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「水底の口」(橘小夢「水魔」の二次創作)

*橘小夢・・・明治25〜昭和45年。秋田県生まれ。大正末〜昭和初期には挿絵で活躍。夜華異相画房と名付けたアトリエから、版画を発表した。
「水魔」は昭和7年の発売時に発禁処分を受ける。原画は海を渡ったと言われるが、所在は不明。
(説明と画像は 河出書房新社 『橘小夢 幻の画家 謎の生涯を解く』より採らせていただきました)
(本作は絵画を元にした小説の創作になります)

(↓以下本文↓)


「綺麗な背中だねぇ」
 女の背に醜い小男が貼り付いている。
「冷んやりしてて滑らかで。こうして」
 小男が身を起こしてカーテンを少し開けた。
「光をあてると真ん中の窪みに影が出来て、とてもいい」
「閉めて」
「誰も通らないよ、こんな裏通り」

「君をモデルに描きたいと言ってるんだ。頼んでいいかい」
 依子が夫に古賀を紹介されたのはふた月前だ。
「どうですかね。月に何回か、○○区のアトリエに通って頂ければいいんですが」
 古賀は夫が最近知り合った日本画家ということだった。暇は持て余しているし断る理由も無い。依子はアトリエに通い始め、古賀に抱かれ、古賀に溺れた。水中に靡く川藻が裸身に絡み、心地良く締め付けながら底へ底へと誘う。古賀に抱かれるとそんな夢を見る。

「君がこんな淫乱女だとは思わなかったよ」
 夫は冷たく言い放ち、テーブルの上に写真を並べた。カーテンの隙間から隠し撮りされた依子の体は、あられも無い形で古賀と縺れ合っている。
「言いたいことは分かるね。離婚だよ」
 夫が離婚届を出す。依子は黙ってサインした。ひと言も反論することなく業者を頼むと、荷物をまとめてマンションを出て行った。

 夫はすぐさま電話を掛ける。
「ああ古賀君、よくやってくれたね。報酬は振り込んでおいたよ」
 その次は
「君かい?待たせたね。やっとだよ・・うん、うん。今夜会おう。アパートなんかすぐに引き払っておいで。ああ、早く会いたいよ」
 二番目の電話を受けたのは依子の夫、佐山の愛人だ。まだ二十代の若い女は小躍りして喜んだ。
「やった!あの年増に勝った!・・あ、いけない。大人しくしなきゃ。お腹の赤ちゃんがびっくりしちゃう。うふふ」
 膨らむ前の腹部を愛おしそうに撫でる。佐山は煮え切らない男だったが、女が妊娠すると重い腰を上げて妻を追い出す画策をした。
「でも分かんないわね、あんな男に引っ掛かるだなんて」
 佐山が妻に見せた写真と同じものを女も見た。豊満な年増に絡む醜い男。若い女が見る中年男女の痴態は醜悪でしかなかった。

(え・・・?)
 前途を祝うような爽やかな日曜日、佐山の元に越して来た女は愕然とした。
「君の荷物はそこだよ。案外少なかったね」
 先に送った段ボールが無造作に積んである。
「・・広いマンションねぇ・・」
 女はやっと言葉を絞り出した。佐山のマンションはリモート会議で見たことがある。照明と家具は全て西洋骨董で揃えられ、キッチンには最新の調理家電が並び、食器も国内外の一流ブランドばかりだった。あれが全部自分の物になる!胸を躍らせて来たのに、何も無い。
「家の中のものは家内の嫁入り道具でね、全部持たせたよ。君もあいつのお古なんて嫌だろうと思ってさ。でも、不自由しないように最低限のものは用意したから。実家に僕の学生時代のを残しておいてよかったよ」
 佐山は五十前。ざっと三十年前の小型冷蔵庫と電子レンジがぽつんと置いてある。
「まあ、ご実家から?遠いのに大変だったでしょ・・」
とは言ったが、送料と今後の耐久年数を考えたら買った方が良かったのではないか。
「大丈夫。うちの両親に運ばせたから」
(親御さん八十代だったと思うけど・・・)
 こんなことなら一人暮らしで使っていた家電を持ってくれば良かったと悔いたが、処分してしまった。
「お腹すいたねぇ。夜ご飯は簡単なものでいいよ」
(え、妊娠で辛い私が作るの?っていうか、この記念日とも言える日に自炊?)
 愛人時代はイベント毎に郊外の高級レストランへ連れて行ってくれた。人目を忍ぶ緊張感と、仕立てのいいスーツを着た年上の男にエスコートされる優越感。そんなシチュエーションも込みで佐山を愛していたのに、結婚してしまえば餌を与えないタイプだろうか。
 諦めて中古の冷蔵庫を開けると、中にはハムの切れ端と賞味期限が一日過ぎた卵と、チンするご飯。
「この材料だとチャーハンかなぁ」と言うと
「えー?まぁそれでいいや」と自分はさっさとソファに座り込んでしまう。そのソファもホームセンターのセールで買ったような安物で、女が憧れていた片肘掛けの革張りのソファは無い。食器棚も無くなったので皿はキッチンに置いてあったが、どう見ても実家で埃を被っていた引き出物だ。体調が悪いのを圧して台所に立ち、趣味の合わない皿にチャーハンを盛り付ける悲しさ。同じチャーハンでも「君は座っててね」と佐山が作ってくれれば愛情を感じられるのに。
 佐山の元へ運ぶと
「スプーンは?」のひと言。有難う、ではない。ふと友人に言われた言葉を思い出す。
<よく考えなよ。本当に良い旦那さんなら、奥さんがあっさり手放すと思う?>
 急に寒々しい感情に襲われた。
「・・ねぇ。奥さん大丈夫かしら。失礼だけどあの年齢だと、お仕事探すのも大変でしょう?」
「あいつは実家が金持ちだから心配いらないよ。外で働いたことも無いしね」
「え、確か前に仕事で知り合ったって」
「実家の〇〇商事で受付をしてたんだ。家の手伝いをしてたようなものさ」
(それって会社の取引先・・そこの娘と離婚して大丈夫かしら・・)
「そ、そうなんだ。心配しちゃった。奥さんの住む所とか。マンション渡しちゃうのかなって思ってたし」
「いやあ、ローンは俺名義だし」
(ローン!あと何年だろう。子どもの教育費も掛かるのに)
 マンションのローン、子どもの養育費。おまけに佐山は一人っ子だから親の面倒も見なければならない。
 付き合っている間の佐山は、金回りも趣味も良いダンディなおじさまに見えていた。その金も趣味も元妻の存在があらばこそ。
 今の佐山は、豪華な装飾品が剥ぎ取られた空間でチャーハンをかき込むくたびれた中年男でしかない。親や友人の反対を押し切ってまで人から奪う価値があっただろうか。自分はまだ若い。普通の恋愛でもっと良い伴侶に巡り会えたのではないか。そうは言っても、お腹の子どもは堕ろせる期限を過ぎてしまった。
(産むまでは逃げられない。それに産んでからも、お金が無ければ・・)
 しかし上司と不倫して退職した身では元の職場には戻れない。貯金も無い。実家も頼れない。この男と連れ添うしかない。あれ程望んでいた夢が今は悪夢だ。
 佐山は何処までも呑気な顔で
「まぁ、その点君は若いからさ。産んでからも社会復帰出来るからいいよね」
 プシュ、と缶ビールの蓋を開ける。容易に想像がつく。子どもが生まれても家事も育児もせずにビールを飲んでいる佐山の姿。その予想図は的中する。 

