2024年6月1日 フリーライティング復活

 ここをなんのために作ったのか忘れていた。文章をハードルを下げるためのノートだ。なのに、いくつかの下書きが残っているが公開されていなかった。短すぎる文章は公開できないとなぜか考えていて公開されていなかった。文章の長さは別に美徳にならない。短いから足りないわけでもない。けれどいつからか量が重視されていた。大量に書いた文章。大長編。長さに意味があるわけではない。その長さでしか描けないものを描けているなら意味がある。十全である量というものがなにごとにもあるはずだから、そういった意識を持ちたい。過不足なく足りている文章。そういうものを見たい。

 勢いと指先の感覚は文章に関係している。パソコンに向かって文章を書くのはキーボードで打つという身体感覚と直結している。このリズム感が文章のリズム感を作っていく。ここで音楽でも聴いていればその音楽に多少なりとも影響された文章が出てくるだろう。人は影響されやすいのが重要でその揺らぎがおもしろさだ。

 今はあの丸い扇風機のごおおおって音だけがしている。〇こういう中央が空洞のところから冷たい風が出て首を振っている。ダイソン? 羽根が回っているわでもないのに無から風がでてきてて不思議だ。そういうものなのか。

 テーマに対する関心が指先が疲れるまでしか続かない。それは速さを求めているからだろう。速さと量があるとなんとなくすごく見える。今まで5万点作品を作ったとか言われるとその量に圧倒される。すごさを伝えるには物量がわかりやすい指標なのだ。

 そして何も思いつかなくなった。ここ3か月ほど書いていなかったわけだからその間のストックがあると思ったけれどそんなものはなかった。ホラー小説を読んでいたから、人を怖がらせて驚かせることで感情のアップダウンによるボラティリティを経験させるのが大事だってことは学んだ。しかし、読んだ瞬間の感情だとかは新鮮なうちに出してしまわないと忘れてしまうのだから毎日毎日何かを出すというのは重要なんだよな。

 絞り出すように出したものでもそのうち、運動自体が推進力になり他の文章を作り出したりする。それがわかっているのに書かなくなるのは習慣になっていないからだろう。息をするように意味があるのかないのかわからないような駄文でもなんでもいいから書いておこう。後で振り返ってそこに量だけが残ったとしても、量を書いたということだけで意味がある。

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