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家族が倍々ゲームに増えて、結果8人家族の長男嫁になった私。

「人生なにがあるか解らない」なんて、女子高生の恋愛かダイエット中のスイーツを肯定する言い訳くらいの重みしかない言葉が、私の人生の大半を占めている。

誰がいきなり8人家族の嫁になるなんて予想できたよ?


元々大家族だった家の後妻に入ったわけじゃあない。
むしろ、ひっそりささやかな幸せを楽しみながら暮らしてた私と殿の2人からスタートした家族だった。

そこへ私の子供たちが、私の元旦那のところから逃げ出してきて、2人追加。
4人家族のステップファミリーへと進化を遂げた。
詳しくは下のマガジンに詰め込んでいます。

さぁ!家族4人で頑張るわよー!と意気込む矢先、義理パパ(殿の父)の右足に腫瘍が見つかった。右足のふくらはぎにコブができていた。
色々病院に罹った結果、右足を切断するだしないだの話が浮上し、その中で同居の話もちらほらしていたのだけれど、義パパと義ママは「これから2人の時間を過ごすのよ!」と親のほうから同居を断られていた。その気持ちは分からなくもないけれど。
片足になっても成らなくても、コロナ禍で義パパの仕事と収入が激減していたから同居か超近距離に引越してきてくれたら仕事と生活の心配はなくなるという話も含めて話してみたけれど、義両親の重い腰はこれから2人で過ごす幸せな未来を優先して1ミリ足りとも浮く気配はなかった。
病院の先生から直接足の病状の話も聞いていなかったので、私たちは「本人たちがそうしたいなら・・・」と軽く考え、折れていた。

そんな話を聞いたのが2021年の正月。その年の夏に今度は義ママに大腸ガンが見つかった。そして転移ではない肺ガンも発見。
ガンのオンパレードかよ、と同居の話をクドクドするも義両親の腰は1ミリ浮いた気がしたくらいで終わった。おならで浮いたのかもしれない。

頭を悩ます長男・殿にトドメをさしたのは、2021年12月中旬。
突如、義パパの肺に水が溜まりステージⅣの肺ガンと診断されたのだ。余命3ヶ月あるかどうかと言われた。
ここに来てようやくヘビー級の義両親の腰がしっかり浮いた。
遅いわ!!と突っ込みながらも、千葉の我が家から築地の国立ガン研究センターに一筋の光を求めて行ってみたい、とようやく腰をあげてくれたのだ。

そうと決まれば年末は色んな予定を返上し、義両親の強行引越し&強制同居を敢行するため三重へ片道8時間(年末は混むのよ)ぶっ飛ばしてお迎えに上がった。

ここで義両親追加で6人家族。

強行引越しを敢行した直後、義パパは国立ガン研へ。
しかし一筋の光は、虚しく儚く散って帰ってきた。肺ガンが見つかって2週間で義パパの肺はガン細胞に覆い尽くされていた。65歳の細胞はまだまだ若い。進行が速すぎるのだ。

ガン研で初めて義パパの病状を医者からしっかり聞いた殿は壁に刺さっていた。1年前に本人たちから聞いた話と違いすぎていたのだ。

転移元の右足の腫瘍は骨肉腫で、転移は確実であったこと。
それを極力抑える措置としての右足切断が、検体検査をする上での約束であったこと。(検体検査をすることでガン細胞が身体中に飛び散るリスクがあると言われていた)

医者の話を聞きながら殿の頭はクラクラぐらぐらするばっかりで、両親への苛立ちと腹立たしさの行き場のない怒りと、あの時強引にでも右足切断を説得していれば・・・の後悔が入り混じり、ムンクの叫びのようなぐにゃんぐにゃんになっている感情を家で留守番をしている私に電話で報告してくれた。

そんな殿に掛けれる言葉と言えば、もう出来る事を頑張ろ!しかない。1番辛いのは当人なのだから。周りで見守る私らとは比べものにならない辛さを抱えているのだから、もう文句を言う必要はない、と。それよりも私は義両親の家から配送した冷蔵庫やら、クリアケース4個とダンボールいくつかの荷物を1人で片付けていて発狂寸前だから早く帰ってこいと伝えた。ただの鬼嫁である。

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キッチンにななめ設置で置いていかれた冷蔵庫を、148㎝のチビが1人で格闘していたのだから発狂させてほしい。
最終的にキッチンとダイニングエリアを模様替えして納めたけれど。

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両開き冷蔵庫で良かった。

三重の病院でも、一縷の望みを掛けたガン研でも治療法がもうないと言われた義パパは在宅で緩和ケアをすることになった。
さすがは都内近郊と言うべきか。ガン研に行った翌日には訪問医療と看護の先生方がやってきて契約から診察までスマートに執り行われた。

