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「ついぞその手に触れもせで」(原作:夢野久作『瓶詰の地獄』)

 蹌踉そうろうと路地裏を歩く青年を描いてご覧なさい。

 夕暮れの薄闇の中、覇気のない表情で寄り道のあてを探し彷徨さまようている。空を仰ぐ。天災が降り自らを打ち砕いてくれないだろうか・・期待は裏切られる。平和な空に落胆した青年は視線を戻す。その濁った瞳に小さな看板が映る。キィと扉が開いた。
(・・・?)
 青年は不思議そうに自分の手を見た。
(西洋骨董など興味は無いのに)
 手が勝手に扉を押し、足は勝手に体を中へ入れてしまった。
(ほぅ)
 興味がなくとも視界に豪奢な品々が入れば気分が揚がる。
 店内に電灯は一切使われていなかった。ランプや燭台のあえかなルクスにカトラリーや煙草入れが金色の光を囁き返す。
(懐中の金額で買えるものなど無さそうだが、きびすを返すわけにもいくまい)
 青年はぐるりと店内を周る。足がぴたりと止まった。

「おや。こんな所にありましたか」
「わっ」
「これは失礼」
 背後に店員が立っていた。
「暫く見かけませんでしたよ。自分の店の在庫なのにね。往々にして、このような困りものの品があるのです。うちの店には」
 青年は横目で店員を見る。
 艶やかな肌をしていながら髪は白髪混じりで、年齢が一向に分からない。
 青年の足を止めたのは、棚の上にある小さな瓶だった。
 不透明で粉を吹いたような質感で、表面に植物の装飾が施されている。
「パート・ド・ヴェールと言いまして、硝子の材料を型に流して作るのです」
 店員は語り続ける。
「この瓶には不思議な言い伝えがありましてね。お求めいただいた方にしかお話し出来ないのですが。また、このようにも言われております。この瓶は本当に欲する人にしか見つけることが出来ない。この瓶は貴方を選んだようだ・・・如何です。代金はお手持ちの中から無理のない範囲で結構です」
「僕は・・・」
「苦しい恋を、なさってますね?」
 青年は胸の奥を突かれた。
 
「仰る通りです。5年前父が再婚し、僕には義理の妹が出来ました。当時の僕は15、妹は11歳。彼女は僕を実の兄のように慕ってくれました。それが・・嗚呼」
 青年は顔を覆う。
「彼女は茅子と言います。茅子は日に日に可憐に愛らしく美しく成長し・・そうです、僕は妹に恋をしています。そして幸せなことに、どうやら彼女も僕を憎からず想っているのです。僕らの目と目がブツかった時の火花のような情熱、手が触れそうになった時の、触れもしないのに火傷を負うたような熱量。はぁ・・いっそ彼女が僕を嫌ってくれれば諦められるのですが、彼女もキッと僕を愛しているのです。想いを打ち明けあったことはありませんが・・。僕らは一般常識の元で育ちました。兄と妹が愛し合っていい筈がない。だから、互いに心を盗み見るようにそっと・・そっと視線を交わしては逸らし、ため息をつくのです。一つ屋根の下に暮らしながら指先すら触れられない。まるで見えない硝子に隔てられているように・・・」

 店員は冷静に青年の言葉を聞いた。
「僕は・・何故打ち明けてしまったのだろう」
 手が勝手に、財布からあるだけの金を出していた。

「『イン・マイ・ボトル』・・・満月の夜、意中の人へ向けて瓶の蓋を開け、囁いてご覧なさい。彼女の全てが手に入ります」
 青年は瓶を掌で包んだ。人肌のような質感が手に温もりを与えた。
 どうやって家路を辿ったか、青年は覚えていない。

