味があります。
 
 日常生活の中で家族と暮らす私たちにとっては
 そうした環境を整えるのは
 難しいですが、
 
 今日のパイサーン師のお話のように
 家の中にいても、家族や友人と
 ご飯を食べている時でも
 気づきを高めることは可能なんですね。

 修行を始めたら、変な人になっちゃった、、
 のではなく
 修行を始めたら、より自然になってきた、、

 というのが
 気づきや心の置き所が正しいかどうかの
 一つの指標なのかもしれません。

 ある意味、家庭の中で行う
 気づきの実践の方が、
 お寺や瞑想修行場で行う実践よりも
 難易度が高いかもしれませんね。

 しかし、まさにそこが
 今いる場所。

 あきらめずに、今ここでも
 実践できる。

 今日、食事を
 ご家族や友人と取られる予定がある方
 ぜひ挑戦してみてくださいね!



 

 
 
 

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