その翌日には酸素の機械がきた。24時間酸素吸引して過ごす義パパ。その日から我が家では酸素カニューラとアイドルうさぎ・ももちとの対決が始まった。隙あらばサクッとカニューラを噛もうとするから恐ろしい。

その酸素の機械も、2週間もするとさらに大容量の機械に変わった。
義パパの肺がもう自発的に酸素を取り込めないほどに弱ってきたからだ。体もみるみる細くなり、食事もメイバランスとバナナを1日1回摂取できるかどうかにまでなっていた。日に日に病状が悪くなるのが目に見える。追っても追っても追いつけないほど進行が速く、いつも気が気じゃなかった。

そして酸素の機械の容量アップと同時にモルヒネの投与も始まった。気丈すぎる義パパは顔を上げて喋れないほどに弱っても「喋るのがえれーんじゃ。すまんの(岡山)」とニコニコしながら謝るけど、それ以上の弱音も辛さの愚痴も言わなかった。訪問のお医者さんはその一言一言を察して、モルヒネの投与を提案し、義パパは痛みが和らぐことを強く望んだ。

モルヒネ投与後の義パパは寝てるのか起きてるのか分からない状態に変わった。時々喋るのは仕事の話ばかりで、過去と現在を認識できていない状態だった。みるみる変わる義パパに、家族の誰もが口にしないけれど、終わりがもうすぐそこまで来てると感じた。

そんな義パパの状態を、共に三重で過ごしていた義妹には義ママ経由で随時報告していた。けれど義ママは性分で「今お父さんこんな感じだけど大丈夫よ!ね!」と言ってしまう。娘を思いやるあまりなのか、義ママがそう思いたいだけなのか。
三重から千葉まではそう簡単に来れる距離じゃない。
覚悟してそろそろ来たほうが、ちゃんとお別れを言えるんじゃないか。
そう思って義妹には千葉に来る準備をしておくようにと伝えていた。

バタバタと過ぎた2022年の1月。の下旬。
子供2人を抱える義妹は義弟の助け・・・というか脅しのようなやり取りで、義弟の住む神奈川に移った。義弟の家から我が家へは1時間もあれば来れるから良いんだけれども。私の頭には義弟と義弟嫁のクセの強さに耐えれるのかが不安になった。義弟よりも義弟嫁のほうがズバ抜けてクセが強い。

義妹は三重から神奈川に着くと、その足で義弟嫁を連れて千葉までやってきた。三重で見送って3週間しか経たないのに、義パパの変化に義妹と子供たちはショックを隠せていなかった。無理もないと思う。

その2日後、義ママは肺ガンの検査に千葉の病院に罹った。

義パパのことで頭いっぱいになりそうだけど、うちにはもう1人ガン患者がいるのだ。何も2人同時にガンにならなくてもいいじゃん!と突っ込ませていただいた私は鬼嫁である。

その日、訪問看護の看護師がきた。
いつも通り体温と血圧と心拍、酸素量をチェックする。
顔色が変わる。言葉を選び出す。

「今日、お母さんは病院でしたよねー?何時くらいまで?」
普段通りの明るい声で聞いて来る看護師。

「たぶん丸1日。夕方までかかるかと」
三重で先延ばしにしまくった検査を、今日義ママは受けている。

「ん〜・・・お昼にもう1度様子見にくるね。ちょっと不整脈が怪しいな。」

「!?」

え、昨日とあまり変わらないんですけど?
そりゃ日に日に弱ってるけど、昨日と今日の差はそこまで・・・

「・・・近いってこと?」

「うーん、ちょっとねえ。血圧と不整脈が気になる感じ」

きっと看護師さんは経験値でわかるんだろうな、と嫌に冷静な感想が湧き上がったのを覚えてる。言葉が出ない私に「またお昼に来るからね。その間に変わったことがあったらすぐ電話してね」と言って看護師は次の訪問先へと出発した。

その後、義妹が子供を連れてお見舞いに来た。
みんなでお昼ご飯を一緒に食べてると義パパが「牡蠣フライ?」と急に言い出した。寝てるようで耳は起きてるときがあるけど、その日牡蠣フライは食卓にないし、なんなら牡蠣フライの単語すら出ていない。
突如投げ込まれた「牡蠣フライ」発言に義妹と姪が目を丸くしていた。

「唐揚げならあるよ。パパ食べる?」

「唐揚げならえぇわ」

「おけ」

淡々と会話する私とパパを見て、義妹と姪が笑い転げていた。
なんで今牡蠣フライやねん。

そうこうしている内に、お昼に来ると言っていた看護師がやって来た。
朝とは違う看護師。3度目ましての看護師。

「あらー。お孫さんも早く帰ってきたのね!良かったねー!」

恰幅のいい、ガシガシぐいぐい系のおばちゃん看護師は、義妹が私の娘と勘違いし始めた。オイこら。色々勘違いし過ぎてて訂正めんどくせーな!私は男しか産んでないし、義妹は私より1歳上だコラ。