(イン・マイ・ボトル。つまり・・・)
 自室に篭った青年は月明かりの下でしみじみと瓶を観察した。
 中世の姫君の鏡台にある香水瓶のようなこしらえ。
 表面の装飾をよく見ると、全体を覆う蔦の中に裸身の少女が囚われている。
(彼女の全てが手に入る。とは・・・)
 昔話の瓢箪のように、瓶の中へ彼女を封じ込めてしまうということだろうか。
 非現実的だ、有り得ないという理性に感情が反論する。
(もし、そうなら?想像してみるがいい)
 美しい瓶に閉じ込められた茅子。肌身離さず共に寝起きし、蓋を開ければ瓶の底に蹲る茅子が僕を見上げてにっこりと微笑む。
(もしも自在に瓶から出し入れすることが出来るとしたら・・・)
 体に火が灯る。
(例えば誰も知らない遠い街へ出掛けて・・・当たり前の恋人たちのように腕を組んで歩き、木陰で唇を寄せ合い・・・)
「馬鹿な。そうだ、きっと中身はただの香水だ。普通に彼女にプレゼントすればいいんだ。綺麗な瓶だし、きっと喜んでくれる」
 口は理論を呟く。
 感情は夢を囁く。
(唇を寄せ合った後は・・?なぁおい貴様、本当は何をしたい・・?)

「彼女の全てが手に入ります」

と店員は言った。
 青年は立ち上がる。
「きっと嘘だ。冗談だ。たった一度、試すだけだ」
 今宵は満月。
 青年は妹の部屋をノックした。開いた扉に向かって

「イン・マイ・ボトル」

 青年が最後に見たのは、怪訝に見開かれた美しい瞳だった。

 殴られたような衝撃。全身に注がれる溶岩。
(茅子!!!!!)
 
や、や、や、め、いや、やめ、ない、で。
 青年は歓喜に震える。イン・マイ。イン・マイ・ボトル!!!彼女は僕の中へ。頭から爪先まで僕の中へ。僕の中で脈打ち叫ぶ彼女。
(お兄ちゃん!?)
 胎内で叫ばれる悲鳴に怖気おぞける程の快感。
 彼女を感じる。嗚呼動いた。僕の中で。彼女を理解出来る。怯えているね。え?暗い?ごめんよ、目を開こうね。明かりが届いたかい。外が見えるかい。そんなに暴れないで。抱き締めてあげる。
 青年は我と我が身を抱く。
 自室へ戻り裸身となり、我と我が身を。深く息を吸う。彼女に新鮮な空気を。美味しいものを食べなきゃな。彼女の為に。
(茅子、そんなところに触れないで)
 閉じ込められた茅子が暗闇で牢獄を手探りするかのようにあちこちを触るものだから。ごめんよ。ちょっと恥ずかしいけれど、そんなところを触られたら。
 満月が空を巡る間、青年と妹は悶え続けた。少女の感情は閉じ込められた恐怖から次の段階へ。つまり、
 全てを兄に知られるという恐怖へ。
(やめて!)
(何故?君の全てを知りたい。羞恥も欲望も)
(やめてやめてやめてってば!!!)
(大丈夫。僕は嫌いにならない。君のどんな秘密を知っても)
 少女の恐怖は憤怒へと変わった。黄泉平坂で変貌した女神の如く。
 
「か、茅子?」
 茅子は爪を突き立てて兄の胎内と精神を掻き毟った。青年の中は血で溢れた。茅子は狂った獣のように血塗れになりながら出口を探した。勝手に私を手に入れるんじゃないこの痴情犯!私がお前に恋してた?馬鹿か!お前の思い込みだ!風呂上がりに上気してたのを赤面と勘違いし、手が触れそうなのが嫌で避けたのを照れたのと勘違いし、お前は本当に馬鹿で馬鹿で馬鹿で馬鹿だ!!!
「か・・・」
 ええそうよ。小さい頃は憧れてた。何でも知っている優しいお兄ちゃんだと思ってた。それが何?私の胸がちょっと膨らんできたら途端にイヤらしい目で見やがって。胸糞悪い。うわ、お前の妄想が見えちまう。私を考えながら布団の中で何やってたんだよ死ね!!死ね!!この!!糞虫!!!
 
