だから私はノンフィクションが読めない
ある夜、私は『手帳がない!やばい!これは超絶やばい!』という焦燥感に満ちた夢を見て心臓がバクバクと脈打つ感覚を引きずったまま午前3時半に起きた。
調停期日の前日の話である。
前回の調停でメモもペンも持たずに挑み、次回の期日をスマホのカレンダーに打ち込んだは良いが、果たしてそれが合ってるのかしら?とアナログ人間は自分で文字を書かないと自分の行動すらイマイチ信用ができない節がある。あ、私だけですか。
きっと手帳の夢は前回の『あちゃー・・・』を繰り返すなという警告だったかもしれない。実際、調停当日はメモとペンが無いと情報量が多すぎてパニックだったし、メモとペンが有ってもパニックだった。
時期外れの手帳購入。
文房具売り場に並ぶ手帳は当然ながら12月スタートがひしめき合い、10月の末に10月スタートの手帳を買う愚か者は私くらいだろう。売れ残りのようにひっそりと佇む限られた10月スタートの手帳のなかに気に入る物が無かったため、結局無印良品のフリースケジュールを買った。
その途中。
本屋が目に入り、私は自然と足が向いた。
ネギのような髪色をしてみたり、K-POPよろしく銀髪頭を好み、今は丸坊主にしたいと騒ぎながらベリーショートで手を打った私だが、一応文系女史と心の隅で自称している。
本屋の前には当然ながら最新刊がズラリと並び、私は自分の狭い琴線に触れる本が無いか眺めながら、向かいの携帯ショップで行われている高齢者のスマホ教室で従業員がメッセージの送り方をほぼ叫びのような大声で教授しているのをBGMにして本を探した。
そこで目についたのは岸田奈美さんの『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』。
noteをやっている以上、彼女の活動は意識を向けなくても入ってくる。そしてそれ以上にパワーのある文章と行動力にいつも楽しませてもらっているから、この本は気になっていた。
気にはなっていたけれど。
私はどうしても、この本をレジにまで持っていく力がなかった。
それは彼女がどうのこうのという話ではなく。
単に私がノンフィクションの本やドラマを受け入れられないという性格のせいである。『受け入れられない』と言うとちょっと語弊があるが、ノンフィクションを読んだり観たりすると、どうも自分を持ってかれてしまうような自分を維持できないようなそんな感覚が起きて、そうなった自分を元に戻すのに自分が1番疲れてしまう。
作中で著者本人が思う気持ち、考え、感情は今私と同じ次元に生きている人達が実際に感じたものだと思うと、何か得体の知れないものを吐き出したくなるような妙な感覚が私に起こる。それが暗い話ならマジでナニかを吐いてしまう。
たぶん、おそらく。
そんな曖昧な言い方しか出来ないのだけれど、私は人の気持ち、考え、感情を過剰に受け取っているんじゃないかと思うときがある。
友達が過去の恋愛のトラウマを話してくれたとき。お酒を飲んだ帰り道で『こんな事があってさー』と、もう友達は乗り切っているトラウマの話を聞いて、私は道端で涙と鼻水を垂らしながら本人以上にショックを受けていた。そんなバカタレ野郎は地の底にまで落ちればいいと心底思い、今からでも八つ裂きにしてやろうと言い出し『マジでやりそうだから止めて』と止められた。
パートナーのトトさんが仕事で理不尽な扱いを受けたとき。理不尽な扱いを受けた本人以上にキレ、現場に乗り込んでやろうか、それか相手がもう再起できないほど陥れてやろうか緻密な計画を練っていたらトトさんに本気で止められた。
その逆も然りで、嬉しい話はもう豪華客船でパーティを開いてやりたいほど嬉しくなる。経済面でまず無理なので、出来る範囲で盛大に祝い、祝ってもらった相手が『え、そこまで?』と軽く引いている事もままある。
他人の辛かった、苦しかった、楽しかったという感情が私にとっては目の前の人も本の中もテレビの中も線引きが出来ずに一緒くたになってしまう。
良く言えば『めでたい奴』だが、それをやってる本人は何気に物凄い体力と気力を奪われているので、正直そういう状況になると数日寝込んでしまう。
だから私は、ノンフィクションの本や、実際にあった話をドラマや映画にしたお話は自分の全てを注ぎ、作中の人そのものを取り込んでしまうような感覚になって、結果バカみたいに1人寝込むのでむやみやたらに見ないようにしている。
岸田奈美さんの場合、ノンフィクションだけど脚色がもうコメディで『演出:木村ひさし』でドラマ化して頂きたいくらい面白いし、noteを読んでいたらそんな感覚には成らないと分かってはいるんだけれども、なぜか私にはネットで読む文章と本の重みが加わる文章は、また更に別物に感じてしまう。
まったくもって面倒くさい地味で頑固な性癖だと思う。
私にとっての本は、2.5次元だが3次元だかその辺りの違いが分からないのだけど、現実世界からちょこっとズレた場所にある世界に行ける、どこでもドア的にな存在と思っている。
現実にある場所と架空の人物が織り交ぜられたお話。
実際に居た過去の偉人や、今生きてる人が、現実の場所に居るけど、でもその話の内容は現実では有り得ない架空のお話。
その絶妙な現実と架空のグラデーションで、私を昔から虜にして止まないのが京極夏彦先生の本である。
妖怪漫画第一人者の水木しげる先生を師に、妖怪小説の大御所である京極夏彦先生。
もう出で立ちから、妖怪従えてそう。(褒めてます)
かれこれ20年ほど愛読しているので、愛を語ろうとすれば、すでに2000字を超えたこのページにさらに1万字ほど追加できる。1万字で足りる気もしない。
読書感想文という名の愛を語り始めると取り留めがないので、また新しく書いたほうが良さそうだ。
本は知識を養い、見聞を広げ、自分では到底経験することはない世界を見せてくれる素敵なものだと思う。
だからきっと、ノンフィクションは価値があるんだと思う。
フィクションは作者の想像力の豊かさと、膨大な知識が詰め込まれ、読む人を架空の世界へ旅立たせ、ちょっとした現実逃避の時間を与えてくれる。
フィクションの価値は、現実では有り得ないものに胸を馳せ、ちょっと夢見心地な感覚を与えてくれることだと思う。私はその感覚が堪らなく好きだ。
頭ではノンフィクションの良さも分かってはいるんだけれども、私はまだどうしても他人の現実と自分の現実に線引きをして読むことが出来ず、気になっている本すらレジに持っていけない。
そのうち感覚が鈍くなってどんな本でも読めるようになりたいと、今切実に心から思っている。
皆さんは本を読んで、心が疲れることはないんだろうか。