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映画『アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド』

【愛してくれるていと思えればロボットが相手だって良いんじゃない?】

 いずれ開発されるだろう人間そっくりのロボットが、人間の暮らしの中に溶け込んで人間のように生きる世界が訪れるのもそれほど遠くはないかもしれない。そんな時代に備えるように人間にロボットとの付き合いを意識させるフィクションが幾つも作られて、ロボットとの暮らしによってもたらされる様々な可能性を感じさせてくれる。

 最近では吉浦康裕監督によるアニメーション映画『アイの歌声を聴かせて』が人間そっくりのロボットでも変わらず人間と同居できることを見せてくれた。同じ吉浦監督が以前に描いた『イヴの時間』ではあまりにそっくりなロボットが人間とは少し隔絶した暮らしを送っている状況で、ロボットの中に迷いのような感情が生まれてきていることが示された。

 プログラムに過ぎないロボットに悲しいとか愛しいといった感情はあるのかといった問題は、工学的には難しい問題がそこに横たわっているが、感覚的にはそれを受け止める人間がどう感じるかにかかってくる。悲しそうなら悲しいのだと思って労るし、愛されているのだと思えばそれを愛だと受け止めて喜ぶ。それだけのことだ。

 ドイツ映画の『アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイ』は『アイの歌声を聴かせて』のように、人間そっくりのアンドロイドの開発が進められているような状況が物語の舞台となっている。大学で楔形文字を研究しているアルマという名の女性研究者に対して、学長から研究資金提供の代わりに、ある企業の実験として恋人のようなアンドロイドといっしょに暮らしてデータを取るという任務が割り当てられる。

 そして現れたトムという男性型のアンドロイドは品行方正で何事にも卒がなく、女性が喜びそうな言葉をデータから引っ張り出しては並べてアルマの機嫌を取ろうとする。もっともアルマはそうした実験に乗り気ではなかったようで、トムがどれだけ献身的にアルマに尽くそうとしても喜ばず受け流すような態度を取る。

 散らかっていた部屋を片付け飾り付けてゴージャスの朝食を用意しても、自分の研究の邪魔をされたと感じて元に戻すよう要求する。バスルームにキャンドルを並べバラの花びらを散らしてシャンパンと苺を用意しても、アルマはバスタブに浸かろうとはせず背を向ける。

 女性だったら誰だってキュンと来るだろうと、トムがデータから用意して提供したシチュエーションをアルマは最初は鬱陶しがる。それがあるきかっけでその愛情めいたサービスにすがるようになる。見ようによってはメンタルが弱まった時こそが口説くチャンスとも思える。元がそれほど強くない人間には、誰かといたいという願望が根底にあるのだろう。

 そして、それを人間のパートナーが満たしてくれない場合には、たとえ相手がロボットでも必要になる。そんな人間の揺れ動いて飢え求める感情が、アルマの態度から浮かび上がってくる。そんな映画だ。

 パートナーロボットというと、亀山睦美による『12ケ月のカイ』という映画があってこちらも好みの男性アンドロイドをパートナーにした女性のストーリーが描かれる。ロボットでも愛せるかといった主題からだんだんとロボットという概念を超えた存在になっていく可能性が示唆されて、感慨と戦慄を味わう映画になっている。『アイム・ユア・マン  恋人はアンドロイド』と合わせて見たい。(タニグチリウイチ)

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