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「黒い果実」(島崎藤村「初戀」の二次創作)

 彼女は緊張した面持ちで椅子に掛けていた。部室の窓から夕日が差し掛かり前髪が金色に光っている。少し眩しそうに目を逸らし、俯いた後で彼女の目が真っ直ぐに僕を射抜いた。

「先輩の描く林檎って、美味しくなさそう」
 他の誰もが写実的な描写力を褒めたのに、彼女だけが僕の絵を批判した。
「蝋細工みたい」
 すると先生が
「あら、これでも青果店で一番お高いのを買ってきたのよ?」
と笑う。誰かが幾らですかと聞くと、先生はひとつ五百円と答えた。
「じゃあこの絵は千五百円ですね」
 彼女は更に追い討ちをかける。誰かが千六百二十円、と消費税を足す。
「人の批評ばかりしないで藤村の絵も見せろよ」
 美術部員が全員彼女のキャンバスに注目した。誰かが恐る恐る呟く。
「・・・毒林檎みたい」
「そのつもりで描いたから」と藤村。
 林檎の赤は限りなく明度を下げられて黒く変色し、さっくりと切られた傷口から血が流れていた。
「同じ対象を見ても描き手によって違うもんだねぇ」
 先生は部員の絵に優劣をつけない。それは全ての絵を認めているのではなく、批評する立場から逃げているようだ。大体うちは普通の高校の普通の美術部で、必死に美展を目指している訳でもない。
(中学で気づいてたら、進路違ったかな)
 自分が絵を描くのが好きだと気づいたのは高校に入った後だった。気づいてからも、俺アートが好きなんだよねなんて気障な事は口が裂けても言えずに居た。それでも未練があって二年で美術部に入った。
「俺のが美味しくない林檎なら、藤村のは食べると死ぬ林檎?」
 中学で同級生に馬鹿にされてから、話す時の一人称は俺だ。
「人に拠る」
 一年生の藤村は少し変わっている。目尻から静電気を走らせ、アルカリ性の言葉で人を斬りつける。他の一年によると成績は優秀だがクラスでは浮いているらしい。周囲を歯牙にも掛けないで飄然としている。その割に美術部で何故か僕にだけ絡んでくるのは、学年が上というだけで先輩扱いされる僕が気に入らないのだろうか。
「先輩は林檎じゃなくて、林檎の形状を描いてる」
 上手いことを言う。器用で他人からは一定の評価を得ることが出来る。それが僕の絵で僕自身だ。
「あらもうこんな時間」先生が時計を見て
「先生は職員室に戻るから。櫛名君、最後鍵を掛けて返しに来てくれる?みんなもキリのいい所で片付けに入ってね」
 批評しない批評家は退場。他に数人居た部員たちもさっさと片付けて部室を後にした。
 最後に二人残った。
「櫛名先輩」
 藤村が僕を呼んだ。
「私を描いてください」

「なんで」
「先輩は、もっと生き物を描いた方がいい」
 もう一度なんで、と言いかけた僕の言葉は喉を出なかった。
 藤村が静電気を発している。見えない火花は周囲を攻撃しているのか彼女を守っているのか。彼女は黙って窓際の椅子に座った。僕はスケッチブックを手に取った。

 僕は夕日に照らされた横顔の稜線を辿る。
「先輩は苛々する」
 藤村が言葉を投げつけてくる。
「相手のことを見てない。分かろうとしない。視認、分析、仕分け。感情さえも」
「お前に俺のこと分かんの」
「同じタイプの人を知ってる」
「誰」
「先輩の知らない人」
「・・・」
 話を変えた。
「お前、俺が嫌いならなんで描かせるの」
「記念」
「何の」
「何でも」
 お手上げだ。僕は黙って描写に専念した。
「出来たよ」
 紙に描かれたのは夕日を受けて座っている女子高生の形状。顎の長さで切り揃えられた黒髪と中位の鼻の高さと切長の瞳。
 多分気に入らないんだろうなと思いながら見せると、藤村は無言でスケッチを破り取った。
「貰います」
「それでいいの」
「はい」
 御礼も何も無い。そのまま部室を出ようとして、くるりと振り返った。
「夏休みの間に、キャンバスに油で仕上げて下さいね」
「だったらその絵が無いと」
「描けるでしょ、見てたんだから」
 
 油絵にあんなにも集中したのはあの夏が初めてだった。
 手元にスケッチも何も無い。残っているのは一瞬射抜いたあの目。
 記憶の中の藤村を何度も描き直した。油断や妥協をすると「違う」とキャンバスに静電気が走った。描き終えた時には身も心も絞り尽くされていた。
 スケッチの藤村は窓を額縁にして横向きに座っていたが、油絵で仕上げた藤村は真正面から僕と対峙する。目尻から左右に静電気を放ちながら、真っ直ぐに僕を射抜く。
 その時初めて気づいた。
 藤村の静電気が悲鳴を上げて泣いていることに。

 しかし藤村に問いただすことも、描きあげた油絵を見せることも出来なかった。
 二学期、藤村は転校していた。

 転校した事情は分からないし、顧問の先生も教えてはくれなかった。連絡先も知らない。調べようともしなかった。
 油絵が一枚。それが僕に残された、藤村の全て。

 高校と大学を卒業した俺は出版社に就職した。中途半端に頭が良くて小器用な俺は、そこそこ使える男として社内の立場も安定して三十代半ば。結婚はしていない。何人か付き合ったが続かなかった。
「私じゃなくても誰でも良かったんじゃない?」
「あなたって全然私のこと見てないのね」
 大抵はこんな言葉で振られる。その度に静電気を放つ少女を思い出した。

