見出し画像

「100回生まれ変わっても君の奴隷」(元にした作品:谷崎潤一郎『痴人の愛』)

「いらない」
「ごめん・・」
 予約が出来ず、開店前から行列が出来る人気店で買ったスイーツは彼女に蹴られて床で潰れた。
「食べたいって言ってたのは先週じゃない。今は違う気分なの」
 僕は言葉を飲み込む。
(でも、日曜定休の店だし。すぐには有給が取れなくて)
 弁明の代わりに口からは謝罪が出る。
「そうだったんだ、ごめんね」
 僕は彼女に一日何回謝るんだろう。
 有給を取るために嫌な上司に頭を下げ、当日は行列の先頭に並べるように早起きをして。買ってすぐに渡そうと思ったら彼女から昼間は都合が悪いと断られ、仕方がないからぼーっと夜まで時間を潰し、やっと会えたらスイーツはグシャ。勿体無いな・・・
 彼女はベッドの上でクルンと寝返りをうち、にっこりと笑う。
「ね。また食べたいって言ったら、買って来てくれる?」
 ああ、なんて。
 僕は見惚れる。切れ長の美しい瞳は、他人に冷酷だと言われることもあるけど、奴らは知らないんだ。彼女が笑った時にまなじりからこぼれる蠱惑的な輝きを。
「勿論だよ。いつでも言って」
 僕は奴隷。彼女が欲しいと思うものを手にいれ、彼女が嫌なものを排除する。僕は命令を待って床に正座する。彼女の陶器のような爪先が床にへばりついたクリームを掬い、僕の口に押し込む。僕の頬に擦りつける。
(ああ、これがスイーツの正しい食べ方だ。すべからくパティシェは、この為に新しいレシピを考案するのだ)
 すっかり床が綺麗になってから僕は彼女に次の命令を請うた。
「言わないと分からないの?バカ」
 彼女が近づく。世界一美しいその唇が・・・ 
 
 翌日出社すると上司に嫌味を言われたが、同僚には小声で称賛された。
「あの上司から親の葬式以外で休みをもぎ取るなんて、すごいなお前。俺も休みたいけどあいつを攻略するのが面倒でさ」
「はは。そうかな」
 僕は受け流す。彼女に奉仕する為には有給を申請しやすい状況が必要で、その為に日頃から仕事を効率化し成果を出している。また上司の動向を観察し、目立たない程度にヨイショしたり機嫌の良し悪しを見計らっている。負担をかける同僚へのフォローも万全。全ては彼女の為。
 
 こんな時もある。
 彼女が行きたいと言ったステーキ店。料理人が目の前の鉄板で高級和牛を華麗に焼いてくれる。それを二口三口食べて
「もういらない。デザートにして」
と平気で言う。相手が普通の友人なら
「おい、店に悪いよ」と嗜めるところだが、彼女に言えるものか。
「じゃあ、彼女の分を僕にください。美味しくてお代わり欲しい位だったんで丁度いいです」
と、少し無理をして二人分の肉を胃袋に詰める。
「ねぇダーリン?じゃああなたのデザートは私にちょうだい?」
 世界中の誰も逆らえるものか、地獄より甘いこの囁きに。
 
 彼女に僕の全てを。
「ねぇ、その貧相な細い腕で私を抱くの?」
 彼女の為にジムに通って体を鍛えた。
「あーあ、もっと友達に自慢できる彼氏になってよ」
 彼女の為に出世した。
「ダッサ!そんな格好で私の横を歩かないで」
 彼女の為にセンスを磨く。
「はぁ。もっと良いお部屋に住みたいわぁ」
 彼女の為にマンションを買った。
 彼女に他の男の影を感じることもある。そんな時に彼女を問い詰めても仕方がない。
「それがなぁに?」
と言われることが分かっている。彼女を振り向かせたくて僕は、いや俺はガムシャラに努力した。
 彼女の笑顔。俺の為に笑ってくれ。
 彼女の涙。涙すら美しいが、それが悲しみを伴うものならば。俺はどんなな敵でも倒してみせる。俺は心身共に鋭く鍛えられていき、勤務先に見切りをつけて起業した。雇われの身よりも自由になり、彼女に奉仕出来る時間も増えた。
「ねぇダーリン」
 全ては、そのひと言の為に。
 
 男の経営する会社は成長を続け、彼自身は経済誌の表紙を飾る程になった。政界や芸能界とも繋がった。比例して彼のパートナーも注目を浴び、その悪妻振りに親切な友人はこう言った。
 
「こう言っては何だがね、あんな女性は今の君には相応しくないよ。慰謝料を払ってでも離縁してやって、もっと上流の品の良い女性を後妻に迎えたらどうだい」
 
 彼は大笑いした。
 
「バカを言うな。大人しく品の良い優しい女だったら今の俺は無い。ガリヒョロで平凡な会社員だった俺を心身共に鍛え上げ、ムチで尻を叩いて出世させたのは彼女だ。俺の最高の女神で女王様だ。悔しかったらお前もあんないい女を捕まえてみろ。おっと、間違っても彼女には手を出すなよ。足から頭まで貴様の皮をひん剥いて逆さ吊りにするからな」
 あっはっは、と哄笑が響く。
 書斎でブランデーを酌み交わしていた友人は目を丸くした。
 そこへふわりと香水が漂う。
 
「あら楽しそう。ねぇダーリン、何のお話?」 
 
 悪魔が微笑んで立っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?