見出し画像

「邂逅」(原作:伊藤整『女』)

女よ、 何といふ不思議な人種
なめらかな白い肌と
深い黒髪と
うるんだ魅惑する目と
何といふきれいな魔のやうな生きもの。

伊藤整 詩集 『雪明りの路』12頁 女

「女というものは其れ程魔性かね。虫ほどのものじゃないかね」
 老人は根性が捻じ曲がった笑みを浮かべる。
「虫も、怖れる者は異常に怖れる。だが平気で叩き潰す者もいる。わしは後者じゃね」
「会長はお強くていらっしゃいますから」
 相手に慣れた秘書は無表情に答える。は、は、と老人は笑った。
「昔読んだ小説にこんなくだりがあった。

君、黒い長い髪で縛られた時の心持ちを知っていますか

夏目漱石『こゝろ』


とね。若い頃読んだのでな。体に髪が食い込む痛みを想像して、女を空恐ろしく感じたものだ。女は怖しいという観念は何処から来るものか。おい、意見を言うてみい」
 秘書は数秒おいて答えた。
「一般的には女性は弱い生き物だからではないでしょうか」と。
「腕力やその他、一般的に男性に劣るとされています。弱い者が強い者に対抗しようとすると意表や弱点を突いたり、卑怯な手段を取らざるを得ません。だから怖しい。という理屈は如何ですか」
「ふむ」
 偏屈な会長は答えの内容よりも、秘書が自論を述べたことに満足したようだ。
「君はどうかね。女が怖いか」
「さぁ。モテませんので」
 今度ははぐらかす。
「ファーッファッファハッハ、いや面白い。今まで何人も秘書を替えたがお前は最高じゃな。面白い。そうか・・では、これはどうじゃ。頑健な男の体に女の心が宿って居れば、そいつは最強じゃろうか」
「生来頑健な体を持つ者に、か弱い思考力が育つでしょうか。甚だ疑問です」
「ふむ、ふむ・・・成程のう。しかし、それに近い者を一人知っておる。君じゃ」
 秘書は無表情で聞いている。
「会長、か。元会長、じゃろうが。まさかこのわしが全ての権限を失って社を追われることになろうとは思わなんだ。ただの秘書が、わしの息子の社長を煽りよって。貴様の本性を見抜けなかった己が腹立たしいわ」
「・・・」
「いつから狙っていた」
「さぁ。生まれた時からでしょうか」
 無表情で続ける。
「社長と同じ年に生まれて、同じ大学を受験して、同じ会社に入社し、秘書となり、狙い通りあなたを蹴落としました。長年の夢が叶って大満足でございます。お忘れですか?奥様と同時期に妊娠させた愛人のことを。はした金すら渡さずに捨てた女。私の母です」
 老人は驚嘆の目を剥いた。
「お前が・・・?」
「美しかった母が心を病み。体まで病み。薬の副作用で自慢の黒髪は抜け落ち、肌は黄変し、痩せ細った体で目だけが爛々と輝いていました。私はあなたの冷徹さを子守唄のように聞かされて育ちました。私は一つ学びましたよ。女性の美しさとは不幸によって脆くも崩れ去るものだと」
「あ、あの時は事情が・・・」
「当時婚約者だった奥様を妊娠させ、立ち上げたばかりの会社の経営が思わしくなく、だから母という不良債権を切り捨てた。経営者として立派な判断ですな。でしたらお分かりでしょう?あなたが今、会社にとって不要な老害。切除されるべき腫瘍なのです」
 元会長は秘書を見る。否、元秘書だ。息子と一緒に会社の共同経営者になるのだから。否、どちらも息子だ。母親の違う二人の息子が自分を追い出そうとしている。
 目の前の男を見る。干涸びた老人である自分とは違い、精力に溢れた壮年だ。切れ長の瞳には面影が。かつて愛した美しい女の遺伝子が。
「は、はは・・・」
 老人は力無く笑った。
 創生してしまったのだ。
 頑健な男の体に女の心が宿って居れば、そいつは最強じゃろうか。とは己の言葉ではないか。
 老人の体が突然痙攣を始めた。
「ウッ、ウォッ・・・む、胸、が・・・」
 黒い長い髪が心臓に絡みつく。キリキリと縛り上げる。
「く・・・す・・・り・・・・」
 慌ててスーツのポケットをまさぐる。無い。
「く・・・」
 死んだ。
 
 元秘書の男が自分のポケットからピルケースを取り出した。死体の手元に薬をばら撒く。
 そして静かにドアを閉め、去っていった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?