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「片耳」(原作:川端康成『片腕』)

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。

川端康成「片腕」冒頭

「良かったら、一晩片耳を貸そうか」
 彼氏の芳一は右耳をもいで
「はい」
と清子に差し出した。
 突然のことに清子が呆然としていると
「俺、清ちゃんの愚痴ならいつでも聞くけどさ。悪いけど明日は朝から用事があって」
 芳一は優しく笑う。
「だから、これ持って帰って続きはコイツに聞かせてくれない?」
「うん・・・ありがと」
 清子は芳一の右耳を掌に載せる。温かい。
「ごめんね。痛くないの?」
「全然」
 芳一はまた、優しく笑う。
 清子は芳一のアパートを後にした。

 二人は付き合い始めて三ヶ月になる。大人しく地味な清子は小さな会社に勤めていて、あまり社交的ではない性格のせいか、職場では少し浮いている。
 芳一は新卒で就職した会社が倒産して今は求職中だ。
「バイトか契約社員に落ち着いちゃうと、ズルズルそっちが続きそうで」
と正社員の職を探している。
 
「どうしよう・・鞄に入れたら苦しいかな」
 ハンカチに包んだ右耳をどう運んだものか。家に帰るにはバスに乗らなければならない。うっかり人に見られたら猟奇的犯罪の容疑者にされてしまう。
「エイっ、ごめんね芳一君」
 夜道に人目が無いのを確かめ、清子はハンカチの包みをブラウスの襟元から胸の谷間へ押し込んだ。この場所なら人から見られないように守っても自然だ。清子と片耳は無事に帰宅した。
 
 いざ片耳を連れて帰ると、清子は仕事の愚痴を聞かせることなど忘れた。
 一晩だけ彼氏の一部を連れ帰る。
 そんなワクワクな夜は無い。
 ままごとのように、片耳が居心地良いのはどこだろうと、本棚の本を出してクッションを敷き、香水を振り掛ける。
「あ、そっか。匂いは分からないよね、耳だもの」
と自分を笑う。耳の周りにお気に入りの絵や小物を飾った。
「芳一君、不自由してない?左耳が残ってるから大丈夫かな。明日の昼間は人に会わないの?やっぱり返しに行こうか?」
 右耳に語りかけるとスマートフォンにメッセージが届く。
<明日の予定は大丈夫だよ>
「そうなの?ごめん、朝早いんだったよね。もう静かにするね」
<11時までに寝れば平気かな。それより、気が済むまで話していいからね>
「・・・・」
<どうした?>
「芳一君」
<?>
「優しいよね。大好き」
 面と向かって言えずとも、右耳には言えた。
 
 翌朝。
 清子は、アパートの玄関から呼ぶ声に気づく。
「清ちゃん、清ちゃん」
「芳一君?来てくれたの?嬉しいけどスッピンで髪ボサボサ。ちょっと待」
「大丈夫だよ、見えないから」
 ドアを開けると芳一の口があった。
 
「はい、アーン。どうかな。口に合わなかったら言ってね」
「すっごく美味しいよ。俺、フレンチトースト好きだし」
 口だけで咀嚼し、飲み込むと消えてしまう。
「材料があって良かったぁ。蜂蜜よりも粉砂糖派なんだよね」
「そうそう。粉砂糖ってよく家にあったね」
「好きって聞いてたから、前から研究してたの。どのパンが美味しいかなとか」
「そうなんだ、ありがとう。あ、仕事の時間大丈夫?」
「行く前にはい、マウスウォッシュ。虫歯になるといけないから」
 ぶくぶく、ペッ。
 清子はその口にキスをして出勤した。

 仕事を終えると清子は慌てて帰って来た。
「ごめんなさい!お昼のこと忘れてた。お腹空いたでしょう」
「おかえり。大丈夫だよ」
 台所では芳一の両腕がカレーを作っていた。
「ご飯も炊いてるよ。着替えたら?覗かないし」
 口がふふッと笑う。目は来ていないからだ。手探りで食材を探して料理したのだろうが、器用なものだ。
 流石に清子も呆れてきた。
「ええと・・・今更だけど、芳一さん体は大丈夫なの?」
「ああ。っていうか皆んな知らないけど、これって誰にでも出来るんだよ」
「ええ?」
「慣用句で口を出すとか耳を貸すとか鼻を突っ込むとか言うじゃない。全部本当さ。俺は今、腕によりをかけてカレーを作ってるけどね。アハハ」
「はぁ・・」
 清子は感心する。
「でも、いくらなんでも生活が不自由でしょう。ご飯の後でお家に送るわ」
 ところが芳一は拒否した。今の暮らしをもう少し続けたいと。
「理由は言えないけど、あと二、三日待ってくれない?」
「う、うん・・分かった」
 
 翌日。清子の職場へ社外から電話があり、相手と昼休みに会うことになった。
 場所は近くのファミリーレストランだ。
「突然ごめんなさい。手短に話すわね」
 相手は清子より少し年上の女性だった。彼女のマンションには芳一の目と胴体が居るという。清子よりも収入がある女性は芳一のことを調べあげていた。
「彼、会社が倒産して求職中とか言っているでしょう?嘘よ。社内の既婚者女性に手を出して解雇されたの」
「え?」
 女性はため息をつく。
「あの優しい雰囲気に皆んな騙されちゃうのよ、私もだけど。彼は今、その女性のご主人に慰謝料請求されていて焦ってるみたい。それで体のパーツをあちこちに派遣して、どの家に転がり込もうか調べてるのよ。ちなみに私は、手料理が気に入らなかったんでしょうね。数日前まで口が居たんだけど出て行ったわ」
 フッと笑う。
「うちには目と胴体が居るってどういう意味だと思う?体の相性は私がいいんだって。馬鹿にしてるわよね。腹が立ったから旅行用のキャリーバッグに放り込んでやったわ。ま、窒息はしないでしょ」
「そ、そんな・・・」
 お昼休みにするにはハードな話だ。女性とは仕事終わりにもう一度会うことにした。
 待ち合わせには他の女性と中年の男性も来た。金持ちらしい男性の豪邸には芳一の尻が居るという。
 男性は眉を顰める。
「私は彼とバーで知り合いましてね。私なりに彼を愛していましたが、向こうはそうじゃないらしい。尻の手引きでこっそり左耳を潜り込ませたようで、私が家でやっている株取引を盗み聞きしていました。ま、偽の情報を流してやりましたが」
 もう一人の女性は涙ぐむ。
「私、彼の膝枕が好きで。うちには彼の両足が居ます。でも・・・他にもこんなに・・・結婚資金まで渡したのに・・・もう、彼を信じられない・・」
 
 この恋愛譚の結末は簡単である。
 芳一君の被害者連盟はそれぞれ傷心の旅へ出た。
 恋が破れて、指輪を海へ放り投げる場面が映画や小説でよくある。
 旅に出た彼らが東西南北の海へ何を放り投げたかは、推して知るべし。
 人の心を弄んだ芳一君。
 今頃は海底で蟹の餌になっていることであろう。

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