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「硝子玉の中」(原作:夏目漱石『硝子戸の中』)

 客は黙ってたたずんでいた。中から
「いらっしゃい。どうぞ」
と声を掛けられるのを待っている。しかし無言が続いたので、恐る恐る暖簾を潜った。中は薄暗い。ベールを被った女が黙って目の前の椅子を示した。会釈をして座る。
「あの・・・迷っているんです。色々と」
「そうですか」
「今の仕事がハードで。仕事内容は好きなんです。出版関係なんですけど。でも職場で私が一番若くて、雑用を押し付けられることも多くって。このままだと体を壊しそうって彼氏に相談したんです。そしたら、じゃあ俺と結婚して専業主婦になる?って・・・」
「嬉しかったですか」
「え?」
 客は考え込む。
「一瞬・・これで楽になれるって思いました。でもどうしてか、はいと言えなくて」
「何故でしょうね」
「何故でしょう・・・」
 テーブルには赤ん坊の頭ほどの大きさの透き通った玉が置いてある。
「何か見えませんか」
 客が問う。
「いいえ。何も」
 女が答える。
 
「何か人生を変えたいって気もあるんです。私辞めますって言ったら職場はどう反応するかな、引き留めてくれるかな、とか」
「居場所を変えるのが前進とも限りませんよ」
 女が言う。
「そう、ですね・・・」
 客がポツリ。
「今度新しい人が入って来るんですよ。そしたら私も今より楽になるかなとも思うし」
「自分の雑用を押し付けられるから?」
「そんな・・・つもりじゃ・・・」
「彼のことは好きですか」
 客は考え込み、ぽつぽつと話し始める。
 交際相手の年齢は33歳。会社員で収入は安定している。実家暮らしで、デートと言えば彼女のアパートで過ごすことが多い。
「実家は割と裕福みたいです。お酒も煙草も賭け事もしないし、条件だけ考えたら良い相手だと思うんですけど」
「でも、貴女は頷けなかった」
「ええ・・・」
 ベールの女は首を傾げた。
「専業主婦とは」
「あ・・・彼のお母さんがそうだから、そう言ったんだと思いますけど」
「貴女は良いのですか」
 客は考え込む。
「だから迷ってて・・・仕事自体は好きだから・・・」
 女はテーブルの上の透き通った玉を客の方へ寄せる。
 見ろ、と目線で促す。
「あ、あの・・・こういうのって、そちらが見るんじゃないですか。占い師でしょう」
 女は答える。
「貴女に見えなければ私にも見えないのですよ」
 沈黙が落ちた。
「時間です」
 客がハッとする。
「延長されますか」
「あの・・また来ます」
 客は帰って行った。
 
 占い師の元を訪れたことを、客は誰にも言えなかった。
(彼氏に言ったらどう反応しただろう)
 答えは予想出来た。
「くだらない」
 その一言を、彼は容易に口にするだろう。

 再び客が来た。
「選択は一つしかないのかなって考えたんです」
 客が口を開く。
「仕事を辞めて結婚して専業主婦。納得出来なくて、別の方法を考えました。仕事自体は嫌いじゃない。出来れば続けたい。じゃあ仕事の何処が嫌なんだろうって。・・無駄が多いんですよ。多分みんなそう思ってる。あと、具体的な指示がなくて判断に任せるって言いながら後で文句を言われる。タスクを明文化しろって言いたい。でもみんな、思ってても言わない」
「・・・で・・・?」
「思い切って一つ言いました。すごく小さなことです。うち、事務所内は社員が掃除することになっていますけど分担が決まってないんです。それで、個人個人で掃除する範囲を決めてそれぞれ空いている時間にその範囲だけすればどうかって進言しました。そうしたら意外とあっさり採用されたんです」
 客の顔は明るい。
「なんだ、これなら早く言えば良かったって」
 ベールの女は黙って見つめる。客は今度は暗い表情になった。
「彼に言ったら、鼻で笑われましたけど。掃除位業者に頼めないのかって。うちは出版社だから原稿を扱う事務所内に業者は入れないんです。そう言ったんですけど。それよりも私の意見が通ったことを認めて欲しかった」
 客はため息をつく。
「彼とは2年付き合ってます。でも考えたら・・・彼が私を認めてくれたことって、一度も無いんですよね」
 寂しげに透き通った玉を見つめる。
「彼との未来は・・見えない・・・」
 ベールの女は、黙って客を見つめた。
「この玉は差し上げます」
「・・・えっ?」
「手に取って」
 女がベールを取ると、同じ顔が見つめ返した。
 
 チカチカと目の前が眩しい。
「目が覚めましたか」
 白衣の男が見つめる。客の・・否、客だった女が見つめ返す。男が
「催眠療法は如何でしたか。次回も予約されますか」
 女は答えた。
 いえ、もういいですと。
 男は少し微笑んだ。
「良かったですね」と。
 
 神経を病むほどに悩んだ女は、晴れやかな気持ちでクリニックを後にする。
 交際していた男には別れを告げた。
(これからも、私は時折人生の迷い道に差し掛かるのだろう)
 胸に手をやる。
(ここに玉がある。私の悩みは私の中に。その答えもきっと、私の中に)
 女の珠に光が灯った。

 時折濁ったり、見失ったり。
 それでも、誰もが。
 透き通った玉を、こゝろの内に持っている。
 
 

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