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「柱の傷は」(童謡『背比べ』の二次創作)

 ピシッ!
 依子は頬の衝撃を避け損ねた。否、正確には受け損ねた。
 夫の暴力をきちんと受けてやらないと、更に機嫌が悪くなる。
 派手な音を鳴らしつつ衝撃は程々に受け流すのがベストなのだ。
 殴り足りなかったのを瞬時に察した夫が反対側の頬を叩く。
 激しい音と同時に顎が鳴った。
 今度は満足した様子で夫がニタリと笑う。
「誰のおかげで食ってんだお前は、ええ!?」
 唇を切った母親がすみません、すみませんと繰り返す。
 圭一はこんな両親を見て育った。

 後で母親に口論のきっかけを聞くと、たまたま依子の月収が夫の清一を上回ったことだと言う。
「多くても少なくても文句は出るんだけどね」と母は笑う。
「同じ世帯なんだから、収入を比べなくてもいいのね」と母は泣く。
 高校生の圭一は
「もう別れたら?」
などと気軽なことは言えない。
 下にはまだ幼稚園に通う妹がいる。
 圭一の記憶の限り両親は不仲なのに、それでも幼い子どもが産まれているのは不思議だが、夫婦とはそんなものなのだろうか。
 個人で輸入業をしている父親とデザイン会社の下請けで働く母親。
 どちらの収入も不安定で、互いに家計を支え合っている。
 だが家庭内の役割分担が母親に偏っているのは明らかだった。
 父の清一は家では箸一本運ばない。
 土砂降りでも洗濯物は取り込まない。
「家事の存在が見えていないのよ」
と母は笑う。
 父親が親から受け継いだ古い家には太くて立派な柱があり、父親の定位置は柱の傍だった。
「俺は大黒柱だから家では座ってりゃいいんだ」と父はいつもうそぶいていた。

 そんな両親でも家庭が成り立っているのは、妹の清香の存在が大きかった。
 幼い妹を父は溺愛している。
 清香の面倒を見る存在として妻が必要だし、清香を保護する存在として圭一も必要だ。
 この家の大黒柱は歪なバランスでようやく立っていた。
 しかし清香の死が、全てを打ち壊した。

 家族四人でショッピングモールに出かけた日。買い物を終えて駐車場に向かう時、母親は大量の買い物袋を両手に抱えており、父親は清香の手を握りつつも一方の手ではスマートフォンをいじっていた。その時、別行動を取っていた圭一は先に車の所で待っていた。
 母親の荷物を見て手伝いに行こうとした時。
 兄を見つけた清香が父の手を振り切って駆け出し、角を曲がってきた乗用車と衝突した。
 ・・・状況を考えれば、最も責められるべきは清香をよく見ていなかった父親だろう。だが清一がそれを認める筈は無かった。
 お前らのせいだ、お前らのせいだと毎日暴れた。
 愛らしい幼子を失った家庭として親戚筋も同情を寄せてくれたが、清一のあまりの粗暴な様に徐々に離れていき、残されたのはサンドバッグになる母親。
 言葉で、拳で、母親を痛めつけた。
 子を喪った悲しみを互いに労ろうなどとは、微塵にも思わない様子だった。
 父親と母親と間に入る息子との修羅場が始まった。
 それまでは、家の中で圭一が暴力を振るうことはなかった。幼い妹の目を気にしていたからだ。その清らかな目が失われた今、圭一は父親に容赦しなかった。
 親子は本気で殴り合った。
 
「このままじゃ、お前が犯罪者になってしまう」
 母親は息子を連れて家を出た。
 父親の訃報が届いたのは二年後のことだった。
 
「飲酒運転だって・・・人を巻き込まなかったのだけは、よかったね」
 父親が、焼き場で煙になっていく。
「てか、母さん。離婚してなかったんだ」
「まぁね・・」
 父親を見送るのは妻の依子と息子の圭一、それに父の従兄弟の佐原という男性。父の死を知らせてくれた人物だ。
「佐原さんは、たまたま母さんの職場と繋がりがある人でね。時々連絡を取ってたんだよ」
 シンプルな家族葬だ。三人は、父が骨と灰になるのを別室で待った。
「圭一君とは初めてだねぇ」
 佐原は父親のことを色々と話してくれた。
 父親の両親は不仲だったこと。
 優秀な他の兄弟と比較され、虐げられていたこと。
「清一さんが結婚したって聞いた時は、あぁやっぱり家庭の暖かさに飢えてたんだなぁって思ったよ」
「・・確かにあの人は言ってました。暖かい家庭を作りたいって。でも多分、その作り方は知らなかったんですね。あたしも若かったから、あの人の気難しい所を受け止められなくて・・」
「でもね圭一くん。君が生まれた時清一はとても喜んでいたよ。俺も父親になるんだなって張り切っていた。君の名前、清一と響きが似てるだろう。字も一つ同じだ。亡くなった清香ちゃんにも名前の字を一つ・・・」
 佐原は父親が母に暴力を振るっていたことも知っていた。
「葛藤があったんだろうな。清一の父親は事業では成功していたし、母親も地主のお嬢様だった。母親が呑気に遊んでばかりいたのを見て育ったから、自分の奥さんが働くことに抵抗があったのかも知れない。うちの地元は田舎でね、働く奥さんはあまり居なかったんだ」
「あたしは、自分で働くのが好きだったんですよ。そちらとは逆で、うちの方では嫁でも外で働く人が多かったんです」と母が言う。
「奥さんには家に居てほしい、でも自分の稼ぎでは足りないっていう劣等感があったと思いますよ」
 そんなこと言ったって・・と母が独りごつ。
 
 後始末についても話があった。
 預金はあまり残ってないが、あの家は依子さんと圭一くんの物だ。住むのかと訊かれたが、母は出来れば処分したいと言った。
「俺もそれでいいです」
 佐原は少し言いにくそうに、
「あいつ、ご家族の物をきちんと整理して保管してました。出来れば一度確認して貰いたいのですが」
「分かりました」
 
 後日見に行くと、佐原の言葉通り、自分たちの物がそのまま残っていた。
 荷物を調べた母が、清香の洋服が買い足してあることに気づいて泣いた。
 不器用な人だったと。
 何度も殴られた夫なのに、母は父を悼んで泣いた。
 子ども部屋に母を残し、圭一は居間に向かう。
 父の定位置に座ってみた。
 柱に背を預けると、母の居る台所も子ども部屋の出入り口もよく見えた。
 親父の暴力は虚勢だったのだなと今は思う。
 だがあの頃の俺たちに何が出来ただろう。

 圭一は背を離して柱と向き合った。
 古い柱の傷をそっと撫でる。
 今なら父親とまともに話せる気がするのに、もう居ない。
 母親の咽び泣く声がいつまでも続いた。
 

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