 彼女の全て。
 硝子越しでない生身の、彼女の全て。
 青年は生身の女を知らなかった。
 
「ガガがガガガが」
 床に転がった青年の裸身が痙攣する。我が身を抱いていた腕が引き攣りながら外へ開き始める。
「ガガガがガガガがガガガ」
 青年の処女膜は内側から引き裂かれ脳漿が射精する。悲鳴は舌から喉の奥へ奥へ奥へ。断末魔を貪りながら少女は指先で肉を掻き分け出口を探す。可憐な踵は睾丸を踏み潰し嫌悪感で更に踏み潰し跡形もなく粉砕する。キモチワルイとピンクの唇で吐き捨てながら。
 青年の胎内を億万の茅子が這いずり回り精神は半熟に蕩け枯れた鬼灯のようにスカスカになった動脈と静脈の中で不規則な脈を打つ心臓を本当の茅子が掴んだ。爪を立て握り潰すと腐った血と精液が流れ青年は歓喜に震えた。殺してくれ殺してくれ今までの俺を未来の俺をお前のその手で!今俺は、今俺はお前を本当に愛しているそして今俺は感じる。俺を殺してくれるお前もきっと俺を愛している。感じる、お前の、硝子越しでない、本当の、
 青年の意識は途切れた。痙攣が止まった。静寂が訪れる。
 満月が沈み、割れた青年の背骨から何かが生まれた。
 たったひと夜の出来事であった。
 
 翌朝。
 少女は爽やかに目覚めた。
 一向に起きて来ない息子を母親が起こしに行き、異変に気づき救急車が呼ばれた。一家に慌ただしい一日が過ぎた。
 
「あの子、どうしちゃったんでしょう・・・」
 母親がため息をつく。
「俺たちが悩んでも仕方ない。医者でも分からないというのだから」
 父親がため息をつく。
「自宅で本当にいいのかしら?入院させた方が」
 母親が二階を見上げる。
「医者がそう言うのだから。それに正直、ずっと入院となると費用が掛かる」
 父親は俯く。
 息子は意識不明の状態で発見され搬送されたが、傷ひとつない体をどう調べても原因は分からなかった。
「自発呼吸は出来ていますから、栄養を点滴で補給すれば自宅で看護できる状態です。定期的に医師が診察に来ます。自力での排泄は難しいのでそれについてはご家族にお願いすることになります」
「先生、本当に原因は分からないんですか?」
「脳も神経も正常です。医師としては不適切な表現ですが、まるで精神が破壊されたような状態・・とでも申し上げましょうか」
 病院を幾つも変わった挙句、最後は医師も首を捻るしか無かった。
 血の繋がった父親にとって唯一の救いは、眠る息子が穏やかな、満足げな程に安らかな寝顔をしていることだ。一方継母は密かに、これが実の娘でなくて良かったと安堵していた。
 
「お父さんお母さん。おやすみなさい」
 その娘が声を掛ける。
 両親も応える。
 娘は軽やかな足取りで階段を上っていく。
 母親は立ち上がり家事を始めたが、父親は娘の足音を耳で追っていた。
(何だか急に大人びてきた。元々可愛い子だったが・・・)
 顔を上げると妻が見ていた。何か察したような険しい視線に目を逸らす。母親は気づいていた。義理の息子が自分の娘を異性として意識していたことに。次に警戒すべきなのはこいつだと、夫を敵として認識した。同性で実の母親が娘の変貌に気付かぬ筈がない。
(あの子は女の顔になった。そんな機会がいつあったのだろう)

 メタモルフォーゼ。変貌。
 ひとりの男を破壊して、少女は女へ変わった。
 青年は眠る。
 しかし、青年は居ない。
 瓶は砕けた。
 ベッドの中身は夢の底に沈む、朽ち果てた精神のむくろ
 茅子はもう青年のことなど記憶の欠片にも残していない。
 踏み躙った虫けらは靴底で粉になり塵に還るだけだ。

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