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「鱗」(小川未明「赤い蝋燭と人魚」の二次創作:少年少女)

「ふん、都会っ子は海が怖いんか」
 少女の言葉は短く少年を刺した。

 離婚した母親は一人息子を連れて帰郷した。
「向こうには従姉妹の女の子がいるのよ。同じ五年生だから、遊び相手になるわ」
 母親の理解はずれていた。五年生といえば異性を意識し始める年齢だ。それがどうして二人で楽しく遊べるだろう。
 親子が帰ったのは夏だった。
 海に近い町へ。
 潮風と日差しで肌が焼ける暑い町へ、親子は僅かな荷物と微かな都会の空気を持ち帰った。

「うちのカリンじゃ。夏の鈴と書いてカリン」
「こっちは悠太郎。よろしく夏鈴ちゃん」
「覚えとらんじゃろうのう、互いに赤ん坊じゃったけん」
「そうねぇ、私が悠太郎産んだ時に顔を見せに来て以来だもの」
「覚えちょったら逆に怖いわ」
 大人たちがワハハと笑った。

 二学期からは同じ小学校へ通うのだと母が言い、一緒に登校したらええと母の兄が言った。親子は実家の離れに住む算段が出来ており、伯父は少し離れた場所に新しい家を建てていた。
 子どもは海を喜ぶものだと、大人の勝手な思い込みで、悠太郎は早速海へ連れて行かれた。
「へー、真っ白じゃのぉ」
 真っ黒な伯父に無遠慮に水着姿を見られて悠太郎は恥ずかしかった。
 光を弾く海は確かに美しかったが、巨大な生物のようで少年には恐ろしい。
 小さな声で母親に
(母さん、浮き輪か何か無いの)と聞いた声を咎めて少女が発したのが、怖いんかの言葉だった。
 言葉を刺しっぱなしにして少女は体を翻す。
 たちまち、波間を自由に遊び始めた。
「まぁプールとは違うで、慣れるまでは浅瀬で遊んどれ」
 少年は確かに海が怖かった。

 海の町の夏は瞬く間に過ぎた。
 悠太郎と夏鈴はあまり馴染むことはなく、それでも父親から案内役を仰せつかった夏鈴は町の中を連れ回し、学校が始まると先輩風を吹かせて悠太郎を庇った。
 様々な要因が悠太郎を庇護した。
 祖父が水産加工場の要職についていること。
 悠太郎の母親がひなには稀な美形であること。
 まだ若い母親を、早くも町議会の議員が狙っているという噂。
 中学に上がる頃には生っ白い悠太郎の肌も小麦色になっていた。
 逆に夏鈴は焼けた肌を脱ぎ捨て、言葉から角が取れ、まるで脱皮したての蝉のような柔らかな肌を纏い、艶々と長い髪を靡かせていた。
 能天気な大人たちは、お転婆が年頃になって乙女になったと喜んだ。
 しかし悠太郎は従姉妹の変化を違う感覚で捉えていた。

 自分の牙で心を噛み殺している。
 言いたいことを我慢している。
 大人は外見の変化には気づくのに、内面の変容には気づかない。
 悠太郎も夏鈴の全てを把握している訳ではなかった。
 ただ、彼女の心が半透明な膜の中でぐるりと蠢く気配を時折感じていた。
 
 中学二年生の夏、町にちょっとした異変が起きた。
 海沿いのブロックや工場の壁などに、誰かがペンキのスプレー缶で落書きを始めた。
 落書きは白と黒で描かれていて、二色の塊は上下に重なったり、斜めに交差したり、始めは抽象画のようだった。
 それをある時、誰かが気づいた。
 まるで男女の交わりのようだと。
 満月の夜。悠太郎は外へ出た。
 
 黙って犯人に近づいた。
 片手に一本ずつ、白と黒のスプレー。
 その手から白を取る。
「いつから知っとった?」
 少年の言葉は少し訛りを覚えた。
 少女は黙っている。
「もしかして、母さんは、その為に帰ったのかな」
「・・あんたは、いつ」
「さあ。何となく・・・」
 満月の海の夜。
 少年が口を開く。
「義理の兄妹ってことないかな。じいちゃんが再婚とかで」
「ううん。正真正銘、実の」
「・・・犯罪ではないんだろうか」
「どうだろ」
 二人は浜へ向かった。
 砂を敷いて座った。
 夏鈴の目から涙が零れて、涙は本人のように意地っ張りに、頬に貼り付いた。
 悠太郎はその涙を拭いたらまるで鱗のように、頬の皮膚ごと剥げてしまうのではないかと、触れられずにいた。
 夏鈴は母親が水産加工場で働いている隙を狙って二人が重なっているのを、見てしまった。
 お母さんが可哀想と少女は泣いた。
 少年は笑った。
「な。いっそのこと証拠を録画して、二人を脅そうか」
「え?」
「好きなもん買ってもらう。好きな高校に行かせてもらう。とりあえず、中学出たらこの町を出たい」
 少女はふっと笑う。
「そんなお金あるかな」
「じいちゃんが持ってる。何ならじいちゃんも脅して吐き出させる」
「町を・・」
「うん、出よう」
 少女の瞳に光が灯った。
「あと1年半。な、そうしようぜ」
 少女は、今度は本当に笑った。
「あんたすごいこと言うね」
「親に付き合ってこの町に居続ける義理はないだろ」
 暫く黙った後、少女は言った。
「遠いとこに行きたい。海の無いところ」

 二人は中学を卒業すると、家を出て県外の高校へ進んだ。
 連絡は少女の方から途絶えた。
 新しい生活を得たのかと思い、悠太郎は嬉しかった。

 更に時が経ち、大学生になった悠太郎は一人で海を訪れた。
 祖父は亡くなり、母は他所へ縁づき、大人になった彼に気付く者は居ない。
 浜に立つ。
(どうして海が怖かったんだろう)
 波が寄せる。
 何故両親は離婚したのか。母は何故、行先に故郷を選んだのか。
 曖昧な不安が底知れぬ海の形に見えたのだろうか。
 何かに足首を掴まれそうな気がして、悠太郎は今も海に入らない。
 それでも夏鈴には。あの夏の少女には。
 昔のような笑顔で自在に海で泳いでくれればいい。
 そう願っている。

 
 

 


 

 

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