 そんな状態で、思い掛けず藤村と再会した。
「イラストを描いてる鴇田です」
 トキタ。珍しい苗字だなと名刺を凝視していると、
「・・・あの、○○高校の櫛名先輩じゃないですか?」
 顔を上げると見たこともない女が髪を掻き上げながら笑っている。
「藤村です、美術部の」
「ああ!」

 彼女は仕事仲間から俺の名前を聞いて、珍しい苗字だしもしかしたらと思ったらしい。藤村は転校先の高校を卒業後すぐ就職した。色々あって今は非正規で働いてるが、絵の世界を諦め切れず細々とイラストを描いているという。
「だから先輩ぃ、何かお仕事あったら下さいね」
 媚を売る女は俺が知っている藤村じゃなかった。捨てられずに持っている油絵が押し入れで腐っていく気がした。
 仲介した仕事仲間と元藤村と俺は飲みに行き、高校時代の思い出話を料理の突き出し程度にして、藤村は自分の売り込みに必死だった。タブレットで自分のアーカイブを開いて見せてくれたが、あの毒々しい林檎の迫力は何処にもなかった。
 男子トイレで一緒になった仕事仲間が酔った勢いで俺に勧めた。
「美人じゃん。誘っちゃえば?」
 店を出ると仕事仲間は消えていき、俺は元藤村を誘った。
 
 ベッドの中の彼女にかつての静電気は無く、怒りも悲しみもなく、成熟した体とそれなりのテクニックと、なんだかやけっぱちの性欲と。彼女は溺れながら差し出すような腕で俺を抱き、俺は助けられないまま彼女を抱いた。俺も彼女もかなり酔っていた。
「うふふっ」
 終わった後
「こうなると思ってたわ」と彼女は言った。
「先輩似てるんだもの」
「誰に」
 俺は少し面倒臭そうに訊いた。
「お父さん」
「え?」
「と言ってもお義父さんね。母の再婚相手」
「・・・妙なこと言うんじゃないよ」
「本当よ」
 彼女の剥き出しの肩から静電気が走る。
「高校の時急に転校したでしょう。それが原因だったの。母が私を連れて逃げた。その前から予兆はあったのに母は気づかなかった。見てるのに見えないふりをしてたの。だからどうしようもなくナッチャッタ。先輩は母にも父にも似てる。ちなみに旦那はね、先輩と真逆の人よ。お人好しの人情家」
 旦那?
「藤村、お前」
「あァ楽しかった。気が済んだわ」
 むくりと藤村は体を起こす。ほんの数分前までぐったりしていたのが嘘のように。彼女は身支度を整えながら
「これはこれ。仕事があったらホントに頂戴ね」とか
「誰にも言わないから心配しないで」とか
さばけた言葉を投げつけた。
 俺は何も言い返せなかった。俺は一体誰を抱いたんだ。両親に似ている俺に体を抱かせたのは復讐なのか。
 彼女は自分の体を切ってさぁどうぞ、と俺に差し出した。毒林檎は彼女自身だ。
「じゃあね先輩」
 謎の生物は髪を靡かせてホテルの部屋を出て行った。
 
 その後一度だけ挿絵の依頼をしたことがあったが、パソコンのやり取りだけで済ませて会わなかった。会いたい気持ちはあったのだが、昔藤村と云った鴇田という女は俺の手に負えない何かだった。
 
 あの絵を描いた時、誰にも分からなかった藤村のSOSを俺は感知していた。絵筆を通さなくても分かるくらい俺の感度が良かったら。俺がちゃんと見ていたら、彼女を救ってやれたのだろうか。
 あの頃、俺と彼女の間には何かがあった。体を交わさずとも通じあえる感覚が。十代の鋭敏な感受性が一瞬交差して見せた蜃気楼を、当時の俺は取り零した。
「いい女よりも忘れられないのは碌でもない女さ」
 昔酒の席で聞いた言葉が蘇る。

 その後連絡も取らないままに時が過ぎた。時が過ぎるのを待っている俺が居た。そのくせ街中で似たような長い髪の女を見かけるとつい振り返ってしまう。好きだったのだとやっと気づいた。今更旦那から奪い取る度胸も何も無いが。
 
 ただ俺は。いつか偶然街中で彼女を見かけて、幸せそうに笑ってくれてたらいい。
 その瞬間俺の恋にならなかった初恋は成就するのだろう。

 俺は会社を辞めることにした。そこそこ使える便利な男を逃すまいと周囲は説得したが決意は変わらなかった。辞める理由を説明すると相手は失笑し呆れた。
「絵を描きたいからってお前。そんなの趣味で描けばいいじゃないか」
「そうだよ、会社で働いてりゃ月々の決まった収入があるんだから。それ捨ててまでやることじゃない。絵で生きてくって半端じゃないよ、分かってるだろ」
 そりゃそうだ。十分、じゅーうううぶん分かっている。死ぬ程分かっている。何の保証もなく太平洋のど真ん中に飛び込むようなものだ。
 あの時俺は藤村を救えなかった。俺だけが僅かに受信した救難信号を放置してしまった。
 だからこそ今の俺にしか捉えられない何かがある。煙か幻のように、今捕まえないと霧散してしまう何か。

 今こそ俺は、生きた人間を描けそうな気がする。

                             (了)

*Book  Shorts 第8回ブックショートアワード 10月期優秀作品に選出していただきました。以前紹介だけ致しましたが、本文をこちらにも掲載します。*

 

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