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映画『雨を告げる漂流団地』レビュー

【まさに子供の喧嘩を見せられて試される子供心】

 まさに子供の喧嘩である以上、まるで子供の喧嘩だと言うのは何の例えにもならないけれど、そんな子供の喧嘩を見せられて、子供の喧嘩なのだからとその心情に寄り添ってあげられる人には、どうしてあげるのが良いのかを考える機会になるだろうし、そうではなくて、子供の喧嘩の非論理性に苛々だけが募る人には、どうして何もしてあげようとしないのかと、物語の作り手に苛立ちを覚えるだろう。

 石田祐康監督のアニメーション映画『雨を告げる漂流団地』は、そんな風に見方を試す作品だ。

 1960年代に数多く建てられた「団地」と呼ばれる集合住宅群の多くが半世紀を経て古くなり、取り壊しや建て直しの対象になっている。その団地も取り壊しが進んでいて、住んでいた人たちはそれぞれに団地を出て、別の住宅に移り暮らすようになっている。

 同じ団地に住んでいて、幼馴染みだった航祐と夏芽も今は別々の場所に暮らすようになっていた。だからというより別の理由があって、一緒に遊び、同じサッカーチームでプレイをするくらい仲良しだったのに、今は関係がギクシャクとしたものになっていた。そして迎えた小学6年生の夏休み。航祐はクラスメイトの譲や大志とともに、取り壊しが進む団地に出るという"おばけ"を探しに入り込む。

 そこで入り込んだのが、航祐の祖父が暮らしていた部屋。土足で上がる大志に怒らず、自身も何かに反抗するような態度で土足のまま上がり込んだ航祐が見つけたのが、押入の中で眠る夏芽だった。自分の祖父ではなくても一緒に遊んでくれた人が暮らしていた場所に、深い思い入れがあったのだろう。そんな夏芽にも航祐は怒ったような態度を見せる。

 幼馴染みの男の子と女の子が、成長するに従ってお互いを意識するようになって離れてしまうのとは、少し違っている航祐と夏芽の関係には、自分の祖父であるにも関わらず、自分より仲が良いように思えた夏芽への嫉妬めいたものがあることがうかがえる。祖父が住んでいた部屋に、ちゃんと靴を脱いで上がっていたにもかかわらず、夏芽に土足で上がり込んでと言い放つ。

 祖父との離別にまつわるエピソードも加わって、航祐の中にずっとわだかまりが残っていることもうかがえる。わかり過ぎるくらいにわかる感情であるにも関わらず、共感を誘うかというとやはりこだわりが強すぎるように見えて、もう少し大人になれよと思えてしまうけれど、小学6年生が次の瞬間に物わかりの良い大人になるなんてことはない。

 夏芽が口走る「のっぽくん」なる不思議な人物が現れ、そして航祐のことが気になって追いかけて来た令依菜とその友だちの珠理も巻き込んで、団地が見知らぬ海の上を漂い始めてからも、航祐は夏芽に怒り続け、夏芽も航祐にどこか臆するような態度を見せ続ける。

 最初はピクニックのようだった漂流が、備蓄していたブタメンを食べきって飲料水も飲みきって、ほとんどサバイバルと化してからも、航祐と夏芽は仲直りして危地を脱しようといった感じにはなかなかならず、反目を続ける。航祐をお目当てに入り込んできた令依菜は、自分の責任を棚上げして夏芽が「のっぽくん」と共に自分たちを異界へと引きずり込んだと言って責め続ける。無関係だったり、仲が悪かったりする人たちが危地にあって団結し、乗り越えていく感動のストーリーにはなかなかならない。

 子供とはそういうものだと、自分の子供時代を振りかえってあてはめながら見守ることができれば、『雨を告げる漂流団地』は年齢的にも精神的にもリアリティを持った子供たちによる冒険ストーリーとして楽しめる。いや、楽しさというよりはつらさときびしさを感じながらも、かつて通った道だからと振り返りつつそうした苦さを噛みしめて、人は大人になっていくものなのだと鷹揚に構えて見ていける。

 逆に、子供のころのそうしたちょっとした反目が、時間とともに固い壁を作ってしまったり、長い距離をとらせてしまったような思い出を持った人たちにとっては、苦さを感じさせる関係を延々と見せられることはなかなかに厳しいものとなる。フィクションなのだからすぐにでも大人へと成長して、苦難を克服していく様を見せてくれて、喜びを感じさせて欲しいと思えてしまう。

 その違いが、『雨を告げる漂流団地』を判断のしづらい作品にしている。

 食料が尽きてお腹を空かせたり、風呂にはいれず臭くなったり、ひどい怪我をして意識を失ったりと子供たちに与えられる試練も、リアル過ぎると背を向けたくなる人もいれば、だからこそ伝わってくるスリリングさがあると考える人もいる。激賞も正しいけれど批判も間違っていない映画への評価を、どちらかに寄せることは難しい。それぞれの立場から褒貶を思いつつ、相手の立場も慮って考える。それが大人になるということなのかもしれない。

 設定自体は、古くなって取り壊される建築物たちにさまざまな思いを乗せてきた人々が、訣別をしつつ新しい場所へと向かおうとする節目を描いたものだと言える。公開時期が近いアニメーション映画『夏へのトンネル、さよならの出口』でもそれは描かれていて、演出によって理由と経緯と瞬間がしっかりと感じられる作品だった。『雨を告げる漂流団地』の場合はそれがどこか唐突で、ラストの間際までこだわっていたように見えた夏芽が、直前の令依菜が見せた態度に引きずられるように、あっさりと態度を翻しているように見えてしまう。

 その唐突さも含めて子供なのだと言えば言えるし、だからといって甘えが過ぎると言えば言える。ここも判断しづらいところだ。

 映像については丁寧で、子供たちの仕草や動きも子供らしさが過ぎる感情の容れ物にふさわしいものとなっているし、団地も1960年代に多く建てられた低層の集合住宅をしっかりと再現している。住んでいた人には懐かしいものに感じられたあろう。それだけに、家具も何もかもが移された集合住宅の部屋には、置いてきてしまったものへの郷愁を誘われる。

 団地暮らしの経験がない人には、廃墟となったプールやデパートや遊園地が同じような感傷をもたらしてくれる。そこは未来に新しいことがいくらでも待っている子供より、良き日の思い出にひたりたい大人の方が強い感情を抱く部分かも知れない。

 だからといってノスタルジーに引っ張らず、子供たちの生々しくもむき出しの感情がぶつかり合うような作品にしたのは、アニメーション映画を大人たちの慰撫の対象にはしないで、今を生きる子供たちの現実に寄り添うもにしたかった石田祐康監督の意図なのかもしれない。そうだとしたら『雨を告げる漂流団地』はまさしく子供たちが迷いや好奇心や嫉妬や恋心や後悔について感じ取り、自分自身と照らし合わせて考えるきかっけをくれる作品だ。

 子供たちならそれを是とできる。そんな子供たちを是とできる大人たちにも是となって、好評の界隈を漂い続ける。

 それ以外の大人たちを、観念と常識の岸辺に置いてけぼりにして。(タニグチリウイチ)

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