映画『ビリーバーズ』レビュー
【右と左とであれほど形は違うものなのか?】
思ったのは、右と左とでは大きさが違うのだな、ということだ。
お椀のようで、手の中に収めるとようど良さそうな大きさと形をした右と比べて、左はやや大きい上に下がり気味。これをひとつのサイズとして捉えて良いものなのか、ひとつのサイズのカップに収まるものなのかと疑問に思った。
山本直樹の漫画を原作に城定秀夫監督が撮った映画『ビリーバーズ』の中、北村優衣が演じた副議長と呼ばれる女のそれは、立って真正面から見れば左右で大きさがちがっていた。それでも横たわれば左でも脇へとは垂れず、しっかりと上向きのまま、磯村勇斗が演じるオペレーターの相手の手の中に収まっていた。柔らかそうに見えてあれでしっかりと中身が詰まっているものなのかもしれない。
山本直樹が漫画で描いたものは確か、左右に綺麗な対称性を持たせていた。まさに永遠の理想といったものをそこに描いて、読む人を虚構の世界へと引きずり込んで、『ビリーバーズ』という漫画がテーマとする俗世から遊離した人格が漂う虚無の世界を感じさせていた。
けれども、現実の肉体は左右の形に違いが存在して、そこに明確なる肉の存在を感じさせていた。漫画に描かれる憧憬の現れとして手を触れ、包み込み、引き寄せてほおずりしたくなるものとは少し違っていた。あるいは肉感があり過ぎて官能を刺激し、ふわっとした非日常の中に進む物語を観る目を我に返らせていた。
それでも城定監督は、淡々とした演技による単調な日々の繰り返しから少しずつズレていく島でのプログラムを、抑えたトーンの中に描いて漫画が持っていた非現実性を感じさせようとしていた。見ているうちにだんだんと山本直樹ならではの作法がそこに感じされるようになって来たところは、演出であり脚本でありカメラワークの妙味といったところだろう。
それらによって映画は、カルトな宗教に溺れた信者たちの、我欲を捨てて教義に浸ろうとして身を研ぎ澄ませれば研ぎ澄ませるほど浮かぶ衝動から逃れられず迷い崩れていく様を、描いてのけた『ビリーバーズ』という漫画の世界をしっかりとスクリーンに再現していた。 何かとカルトについて騒がしい現状下で、これほどカルトの本質を感じさせてくれる映画もないだろう。暴走したカルトが何をしでかすかも教えてくれている。
しっかりと寝て起きて見た夢を語り合うだけの日々であるにも関わらず、それが教義なら従いつづける主体性を奪われた信者たち。自分のためでも誰かのためでもなく、みんなのためにという意識の中で関係性が消滅して、集団ですらなくなった空気のような存在へと昇華して、現実を破壊していくカルトの恐ろしさ。具体的な教義を言葉によって示さず、社会的な弾圧のビジョンを映像として示さなくても、現実からか遊離して後戻りができないところに来てしまっている状況を捉えて見せてくれていた。
過去に日本は学生運動が行き過ぎた挙げ句にカルト化して起こった集団リンチ殺人事件を経験している。宗教がカルト化の果てに大勢の人をあやめるテロを起こした未曾有の事件も経ている。にも拘わらず、経過する時間の中で記憶が薄れてカルトへの関心も途絶えかけていた。
そこに起こった大変な事件が、カルトとはどのようなものなのかを知ろうとする意識を読んでいる。そんなタイミングでこの映画が上映されている意義はとてつもなく大きい。その意義を世間は感じて映画を紹介するなり、どんなものかを確認しに鑑賞に行くなりして欲しい。そして確かめて欲しい。
右と左で大きさは違うものなのだということを。(タニグチリウイチ)
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