 案の定、取引先の娘と離婚した佐山の出世の道は閉ざされた。先に妻の方が浮気したという主張も、何故か佐山が古賀を仕向けたことがバレていて、逆に妻側が同情される始末。
 男からすると
「あんな冴えない男に寝取られるなんて、旦那に満足してなかったんだろう」
 女からすると
「可哀想。二十年も支えたご主人に捨てられて。大体奥さんのご実家があるから昇進出来たのに」
 月満ちて子どもが産まれても会社の規定の祝金が振り込まれただけで、お祝いに来る者は居なかった。おまけに佐山は育児に我関せずで、妻の体が回復するや否や求めてきた。
「ボクにもミルクを頂戴よう、ばぶばぶ」
 気色悪い。

(ああ、デパートなんて久しぶりだわ)
 一年後、すっかりやつれた元愛人の新妻はベビーカーを押して買物に出た。ほんの数年前まで、お給料日には高級コスメを奮発して地下のデリでおつまみを買ってワインを嗜んでいたのに嘘のようだ。早く社会復帰したかったが保育園が見つからない。
 今日は佐山に頼まれて、佐山の母親の誕生日プレゼントを買いに来ていた。赤ん坊を連れて繁華街に出るのはひと仕事だというのが佐山には分かっていない。
「通販で?駄目だよそんなの。うちの親の世代だとデパートの包装紙を喜ぶんだ。品物は任せるからさ」
と三千円を渡された。遠方だから送らねばならない。送料込みで三千円の予算に頭を悩ませていて、注がれる視線に気づく余裕は無かった。

「あら、産まれたのねぇ。佐山の子ども」
「うん?」
「ほら。あのベビーカー」
 和装の女とスーツ姿の二人連れ。女がふと男を見て
「ネクタイが曲がっていてよ」と直してやる。
「着慣れないからやだね、こんなもの」
「あら、似合っていてよ。私が見立てたんだから間違いないわ。個展の初日位チャンとしていらっしゃいよ」
「ハイハイ。君はあれだね、俺が描いた着物で来たんだね」
「だって、皆さんが喜ぶかと思って」
「お客さんが中身を見たがったらどうするんだい」
「ヤァね」
 女が男を抓る。佐山の元妻と画家の古賀だ。二人はエレベーターに乗った。
「しかし可笑しかったね。随分長い付き合いだのに、今更君を口説いてくれと頼まれた時は」
「可笑しかったわね。紹介された時も、昼間に会ったばかりだったから」
「どうする。結婚するかい?」
「暫くは気ままに楽しみたいわ。結婚なんて意味無いわよ」
 チンとドアが開き上階のギャラリーに着いた。二人を見てざわめく会場を意にも介さず、メインの絵の前に立つ。

 脱ぎ捨てた着物の上でしどけなく体を晒す女と、裸身に付き纏う幾つもの影。人間なのか他の生き物なのか、白い肌に藻のように絡みつく。
 誰が見てもモデルは依子だ。周囲の視線が裸の依子と今立つ依子をそっと見比べている。そして古賀を。血色の悪い肌と濡れたような長髪と、少し猫背の醜い男。美醜の対比が情欲を唆る。二人が視線を絡めてそっと微笑む時、下のフロアで佐山の子どもが泣き喚いていた。 

 ・・・後年、依子に捨てられた古賀は語る。

 あの絵ねぇ、皆んな誤解してたね。依子に絡む影みたいなのが俺で、俺が魔物なんだって。冗談じゃない・・・魔物はあっちさね。あの女はねぇ、ある種の男を惹きつけるんだ。溺れたくって死にたくって堪らなくなるんだなァ・・・
 騙されたって?まぁそうだ。憎らしいかって?とんでもない・・

 会いたい、逢いたい、合いたいよ。あれが欲しくって堪らないんだ。沼にはまってズブズブなんだ・・・

 なァ あんた、あの女、何処に行ったか知らないか

                           (了)

                  

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