文字ではなく音で考える頭のなか

朝、外から虫の声が聞こえた。秋の夜に聞こえるあの虫の声。2週間くらい前だったか、朝起きたときに鳴いているセミがミーンとかジーとかいうのではなく、ツクツクボウシで、夏休みがもう終わるんだな。と思ったのですが、今日は、ああ、もう夏が終わる頃に近づいてるんだな。っていうのを感じました。


私は万葉集が好きです。正直で、心や頭の中がそれを詠んだ口と直結しているような清々しい歌が特に好きで、いちばんに好きなのが百人一首の二番目の歌でも有名な、持統天皇の

「春すぎて 夏きたるらし しろたへの 衣ほしたり 天のかぐ山」

百人一首の教科書では、「天香具山に夏用の衣が干してあるのを見て夏がきた清々しさを歌った歌」と習ったと記憶していますが、何かの本だったのか誰かのブログだったか、記憶があやふやなんだけどもちょっと違った解釈をしていて、それがすごくよかったです。

「天香具山の近くに訪れて「衣が干してあるな」っていうそのものを見て歌ったのではなくて、当時、持統天皇が治めていた藤原京から見える初夏の緑濃い香具山を、その上に広がる青空、そして夏らしいもくもくとした雲が浮かんでいるのを眺めて、その情景と晴れやかな気持ちを、さっぱりと洗われた夏用の白い衣が干されているという光景になぞらえて詠んだんじゃないか」と解釈していて、私はそちらの方を断然気に入っています。

私の持統天皇のイメージは完全に、里中満智子さんの漫画『天上の虹』の鸕野讃良です。

すごく聡明で強くてでも悩みも多いけども、その弱さは人には決して見せずに、みんなの太陽とあらんとする、あの感じなんです。

ああいった方が「ああ!夏ね!いいわね!」って思って、「ねえ、そうでしょう!ほら見てあの山!雲!」って周りの自分に仕えている人たちにも言っている。

きっとこの歌を詠んだ日はすごく天気も良くて、夏のはじまりの気持ちの良い日だったと思うし、気分もよかっただろうし、こういう清々しい歌を読む心持ちなのだから、その場にはお互いを好きな人達が集っていて、そういうすべての嬉しくなる要素が揃った場面だったんじゃないか。そんなすごく幸福なシーンが思い浮かんで、私もそこに居合わせたようないい気分になれます。


そんなことを夏だな、って思っていたんですが、そこから日本語、口でとなえて書き留められた言葉、漢字とひらがなのことを考えました。


4歳の子どもが、忍たま乱太郎というアニメを好きで、登場人物の名前を驚くほど覚えていて「おはまかんえもん」「やまむらきさんた」「たむらみきえもん」「いがさきまごへい」といった名前を、毎日、仲の良い友だちを呼ぶように口にしています。

まだ、ひらがながの覚えはじめで漢字は読めないので完全に音で覚えています。でも漢字を知っている私の頭の中では音ではなく、「尾浜勘右衛門」「山村喜三太」「田村三木ヱ門」「伊賀崎孫兵」という風に文字で認識していて、だからその違いがなんだという話ではないんですが、音だけで日本語を認識している頭の中はどんなだろう。と思いました。

日本語はもともと文字を持たず、ハングルのように独自の文字を作り出すのではなく、中国から伝わった漢字を当て字的に使い、そこから表音文字のひらがなやカタカナが生まれ、意味を持つ単語は表意文字の漢字を使うようになった。

ひらがながまだ生まれていない、万葉仮名といわれる漢字の当て字で書き言葉を記していた時代、万葉の人々が歌を詠んだ、まさにその瞬間は、音に気持ちや意味を乗せたんだろうなと想像します。

字面ではなく、意味だけではなく、耳に響く音もきっと重要だったはずです。それはどんな感じだったのか。漢字とひらがなを使い分け、考えることが自然と頭の中で文字になっている、私にはもうわかりません。

4歳の娘はいま、まだそれに近い発想、頭の中の考えの動き方で生きているんだな。それは、なんて豊かで自由なんだろうな。と、すこしうらやましい気持ちになりました。

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