映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』レビュー

【狂い躍るスクリーンから絶えず放たれる反戦反核の波】

 玉手箱ではない。びっくり箱だ。

 大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館-キネマの玉手箱』は、だいたいにおいていつもどおりに狂っていた。すでに前作の『花筐/HANAGATAMI』の頃から見せ方において狂い方も頂点に達していて、書き割りのようなセッティングの中をグリーンバックで撮影したかのごとく俳優たちを重ねて合わせてチープな雰囲気を見せ、インチキみたいな風景を合成してコラージュのような画面を作って、それを3時間もの映画に仕立て上げるという、狂気のビジョンを見せてくれていた。

 『海辺の映画館-キネマの玉手箱』では、そうした手法を踏襲しつつ、演者たちが一言しゃべれば大きくなったり小さくなったり角度が変わったりする映像を、細かくつなぎ合わせて目まぐるしさを感じさせ、瞬時たりとも落ち着かせないようにしていた。そうやってくるくる変わるシーンを目にして、重なるナレーションを聞き引用される中原中也の詩を目と耳から入れている隙間を、延々とセリフが埋めていく3時間を眠る暇なんてありはしない。

 物語自体は極めて反戦で反核で、日本の誇りがどうとか核武装によって世界は均衡が保たれているから核兵器は正義だと言いたい人たちから、反日的で自虐的だと大騒ぎされて不思議のない内容で、日本軍の兵士が沖縄の住人たちを虐殺したり犯したりといった描写も入れて、戦争に紛れた横暴さを告発する。これでどうしてあいちトリエンナーレで騒いだ人たちが騒ぎ出さないのかが気になるが、世界も認める偉大な大林宣彦監督の、死力を振り絞ってのメッセージに口を挟むことはできはしないのだろうか。そうした咎めも受けないまま、最初から最後までぶっ飛ばしてのけている。そんな映画だ。

 思想性にあふれた内容を、魔術のような狂気に満ちたカッティングで全編をつなげることによって描き出す。聞こえてくるセリフが演じている役者の口と合っていなくても平気で重ねてつづったその物語は、日本軍の婦女子や中国人民に対する乱暴狼藉があり、会津戊辰戦争での娘子隊や白虎隊の悲劇を通した官軍の、とりわけ長州一派の専横ぶりへの批判もある。さらに広島に疎開していた移動演劇の桜隊を襲った悲劇を、どうにか食い止めようとする映画の中に入ってしまった若者3人の奮闘も綴られる。

 狂気と紙一重の独自性を突き詰めた表現に、執念ともいえる反戦であり反権力といった思想性が混じり合って迫ってくる映画。それを、小林稔侍に高橋幸宏、手塚眞から武田鉄矢や村田雄浩、稲垣吾郎から浅野忠信品川徹犬塚弘等々の、名があり癖もある出演陣たちで脇を大きく囲った中に、大林組とも言える厚木拓郎、細山田隆人を入れ、イケメンの細田善彦も乗せて描き出す。

 成海璃子、山崎紘菜、常盤貴子といった美しい女優陣を拝してその真ん中に、新人の吉田玲を置きつつアンカーとして白石佳代子と根岸季衣という重鎮を据え、その強烈な演技力によるインパクトを観客に残す。バケモノともいえる大女優たちの饗宴だけでも見て存分に堪能できるだろう。そうした中で高橋幸宏演じるダンディなファンタ・爺の娘として中江有里が出てきてしゃべるところが落ち着くのは、通る声の良さ、話す喋りの巧さからか。

 諸々、見るべきところもありつつ通底して流れる強烈な反戦へのメッセージと、そして時代がかつての太平洋戦争時に重なっていることへの警鐘にあふれた映画。それを昔からの手法をさらに爆発させた狂気と惑乱にあふれたビジュアルで塗り固めた『海辺の映画館-キネマの玉手箱』には、映画が描いて来た戦争を通して、それがフィクションでもドキュメンタリーであっても、陥らざるを得なかった結末を噛みしめ、次の時代を良きものにして欲しいという願いが込められている。

 そこに自らも出演を果たして遺映像を残して去って行った大林宣彦監督は、やはり只者ではなかった。だからこそ今なお存命で言葉を発し続けて欲しかった。それもかなわぬ夢ならば、ここに送り出された玉手箱を開いてびっくり箱のようなイメージに翻弄されつつ、流れ着いた果てに浮かぶ思いを大切にして生きていこう。(タニグチリウイチ)

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