焦って訂正する義妹に「あはは!やだもー!」とおばちゃん節を発揮しながら、看護師の手元はテキパキと血圧と酸素量を計測する。そして朝の看護師と同じように顔色が曇る。

「お母さんは夕方まで掛かるのよね?でも、早めに切り上げて帰ってきてもらったほうがいいかもしれない。持たない可能性もあるから」

その言葉に義妹はフリーズした。私は、うん。やっぱりか。と単なる調子の波なんかじゃないんだと理解した。そうあってほしいと望んでいたから義妹にも病院に行っている2人にも話していなかった。

殿に電話を掛けたあとは怒涛の1日になった。

義ママの検査をキャンセルさせ、会計に時間が取られるから先に義ママだけを病院に迎えに行き、会計を済ませた殿は神奈川にいる義弟嫁を迎えに行って、その帰りに高速でスピード違反で捕まり「父が危篤なんです!!」と訴えると「わかりました!急いで手続きします!」「やるんかい!」なんてコントみたいなやり取りをかまし帰ってきた。そりゃそうだ。違反してるもん。

夜には仕事帰りの義弟も到着。
殿家が10年以上ぶりに家族勢揃いした瞬間だった。
義パパはなんだかんだと、看護師が予想していたよりも長く堪えて、この瞬間を待っていたんだと思う時間だった。

『大きくフゥーって息を吐いたような音が聞こえたら、それが最後の合図なの』

肺に残っていた最後の酸素を吐き出す音が、義パパが痛みから解放される瞬間だと言う。早く楽になってほしいけど、まだ生きていてほしい。感情はぐちゃぐちゃだった。それを表に出さないよう、私は集まった家族11人分のご飯を無心で作っていた。義パパは食べないけど、それでも義パパの分も作った。

狭い2LDKの部屋のリビングに11人が集まり、義パパを囲む。

「親父、飲むやろ」

メイバランスとバナナを食べるかどうかの状態になっても、義パパはビールだけはコップ1杯毎日飲んでいた。だから意識のないこの日も、殿が唇にビールを付けて乾杯していた。

夜10時42分。

微かに、フゥゥーと吐く音を聞いた。

「お父さーん!!!」

義ママの叫びが合図だった。
首と手首で脈を探る。誰がやっても見つけられない。
横には狼狽える義妹と、頭が真っ白になっている殿、泣き叫ぶ義ママ。
義弟は赤ちゃんと妊婦を抱えていたから、近くのホテルに泊まるためその場にはいなかった。

キッチンからその様子を見ながら、看護師と先生に電話をして伝えた。
すぐに看護師が来て、エンジェルケアを始める。その間に先生も到着して死亡診断書を作った。

ぼんやり看護師のエンジェルケアを見つめる殿と義妹。
義ママは先生にお礼を言いながら涙が止まらない。
子供たちは別室で、エンジェルケアを見せないようにしていた。
私は看護師さんにお願いされた道具を用意して渡す係。

たぶんこういう時強いのは嫁なんだと思う。関係が薄いとか絆がそこまでだとか、そういうんじゃなく。嫁だから1歩も2歩も下がって物が見えて動ける気がする。

狭い2LDKのど真ん中に義パパは北枕で寝ていた。

肺が苦しくて、肺に水が溜まってからずっとこの日まで、義パパは机に突っ伏して1日1日を過ごしてきた。横になって寝たのは1ヶ月半ぶりになる。

「父さん、ようやく横になって寝れたなぁ」

義ママは義パパの頭を撫でながら呟いた。
葬儀は3日後、お通夜が2日あることになった。

「どんだけ家族とおりたいねん」
「ええやん、お父さん家族大好きなんやから」
「リビングのど真ん中やん。どこで飯食うん」
「お父さんの上にテーブル置く?」
「足当たるし」
「その前に罰当たりだから」
「暖房つけれんで。親父が腐る」
「2日じゃ腐らんわー」

召された瞬間いじられる義パパ。南無・・・。


葬儀が終わる日まで、我が家には常に10人以上が出入りして、私は1日中キッチンで1人ご飯を作っては片付けてのエンドレスだった。
そんな中、義妹と殿がキッチンで奮闘中の私に「お話が・・・」とボソボソ。

殿「妹家族はうちに住みます」
私「でしょうな。」
義妹「すいません・・・」

義弟の家に行った義妹家族は、3日で義弟と義弟嫁のクセの強さに心折れていた。

義妹と子供2人追加で、家族8人。

この日から私は、8人家族の嫁へとなるのであった。


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